他事奏論

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政治経済社会文化に対する感想
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 例えば、車を買おうとか、賃貸を探そうというとき、我々はどうするだろうか。時間がないとか、面倒

な場合もあろうが、基本的には「複数」の情報源にあたるのではなかろうか。Aという不動産屋にもいく

が、Bという不動産屋にも行き、ついでにCという不動産屋にも行き・・・という感じで、複数の情報源

にあたり、できるだけ多くの情報を得ようとするだろう。なぜか。簡単には、それが「自身の利益」にな

るからである。安い方がいいだろうし、立地のいいほうがいいだろうし、自身のこだわりの設備があった

ほうがいい。情報を得れば得るほど、自身の選択の幅は広がる。

 先に、個人が大量の情報を取り込む必要はないと記したが、この例でいくと、情報はあればあるほどよ

いということにはなる。だが、それも「物理的限界」がある。しかもこれは、明確な「個人の利益目的」

がハッキリしている場合だ。それでも、ありとあらゆる情報を得ることはできないだろう。極端に言え

ば、明日突然、自分にとって最適な空室情報が出てくるかもしれないわけで、それを追い続けていればキ

リがない。

 無目的にエンドレスに情報を摂取する必要は、個人にとってはない。なにしろ、その気になって調べれ

ば、いくらでも情報は得られる時代なのだから、必要であれば、そのときになって初めて調べればすむの

である。

 だが、昔はそうはいかない。「情報」は貴重な物だったのだ。

 卑近な例では、雑誌「ぴあ」だろう。もしかしたら、もう若い人たちはその存在さえも知らないかもし

れないが(解説するほどのことでもないので、ご関心のある方は調べていただきたい)、筆者の学生時代

などは非常に貴重な「情報源」であった。TVから、映画からコンサートの情報まで網羅されていた雑誌

だが、ネットにおされたせいもあるだろうし、簡単にそうした情報が様々な形で入手できるようになり、

「ぴあ」は一時期の勢いをまったく失ってしまった。情報を提供するメディアが、その情報が拡散伝播し

やすい時代になって、勢いと権威、社会的ニーズを失ってしまった例である。

 さて、そこで巨大マスメディア、TVと新聞である。彼らはまだ、社会的ニーズを失ってはいない。本

当にそうであれば、倒産しているはずなのだが、まだ健在である。勢いは失っているだろうが、致命的な

ところにまで追い詰められているという状態ではない。

 理由は単純、「彼ら自身がソフトメーカー」だからだ。

 メディアが多様化し、多元化している中にあっても、既存のマスメディアである新聞とTVの影響力

は、現在においても大きいものだと言えよう。無論、ネットもスマホもなかった時代においては、我々は

新聞とTVから主に「社会の出来事」を知らされていたのは間違いなく、相対的にその比率は小さくはな

ってはいるものの、個人のメディア接触の中ではある程度の占有率をもっているわけで、必然的に、その

影響力はまったくゼロだとも言えないのが実情だ。

 といって、そこで問題となるのは、前項でもふれたように、当該マスメディアが「企業」「産業」「経

済行為体」としての変貌をとげてはいるとしても、その中身、いわゆる「ソフト」の部分、マスメディア

の機能・役割としてまったく変わっているわけではない。

 50年前だろうと現在だろうと、新聞の主たる役割は「社会の出来事を報じる」事であり、TVの主た

る役割は「娯楽から報道にいたるまで、多様な番組を提供する」事である。要は、メディアのテクノロジ

ーは進化してきても、その内実は変わっていないということである。モノクロのTVで力道山を応援する

のと、ハイビジョンでサッカー日本代表を応援するのでは、メディアの情報密度は違うだろうが、その根

底にある本質は変わらないはずだ。

 ところが、その本質が大きく変わっているものが、「報道」「ジャーナリズム」の領域だろう。キャス

ターが登場し、アナウンサーはタレントと何ら変わりのないお笑い芸を求められ、明らかに専門外のコメ

ンテーターが突拍子もないコメントを連発する、誰も知らないような人物が突如カリスマとして登場す

る・・・。TVの放映開始時には確実になかった今日的光景である。これを「進化」ととるのか、「退

化」ととるのかは人それぞれだろうが、筆者には「進化」というよりも、「迷宮入り」しているように思

える。

 TVにしても、新聞にしても雑誌にしても、あまりにもとんちんかんな言説を振りまく者が増えた。コ

メンテーターやキャスターはその代表だ。記者もそうである。不勉強なのか取材不足なのかわからない

が、あまりにも「緩い」者があふれすぎてはいないだろうか。取材相手に簡単に論破される記者、なぜか

お客様のように高飛車な態度に出る記者、まったく的外れな推測を出しても誰からも責任を問われないキ

ャスター、こじつけのような解説をつけても平気なコメンテーターなどなど・・・。これらは今日昨日、

突然始まった話ではないだろうが、あまりにも「メディア」に関わる人間の質が落ちているように思われ

て仕方ない。「マズゴミ」と揶揄されても同情できない側面もある。

 いったい、何が問題なのだろうか。

 何か新しいものが世に出てきたとき、それを見てどう思うかは、それぞれの立場によって大きく違うだ

ろう。例えば、アップルがipodを発売したとき、「これは画期的な商品だ」と思った人もいれば、

「これは脅威だ」と思った人もいるだろう。ソニーの関係者などは後者ではなかっただろうか。

 CDができたときにはレコードは駆逐され、DVDがでてきたときにはVHSは駆逐されてきたよう

に、完全に「新参者」が「既存勢力」を駆逐した場合もあろうし、電子書籍が世に出てきても紙の本が絶

えることはなく両社共存しているような場合っもある。が、「新参者」はいつの時代にでも、既存勢力に

とっては歓迎されざる客に間違いはない。

 メディアの歴史とて同じことで、日本でTV放送が始まったときなど、大宅壮一の「一億総・・」論に

見られるように(注・ヤフーのNGワード回避表現)、ペンの世界からの映像の世界への批判はあったわ

けで、いつもこのような、皮相的な言い方で言えば「権力闘争」の繰り返しだった。その闘争は、具体的

には「資本関係」という形で、「古いメディア」が「新しいメディア」を支配していくという構図で、少

なくとも日本では成立してきた。

 ラジオやTVが出てきたときには、新聞メディアはこぞって資本参入をしてきて、そのつながりを維持

してきたし、今度はBSやCSとなると、その系列資本で参入をはかり、結果的には「また同じ顔触れ」

が日本のマスメディアを掌握してきたことは事実である(集中排除原則等の法的面はさしおく)。

 それはある意味、いびつな構造を生み出してきたため、ご記憶の方もあろうが、数年前、ライブドアが

ニッポン放送の株を買ったらフジテレビの経営権までおさめることができるかも、というような事件を生

み出すことになる(フジサンケイグループのお家騒動の負の遺産でもあったわけだが)。もう少し古く

は、メディア王・マードックがテレビ朝日を手中におさめかけたことがあった。

 それでも、今のところは「古いメディア」たちは、技術的なメディアの変遷を巧みに乗り越え、資本的

競争をも乗り越え、その体制を維持しつづけている。毎日新聞が一時期倒産したことを除けば(筆者個人

として、この新聞社は遅かれ早かれ、倒産して消えると見ている)、完全に消滅したメジャーな新聞社も

なければTV局もない。そこは欧米のように、メディア企業の売買も倒産も頻繁に起こる環境と大きく違

うところだ。

 その経営実態はともかく、BSやCS,CATVが登場し始めた頃に、「地方局炭焼き小屋」論などが

大真面目に語られていたりしたが、いまもって、倒産したTV局もない。それは、結局、新しいメディア

たちは、古いメディアたちを凌ぐほどの力を持っていなかったことでもあり、古いメディアたちがうまく

立ち回ってきたということでもある。

 それはそれで、産業経済的な観点からは、「企業」である限り、生き残っていくことは至上命題なわけ

で、企業の行動としてかまわない。が、問題となるのは、その「影響力」の方である。
 

 前回に引き続いて、「個人が接する情報」の話である。

 時間的制約があるため、個人は世の中のありとあらゆる情報媒体に接することは不可能である。経済的

制約があるため、ありとあらゆる紙媒体やパッケージメディアをチェックすることも不可能である。とい

うことは、我々は多くの情報に囲まれながらも、実はそのごく一部しか摂取できていないということでも

ある。

 というと、こういう論も出てこよう。「そもそも、個人が、そのような大量の情報を取り込まなければ

ならない理由があるのか」と。結論的には、「そんな理由は何もない」というのが本論の答えである。

 新聞を読まないと生活に困るだろうか?(就活生なら日経くらいは・・・というのも、ある種の脅迫観

念でもあるが)。TVを見ないと仕事にならないだろうか。雑誌を読まないと学校や職場で話題について

いけないだろうか。

 おそらく、「昔」ならそうだっただろう。つまり、マスメディアの情報は「人々の共通項目」だったの

だ。TVと新聞という巨大マスメディアの情報は、国民全体に共有された「共通の話題」だったのだ。逆

説的には、それしか情報源がなかったからだ。共通の情報は、社会的基盤として重要だったかもしれない

が、今やそれは「だから何?」である。AさんとBさんが、まったく同じニュースを見ている必要も必然

もまったくないのだ。

 今では、そうした「共通の話題」を求められることはない。例えば職場で、「新聞も読んでいないの

か?」と言われることがあるかもしれないが、そういうことを言う者は、新聞以外のメディアへの接触時

間は物理的に減るわけで、反対にスマホで氾濫する情報には疎いかもしれない。TVひとつとっても、地

上波が人々の視聴時間割合に占める率は高いかもしれないが、「昨日はBS見ていた」とか「CSでサッ

カー見ていた」という人々は、昔よりは明らかに増えているわけで、そこで「え?地上波のニュース見て

ないの?」と驚かれたりすることはないだろう。そのメディア接触パターンを非難される謂れはない。

 メディアが多様化するにつれ、個人が構築するメディア接触の対象や割合も多様化しているわけで、

「新聞を読まないこと」が必ずしも社会に無関心だとか、不勉強だとかいうことにはならない。何より

も、「自分と同じメディア接触パターンでないとおかしい」と相手に求める姿勢が、もはやナンセンスな

状態であるのは言うまでもない。新聞にかじりついている層より、ネットにかじりついている層の方が、

社会的問題に敏感かもしれない。多様な情報は多様な媒体によって広まり、多様な人々の多様な価値観を

醸成してきたのである。新聞を読まない層は増えているし(実は筆者もそうである。新聞読まないが、日

常で何も困ることはない)、TV離れなどと言われて久しい。

 そうなると、長らく社会の「基幹メディア」として君臨していたマスメディアはどこへいくのだろう

か。

 知る人ぞ知る話になるかもしれないが、戦前のアメリカの著名なジャーナリストとして知られる、W・

リップマンは、その著『世論』の中で、冒頭のあたりにこういう事例をもってきている。

 第一次世界大戦前、とある島にイギリス人・フランス人・ドイツ人が共に暮らしていた。彼らは、島の

外部で何が起こっているのかは、その島に届けられる新聞で知ることになるのだが、そこは島のこと、リ

アルタイムで情報が届くことはない。彼らが「外の世界」で戦争が始まっていて、彼らの母国がそれぞれ

敵味方になっているのを知るのは、勃発後、6週間も経ってのことだった。その情報がもたらせられる

と、それまで何事もなく暮らしていた島の人々も、敵味方となってしまう・・・

 さて、これが「はるか昔のことだろ」と笑うのは簡単である。今から見ると、滑稽な話に聞こえないこ

ともない。が、「新聞」というメディアしかなかった時代においては、それはごくごく当然な話である

し、それは現代の我々とて無縁なことではない。

 たとえば、「メディア」がまったくない状態を考えてみよう。端的には、部屋にひきこもってしまえば

いいのだが、そうなると、その「外部」で何がおこっているのかなど、何もわからないことになる。税金

があがることも、大きな事故があったことも、感染症が流行していることも、「情報」を運んでくるメデ

ィアがなければ、何もわからなくなるわけだ。

 これを完全に極端にすれば、北朝鮮を想起すれば十分だろう。

 情報がたとえ「多様」であったとしても、それを伝えるものが「多様」でなく、情報を受ける側もその

「多様性」を享受していないと、なかなかに危険なことになることは、言うまでもない。もっとも、10

0%社会と途絶する生活をするなら別だが、一般的な生活を送るうえで、「行動」の判断となる情報を得

ることは重要である。そして、その情報は「多い」方がよいのだ。

 ただ、「多く」ても、そこでこちらがその「多さ」をすべて享受するのは、まず不可能である。TV番

組すべてを朝から晩までチェックできる人はいないし、なおかつ、すべての新聞や雑誌をもれなくチェッ

クできる人もいない。能力がどうこうではなく、物理的に、生活の中であふれる情報すべてをキャッチで

きるのは時間的制限上、無理だからである。

 たとえば、よく「新聞を○○種類とって読んでいる」というような、仕事柄に関わる人がいたりする

が、そのような人でも、全国紙のいくつかを選択しているわけで、全国の地方紙をすみずみまでチェック

できているわけではない。それだけで1日つぶれるからだ。

 つまり、我々は「限られた物理的制限」の中で、それぞれの判断で情報を選択して摂取しているわけ

だ。

 これまでならば、逆にその情報は「新聞」しかなかったのだが、いまではTVもあればネットもある。

情報は新聞のみに依存しなくともよい状態になっている。が、「時間的」制約は、また「経済的」制約も

あろうが、個人が選べるメディアは限られている。おそらく、「新聞」は1紙購読だろうし、見るニュー

スは決まっているだろうし、買う雑誌も限られているだろう。

 ということは、その「新聞」は、それのみを購読している人にとっては、「唯一の新聞」であり、情報

提供の独占体なのである。ここに、「メディアの受け手」の重要さが求められるわけだ。
 


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まてりん
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