他事奏論

[ リスト | 詳細 ]

政治経済社会文化に対する感想
記事検索
検索

 報道の中立性・公平性というものが、日本において劇的に変化したのは、テレビ朝日の「ニュースステ

ーション」からだろう(それ以前には、NHKの『ニュースセンター9時』という見方もあろうが、そこ

は留保)。いわゆるキャスター制によって、そのキャスターが好きにコメントを差し挟んでいくというス

タイルは、今日に至るまでのメディア報道の在り方に大きな影響を与えたことは否定できないだろう。

 それまで、ニュースに「意見」を入れ込むなどと言うのはタブーであったのだから、その変化はドラス

ティックでもあるが、諸刃の剣でもあり、ここから「客観・中立」などというジャーナリズムの基盤は完

全に画餅になったことも否定できない。

 そもそも、完全なる「客観性」はジャーナリズムにおいては存在しえないのだ。

 しかし、この客観性が前提とされてしまうのは、単純に言えば、「ニュースに自己の価値をはさまな

い」=「判断はその受け手にあるべき」という、送り手と受け手の暗黙の了解みたいなものがあるからに

他ならない。言い換えれば、メディア、ジャーナリズムは、受け手側の「価値判断」にまで影響を与えな

ず、その受け手の「判断」の材料の提供までに留めるべし、というのが本来の「客観報道」である。その

姿勢が「万人受けするから」という商業的戦略に基づくものであれ、「情報の受け手の思考の操作はしな

い」という、先人たちの姿勢であったことは一面として事実だろう。

 客観的な事実・出来事を「報じて」、あとはそれをどう考えるかは見た人、読んだ人の判断に任せると

いうのが「報道」であり、そこは「解説」や「論説」などとはまた異なるものである。

 ところが、そのあたりの区分はなくなり、報道する側の意見を入れ込ませた「報道」が先のニュースス

テーション以降、「当たり前」になった。しかも、その「報道」にバイアスがかかっていても、受け手は

気がつかないでそのまま受け取っていたことも否定できない。なぜなら、検証の仕様もなかったからだ。

そこに気がついていたのは、おそらくは業としてメディアをウォチングしていた者しかいないだろう。メ

ディア側もそこを利用して、意図的なバイアスをかけた報道をしてきたことも否定できないだろう。

 だが、いまや状況は異なった。我々は、ネットで即座に「報道」の内容自体を比較検討することができ

るようになっているし、「家庭で新聞は1紙」しかなくても、その他のメディアの情報も見聞できるよう

になっている。さらには、おかしなメディアの報道の仕方そのものが、あっという間にネットで叩かれる

時代である。

 いくら当のメディアが「これは中立・公正で客観的な報道」と言ったところで、それを受け手が素直に

受け止める状況ではない。ジャーナリズムにとっては「やりにくい」時代になったかもしれないが、それ

はそれで逆に「本当に客観的な報道」を実践する機会でもある。

 どこかの企業の提灯記事を書いてもすぐにバレるし、どこかの立場に肩入れした報道をすればすぐに叩

かれる。となると、実は(少なくとも既存の)メディアやジャーナリズムが生き残る道は、2つしかな

い。

 「うちは客観報道なんかしません」と堂々とイデオロギー色を出していくか、それとも、「無色透明で

客観性を重視します」と言うか。どちらかしかないのではないか。

 もっとも悲惨なのは、明らかに「受け手への影響」を狙いつつバイアスのかかった報道を、客観的の名

のもとにしれっと続けることである。そんなことが簡単に通じなくなっていることに気がつかないのは、

もはやジャーナリズムでなない。自らを「客観視」できないのだから、客観的な報道ができるわけはない

のである。

 便利な時代になったもので、誰かの記者会見やブリーフィングが、全部ではないにしても、かなりの確

率でそのままの素材でネットで見ることができる。

 ということは逆に、既存メディアの編集意図が介在することなく、「ネット」を通じて我々は当該人物

の主張や事実関係を知ることができる。

 言うまでもなく、それはこれまでの「編集権」などという伝家の宝刀(無論、それが国家的介入を阻止

するための先人たちの理論構成であったことはわかるが)が、既存メディアのとっては意味が薄れている

ことである。「自分たちが報道したい」ものとは違うものは、そのままネットにダイレクトに流れてしま

うのだから、それはおもしろくない話でもあろう。

 だが、もっと致命的なのは、我々一般市民の目に触れることがなかった、「メディア(ここで言うメデ

ィアはマクルーハン的な文脈ではなく、取材者・編集者としておきたい)」の横暴さが、そのまま拡散さ

れてしまうことであろう。

 例えば、である。よくある「謝罪会見」などでは、当事者が平身低頭し、それに対してメディアが質問

と言うよりも罵詈雑言で袋叩きにするパターンが多いが、いままでならば、我々の目には「申し訳ありま

せんでした」という当事者の謝罪シーンしか伝わってこなかったのが、メディアとにやりとり全般も広ま

ってしまうネット時代にあっては、同時に、「メディア」自体の低レベルも暴露されてしまうわけだ。だ

から、先にも触れたが、山中京都大学教授に対して、「ノーベル賞のメダルを噛んで見せて」とかいうメ

ディアの話も、あっという間に拡散してしまうわけだ。

 さて、そうした状況をわかっていれば、つまりは「自らは報じる立場であるが報じられる立場でもあ

る」という、ある種の二重性を被ることになるメディアは、慎重な上にも慎重にならないといけないのだ

が、それ以上に「叩くことに意義がある」=「自身の政治信条的にがまんならん」という態度に出て、

「自爆」に近い結末をさらすメディアが多すぎないか。

 メディアの客観的手法の意義は次回以降記したいが、ここでは「相手を叩いているつもりで、結果的に

メディアの無知さをさらけ出す」、言ってみれば「戦闘準備も何もなく突撃」して、ネット上では拡散し

ていくという構造が悲劇を通りこして喜劇だと思うのだ。

 石原前東京都知事にあしらわれる記者や、橋下大阪市長に論破される記者などの動画は、あちこちで散

見される。無論、記者の言うことに理があれば、筆者も首肯するところなのだが、どう聞いていても取材

も知識も不十分だし、とりあえずイデオロギーありきで突撃して、返り討ちというパターンが多すぎて笑

ってしまう。

 そうなると、まずは「メディア」のレベルの低さにあきれないといけないし、それがもはや内輪の記者

クラブで終わる話ではなく、即座にネットで拡散されるというリスク管理のなさにもあきれる。イデオロ

ギーありきで論戦を挑むなら、それ相応の周到な取材をするのが「ジャーナリズム」であるはずなのだ

が、それすらも見受けられない。

 そもそも、それは「メディア」であり、ジャーナリズムなのかという深い疑義にもつながるのだが、そ

うした連中に限って、もはや立場を忘れているのか、止める人が周りにいないのか、最後はろくなことに

ならないのは喜劇と言わずして何と言おうか。

 ひとつ確かなのは、彼らは足元しか見えていないということだろう。その目線の先に「情報の受け手」

である我々の姿はないのではないか。

東北にて考えること

イメージ 1

 筆者が初めて被災地をおとずれたのは、2011年の夏ごろである。3.11から約半年経って、石巻

をおとずれた。

 積み上げられた瓦礫と車両、壁が突き抜けて鉄骨だけが残る建物、舞い上がる砂ぼこりにトラック、信

号・電気がダウンしているので、手旗信号になっている道路など。

 それはあたかも、映画のセットのようで、とても現実のものとしては考えられないほどのものであっ

た。本来は写真を撮ったりして、現状を広く知らしめるようなことをするべきだったかもしれないが、

ここで多くの方がお亡くなりになったのだと思うと、とてもカメラを向ける気にならなかった。それが正

しいのかどうかは、いまだにわからない。

 それからだいぶん時間が経つ。阪神大震災の時などは、もう少し復興速度は早かった気がするだけに、

日々伝えられる東北の復興の様子は、おそらく現地の方々からすればもどかしいものであろう。無論、阪

神の時と違って、あまりにも広範囲すぎる上に、津波の影響・原発の影響が多いし、何よりも「人口が少

ない」ことも無関係ではない。神戸の時は、隣接地・大阪があまりダメージがなかったため、すぐに人

的・物的フォローができたが、東北は縦に長く、そう簡単にはいかない。

 加えて、明らかに政治が「違う方向」を向いていたこともマイナス要因である。わけのわからんところ

に、復興予算がつぎ込まれていたが、いまだに当時の政権党の説明はない。もっとも、彼らが当初から

「日本」に視点をおいていたのかどうかは、大いに疑義があるのだが。

 しかも、今現在、否、日本全体の視点、特にマスメディアの視点は、「被災地」にはないことは自明

だろう。被災地よりはスカイツリーの方が重要なのだ。

 幸い、政権が交代したので、政治的には今後、被災地にとっては少なくともマイナスにはならないだろ

うと思われる。東北は歴史的には光よりも悲劇が多いといっては怒られるかもしれないが、政治はこれ以

上、東北に負担をおわせないようにしてもらいたいものだ。

 筆者個人としては、職務そのものが東北地方に関わることであるので、そこに注力していくことが自ら

のなすべきこととは思うし、できるだけ被災地が産地のものを買うように心がけているが、それでも、ま

だ何かをするべきなのだろうとも考えるが、残念ながらそのような才はないようで。




 

 いきなりだが、「阿倍野ハルカス」をご存じだろうか。いや、ご存じない方が大半だろう。

 実は今、大阪の南エリア、阿倍野という町に超高層複合ビルが建設中で、その高さが横浜ランドマーク

タワーを超えて日本一になるのである。

 さて、日本一とかどうこうという高さ競争はさておき、この話題、おそらく関西以外の方はまったくご

存じないだろうし、「なにそれ?」という話題であろう。それはそれで構わない。というよりも、むしろ

当然の話だ。

 なぜなら、それは「東京」ではないからだ。

 もし、このビルが東京であったら、間違いなく全国の人が知る話題となっていたであろうし、メディア

は開業当日にそこに押し掛けて生中継をしまくったことは間違いないだろう。

 ところが、大阪のビルの話となると、日本一だろうが何だろうが、少なくとも今のところは無視されて

いるし、おそらくは開業日に中継がおこなわれるということもないだろうし、へたをすればニュースにも

ならないだろう。来年のオープンなので、実際にはどうなるかはわからないのだが。

 ここで勘違いしていただきたくないのは、「東京至上主義」とか「大阪の対東京コンプレックス」とか

いう俗っぽい話をしたいのではない。

 なぜこうした「落差」ができるのか、ということである。あれほど東京スカイツリーを大フィーバーで

追いかけまわしたメディアが、「日本一の高さのビル」に触れないのか。ここに、今のメディアの「病

理」があるからだ。

 東京からローカルへという情報の流れが基本であり、そもそもの「メディア関係者」はかなりの数が東

京首都圏在住である。そうなると、当然、「身近」な自分自身の体験できる話題に注目がいくわけで、大

阪のビルよりは東京駅前のおいしいグルメの方が関心を持ちやすいだろう。原宿のブームがすべてであ

り、大手町のビジネススタイルがすべてになる。

 人間は見たいものしか見ない、とはよく言われるセリフだが、まさにメディアにたずさわるのも「人

間」であり、彼らが万能に津々浦々の事象をとらえられるわけはない。見えるものを見ていた方が楽だ

し、そもそも自分たちの行動範囲の生活においては、「東京圏」以外で起こることなど、直接的な関係は

ないのだから、無関心にあるのは当然だ。

 本来、メディアはそうした「独善性」と「視野狭窄」を超克するために、「客観報道」を目指すべき平

野としていたはずなのだが、そんなことにすら関心がないメディア関係者が増えてきたのか、本当に「東

京ローカル」の話を延々と全国に流すマスメディアが増えてはいないか。

 辛辣にいえば、そっちの方が「楽しい」し「楽な仕事」だろう。なにせ、電車に乗って取材報道できる

範囲なのだし、自分たちの日常に密接した話題、しかも東京首都圏はマーケティング面からも効果は絶大

とくれば、大阪のビルに目が向かないのも、ある意味当たり前であろう。

 これが端的に進んだ結果が、もはやほとんど報道されない東日本の復興の話題である。復興予算がどう

こうという話は出ても、被災地の話はほとんど目にすることはなくなったではないか。代わりに我々は、

東京スカイツリーの話題を、これでもかと言わんばかりの勢いで見せつけられなかっただろうか。

 無論、こうした「自分たちの生活範囲・東京」しか見ないメディアの姿勢は、今に始まったことではな

い。が、それは日本のメディアの構造的欠陥でもあり病理でもある。

 地方分権とかいう話がよく政治的イシューにあがってはくるが、そこには「中央集権からの脱却」とい

う面もあろう。そこに逆行する形ではあるが、実はマスメディア自体、典型的な「中央集権体制」だとい

う事実を、我々はどう考えるべきなのだろうか。

 バグルスの歌ではないが、どうもメディアの隆盛が限界のようだ。メディアとは何ぞやというテクニカ

ルな定義はさておき、マスメディアとして解するならば、そのマスメディアはネット趨勢を眼前にして、

もはや手も足も出ないようにさえ思える。

 マスメディアは、主たる経済的存続基盤である広告収入は明らかにネットに奪われているし、また、購読者・購買者層からしても、たとえば新聞に見られるように、読者層は確実に減少傾向である。

 そうしたエコノミカルな側面も、マスメディアの衰退の証左ともなろうが、もっとその根幹、「権力の

監視機構」、または「論説の府」としてのマスメディアの機能事態の低下も昨今はなはだしい。ネット情

報の発達につれ、マスメディアの情報の価値が相対的に下がっていることは間違いないが、それに加え

て、その「質」そのものも低下してきていることは否めない。

 たとえば、ごく最近の話では、ノーベル賞を受賞された京都大学・山中教授に向かって、「メダルを噛

んでください」ととぼけた要望を出した記者がいたそうである。もはや、空気の読めない痛々しい感じす

らあるが、そんな報道は多数あるし、我々も日常的に「なんだ、この報道の仕方は」と思うことも多くな

ってきているのではないか。それは、我々一般人のメディアリテラシーの向上でもあろうが、「マスメデ

ィア」の質の低下でもある。

 ただ、その「質」の部分とは別に、そのマスメメディア自体の「姿勢」も問題となる場合がある。具体

的に言えば、自社の「主張」と異なる相手を全力で叩きつぶそうとするようなことである。近々では、週

刊朝日と橋下大阪市長のバトルがわかりやすいだろう。ともかく、自分たちの政治的姿勢と相いれない勢

力に対しては、徹底抗戦をしかけるのが、最近のマスメディアのやり方らしい。

 さて、ここで疑問だが、それは「客観報道」なのだろうか。週刊誌は「ゲリラ的」であることが武器で

すらあるので、そこは許されるかもしれないが、全国紙や全国放送となると、そこは「主義主張」を排し

た客観姿勢が重要であるはずだが、最近のマスメディアはそうした冷静さを失っているかのようにさえ見

える。原発をめぐる報道がわかりやすいだろう。

 朝日だと、明確に原発反対なので、そうした姿勢の報道になるのは仕方ない。が、そうした姿勢は政治

にも向けられていて、「自社の主張」と異なる勢力には猛然と向かっていく。無論、朝日だけではないだ

ろうが、さて、それは「ジャーナリズム」と呼べるのだろうか。

 明確な方針・主張のもとでの「報道」は、客観性や中立性を欠くの自明であり、もっと言うならば、そ

れは「保身」でもある。それはそうだろ。自社の姿勢と異なる主張が蔓延してしまっては、自分たちの立

つ瀬がないのだから、そこは全力でキャンペーン報道を張って、つぶしにかかるのは当然だ。ただし、そ

の時点で、それは「報道」ではなく、当該メディアの「保身」である。マスメディアにとって致命的なの

は、誤報ではなく、「自社のこれまでの報道」はひっくり返されることだ。

 言論を自由市場とみなすレトリックでは、そうした混沌の中でも「正しい主張」は生き残ることになる

のだが、そうそううまくいくわけでもない。単に「声の大きい方」が勝つこともある。巨大な新聞やテレ

ビはまさにそうである。が、いまはそのカウンターとしてネットがあるので、マスメディアの「主張」に

絶対性がないのも事実だ。

 さて、そうなると、「メスメディア」の存在意義とは何だろうか、となる。自身の主義主張を守るため

の報道であれば、いつまでも一般人の支持をえられるとは思えない。が、そんな危機感もなく、「保身」

に走っているマスメディアが増えていないだろうか。

 だからこそ、ネットがメディアを殺すことになるのである。

 


.
まてりん
まてりん
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事