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わが家の家族構成は、父母と子供四人の六人だった。長男の私、宏生「ヒロオ」が十歳、次男の満吉「マンキチ」が九歳、三男の潔「キヨシ」は五才で妹の美津子「ミツコ」は二歳だった。 |
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仕事を終えて帰宅したのが夜12時。 |

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当時私は小学校五年生。学校生活で見たこと習ったこと以外は日本軍閥の政治のことなど知る由も無かった。満洲国は大きく興安東省、西省、南省、北省の4省に分けられていた。 私は興安南省に住み道路をはさんだ目の前に日本在満国民学校の校門があった。当時の駅名は王爺廟と呼び「新天地の下に大満洲在り」と満洲国歌が歌われ、第一関東軍精鋭部隊のつわもの達が、がっちり睨みを効かす中で日本男子の渡満の勢いは途絶える事がなかった。
通遼(ツウリョウ)と言う所に、四、五才の時にしばらく住んでいたが、近くに住む日本人の窓から「紀元は二千六百年」の歌がラジオから流れ、三輪車で遊びながら一緒になって歌っていたのを覚えている。
学校の映画鑑賞も武勇伝ものが多かった。空中戦の末に帰らぬ友軍機を心配する兵士たち、いまや夕暮れになろうとする頃ガソリンの計器もゼロを指し、敵弾を受け重傷を負いながらも最後の気力で基地に戻る「森の大空」小学校一年に入学した頃、日本と米英との間に戦争が始まったことを知らされた。その頃王爺廟駅は、興安駅と呼び名が変わり、教育も段々と軍事色が強くなり、戦勝のニュースが毎日のように学校の廊下の正面の黒板にでかでかと書き出され、朝の登校時はまず黒板を見るのが楽しみで、皆雀のさえずりのように勝ち戦の話しに夢中になっていた。 危機に直面した日本軍に命をささげ必死に誘導し危機を救った「マライのハリマオ」。二人の兵士が斥候に出て敵地に迷い込み九死に一生を得て、最後にイギリス軍と日本軍との激しい銃撃戦となる「シンガポール陥落」などを、手に汗を握って見たものだった。 「おい、お前大きくなったら何になるんだ」 「俺か、飛行機乗りだ」 「なんだ、お前もか。俺もだ」 と目指すは空軍志願が圧倒的であった。でも三年、四年と、戦争が長引くに連れいやなニュースを耳にするようになり、いやまさか?そんな事はないはずだと無理に自分に納得させ、学友の前では「若い血潮の予科連の…」とできるだけ平気を装って軍歌を口ずさんでいた。
新聞やラジオは大本営発表と相変わらず、
「駆逐艦何隻を撃沈、巡洋艦を大破せり」「OO戦闘隊はOO上空に於いて、敵機七機を追撃せり」
と言うような朗報ばかりを相変わらず流していた。
「何かあったな?」そんな或る日の朝だった。学校の掲示板の前はいつもより倍もの人だかりに、 と思いつつ掲示板を見ると、何と大きな字で「山本五十六元帥戦死」の報が書き出されていた。
皆この時ばかりは真剣な面持ちで見入っていたのだった。全校の生徒数は約二百七十名が朝礼で校庭に集合し小山司六校長先生の号令で、
「只今より神君にも劣らぬ山本五十六元帥に対して全員黙祷を行う、黙祷…」どんよりとした空の下で一瞬静寂の時が流れた。 その後校長先生は唯一無二の大切な人材を亡くしたと強調していた。なぜそれ程偉い人が簡単に亡くなったのか?信じがたい心境であった。
授業科目の体操も閲兵式や点呼、手旗信号、剣道、銃剣術、口答連絡など、軍事訓練が主だったのが戦況の変化に伴い、グアム島や硫黄島の玉砕説が流れる頃は、焼夷弾投下の防御、防火訓練、防空壕避難練習と、攻めから守りに変わり戦況事情も日増しに不安な日々を送るのみであった。
例年のごとく八月は夏休みに入ったが、父の事務所の窓から見る校舎や校庭は人影もなく森閑とした静けさが漂い、戦況の不利を感じるだけに余計に寂しさを感じていた。 |
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本日6月8日より、私の友人から伝えられた戦時体験について書き記していきます。 |

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私は昭和九年。群馬県の利根川の上流の新治村に生まれました。 |




