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新聞が国家から規制を受けることはない。あったとしても、たとえば企業としての法人での規制や報道での名誉
棄損などの法的措置などはあっても、少なくとも「内容」自体に国家が干渉することはない。戦前と戦後では話が
違うので、「国家は言論を弾圧する」などと言っても説得力に欠けよう。それは、仮にそうした国家であればそれは
おそらく近代的民主主義国家ではないだろうし、国家による言論弾圧が日常茶飯事であって国民がそれを黙認し
ていれば、それもすでに民主主義国家でもあるまい(民主主義と自由なメディアに関係については、アマルティア・
センの論を参照にされたい)
国家から、またはその他のありとあらゆる権力から言論の自由は守られねばなるまいが、近代の民主主義国家
においてはそれは合衆国憲法修正第1条に見られるように、逆に国家が「言論の自由」を認めることがアプリオリ
であり、 それは日本においても言わずもがなである。
とはいえ、最も確実に「言論の弾圧」を回避する方法は、「権力にとって都合の悪いこと書かない」ことである。し
かしながら、それは「会社」としての新聞を生きながらえさせるかもしれないが、社会的にはまったくその中枢機能
を失ったいわば空っぽのハコだ。確かに、戦前の我が国にそういう事態があったことは間違いない。
さて、何度も言うが憲法も違えば社会体制も違う戦前と現在をくらべても仕方ない。問題は現在の現状である。
確かに、新聞は言論統制されるとはない。が、それは「新聞業界」として見た場合であって、我々は致命的なこと
を欠落させてしまっている。「新聞社」としては社内言論統制があるのである。
たとえば、極端に言えば、その新聞社の「社説」と異なる読者の意見が投稿欄に載せられることがあろうか。その
新聞社の意見と異なる知識人のコメントが取り上げられるだろうか。多様な意見を多様な側面からとりあげるという
試みはなされているにせよ、新聞社の「スタンス」は一貫しているはずである。もっとも、それは一貫していないと困
るものだ。ある日の朝刊ではこの政策をベタほめし、次の日の朝刊では同じ政策をぼろっかすに書いていては、読
者の混乱をひきおこすからだ。それはそれで、首尾一貫してもらわないと困る面でもある。
だが、その当該新聞社の「スタンス」「ポリシー」がとんでもないものだったら、どうなるだろうか。
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他事奏論
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政治経済社会文化に対する感想
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論文的展開を進めるつもりはないので、簡略的にマスコミ=メディア=プレスと同義としておきたいが、この「プレ
ス」に関しては先駆的な研究国であるアメリカにおいて、W・シュラムらの古典的議論があるが、ここでは「プレス自
由委員会」の報告書の基本理念だけをとりあげておこう。
1947年に有識者によって 発表されたこの報告書においては、「委員会の考えるプレスに対する社会の要請5項
目」というのがある。それによれば、
1.その日のできごとについての、正確で、総合的で知的な説明を、できごとの意味がわかるような文脈の中で報道すること。
2.論評や批判の交流のための場所となること
3.社会のなかの諸グループの意見や態度をお互いに表明し合う手段となること。
4.社会の目標や価値を示して明確に手段となること
5.プレスの伝える各種の情報、思想、感情を通じて、社会の全成員が情報に十分接近できる道を開くこと
出典:内川芳美「プレス自由委員会報告書その後」(『メディアと情報化の現在』所収・日本評論社)
である。つまりはプレスは、単に「何を言ってもいいんだ」ではなく、私的な企業でありつつも、また一般的な企業と
はことなる「「責任」を社会に求められるということである。換言すれば、「社会」に対しての「責任」あってこそ、その
報道の自由が社会から認められているということでもある。
ところが、いつのことからか、そのような理論は現代ではまったく消え失せており、プレス=メディアはメガコングロ
マリット化していき、その影響力は娯楽・広告にまで大きく幅を広げておいて、「プレス」が持つべき謙虚さはなくな
っている。5項目などを耳にしたことのあるプレスの者がどれほどいるかを問うのは愚問の域であろう。
むしろ、少なくとも今日のプレスは完全にそうした「責任論」などとは無縁である。
たとえば、まるで人民裁判かのように、記者会見で当事者を怒鳴りつける取材を、我々はよく目にしていないだろ
うか。まるで、アジ演説のような議論を政治家にふっかける取材現場をよく目にしていないだろうか。ごくごく小さな
事例をとりあげて、全国的なトレンドとして大きく取り上げていないだろうか。そんな事例に枚挙のいとまがない。そ
うしたことは、フリーの記者だろうが、地方紙・全国紙の記者だろうが変わりはない。むしろ、名の通りやすい大手
全国紙の記者の方が筋が悪いかもしれない。
いったい、マスコミ・メディアの病巣はどこにあるのだろうか。
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第3代合衆国大統領・ジェファーソンの名言のひとつに「新聞なき政府か、政府なき新聞のどちらか選ぶなら後
者を選ぶ」というのがある。当時にはTVもネットもないわけで、唯一の強力なマスメディアは新聞しかなかったわ
けで、その影響力は現在とは単純に比較にならない。だからこそ、こういうセリフが出てくるのだろうが、彼が全
面的に新聞を信頼していたかというとそうではなく、「新聞の中で真実なのは広告」とも言っており、実は現在の
政治家同様、あまりマスコミを信用はしていなかったようだ。とはいえ、そのマスメディアとしての「情報拡散力」と
「影響力」は重視していたようで、「新聞が自由であり誰もがそれを読めるときは天下泰平」と言ってもいる。中身
は信用ならんが、その影響力は無視できないということだったのだろう。
このように、新聞メディアの「パワー」は昔から認められているところであり、それが「第四の権力」とも呼ばれる
所以でもあるが、その系図の中には当然、世界各国での「政治」「国家権力」との対決があったのは言うまでもな
い。
どの国でも新聞の当初の矛先は、政治であり国家である。少なくとも、プロパガンダ的な新聞しか発行できない
国は別としても、ある程度民主主義の国においては「自由」に言論を行使して、政府・政権を批判することは、当
然といえば当然の話である。が、その前に、われわれがそのことを「当然」と受け止めていること自体は、すでに
間違いなのかもしれない。
きわめて単純な論では、「言論の自由」は憲法で保障されているのだから、少なくとも公共の福祉に反しない限
りは何を言ってもOKであり、新聞も何を言ってもOKだ、という論が、我々の一般的な認識ではないだろうか。そ
れはそれで間違っていない。ただ、それは、「メディア」となると少々話がかわってくる。
過去においては、もはや古典的な理論に「自由なプレスの社会的責任論」というのがある。
ても、基本的に
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一口にメディアというと、一般的には「TV」と「新聞」という2大マスメディアが思い浮かぶところだ。ただ、両者を
同じ視点では考えにくい。その機能として両者の持っているものが違いすぎるからだ。新聞の機能が「娯楽」とは
言い切りにくいからだ(タブロイド紙の中には無論、それをあえて狙ったものもあるわけだが)。
一方TVは、「総合編成」が基本である限りは、「娯楽」もあれば「教養」もあれば「報道」もある。このため、ここを
ごちゃまぜに考えると、焦点がのやけてしまうので、あえて「報道」の部分だけを考えよう。
そもそも論でいくと、これは日本のマスメディアは「新聞」から「ラジオ」「TV」という登場の時系列になっており、
そのために「新聞」の資本が「ラジオ」「TV]に流れ込んでそれぞれ成立しているため、名目的にはというか、法
的にはマスメディア集中排除原則によって、一手にメディアの独占集中化は防がれているように見えるものの、
現実は「新聞」「ラジオ」「TV」は明確なグループ化になっており、そこでの「主張」のトーンも似たものとなる。ある
新聞社の論説委員がそのグループのTV番組で解説をしているような場面を、我々はよく見かけていないだろう
か。
無論、ここで当該の新聞社の主張が、そのまま当該のグループのTV局に反映するとは言いがたいが、反映して
いないと考える方が無理があるだろう。資本による支配はないかもしれないが、人的交流・協力関係はあるわけ
で、そこに当然、無色透明な「思想」ではなく、新聞社のそれまでの色のついた「思想」がリンクしてくることは、グ
ループ企業としては至極当然なことかもしれない。長らくその体制が続けば、「TV局」設立自体に力を持ってい
た新聞社に対して、TV局が逆らうことが可能だろうかと問えば、おそらく無理だろう。
つまり、少なくとも「報道」の領域に関しては、日本テレビで朝日新聞記者が解説することはないし、TBSで産
経新聞記者がキャスターをすることもないだろう。引退したあとでなら別にせよ、新聞とTVという2大マスメディア
がそのグループ力を発揮した場合、「その新聞」と「そのTV」は同じ方向性を目指した報道になっていくのも当然
な話である。それどころか、おそらく、何らかの「キャンペーン」がおこなわれる場合、同グループのメディアが動
員されるのも当然な話ではあり、それはそれなりの国民への影響力のキャパシティーを確保できるはずだ。
ところが近年、それが「マズゴミ」と揶揄され、マスメディア自体が批判の対象となっている。この「マスメディア
のグループの総合力」を否定する力は、どこから出ているのだろうか。
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言うまでもなく、「情報」というものはそれを受け取る人の数だけ、「解釈」が存在する。たとえば、天気予報で「降
水確率50%」となれば、「降る」と考える人もいれば「これなら降らない」と考える人もいるわけだ。
これは極論だとしても、一般的な日常ニュースにおいても、原発の話にあるように、同じ事象を取り上げて同じ映
像を見たとしても、「原発はそれでも使用しないといけない」と考える人もいれば、「いや、即座に停止するべきだ」と
考える人もいるわけである。そこには正と誤とかではなく、「価値判断」が入ってくるわけである。ひとつの受け取っ
た情報に対して、その個人がどういう判断をするのかは、誰にもわからないものだ。
さて、逆にこれが情報の「送り手」の立場として考えてみよう。ジャーナリズムの公平性・中立性は、ある意味、ア
プリオリにとらえられてきたものであり、異なる意見がある場合、両論併記が基本である。先の原発の話などはそ
の典型だろう。が、新聞にせよTVにせよ、果たしてそのバランスがとれているかといえば、とれてはいない。つま
り、本来的には我々「情報の受け手」が下すべき「価値判断」がすでに情報発信の時点、すなわち報道の時点でお
こなわれていることを、今日のメディア状況(めんどくさいのでこう呼ぶ)は否定できないだろう。
客観はどこへ、中立はどこへ?というのは、実はない。新聞とTVではいささか事情が違うのだが、新聞に関して
は、元々「なかった」と言ってもいいだろう。というのは、実は簡単な話で、新聞=ジャーナリズムは「権力」=「主に
時の政権・政府」を批判対象としてきたからだ。それは少なくとも、日本の新聞の立ち上げがすでに政治的色彩を持
った、ある種の言論活動の場であったからだ。となると、それは当然、「政権に対する賛同」か「政権に対する批判」
か、まあ、がんばって「中立的是々非々」になるかしかない。
ということは、そもそもとして、「新聞記者」はすでにある種の「思想的方向性」を持っていて、客観的に淡々と事実
を伝えていく、などということはなかった、と考えた方が自然である。そういうと、「いや、戦前戦後は国家の言論統
制があった」という論も出てくるだろうが、では、戦後はどうだったのか。まったく「イデオロギー」なく報道してきたと
胸を張れるジャーナリスト、メディア、マスコミはどれだけいるだろうか。
つまり、現在、我々の周りでの「マズゴミ」という侮蔑的表現は、実はメディアは「公正でも公平でもなんでもない」
と、「化けの皮」がはがれてきたことの反動なのだといえよう。
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