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先に「メディアはフィルターにすぎない」と記したが、こうした議論は過去からあり、マスコミ鏡説か
らプリズム説まで、もはやアカデミズムなの詩的なレトリックなのかわからないような話はつきない。い
ずれにせよ、ジャーナリズムの原点ということからするならば、「事実の報道」がマスメディアの基本で
あろう。それは客観的事実に基づくべきである。
何度も記した気もするが、「報道」自体が100%客観的であるはずはない。世の中の多数の事象から
その「出来事」を優先的に取り上げること自体、その当該メディアまたは記者の「価値判断」が入ること
になるからである。だからこそ、そこは冷静に、常に「これは客観的な報道なのだろうか」とメディア人
は自己を振り返る姿勢が必要なのだが、現状は真逆である。
新聞にせよ、TVにせよ、客観をあきらめたのか捨てたのか、堂々と主観のみで報じることが「当然」
のようになっている。キャスターは好き勝手なことを言うし、コメンテーターは門外漢が的はずれなこと
を言うし、新聞はその表現によって巧みに事実から離れた報道に仕立て上げる。もはや、「客観報道」な
るものは存在しないのかもしれない。というか、それ自体が「不要」と思われているのかもしれない。
なるほど、確かに「完全客観」報道のみを押し通すことは、その「現状」を黙認していることになるわ
けで、何らかの「論評・解説・批判」は必要かもしれない。だがそれならば、功罪両方の「解説」をバラ
ンスよく配置するのが当然の措置である。例えば、原発にしても消費税にしてもそうである。専門家でさ
え意見が分かれるイシューならば、甲乙両論併記が「公平な報道」であると思われるが、そうなっていな
いことは言うに及ばないだろう。その典型例が「社説」である。もちろん、社説はその「新聞社」の見解
を主観的に述べる「主張の場」であるからそれをとやかく言う必要はないが、その社説に出てくるスタン
スはその新聞社の報道編集と乖離しているはずはなく、いきおい、その社説がその新聞社の言論姿勢を表
すことになる。それはそうだ。社説を書くのはそれなりの立場になった論説編集委員であり、下っ端の記
者たちがその「それなりの立場」の者たちのご意向に逆らう立場での取材・報道ができるわけはない。マ
スコミとて、「企業」であり「組織」なのだ。
結局、「不偏不党・中立公正な報道」をお題目としつつも、その実態はまったく違うとすでに「情報の
受け手である国民は見抜いてしまっているのだ。これまでならば、その「お題目」を信じて、我々は「T
Vも新聞も正しい報道しているに違いない」と思ってきた。なにしろ、TVのチャンネル数は限られ、自
宅で購買する新聞は1紙が基本なのだから、その単位によってもたらされる情報しか知らないのだから、
当然と言えば当然だ。メディア側もその「神話」に乗っかって、「客観的な中立報道」を装いつつ、実は
そこと違うベクトルを目指してきたのも否定できない。何しろ、「好き勝手に言っても、誰からも何も言
われない」という特権があったからだ。おかしな解釈で勝手な報道しても、ねじまげた誤報を流しても、
直接的に誰からも罰されない。それは「報道の自由」ともいわれるが、言論が自由であり、なおかつ誰か
らも非難されることもなければ、取材記者も傲慢になろうというものだ。
ところが、時代は変わってしまった。
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