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「情報を持つものが力を持つ」のは、今に始まったことではない。たとえば、昔から宗教などいい例で
ある。奥義に教義、教典などなど、多くの「情報」を持っているものが上位に立つ宗教が、それが大量
の活版印刷によって知識と情報は社会に拡散流出、それに反比例し、教会の権威は失墜していったあげ
くに宗教改革につながっていったことは、「情報」を持つ者がすなわち即「権威」でもあったことのい
い例であろう。
近代においての日本では、それは「知識人」であったし、新聞記者であった。今でも我々は「新聞
記者」と聞くと、知的なイメージがあることを払拭できない。たしかに、高学歴なインテリ階層である
かもしれないし、実際、有名大学しか入社できないだろう(念のために言っておくと、筆者は、大学出
たから知的などとは思ってはいない)。
つまり、「情報を発信する者」はすべからく「知的」であり、その知性は決して間違うことはないと
いう、ある種の宗教的幻惑があるのである。事実、確かに、新聞に代表される言論機関が世論を形成し
てきたこともあろう。勤勉な日本人は、その「権威」を疑うこともなく、むしろ社会人のマナーとして
「新聞くらい読め」と言われてきた土壌がある。
しかし、情報を統べる者が常に正義とは限らないのである。宗教家だって、めちゃくちゃな理論を振
りかざすことは古今東西で発生しているのだから、聖人君子を目指しているわけでもない「ジャーナリ
スト」「メディア関係者」に「絶対正義」を求めるのはまったくもって幻想なのである。
ただ、いままではその幻想がうまく機能していたのだ。それは単純に、我々が、「マスメディア」以
外から情報を得るすべを持っていなかったからである。換言すれば、これまで馬車しかなかったところ
に、車もバイクも電車もあるような話である。我々は新聞のみ、雑誌のみ、テレビのみに情報を頼る必
然性はまったくなくなっている。
そのことはつまりは、情報を一手に握っていた「マスメディア」や「記者」「ジャーナリスト」の権
威を、即時はく奪するような事態である。記者は正義の味方でもないし、新聞は常に中立で正しいとも
限らず、それに我々が従う理由は何一つなくなっているのである。
最近、マスコミが「マスゴミ」などと揶揄されるのはその最たる象徴であろう。
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