他事奏論

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 日本のマスメディアの何がダメなのだろうか。記者クラブ制度だろうか、クイズ大会みたいなペーパー試験で入っ
 
てくる新卒者の質だろうか、社内のサラリーマン化した組織体制だろうか、年功序列的なデスク・キャップ制度だろ
 
うか、大学にジャーナリズム専攻が充実していないことだろうか。
 
 もっとも、「何がダメか、どこがダメか」という見方によって、その原因・本質も変わってくるので一概には言えない。
 
だが、昨今のメディアの「ダメさ」というか、異様さは、誰しもがうすうす感じているのではないか。
 
 メディア・ジャーナリズムにとって最も恐れるべきは、国家の干渉による言論統制・言論弾圧である。それはどちら
 
かといえば、ファシズムのイメージでもあるが、言うまでもなく、一党独裁国家においては(これをファシズムと言っ
 
ていいのかどうかはわからないが)、言論統制という手段は不思議なことに、世界共通である。それだけ、「情報」と
 
いうものが人々ないしは当該社会にあっては重要なものだということだろう。
 
 幸い、日本においてはそうした心配はない(言論のタブーがあるではないか、とかいう些末な議論は差し置く)。と
 
ころが、近年、マスコミが「マスゴミ」などと揶揄されることが多くなってきた。それだけ、人々がマスメディア報道にそ
 
っぷを向いているということでもある。つまりは、「マスメディアはダメ」となっているという認識が、広まっているとも
 
いえる。しかもそれは、「ジャーナリズム機能」においてダメのレッテルを張られている。
 
 なぜなのだろうか。おそらく、「マスコミは真実を伝えていない=ゆがんだ報道がなされている」という答えが妥当
 
ではなかろうか。しかもそれは、ネットへの親和性が高い人々にあってはもはや「当然」的に語られている。
 
 となると、日本のマスコミがダメ、というのは、総じて「ジャーナリズム機能」の部分にかなりの問題がありそうでは
 
ないか。報道機能のどこにそのような問題があるというのだろうか。
 メディアの影響、などと一言で語ると実に簡単なのだが、新聞とテレビではその効果が異なる。まさにマクルーハ
 
ンの言う「メディアはメッセージ」なのである。情報の受け手がかなり積極的にアプローチをしないと(自ら紙面を広
 
げて関心持って読まないと)、新聞は我々の生活に関与しにくいものである。
 
 しかし、その分、言説の牙城としての確たる信を得ており、「新聞が間違ったことを言うわけはない」と、なんとな
 
く、我々は「信頼」を寄せている。否、「寄せてきた」と言った方が正しいかもしれない。
 
 たとえば、戦前・戦中であれば、言論機関は政府による検閲・統制を受けてきたし、戦後だとGHQの検閲とてあっ
 
たわけで、実は真に「自由な」言論展開ができたのは戦後の混乱期以降の話である。無論、なんでもかんでも「自
 
由」というわけではない。が、その「報道の自由」「言論の自由」が、「完全に誤った報道」を流す自由でもあったこと
 
は否定できない。あえてポリティカルな面から外して言うと、90年前後のバブルの時だ。新聞を初めとするマスメ
 
ディアは、バブル煽りに加担しなかったと言えるだろうか。冷静な報道ができていたと、胸を張れる記者がどれだけ
 
いるだろうか。
 
 記者も人間である。そして、組織人たれば、その時流に流されることもあるだろう。何か、感情に動かされてしまう
 
こともあるだろう。そこを冷徹に、「わが心、秤のごとし」で報道していくのが、真のジャーナリストであるはずだ。そ
 
れは日本だけに限らず、世界共通の話だろう。明快な事例が、ウォーターゲート事件でのワシントンポストの対応
 
である。時の政権から圧力があっても、社主・記者ともに折れなかったのは有名な話である。報道、特に新聞記者
 
がどのように権力と対峙していくかという好例であるが、日本の場合、残念ながらそうはいっていない。団体などの
 
抗議に対して簡単に折れてしまうわけで、(某TV局が抗議を受けた某宗教団体にビデオを事前に見せ、結果的に
 
日本犯罪史に残る事件につながっていった)、その体質はメディア自身の「事なかれ主義」ということでもある。
 
 日本だと、権力との対峙ではリクルート事件を暴いたのが新聞発だったという実例もあり、まったく誰も何もしてこ
 
なかったというわけでもない。だが、その実績を帳消しにしてしまうくらいの大きな流れがあり、現在、我々が漠然と
 
抱いているマスメディア、とりわけ新聞・TVに対する違和感の根源でもあろう。などと言いつつ、日本のメディアの
 
ダメさ具合に近づいていってみよう。
 
 
 以前にも記したことがあるが、某新聞社の女性記者と大阪市・橋下市長がTwitterでバトルを繰り広げたことがあ
 
った。新聞社の公式アカウントなどであれば問題ないかもしれないが、記者個人が公人とSNSの中だけでバトルし
 
てしまえば、それは「取材」なのか「個人の趣味」なのか「政治運動」なのか「一市民としての申し立て」なのかさえ、
 
さっぱりわからなくなってしまう。 つまりは、それは「論評」なのか「意見」なのか、「論説」なのかさえもわからない。
 
 ある紙面の中で、「これは報道」「これは論説」と、意識して読むことはないだろうが、少なくとも論説には「論説」、
 
「解説には「解説」という見出しがついており、新聞社側としてはごっちゃにするよりも、明快に区分けしたいのだろ
 
う。
 
 しかし、先のような話が頻発してくると、それはもはや「取材」でもなんでもない。SNSを使った政治運動である。こ
 
のような「取材」がOKであれば、それこそ世界のメディアがSNSを通じて取材をおこない、各行政の長がそれにエン
 
ドレスに答え続けないといけなくなる。
 
 通常に考えると、ジャーナリストの「取材」を超えた範囲でしかないはずなのだが、逆に、これが当社から「取材」
 
を意図したものでなかったとすれば、どうであろうか。「取材」であれば、その記者は社の職務として任務遂行を果
 
たさねばならないが、SNSが「個人」の範疇であれば、ジャーナリズムの中立性など関係なく、自身の政治信条を
 
ふんだんに盛り込んでいける。これほど便利な「取材」はないだろう。いくら記者の肩書きでSNSしていても、社は
 
「責任問題」にならないからだ。
 
ということは、そうした「信条を取材に持ち込んでOK」という内部的な阿吽の空気が、当該新聞社内にあると見るの
 
が自然だろう。そうでなければ、SNSを通じた公人取材など認めないはずだからだ。
 
もっと突き詰めると、実は報道の「中立性」などはとっくに放棄しているのではとさえ思われるのだ。
ジャーナリズムの原則が「公平・中立・客観」というのが、一般的な「原則」である。とはいえ、それが実は「建前」と
 
いうのも、もはや否定しがたい事実である。当ブログでも何度か触れたが、無数の事象の中から恣意的に「これを
 
報道する」と決めた時点で、それはもはや客観などではなく、その個人なり組織なりの価値判断が入っているわけ
 
だから、「客観うんぬん」は目指すべきとことではあろうが、現実的には不可能な話なのである。簡単な話でいえ
 
ば、どの事件を新聞紙面のトップにするのかは、それぞれの新聞社の「意思」であり、それは情報の受け手=読者
 
の価値判断とは別個のところにあるものだ。
 
となると、逆に、「当該組織」の価値感が読者に提示されるものが「報道」だとも言える。正確には、「どのスタンス」
 
なのかが報じる側によってみんな異なるわけで(異ならない方が気味が悪いのだが)、たとえば、最近の「アベノミ
 
クス」を「いい政策」というか、「悪い政策」というかは、それぞれのメディアによってかなり違うようだ。しかし、本当に
 
みなが「公正」な報道であれば、評価がまったく逆になることもないはずだが、往々にして、新聞の見解は社によっ
 
て180度違うことがある。
 
どうして違うのだろうか。それは「着眼点」が違うからだろう。その当該事象のネガティブな面を言うか、ポジティブな
 
面を言うかによって、評価はまったく異なる。それはそれで当然なのだが、はて、ここで違和感がないだろうか。
 
ジャーナリズム・報道たるものは総じて「中立の視点」でなければならないのではなかったか。となると、真に正しい
 
報道の方法としては、いい面も悪い面も両方共を受け手に提供せねばならないはずで、「是非論両立併記」しかな
 
い。そっちの方が「情報の受け手」には親切なはずなのだが、現実の報道・論評はそうはなっていない。「いい」か
 
「悪い」かだけの報道であり、むしろ、「結論ありき」という誘導の意図さえ感じられることがあまりにも多くないだろう
 
か。
 
 というのは、単純に、ネット情報の高度化によって、簡単に個々の事象報道のスタンスが比較できるため、スタン
 
スの偏在が明確にわかってしまうのだ。動画で記者会見の模様などが流されれば、なおさらだ。
 
 それでも、ジャーナリズムの偏在化は治ることはないだろう。それどころか、治すに治せない病にかかっているの
 
ではないかとさえ思われる。次回は、ここを検討してみよう。
 
 
 スーパーなどにいったときに、ときどき、売られている野菜や果物に「生産者」の名前が入っていることがある。特
 
にルールなどはないようだが、たとえば、「千葉県の○○さんがつくりました」というように、単なる「都道府県」では
 
なく、明確に「誰が」というところまで明示されていることがある。もっと細かくいくと、生産者の顔写真まである。買
 
い手としては、そこまで出自がハッキリしていれば安心だということでもあるし、それだけ生産者が自分たちのつくっ
 
たものに自信と誇りを持っているのだろうと推測もできる。
 
 さて、いま、新聞を広げてみると、その報道記事の「出自」はどうであろうか。おそらく、昔にくらべれば、記者の個
 
人名が記載された、いわゆる「署名入り記事」が増えたのではなかろうか。昔は、そんな名前などまったく入ってい
 
なかったことを思えば、進歩・改善であろう。とはいえ、たとえば、どんなもににでも署名=誰が書いたかハッキリし
 
ているということは100%ということでもなさそうだ。社説はいい例である。社説は複数の人間の合議によるから、
 
とも言えるので、難しいかもしれない。
 
 署名することによって、記者個人の責任を明確にするという趣旨は実現できているが、ここでもう一歩進めるなら
 
ば、社説やコラムに関しても、誰が書いたのかを明確にしておくべきであろう。それらが合議制での産物というので
 
あれば、それに関わった編集委員なり論説委員なり、全員の氏名・肩書きを記載しておけばいいのである。
 
 本当は「写真載せる」というレベルまでいけば、「誰が書いたかわからないだろうから、都合のいいことを書いてお
 
け」ということにはならないだろうが、逆に、圧力をかけたい組織・団体のターゲットになってしまい、それこそ言論
 
の危機になりかねないので、軽々には実施できないだろう。
 
 なので現段階として、少なくとも「ありとあらゆる記事に関して署名」を原則としておかないと、「誰に責任があるか
 
よくわからない社説」が乱発されるし、されている。否、むしろ、誰が書いたかわからない方が都合がいいというの
 
であれば、その新聞社はジャーナリズムの看板を即時撤去したほうがいい。

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まてりん
まてりん
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