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空には雨雲が一面に広がり、重苦しい雰囲気がひしひしと町中を包んでいた。
「さっきね、在郷軍人の間で全員避難と決まったらしいですよ」
「あっ、それでわざわざ、お世話様でした」
私は避難と聞き安全な所へ行けると思うと嬉しかった。おばさんは母にそれを告げると早々に帰って行った。
「母ちゃん、どこに集まるんだって?」
「駅前の中央道路に五時だと」
「五時に…今五時じゃない」
「ええっ、もうそんなになるかい」
母は大急ぎで御飯を炊きながら、出発の準備を始めだす。炊き上がった御
飯をおにぎりで食べ、後は携帯用にと母は俄然忙しくなってきた。
「ほらお前達も用意しな、時間は過ぎてるんだから。ご飯が済んだら服を着な、外套もだよ。夜は寒くなるから帽子も被るんだよ」
そういいながらも母の目と手は休みなく動き、行李や箱、棚から必要な品を選り分けていた。美津子のためのおぶい紐、着替え類、毛布やタオル。他に銀行関係書類など母は一人で大奮闘していた。
しかし集合時間が決まっても父はまだ姿を見せなかった。
「満、支度はできたかい、潔にも着替えを手伝ってやんな。帽子も忘れるんじゃないよ、宏生、流しから美津子の牛乳瓶を取っとくれ。それにシャジと練りミルクもだよ。あっ、ついでに牛乳瓶を包むのに、布巾も取っておくれ」
「満、出る支度ができたら荷物を玄関まで運んどくれ」
「宏生は庭中に鶏の餌を撒きな。四、五日は留守にするだろうから少し余分に撒き散らしとくんだよ」
そんな時裏口で、
「今晩は」
と聞き覚えのある声に振り返ると校長先生の奥さんで、蓉子ちゃんのお母さんだった。私はちょっと顔が赤くなってくる。
「お母さんは?」
「はい、います。母ちゃん、蓉子ちゃんのお母さんだよ」
「あら奥さんいらっしゃい」
「誠にお忙しい所をお邪魔を致しまして申し訳御座いませんが。鶏の餌をお借りしたいと思いまして、貸して頂けましょうか」
「はいどうぞいいですとも、宏生、奥さんに粟を持って来て上げなさい」
「はい」
珍しいな蓉子ちゃんのお母さんが来たなんてと思いながらバケツに一杯持って行った。
「まぁ、そんなに」
「いいんですよ。四、五日だそうですから多い位がよいでしょう」
「本当に御迷惑お掛けしまして申し訳御座いませんでした。では御免下さいませ」
「迷惑だなんて、困った時はお互い様ですよ」
私は蓉子ちゃんは?と聞きたかったけどやめた。のんびり話す時間はないのだ。粟を運ぶおばさんの後ろ姿が最後の見納めになろうとは誰ぞ知ろう。
時間はどんどん過ぎ、はや夕暮れに差しかかっていた。私は食糧庫からバケツで餌を持って行った。鶏は巣小屋へ、中びなや、ひよこも巣箱に固まっていて、庭に粟を撒き散らす音がしても一羽も出てこない。互いに体を寄せ合い、ピピ…ピピと小さくさえずっている。明日も出られるように蓋を少しずらせて置いた。
「宏生、餌を撒き終わったら玄関にリヤカーを回しとくれ。満はリヤカーがきたら宏生に手伝って荷物を積みな。潔もそんな所に立ってないで玄関の方に行っていな。母ちゃんも美津子をおぶったら直ぐ行くよ。美津子、さあおんぶおんぶしようね」
「おんぶ」
と答えて美津子は母の声をじっと待ち続けていたのだった。美津子を背負うと母は玄関を出た。私はリヤカーの舵棒を握り、
「よし行こう」
わが家とは一時のお別れだ。母はドアを閉めたが鍵は掛けなかった。もう七時に近かろう。郵便局通りは爆弾が落ちて通る事が出来ない。右へ行って角を右に曲がろう。空を仰ぐが星一つ見えない。
「じゃ、母ちゃんは潔を連れて行くから満は宏生の後押しをしない」
「早く行こうよ。皆に置いて行かれるよ」
ところが右に曲がった所を少し行くとそこも爆弾の跡、ふんわりとした盛り土にタイヤはどんどんめり込んで行く。
舵を右に左に切り返すが何センチも進めない。母も見かねて手伝った。
「もっと力出せよ」
「出してるよ、これ以上は出せないよ」
片方の車輪は半分も埋まり気持ちは十五でもやっぱり十才。気はあせってもどうしたものかと立ち止まってしまった。
「困ったなぁ、これじゃ動きが取れないや」
「戻るにも戻れないね」
「あと四メートル位はあるよ。どうしよう荷物下ろすしかないかな」
周りはどんどん暗くなるし、弱ったと思いながら後ろを見た時二頭の騎馬が見えた。向こうでもこちらの様子を見ていたらしく一人の騎馬兵が馬を降りてきた。
「さあ坊や押すぞ、しっかり舵を取りな」
皆で力を合わせ無理やり押し出してしまった。母は、
「どうもわざわざ済みません。本当に助かりました」
騎馬兵さんは汚れた埃を叩き落としながら、
「もうこの辺は危険です。なるたけ早く行きなさい」
鍔の付いた軍帽に詰襟の軍服、乗馬ズボンに滑り止めの付いた半長靴、軍服は新品の青色で馬上に戻り軽く敬礼した手袋は、白くくっきりと見え、三十二、三の背の高い兵隊さんだった。
幸い爆弾の跡はそこだけで中央通りに出ることができた。空襲のために興
安の町全体は真っ暗で明かりはどこにも見えなかった。
すでに大勢の人が道路沿いにいるのが黒くみえる。私は人の少ない場所にリヤカーを置いた。星一つ見えぬ夜空と明かり一つ無い闇夜の沿道に、数人ずつが固まるようにがやがやと話声だけが聞こえ、しばらくはリヤカーの側にじっとしていたが集まった人たちの話しぶりから、出発にはまだ間がありそうだった。
「母ちゃん、俺ちょっとその辺を見てくるよ」
「あんまり遠くへ行くんじゃねえよ。いつ出るかわかんないんだから」
「大丈夫だよ」
何しろ暗くて誰が誰やら見分けがつかない。ともかく人の影をさけながら先のほうへと歩いていった。確かこの辺が富栄洋行だな?見覚えのある横道と家の形でわかった。
ここが友人の新田さんの家で本屋さん。講談社の本を毎月受取に来ていた。ついでにいつも上がり込んでは遊び、時々おばさんにおやつをもらえるのも目的の一つだった。
横道の溝の上のほうに光るものが見えた。何だろうと思って行ってみると縦横六十センチぐらいの爆弾の破片が看板のような格好で電柱に突き刺さっていた。さらにに下の溝にもっと大きいのが刺さっていて、近寄ってみると鉄の厚みは三センチもあるのにまるでくらげのように溶けてぐにゃぐにゃだった。そおっと指で触ってみると剃刀の刃のようにとがっていて、思わず手を引っ込めてしまった。
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