山本太郎議員「国会議員に出す弁当はベクレてる」 西日本、九州、海外から食材「お取り寄せ」 2013/10/25 17:31 J-CASTニュース 山本太郎参議院議員が「TwitCasting(ツイットキャスティング)」で2013年10月24日に配信したライブ映像が、風評被害を招きかねない、国会議員にあるまじき発言だ、などとネットで騒ぎになり、大バッシングに発展している。 動画の中で、秘書から国会でお昼の弁当が出る、と告げられると「ベクレてる(放射能汚染されている)んやろなぁ、国会議員に出すお弁当は」などと語ったからだ。 「風評被害ばかり振りまきやがって」 問題の動画は山本議員の密着ライブ映像ホームページに24日の午前11時50分に「ツイキャス」を使ってアップされた。映像は5分弱で、「作業着に着替えています」と、スーツを着用しているシーンから始まる。この後、参議院内閣委員会の理事懇談会に出席するという報告と、内閣委員会の委員長室に向かうスケジュールが語られた。そして、お昼のお弁当が出る、と伝えられると「いいですね」と笑い声をあげた。「一気にご機嫌になりましたね」などと周りから茶化されると、そんなことはないという表情になり、 「ベクレてる(放射能汚染されている)んやろなぁ、国会議員に出すお弁当は」 と無愛想な口調で吐いた。動画の終わりの部分では、懇談会に参加する他の議員から愛され、可愛がられたほうが良いといった話になり、 「ビックリするほど頭を下げますよ。山本でございます〜」 と思いっきりの笑顔を見せた。 この動画は直ぐに「ニコニコ動画」に転載され、バッシングの嵐になっている。13年10月25日午後4時までに1万7000を超える視聴があり、 「風評被害ばかり振りまきやがって」 「凄い、原発被害を堂々と茶化して笑っているんだね」 「もうブチ切れています@福島」 「一人で妄想を撒き散らしながら空回りして滑稽だからもっとやるがいいwww」 などといった書き込みや、「謝罪しろ!」「辞職しろ!」などといったものもある。 (続く) 「ベクレてる、というのは放射能汚染されているという意味」 山本議員は「脱原発」を掲げ2013年7月に無所属で東京選挙区に立候補し初当選を果たした。これまでも原発関連の発言では物議を醸していて、12年12月に衆院選に出馬して落選したときに円形脱毛症になったことを聞かれ「被ばくの影響でしょう」と答えた。12年6月には放射能から逃れるためフィリピンに家族で移住する計画があることをツイッターで明かし、12年3月には「東京の放射能汚染が深刻」として大阪への引っ越しを計画。13年2月には大阪の母親が体調不良になったのは「震災がれき焼却のせい」などと主張している。 今回の騒動に関して山本議員の参議院事務所に話を聞いた。「ベクレてる」というのは放射能汚染されている、ということで間違いないのかと質問すると、動画は見ていないためどんなやり取りの中で発したのかはわからないが、 「ベクレてる、というのは放射能汚染されているという意味で使っています」 と答えた。また、国会で出される弁当も汚染されていて危険だと考える山本議員は普段はどんな食事をしているのか、については、 「産地に気を付けて食材を取り寄せ料理などをしています。西日本産、九州産が多いですが、海外からも取り寄せることもあります」 ということだった。 完全に東北の人たちの復興にかける気持ちを踏みにじってますね。 日々、地産地消する人たちの立場はどうなるのだ? 一般人ならいいかもしれんが、「国会議員」なんだろ? 放射能がどうこう言う前に、被災地の視察くらいしてはどうなのだ? 筆者は生粋の関西人だが、東北に住む身として、絶対にこいつだけは許さない。 |
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ジャーナリズムの「客観」「中立」がある種の価値判断を排除してしまうことは、何度も言うようだがまず「不可能」
な話である。逆説的に言えば、本当にそんなことが可能なのであれば、我々は「真に客観的な」報道メディアがひと
つだけあれば事足りるはずだからである。
ところが、日本に限らず他国でも、新聞ひとつとっても全国紙・地方紙の違いはあれども複数確実に存在してい
る。なおかつ、それらは「ひとつの方向」で一致などはしていない。それは一面トップを比べてみればわかりやすい。
誰もが首肯する大事件があれば、どの紙面もトップは同じになるだろうが、日常的な報道では完全にどの新聞社も
一面が同じテーマで一致するということが少ない。
ということは、「新聞社」によって独自の視点を有していることである。それはそれでいいだろう。むしろ、言論の自
由市場に暮らす民主主義国家の国民としては、そうした多様性があった方がよい。多様性がない方がよいという人
はいないのではなかろうか。
その「言論の自由市場」が、それは「健全な市場」であれば問題はない。問題があるのは、現状の「メディア」「ジャ
ーナリズム」の現状が健全なのかという、素朴な疑念を払拭できない場合である。そこには常に「ジャーナリズム」の
普遍性がつきまとう。少なくとも、「報道」とは客観的事実の伝達でなければならないはずなのだが、ある事象をとり
あげること自体がすでに「客観」でもなく、また例えばある事件を「被害者側」から見るのか、「加害者側」から見るの
かによっても大きくストーリーの質は変わってくる。ありがちなのが、どう考えても「加害者」が悪い話であるのに、
「加害者も社会の犠牲者だ」と論じる報道などであろう。
もっと突き詰めると、100%客観報道をしていたとしよう。それは政治に関わる話だとしよう。そうなると今度は、
「それは政治の現状をそのまま認めてしまうことではないのか」という批判・議論も起こるのだ(あやふや記憶で申し
訳ないが、過去、英国BBCにおいてそうした議論があったような気がする)。
つまりは、ジャーナリズムとは実は「客観」ではなく、、事実と主観(論評・解説)のミクスチュアなのである。当然、
不偏不党でもない。記者も個人である限り、そして民主主義国家に生きる限りは、「主義主張」を持っているわけで、
それを意識したうえで「報道」という職務にあたるのであればいいのだが、そうはなっていないことは言うに及ばずで
ある。
だからこそ、多様な言論があり、多様な媒体があり、「一極集中」の情報源にならない方がよい。新聞社がどの国
でも(独裁国家除く)複数あることは、健全なことであり、そこで新聞社によって「言論の競争」がおこなわれることは
望ましいことでもある。
「では、多様な新聞・TV,メディアがあり、言論の多様性が実現している日本において、問題は何もないではない
か」とも考えられるのだが、おそらく、多数の国民はそんなこ「安心感」に浸っているとは思われない(言うまでもな
く、新聞協会の実施する新聞の信頼度調査などは我田引水だろう)。
この「違和感」は何なのだろうか。そこに現代のメディアの問題があろう。
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新聞が国家から規制を受けることはない。あったとしても、たとえば企業としての法人での規制や報道での名誉
棄損などの法的措置などはあっても、少なくとも「内容」自体に国家が干渉することはない。戦前と戦後では話が
違うので、「国家は言論を弾圧する」などと言っても説得力に欠けよう。それは、仮にそうした国家であればそれは
おそらく近代的民主主義国家ではないだろうし、国家による言論弾圧が日常茶飯事であって国民がそれを黙認し
ていれば、それもすでに民主主義国家でもあるまい(民主主義と自由なメディアに関係については、アマルティア・
センの論を参照にされたい)
国家から、またはその他のありとあらゆる権力から言論の自由は守られねばなるまいが、近代の民主主義国家
においてはそれは合衆国憲法修正第1条に見られるように、逆に国家が「言論の自由」を認めることがアプリオリ
であり、 それは日本においても言わずもがなである。
とはいえ、最も確実に「言論の弾圧」を回避する方法は、「権力にとって都合の悪いこと書かない」ことである。し
かしながら、それは「会社」としての新聞を生きながらえさせるかもしれないが、社会的にはまったくその中枢機能
を失ったいわば空っぽのハコだ。確かに、戦前の我が国にそういう事態があったことは間違いない。
さて、何度も言うが憲法も違えば社会体制も違う戦前と現在をくらべても仕方ない。問題は現在の現状である。
確かに、新聞は言論統制されるとはない。が、それは「新聞業界」として見た場合であって、我々は致命的なこと
を欠落させてしまっている。「新聞社」としては社内言論統制があるのである。
たとえば、極端に言えば、その新聞社の「社説」と異なる読者の意見が投稿欄に載せられることがあろうか。その
新聞社の意見と異なる知識人のコメントが取り上げられるだろうか。多様な意見を多様な側面からとりあげるという
試みはなされているにせよ、新聞社の「スタンス」は一貫しているはずである。もっとも、それは一貫していないと困
るものだ。ある日の朝刊ではこの政策をベタほめし、次の日の朝刊では同じ政策をぼろっかすに書いていては、読
者の混乱をひきおこすからだ。それはそれで、首尾一貫してもらわないと困る面でもある。
だが、その当該新聞社の「スタンス」「ポリシー」がとんでもないものだったら、どうなるだろうか。
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論文的展開を進めるつもりはないので、簡略的にマスコミ=メディア=プレスと同義としておきたいが、この「プレ
ス」に関しては先駆的な研究国であるアメリカにおいて、W・シュラムらの古典的議論があるが、ここでは「プレス自
由委員会」の報告書の基本理念だけをとりあげておこう。
1947年に有識者によって 発表されたこの報告書においては、「委員会の考えるプレスに対する社会の要請5項
目」というのがある。それによれば、
1.その日のできごとについての、正確で、総合的で知的な説明を、できごとの意味がわかるような文脈の中で報道すること。
2.論評や批判の交流のための場所となること
3.社会のなかの諸グループの意見や態度をお互いに表明し合う手段となること。
4.社会の目標や価値を示して明確に手段となること
5.プレスの伝える各種の情報、思想、感情を通じて、社会の全成員が情報に十分接近できる道を開くこと
出典:内川芳美「プレス自由委員会報告書その後」(『メディアと情報化の現在』所収・日本評論社)
である。つまりはプレスは、単に「何を言ってもいいんだ」ではなく、私的な企業でありつつも、また一般的な企業と
はことなる「「責任」を社会に求められるということである。換言すれば、「社会」に対しての「責任」あってこそ、その
報道の自由が社会から認められているということでもある。
ところが、いつのことからか、そのような理論は現代ではまったく消え失せており、プレス=メディアはメガコングロ
マリット化していき、その影響力は娯楽・広告にまで大きく幅を広げておいて、「プレス」が持つべき謙虚さはなくな
っている。5項目などを耳にしたことのあるプレスの者がどれほどいるかを問うのは愚問の域であろう。
むしろ、少なくとも今日のプレスは完全にそうした「責任論」などとは無縁である。
たとえば、まるで人民裁判かのように、記者会見で当事者を怒鳴りつける取材を、我々はよく目にしていないだろ
うか。まるで、アジ演説のような議論を政治家にふっかける取材現場をよく目にしていないだろうか。ごくごく小さな
事例をとりあげて、全国的なトレンドとして大きく取り上げていないだろうか。そんな事例に枚挙のいとまがない。そ
うしたことは、フリーの記者だろうが、地方紙・全国紙の記者だろうが変わりはない。むしろ、名の通りやすい大手
全国紙の記者の方が筋が悪いかもしれない。
いったい、マスコミ・メディアの病巣はどこにあるのだろうか。
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第3代合衆国大統領・ジェファーソンの名言のひとつに「新聞なき政府か、政府なき新聞のどちらか選ぶなら後
者を選ぶ」というのがある。当時にはTVもネットもないわけで、唯一の強力なマスメディアは新聞しかなかったわ
けで、その影響力は現在とは単純に比較にならない。だからこそ、こういうセリフが出てくるのだろうが、彼が全
面的に新聞を信頼していたかというとそうではなく、「新聞の中で真実なのは広告」とも言っており、実は現在の
政治家同様、あまりマスコミを信用はしていなかったようだ。とはいえ、そのマスメディアとしての「情報拡散力」と
「影響力」は重視していたようで、「新聞が自由であり誰もがそれを読めるときは天下泰平」と言ってもいる。中身
は信用ならんが、その影響力は無視できないということだったのだろう。
このように、新聞メディアの「パワー」は昔から認められているところであり、それが「第四の権力」とも呼ばれる
所以でもあるが、その系図の中には当然、世界各国での「政治」「国家権力」との対決があったのは言うまでもな
い。
どの国でも新聞の当初の矛先は、政治であり国家である。少なくとも、プロパガンダ的な新聞しか発行できない
国は別としても、ある程度民主主義の国においては「自由」に言論を行使して、政府・政権を批判することは、当
然といえば当然の話である。が、その前に、われわれがそのことを「当然」と受け止めていること自体は、すでに
間違いなのかもしれない。
きわめて単純な論では、「言論の自由」は憲法で保障されているのだから、少なくとも公共の福祉に反しない限
りは何を言ってもOKであり、新聞も何を言ってもOKだ、という論が、我々の一般的な認識ではないだろうか。そ
れはそれで間違っていない。ただ、それは、「メディア」となると少々話がかわってくる。
過去においては、もはや古典的な理論に「自由なプレスの社会的責任論」というのがある。
ても、基本的に
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