まてよ?のひとり言

屋上淵から滴る雨滴が窓枠にあたってタコタコ音が気になります

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わが家の家族構成は、父母と子供四人の六人だった。長男の私、宏生「ヒロオ」が十歳、次男の満吉「マンキチ」が九歳、三男の潔「キヨシ」は五才で妹の美津子「ミツコ」は二歳だった。

 夏休みもはじめの数日は良いが一週間も過ぎるとたちまち飽がきて、何か奇抜な遊びはないものかと弟を誘った。

「満ちゃん、何かして遊ぼうや」

「うんいいよ、何をして遊ぶ?」

「二人ぢゃ、隠れんぼもだめだしな」

「そうだ缶蹴り」

弟は得意げだが、

「缶蹴りもいいけど、この間お国の為に缶やバケツ集めて供出したから、もうないぞ」

その頃は飛行機や武器の生産のために、金属類は何回も供出させられて遊べる物は何も残らず、さらに飛行機の油に使うのだとひまし油を植え栽培もしていた。鉛筆は持てなくなるまで使い、習字用の半紙もなくなり古い新聞紙の上に何回も何回も書きなぐり「欲しがりません勝までは」と頑張っていた。

それでも私は暴れたり悪戯したりは三度の飯より大好き、母に竹箒で追い回されるのはいつもの事だった。

 わが家の裏口から庭を眺めると運動場になるほど大きい。右隣は父の労働者の家、地続きに先生方の宿舎と、外れに学校の経理事務所、その横に横道が走り郵便局へ通じ駅前の中央通りに結んでいる。その途中の右側に大きな二階建の新事務所があった。

左隣は武岡さんと小林さんの二棟続きで、そこから庭を仕切るように高い土塀が続き、奥行き七十メートル位あり、正面に何軒かの満洲人の家があった。

(私達は満州人を満人と呼んでいたので、ここからは満人と書く)

彼らの横道へ抜ける人道の近くに橋本君と小山さんの家が並んでいる、橋本君は弟と同級で大の釣り友達、お父さんは学校の経理の仕事が専門である。小山さんは校長先生の長女で私と同級だが、面白い事に四人兄弟共我が家と同じ年回りであった。

庭の中心にセメント倉庫、手前に防空壕があり土階段の入口がいつも見える。倉庫の裏側はわが家の畑で倉庫の右側は建築に使う土管や瓦材木が見え、その先の砂山に目が行ったとき或る考えが頭に閃いた。

あの砂山をどこに行くのかお腹の大きい女の人が必ず行き来するのだ。足は七才位の纏足の足、昔の中国は一夫多妻式で女の子が生まれると七才頃から布靴で絞めて大きくさせず、それは娘を嫁にやっても逃げられないようにするためだった。

私は大きなお腹を前に突き出し小さな足で歩く姿を思い浮かべ、一人微笑む、

「満ちゃん、倉庫からシャベルかスコップを持ってこいよ」

「何やるの?」

「いいこと考えついたんだ、砂山に行ってるぞ」

私は小走りで砂山に着き足跡を見るとしめしめ足跡は真新しい。弟もスコップを持ってやって来た。

「宏ちゃん、これでいいだろう」

「いいよ、今ここに穴を掘るから満ちゃん急いで畑から玉蜀黍の芯を集めてこいよ。次いでに葉っぱもな。ほら良く女の腹でっかちが通るだろう」

弟も悪戯の意味が分かり走って行った。当然穴は一番高いところ足跡を中心に直径約三十センチ深さ約四十センチ掘った頃、弟が戻って来た。

「宏ちゃん、持ってきたぞ」

「よしっと、こんなもんでいいだろう。その芯で穴を塞ごう穴より余り出ない方がいいぞ。三本位にして後は葉っぱで塞ごう」

「だめだ、砂がどんどん流れ落ちるよ」

「そうだな、よしもう一本追加するか?」

 弟と二人頭を寄せあって落とし穴を作るが、葉っぱのねじれら砂がさらさら落ちて簡単なようで案外難しかった。でも何とか作りあげ、

「おい、足跡踏むなよ。感づかれると失敗するぞ」

私は弟に注意しながら、

「うまく行ったぞ。あとは俺達の足跡を消そう」

弟は残った葉っぱや屑をスコップで始末をして戻って来た。

「もう、そろそろ来る頃だけどな…」

「あっ、きたきた」

「来たか、じゃそこの煉瓦の影で様子を見よう」

二人がじっと見ているとも知らず、大きなお腹を抱え小さな足がつま先で砂山を登り出した。上半身は反り返って以前より大きく見える。ちょっとよろけるような足取りで穴は直ぐ前、年の頃は三十七か八片手に小さな包みを持っている。

落ちるか落ちないか寸前の足もとに二人は目を丸くして見ていた。穴の縁で上げた片足は見事に決まり「ぐすっ」重心は前向きに崩れ「はっ」と驚く表情と小包は横に飛び、その滑稽さに思わず噴出してしまった。

 女の人は私たちの仕業だと分かるとたちまち怖い顔でにらみつけ、

「ニー、ショタカナイナイ、ワンパータン」

 背中に浴びた大声が罵声だとは分かるのだが意味は分からないし、ただ悪戯に成功したことに満足して二人は家に逃げ帰った。

 でももしあの時、もっと深く掘りすぎてお腹の赤ちゃんに何かあったなら、とんでもないとばっちりが母に来たであろう。知らぬが仏の二人であった。

真夜中のヘルプ

仕事を終えて帰宅したのが夜12時。
さてブログを書こうかとしたときに、友人からの電話。

 「ちょっと教えて欲しいんだけど、メール打とうとしたらローマ字入力でひらがなが出なくなっちゃって」

どうやらIMEの設定を誤って変えてしまった様子。
あれこれ電話で状況を聞きながらあちこち試してもらうが一向に改善せず。
白旗を揚げたのは1時間半が過ぎてからだった。
電話での対応はとっても大変。
だから普段はお客さんからの電話問合せは、お得意さんでなければ受けないようにしている。
基本は出張で直接現物PCを見て触って解決する。
それが私の「青井パソコンクリニック」の方針だ。

聞くほうは「電話で簡単にちょっと」と思うだろうけど、
受けるほうはあらゆる可能性をしらみつぶしに口頭で確認していかなければならないので、
恐ろしく時間がかかるのだ。

ともあれ、やっとこさこのブログを書くことができた。
昨日開設したばかりのブログ、2日目にして書かず仕舞いに寝るには忍びない。
ひとつぶやきできたから、もう寝るとしよう。明日も早い。

山 本 五 十 六 元 帥 の 戦 死


当時私は小学校五年生。学校生活で見たこと習ったこと以外は日本軍閥の政治のことなど知る由も無かった。満洲国は大きく興安東省、西省、南省、北省の4省に分けられていた。

私は興安南省に住み道路をはさんだ目の前に日本在満国民学校の校門があった。当時の駅名は王爺廟と呼び「新天地の下に大満洲在り」と満洲国歌が歌われ、第一関東軍精鋭部隊のつわもの達が、がっちり睨みを効かす中で日本男子の渡満の勢いは途絶える事がなかった。

通遼(ツウリョウ)と言う所に、四、五才の時にしばらく住んでいたが、近くに住む日本人の窓から「紀元は二千六百年」の歌がラジオから流れ、三輪車で遊びながら一緒になって歌っていたのを覚えている。

小学校一年に入学した頃、日本と米英との間に戦争が始まったことを知らされた。その頃王爺廟駅は、興安駅と呼び名が変わり、教育も段々と軍事色が強くなり、戦勝のニュースが毎日のように学校の廊下の正面の黒板にでかでかと書き出され、朝の登校時はまず黒板を見るのが楽しみで、皆雀のさえずりのように勝ち戦の話しに夢中になっていた。

 学校の映画鑑賞も武勇伝ものが多かった。空中戦の末に帰らぬ友軍機を心配する兵士たち、いまや夕暮れになろうとする頃ガソリンの計器もゼロを指し、敵弾を受け重傷を負いながらも最後の気力で基地に戻る「森の大空」

危機に直面した日本軍に命をささげ必死に誘導し危機を救った「マライのハリマオ」。二人の兵士が斥候に出て敵地に迷い込み九死に一生を得て、最後にイギリス軍と日本軍との激しい銃撃戦となる「シンガポール陥落」などを、手に汗を握って見たものだった。

「おい、お前大きくなったら何になるんだ」

「俺か、飛行機乗りだ」

「なんだ、お前もか。俺もだ」

と目指すは空軍志願が圧倒的であった。でも三年、四年と、戦争が長引くに連れいやなニュースを耳にするようになり、いやまさか?そんな事はないはずだと無理に自分に納得させ、学友の前では「若い血潮の予科連の…」とできるだけ平気を装って軍歌を口ずさんでいた。

新聞やラジオは大本営発表と相変わらず、

「駆逐艦何隻を撃沈、巡洋艦を大破せり」

「OO戦闘隊はOO上空に於いて、敵機七機を追撃せり」

と言うような朗報ばかりを相変わらず流していた。

そんな或る日の朝だった。学校の掲示板の前はいつもより倍もの人だかりに、

「何かあったな?」

 と思いつつ掲示板を見ると、何と大きな字で「山本五十六元帥戦死」の報が書き出されていた。

皆この時ばかりは真剣な面持ちで見入っていたのだった。全校の生徒数は約二百七十名が朝礼で校庭に集合し小山司六校長先生の号令で、

「只今より神君にも劣らぬ山本五十六元帥に対して全員黙祷を行う、黙祷…」

どんよりとした空の下で一瞬静寂の時が流れた。

 その後校長先生は唯一無二の大切な人材を亡くしたと強調していた。なぜそれ程偉い人が簡単に亡くなったのか?信じがたい心境であった。

授業科目の体操も閲兵式や点呼、手旗信号、剣道、銃剣術、口答連絡など、軍事訓練が主だったのが戦況の変化に伴い、グアム島や硫黄島の玉砕説が流れる頃は、焼夷弾投下の防御、防火訓練、防空壕避難練習と、攻めから守りに変わり戦況事情も日増しに不安な日々を送るのみであった。

例年のごとく八月は夏休みに入ったが、父の事務所の窓から見る校舎や校庭は人影もなく森閑とした静けさが漂い、戦況の不利を感じるだけに余計に寂しさを感じていた。

連載の開始

本日6月8日より、私の友人から伝えられた戦時体験について書き記していきます。
すべて彼の幼少期の実際の体験であり、記憶の及ぶ限り正確に思い出されたものを
私が代理でブログにしています。

まえがき

私は昭和九年。群馬県の利根川の上流の新治村に生まれました。

 昭和の時代は去って新しい元号は平成と変わりました。世界を相手に文化発展もめざましく、今や日本は全世界の国から一目置かれる存在となりました。

しかし昭和の初期の頃の日本は資源も無く、諸外国に遅れをとっていたのです。そんな時代に一部の人たちは夢を求め、中南米への移民が始まっていましたが、日本国の存在すら知らぬ外国人が多かったのです。

日本は支那事変を軸に、中国大陸へとその領土を広げ、満洲国を設立するや、何十万の人々が大きな夢を描きながら、満洲大陸を目指して渡って行きました。

私が聞いた戦争の発端は、石油市場の買い付け問題でアメリカ側の売買拒否、とのことでした。が定かではありません。

ともかく日本は宣戦布告を告げると、ハワイの真珠湾を皮切りに戦線を広大して、遂には全世界を相手に四年間も戦いが長引き、何十万とも知れぬ若い将兵達は祖国のために散って行きました。船舶、飛行機、武器弾薬、ガソリン等の物資を使い果たし、沖縄はアメリカを中心とする連合艦隊に攻め落とされ、数多い犠牲者を出しながらも、最後の一兵一卒までもと全員玉砕を覚悟して、本土作戦に最後の望みを託していたようです。

しかし八月六日に広島、九日には長崎と相次ぐ原子爆弾の投下で予想外の打撃を受け、国民の犠牲を目の当たりに見せつけられ、これ以上の国民の殺生を忍び得ず昭和天皇自ら無条件降伏に踏み切り、昭和二十年八月十五日。第二次世界大戦の終結を見ました。

この間に日本の犠牲者は三百万に達し、欧米諸国も八百万を越す犠牲者を生んだと聞きます。我々はこの戦争を大東亜戦争と呼んでいました。

二度と犯してはならぬ悪夢の戦争が一つの教訓となり、戦後の食糧難に絶えながら、復旧と再建のために生き抜いた先祖の努力の成果があったからこそ、今があると言っても過言ではないと思います。

満洲開発途上のことでした。軍部を中心に鉄道工事や土木建築、農民の開拓団が送り込まれ、 父も建築業の一人として渡満し二年後に母と弟と、当時三才の私が呼び寄せられました。白城子から通遼そして王爺廟に住み出すあたりから物語が始まって行きます。

 軍政下の中の学校生活から戦況の変化と終戦を生き抜き、何の不自由もない王子の様な生活からいきなり貧民となる。子供の目から見た当時の赤裸々な

生活を、記憶の許す限りたどってみたいと思います。

当時私は十才と十ヶ月。全てが正確な記録というわけにはいきませんが、でもこれは想像でも空想でもありません。私がこの出来事を出来る限り記録に残そうと、ノートに綴った子供の目から見た現実なのです。

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