|
ジャーナリズムの「客観」「中立」がある種の価値判断を排除してしまうことは、何度も言うようだが
まず「不可能」な話である。逆説的に言えば、本当にそんなことが可能なのであれば、我々は「真に客観
的な」報道メディアがひとつだけあれば事足りるはずだからである。
ところが、日本に限らず他国でも、新聞ひとつとっても全国紙・地方紙の違いはあれども複数確実に存
在している。なおかつ、それらは「ひとつの方向」で一致などはしていない。それは一面トップを比べて
みればわかりやすい。誰もが首肯する大事件があれば、どの紙面もトップは同じになるだろうが、日常的
な報道では完全にどの新聞社も一面が同じテーマで一致するということが少ない。
ということは、「新聞社」によって独自の視点を有していることである。それはそれでいいだろう。む
しろ、言論の自由市場に暮らす民主主義国家の国民としては、そうした多様性があった方がよい。多様性
がない方がよいという人はいないのではなかろうか。
その「言論の自由市場」が、それは「健全な市場」であれば問題はない。問題があるのは、現状の「メ
ディア」「ジャーナリズム」の現状が健全なのかという、素朴な疑念を払拭できない場合である。結局、
我々が依拠しているメディアへの信頼とは、「それが常に正しい」という前提である。
もっとも、何が正しいかというと、それはどこかのマンガではないが、「真実はひとつ」であり、その
真実をゆがみなく伝えることが客観であり、真実こそが絶対的正義という価値判断が大前提として、今
日、否、これまでのマスメディアは成立してきている。
新聞は嘘つかない、テレビは常に正しいことを言っている・・・こうしたある種の「マスコミ信仰」と
でもいうべきものは、当然、まったく自然発生的にいきなり現出したものではなく、過去からのメディア
の先人たちの努力でもあるわけだが、その努力は当然、「権力には負けない」ことでもあったし、「弱者
の味方」という面で大いに評価される側面もあった。例えば、数々の政治的・社会的問題を白日の下に晒
しだしてきた新聞の調査報道のあり方などは、問題な面はあるにせよ、ジャーナリズムの本筋でもあると
言えよう。
ところが、これがいつのころからか、「マスコミ」=「知的産業(?)」=「社会のエリート」的な勘
違いが、当該従事者から起こってきたことは否めない。
|