まてよ?のひとり言

屋上淵から滴る雨滴が窓枠にあたってタコタコ音が気になります

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空には雨雲が一面に広がり、重苦しい雰囲気がひしひしと町中を包んでいた。

「さっきね、在郷軍人の間で全員避難と決まったらしいですよ」

「あっ、それでわざわざ、お世話様でした」

私は避難と聞き安全な所へ行けると思うと嬉しかった。おばさんは母にそれを告げると早々に帰って行った。

「母ちゃん、どこに集まるんだって?」

「駅前の中央道路に五時だと」

「五時に…今五時じゃない」

「ええっ、もうそんなになるかい」

母は大急ぎで御飯を炊きながら、出発の準備を始めだす。炊き上がった御

飯をおにぎりで食べ、後は携帯用にと母は俄然忙しくなってきた。

「ほらお前達も用意しな、時間は過ぎてるんだから。ご飯が済んだら服を着な、外套もだよ。夜は寒くなるから帽子も被るんだよ」

そういいながらも母の目と手は休みなく動き、行李や箱、棚から必要な品を選り分けていた。美津子のためのおぶい紐、着替え類、毛布やタオル。他に銀行関係書類など母は一人で大奮闘していた。

しかし集合時間が決まっても父はまだ姿を見せなかった。

「満、支度はできたかい、潔にも着替えを手伝ってやんな。帽子も忘れるんじゃないよ、宏生、流しから美津子の牛乳瓶を取っとくれ。それにシャジと練りミルクもだよ。あっ、ついでに牛乳瓶を包むのに、布巾も取っておくれ」

「満、出る支度ができたら荷物を玄関まで運んどくれ」

「宏生は庭中に鶏の餌を撒きな。四、五日は留守にするだろうから少し余分に撒き散らしとくんだよ」

そんな時裏口で、

「今晩は」

と聞き覚えのある声に振り返ると校長先生の奥さんで、蓉子ちゃんのお母さんだった。私はちょっと顔が赤くなってくる。

「お母さんは?」

「はい、います。母ちゃん、蓉子ちゃんのお母さんだよ」

「あら奥さんいらっしゃい」

「誠にお忙しい所をお邪魔を致しまして申し訳御座いませんが。鶏の餌をお借りしたいと思いまして、貸して頂けましょうか」

「はいどうぞいいですとも、宏生、奥さんに粟を持って来て上げなさい」

「はい」

珍しいな蓉子ちゃんのお母さんが来たなんてと思いながらバケツに一杯持って行った。

「まぁ、そんなに」

「いいんですよ。四、五日だそうですから多い位がよいでしょう」

「本当に御迷惑お掛けしまして申し訳御座いませんでした。では御免下さいませ」

「迷惑だなんて、困った時はお互い様ですよ」

私は蓉子ちゃんは?と聞きたかったけどやめた。のんびり話す時間はないのだ。粟を運ぶおばさんの後ろ姿が最後の見納めになろうとは誰ぞ知ろう。

時間はどんどん過ぎ、はや夕暮れに差しかかっていた。私は食糧庫からバケツで餌を持って行った。鶏は巣小屋へ、中びなや、ひよこも巣箱に固まっていて、庭に粟を撒き散らす音がしても一羽も出てこない。互いに体を寄せ合い、ピピ…ピピと小さくさえずっている。明日も出られるように蓋を少しずらせて置いた。

「宏生、餌を撒き終わったら玄関にリヤカーを回しとくれ。満はリヤカーがきたら宏生に手伝って荷物を積みな。潔もそんな所に立ってないで玄関の方に行っていな。母ちゃんも美津子をおぶったら直ぐ行くよ。美津子、さあおんぶおんぶしようね」

「おんぶ」

と答えて美津子は母の声をじっと待ち続けていたのだった。美津子を背負うと母は玄関を出た。私はリヤカーの舵棒を握り、

「よし行こう」

わが家とは一時のお別れだ。母はドアを閉めたが鍵は掛けなかった。もう七時に近かろう。郵便局通りは爆弾が落ちて通る事が出来ない。右へ行って角を右に曲がろう。空を仰ぐが星一つ見えない。

「じゃ、母ちゃんは潔を連れて行くから満は宏生の後押しをしない」

「早く行こうよ。皆に置いて行かれるよ」

ところが右に曲がった所を少し行くとそこも爆弾の跡、ふんわりとした盛り土にタイヤはどんどんめり込んで行く。

舵を右に左に切り返すが何センチも進めない。母も見かねて手伝った。

「もっと力出せよ」

「出してるよ、これ以上は出せないよ」

片方の車輪は半分も埋まり気持ちは十五でもやっぱり十才。気はあせってもどうしたものかと立ち止まってしまった。

「困ったなぁ、これじゃ動きが取れないや」

「戻るにも戻れないね」

「あと四メートル位はあるよ。どうしよう荷物下ろすしかないかな」

周りはどんどん暗くなるし、弱ったと思いながら後ろを見た時二頭の騎馬が見えた。向こうでもこちらの様子を見ていたらしく一人の騎馬兵が馬を降りてきた。

「さあ坊や押すぞ、しっかり舵を取りな」

 皆で力を合わせ無理やり押し出してしまった。母は、

「どうもわざわざ済みません。本当に助かりました」

騎馬兵さんは汚れた埃を叩き落としながら、

「もうこの辺は危険です。なるたけ早く行きなさい」

鍔の付いた軍帽に詰襟の軍服、乗馬ズボンに滑り止めの付いた半長靴、軍服は新品の青色で馬上に戻り軽く敬礼した手袋は、白くくっきりと見え、三十二、三の背の高い兵隊さんだった。

幸い爆弾の跡はそこだけで中央通りに出ることができた。空襲のために興

安の町全体は真っ暗で明かりはどこにも見えなかった。

 すでに大勢の人が道路沿いにいるのが黒くみえる。私は人の少ない場所にリヤカーを置いた。星一つ見えぬ夜空と明かり一つ無い闇夜の沿道に、数人ずつが固まるようにがやがやと話声だけが聞こえ、しばらくはリヤカーの側にじっとしていたが集まった人たちの話しぶりから、出発にはまだ間がありそうだった。

「母ちゃん、俺ちょっとその辺を見てくるよ」

「あんまり遠くへ行くんじゃねえよ。いつ出るかわかんないんだから」

「大丈夫だよ」

何しろ暗くて誰が誰やら見分けがつかない。ともかく人の影をさけながら先のほうへと歩いていった。確かこの辺が富栄洋行だな?見覚えのある横道と家の形でわかった。

ここが友人の新田さんの家で本屋さん。講談社の本を毎月受取に来ていた。ついでにいつも上がり込んでは遊び、時々おばさんにおやつをもらえるのも目的の一つだった。

横道の溝の上のほうに光るものが見えた。何だろうと思って行ってみると縦横六十センチぐらいの爆弾の破片が看板のような格好で電柱に突き刺さっていた。さらにに下の溝にもっと大きいのが刺さっていて、近寄ってみると鉄の厚みは三センチもあるのにまるでくらげのように溶けてぐにゃぐにゃだった。そおっと指で触ってみると剃刀の刃のようにとがっていて、思わず手を引っ込めてしまった。

美津子が入院しても父の留守がちは続き、一緒に食事をすることは無かった。私はひちりんで火を起こし文ちゃんのお母さんにご飯の炊き方を教わり、前にいたボーイの見よう見まねで味噌汁やなすの油炒め、卵焼きやにらの卵とじなどけっこう上手にできるようになった。

退院後の美津子の食事は練りミルクとおじやが主だったが、元気になるに連れ爆ぜ米や玉蜀黍の半熟を喜んで食べた。

「おいち。おいちだね」

「おいち」

 と答えていた。爆撃のショックで皆食欲はなく全員が残し、それをチビにやるとチビは何事もなかったように平らげている。

午後になりいつもの兵士達がやって来た。

「こんにちは、奥さんまた水を使わせて下さい」

「はい、どうぞ。あんた方のほうはどうでした」

「はっ、たいした事はなかったです」

「それはよかったですね」

 他の兵隊さんは、

「自分等の方は機銃掃射を食らって三人負傷したですが別状ないです」

「学校に爆弾はどうでした?」

「一発も落ちませんです」

「こっちはどうなる事かと、身が縮む思いで心配で心配でね」

 いつも洗濯物と一緒なのに今日は食器ばかりだった。

「なあに、大丈夫ですよ。奥さん、この位は序の口です」

 次に入れ代わった兵士達は、

「奥さん、大変お世話になりました」

「ええっ、どうかしたんですか?」

「はっ、移動命令が出たであります」

「だってあんた達は、ここが第一線になるんだと言ってたでしょ」

「はっ、でありますが。自分たちはなんともお答えできないであります」

 母の強い抗議に兵隊さんは困った顔をしていた。そしてまた別の兵士が入って来た。

「おばさんお世話になりました。これ取っておいて下さい」

 砂糖に塩、米に皿食器など水を使った兵隊さん達が置いて行った。なかには薪まであった。

「奥さん、昨日も話した通り悪い事は言いません。少しでも速く逃げて下さい」

「おばさん、自分たちはこれより敵の前面を叩き破って参ります」

「奥さん、敵は直ぐそこです。避難しないと危ないですよ」

母は避難すべきか残るべきか、判断に悩みおろおろしている。私は最初から不信感を抱いていただけに、弱腰の兵隊さん達に嫌悪を感じやり切れなかった。名前だけの兵隊、格好だけの兵隊、本で見た兵隊はどこへいったやら…

八月十一日午後四時頃だった。挨拶に来た兵隊さんは皆去り私は空しく片づけの済んだ校庭を眺める。すでに高射砲もそこにはなくあれほど澄んでいた青空も今はどんよりした空に変わっていた。校舎もスチームの煙突も何か黒ずんで悄然として見える。

朝礼台近くの場所に出発の準備の終わった兵士達が集結していた。そこへ急ぎ足で伝令が戻ってきた。小隊長の前に立つや敬礼と同時に伝令事項の報告を始めた。

 私はその報告が聞きたくなり急いで校門の影に隠れ耳を澄ました。はっきりは聞き取れなかったが大体の意味は分かった。

「駅は人の踏み場もないほどの混雑で、駅前もホームもごった返し…列車はハルピン方面より0時0分にて通過の予定、それ以降の後続車無し。以上」

それを聞いて今度は自分がおろおろする番だった。誰かに相談したくても父はいないし相手がいない。名ばかりの兵隊でも去るとなると不安がつのる。だんだんやりきれない気持ちと何かに縋りたいような弱気になってくる。

「母ちゃん今ね伝令が戻ってきてハルピン方面から来る汽車が最後だってよ。やっぱりどこか安全なところに行こうよ」

「お前そんなこと言ったって父ちゃんが帰らねえもの。どうしようもねえだろ」

「じゃ兵隊さんがいなくなったらどうするの?」

「今までは兵隊さんがいてくれると思ったもの。母ちゃんだってわかりゃしねえよ」

七つボタンの予科練航空隊、日本海海戦の杉野兵曹長、敵前突破に爆弾を抱えて鉄条網へ突っ込む爆弾三勇士、ほかに人間魚雷などの物語り等々に夢と希望を燃やしていたのに----

しかし、いざ現実の爆撃や機銃掃射を受け生まれて初めて味わった恐怖に、格好だけの兵隊さんでもいいからいてもらいたいと切に願うのだが、その願いも空しく校庭の兵隊さんの声が響き出した。

「気を付け」

「右へ習え」

「番号」

 きびきびとした声に私は玄関へ急いだ。整列横隊になった兵士の前で小隊長の訓示を受けている。

「以上により現在地より行動を開始とする」

「気を付け、小隊長に対し敬礼」

「左向け左。前へ…進め」

靴音高く兵士達は二列行進で校門を出ると、駅の方向へ向かって進みだした。顔なじみの兵隊さん達が笑顔で手を上げ、

「さようなら、お元気で」

と声をかけてくれた。

 目の前を通り過ぎて行く兵士達を見ながら、私達も笑顔で答えたものの母も私も寂しさは隠せなかった。

二つ目の角を左に曲がり最後の一兵の背中が消えた。兵士の去った跡の校庭は元の静けさに戻り雑草の花の数輪も風にゆられ、さようならと頭を振っているようだった。

私たちはしはらくの間気がぬけたように黙りこくっていた。今は家の中も校庭も文ちゃんや小林さんの家も、先生の宿舎も火が消えたように静かになってる。

いったい父ちゃんは何をしているのかな。最初の爆撃の後は帰ってこない。

しはらくして駅のほうに汽車の汽笛が聞こえる。ああ最後の汽車で兵隊さん達はとうとう行ってしまった…。

静かな町は死んだように人影はなく、私達だけが取り残されたような思いだった。

「こんにちは、奥さんいます?」

あっ、小俣さんのおばさんだ!母は、

「はーい、いますよ。いらっしゃい、どうでした。お宅の方は」

「それがねえ、家の近くは静かになりすぎて…」

「ここもそうですよ。兵隊さんは行ってしまうし、がっかりしてるとこなんですよ」

九日からこっち町の様子はがらりと変わっている。満人達は日本人の動静を密かに窺い、暴動の兆しも起き始めていたのだったが私達はまだ知るよしもなかった。

そんな町の中でも我が家は裕福なほうだと思う。ついこの間までボーイ(家政夫)もいた。それは十八歳の男子で家事一切をさせていたが足の病気になり実家に帰した。一度母が見舞いに行ったが両足が細くなって戻れる状態ではないと父に話していた。

戦争が激化するにつれ食料も衣服も配給制に代わり学友の弁当もお粗末になっていた。しかし私は白米ばかりで混ぜご飯は食べた事が無く、欲しくない時など盛られた米粒のしわが便所に湧く白い蛆虫に見え、目をつぶって飲み込んだ事もあった。ところが今日は、

「お前等ご飯だよ、早く食べな」

と母に言われお膳に座ったものの全然食欲が湧かない。ご飯は昨日の残りのカレーだが、一口頬ばったもののひっくり返った五臓はなかなか受け付けないのだ。やっと一杯飲み込むように食べて御馳走様、美津子だけは母に食べさせてもらい普通に食べていた。弱々しく可哀相だが元気になるのを待つしかない。

あれは美津子と私が一緒に遊んでいた時だった、ぱたっと倒れた途端足をぴーんと吊って白目を剥き出してしまった。それを見た途端私はびっくりして、

「母ちゃん大変だよ!美津子が変になってしまったよ」

私の大声を聞きつけた母はその状態を一目見るや流し台に行き、布巾に流し台の水を含ませ固く閉じた口をスプーンでこじ開け、布巾の汁を流し込みながら、

「宏生、はやく行って文ちゃんのお母さんを呼んできとくれ!」

母の顔は青かった。私はどうなる事かと心配で直ぐには動けず母の一部始終を見ていると、美津子は弱々しく声を上げ息を吹き返した。それを見て私は急いで隣へ走った。

「おばちゃん。母ちゃんがすぐ来てって」

「どうしたの?そんなに慌てて」

「美津子が病気になったの」

「ええっ、美っちゃんが?そう。文子、ちょっと宏ちゃんちに行くからね」

おばさんはそそくさと家から出てきた。文ちゃんも心配そうに戸口に立っている。おばさんの姿を見た母は直ぐ、

「済みませんね。この子がひきつけを起こしてしまって」

「お互い様ですよ。で、どう美っちゃんは」

「今ひきつけは収まったんですけど、すみませんマーチョ(馬車)を呼んでくれませんか」

「ええいいですよ。美っちゃん気が付いてよかったわね。じゃ今呼んで来ますからね」

と言うと、おばさんは急いで家を出て行ったが、マーチョを捕まえるには駅の方まで行かねばならなかった。

 息を吹きかえしたものの美津子は母の腕に抱かれたまま、ぐったりとして弱々しく泣きぐずっていた。だらりと垂れた片腕は人形の白い腕が折れたみたいに見えた。私はじっと見守るだけで何をすればよいのか何を手伝えばよいのか分からないまま、ただおろおろ眺めていた。

やがて表にマーチョの止まる音がする。

「さっ、呼んで来たわよ。行きましょう」

「すみません。じゃちょつとこの子をお願いします。毛布を取って来ますから」

母は美津子を一時おばさんに託し素早く真新しい毛布を持って来た。美津子の体を毛布で包み、一時入院に必要なものだけ集めると、

「母ちゃんは文ちゃんのおばさんと美津子を病院へ連れて行くから、もし父ちゃんが帰って来たら母ちゃんは興安病院に行ったって言うんだよ」

と言うと二人は病院へ行ってしまった。家の中は途端に静かになり兄弟三人はぽつんと取り残された。

「美津子大丈夫かなあ」

弟は心配そうに呟くが私もどう返事をすればいいのか分からなかった。一度学校の授業中桜井と言う女生徒がひきつけて椅子から倒れた事があった。その時は皆びっくりしたが命に別状はなかった。でも美津子はまだ小さく多いに心配だった。

それからどの位たったのか玄関で音がした。

「あっ、おばちゃんだ」

 弟が声を上げると三男の潔は、

「母ちゃんは?」

 と聞く。おばさんの目は少しきつくただ事ではないと思った。

「病院よ。皆おとなしく待ってるのよ」

 といいながら家の中を探して美津子の着替等を揃え、

「ちょっと家に行って来るわね」

おばさんは一人で待ってる文ちゃんが気になっていたのだ。私は美津子の事ですっかり忘れていた。おばさんは直ぐ文ちゃんを連れて戻って来ると、

「今夜は宏ちゃんと寝てなさい。母さん美っちゃんの看病を手伝うから。いいわね文子」

「はい、いいわよ」

「おばちゃん、美津子大丈夫なの?」

「大丈夫よ心配しなくても。文子を頼むわね」

おばさんはもう一度文ちゃんに念を押すとまた出て行った。美津子の容体を聞きたくてもおばさんは話したくないようだ。足をつっぱって目を剥いた姿と、病院に行く前の弱々しい姿を思い出す。

文ちゃんは一人っ子でお父さんがなく小林さん夫婦の姪にあたったが、丁度その日は夫婦でどこかへ旅行中らしく留守だった。

 父は朝から出たままで留守番は嫌だったが文ちゃんが来たお陰で留守番も楽しくなった。

私と文ちゃんは友達以上の好意を持ちあっていた。互いに話す機会は少なかったが、何でも打ちあけられる姉弟のように育っていたのを誰も気づいてなかった。

前にも書いたが、文ちゃんは生まれた時から小児結核と診断され十四才までの命と勘告を受けていた。

 母とおばさんの会話をちらっと聞いたのだった。庭に出るのは半年にほんの数回。いつだったか文ちゃんが部屋の窓から庭にいた私をじっと見ていたのが切っ掛けで、二つ年上と言う気安さと病弱の身で可哀相な小さな女の子と云う同情心も手伝って、ほとんど硝子越しの無声会話が始まった。

話をしようそれを聞き取ろうとますます仲良くなっていた。私は可哀相な可憐な姉さんを意識し文ちゃんは弟のように打ち解けていた。

 おばさんは世間体を気にしてか余り外へ出したがらず、母も労咳と言う血を吐く病気を気にしていたようだ。

春の新緑の青い空にひばりがさえずる暖かい日だった。小林さん夫婦に呼ばれて行くと、

「宏ちゃん、今から文子を連れてハイキングに行くけど行かないかい」

 私は文ちゃんを見ると行こうよと目が笑っていた。おばさんは、

「お母さんに聞いて許しが出たら満ちゃんも誘いなさい」

母の許しも出て皆でわいわいと神社と軍官学校の間の裏山に陣を取り、文ちゃんを中心におやつを食べたりお茶を飲んだり、競争にはハンデを付けお昼はお腹一杯食べて、今度は相撲を取ったりおばさんは記念写真をぱちぱちと、一日を楽しく過ごしたのだった。

戦争が激化するにつれ日本には軍神が生まれ、日本男子はお国の為に散るのは当たり前の時代になってきた。

「男女八才にて席をおなじゅうせず」

だんだん女生徒との交わりは薄れ、話す機会もなくなっていった。でも薄幸の少女文ちゃんだけは元気づけてあげたいといつも思っていた。

 美津子の入院したその晩は、ひとときでも母親から開放されて文ちゃんは、別人のように気さくに話しうれしそうだった。ここに住む前の話や以前の学校の事友達の事など、ちゃぶ台を囲んで話しながら折り紙を折ったり蓄音機をかけて聞いたり、時間はどんどん過ぎて外は暗くなると私はいつものように布団を敷き文ちゃんと横になった。

私はいつも父と一緒の布団に寝ているのだが、父の外泊が多く一人で寝る時は煙草の強い匂いを我慢せねばならなかった。

そんな今夜は二人にとって思いもよらぬ出来事だった。おばさんに言われていたので別に意識した訳でもないのに、何か勝手が違いちょっとの間沈黙していたが、すぐまたぽつりと話しだしていた。

魚釣の話や友達の網をうっかり流して溺れた時の格好をすると文ちゃんも笑い出し、

「ふふ…そんなに一杯飲んで、水を吐かなかったの?」

「だってさ、一杯人が見てたし恥ずかしかったんだ」

「川の水って奇麗だったの」

「ううん、泥水」

「あらぁ、ばっちい。それで何でもなかった?」

「はは…晩ご飯カレーだったから、三杯ぺろりと食べちゃった。

「へー凄い宏ちゃんって。でもいいな宏ちゃんには弟があるから。あたしなんかずうっと一人ぼっちでしょう。だからつまんない」

美津子が病気なのに今夜も父は帰らないのかな。よっぽど文ちゃんのお父さんはと聞こうかと思ったが、普段のおばさんの様子から何か訳がありそうで聞けなかった。

「ああ、寒くなって来たわ」

満洲の夜は冷え込みも早い気がつくと二人の間は離れていた。弟達はもう白河夜船ですやすや寝ついている。体を丸くする文ちゃんは病弱だから余計に寒さを感じてしまうのかも知れない。

「もっとこっちへおいでよ。体を寄せればもっと暖かいよ」

二人は体を寄せ合い抱くような格好になり文ちゃんの体の温みが伝わってくる。

「私にも弟が欲しいな」

「俺だって姉さんがあったらいいなって思うよ」

「本当…」

「本当だよ。俺にも姉さんが本当はあったけど三つの時死んだんだって」

「じゃ、私がなってあげようか」

「うん、いいな。姉さんがいれば毎日甘えられるし一緒に寝られるし」

「私もよ、一人だとね、夜はいや。お化けが出る見たいで」

「俺だってそうだよ、夜中におしっこしに便所の戸を開けようとした時変な音が」

「いやだー、そんな怖い話。でも何だったのその音?」

「うん、それで気持ち悪くなったから戻ろうと思ったけど、そうっと戸を開けて見たらさ、でっかなねずみがぱーと二匹も飛び出してきて」

「きゃ!私、ねずみ大きらい」

二人は自然に強く抱き締めあっていた。互いの体温が伝わり優しい文ちゃんの息づかいが聞こえてくる。異性と抱き合って寝たのは初めての体験だった。何かふわふわした綿に包まれたような気持ちのよさに罪悪感など全然なかった。むしろ可愛い姉の感覚が強かった。しばらくはそのままでいたが、

「まだ寒い?」

「ううん。好い気もち。暖かくて」

文ちゃんと話しているうちに、私は男と女の違いを確かめて見たくなった。好奇心から、

「文ちゃん」

「何?」

「俺の姉さんなら、文ちゃんのちんちん見せてよ」

と彼女の顔を窺うように見る。返事がない。怒っちゃったかな。

「見たいの?」

「うん、見たいよ」

ちょっと返事に迷ったようだが、文ちゃんは含み笑いを浮かべ怒ってはいないようだ。

 思い切ったように文ちゃんの両手が動く。手伝うつもりで掛け布団をはがし、二人は上半身を起こした。期待して文ちゃんの手元を見ていたら突然

「あ、駄目!神様が見ている」

 彼女は正面の壁にまつってある神棚を見てしまったのだ。天照大神とくっきり見える。

「じゃ、神様の見えない方で見せてよ」

文ちゃんは私に好意を持っていたので大いに迷っていたが神に仕える大和撫子は、

「今日は駄目よ。私たちのこと神様が半分見ちゃったから」

「つまんないな…」

「あとで見せてあげる…ね…」

耳に暑い息がかかり残念無念。私も神を信じる身だが今夜ばかりは恨めしかった。いつしか二人は軽い寝息を立てて寝ついていたが、夜中におばさんだけ帰ってきて「文子、文子」と呼び起こす声を夢心地で聞いていた。

その後、母は院長先生に見放されていた美津子を寝ずに看病し続けた。私は小俣さんの家から野菜をもらって何度も病院に運び、母はそれを野菜スープにして飲ませ続けた。

 食塩注射で両足が倍に腫れあがり、氷で冷やされていた美津子を見るのは痛々しかった。しかしその看病の甲斐あって美津子は奇跡的に快復し退院することが出来たのだった。

機 銃 掃 射 の 恐 怖

わが家に戻ると何日かぶりで父の姿を見る。父も家が心配になり様子を見に戻ってきたのだった。

父の話によると爆撃の時は電話局の近くを歩いていてヒュルルーという音に身を伏せた。局をねらった爆弾は一発で決まり通信は完全に不通になったという。

 伏せた体を起こし電話局が心配で行ってみると防空壕の天井が崩れ落ちていた。放っておけば中の人が窒息死すると思い爆撃中だったが、父は急いで近くの満人の家に行きスコップを借りて土を跳ねあげていたら、中から土まみれの局員が二十人も出てきたという。幸い負傷者もなく全員無事だった。

特務機関、憲兵隊、軍官学校と軍に関係する場所は、一様に爆撃されたらしい。民間人は軍事機密に関する情報機関に属した場所は遠くから眺めるだけで近くによることは出来なかった。軍隊の行動は一切極秘で続けられ民間人には何も伝えられていなかった。

知った時は既にもぬけの殻で在郷軍人の幹部だった父は、ほとんど家にいることが出来ずに今後の対策を練っていたのだった。母も私も知らなかったが小俣さんのおばさんの言う通りだった。

興安在住邦人を東西に分け西を高綱隊、東を浅野隊とし父達は浅野参事官の指示の下で避難準備に奔走していたのだ。

手に汗を握る英雄談勇気にあふれた軍隊像とは裏腹に、校庭の兵隊さんたちは沈んだように全く意気消沈の様子。そんな姿に腹立ちさえ感じるのだった。

 確かにその高射砲一門の発射により、逆に敵の集中攻撃を受けたらもっと被害は増えたかもしれない。またわが家にも流れ弾が飛んで来て誰かが犠牲になったかもしれない。しかしその時はそんな事まで考えは及ばず子供心に口だけでない本当の大人の強さを期待していたのだ。

最初の空襲から二時間ぐらい経つ頃、また静かな空間に覆い被さるような重い空気の圧迫を感じ、微かに空気が震え出すのを肌で感じ取った。

 ぴりぴりと震える空気に微かに聞こえてくるこれは爆音?私は急いで家に戻る。

「母ちゃんまた来たよ!飛行機の爆音が聞こえるよ」

 父は直ぐ出かけたらしく姿はみえない。

「またかい、美津子おいで。アーちゃん行くよ」

 母は美津子を抱き上げるや、そそくさと防空壕へ避難をしながら、

「潔、満、飛行機だよ。防空壕へ行くよ」

弟たちの飛び出すのを確かめると私はおもむろに家を出る。今回は空襲警報のサイレンが町中に響き渡っている。よし今度は落ち着いて行動をしようと心に決め、サイレンは鳴り続けているがあの轟音はまだだったので、私は一歩一歩足を踏みしめ防空壕へ進み、階段の下り口で爆音の至近距離を確かめる積もりで耳を澄まし、正面の空を見上げた時だった。

予想もしない敵戦闘機が一機急降下の態勢で目の上に現れ突っ込んで来ていた。私はただ降下する戦闘機をぽかんと見ていた。飛行機の窓から飛行帽に眼鏡を掛け、機関銃で私に照準を合わせるパイロットの姿がはっきりと見えたが、私は金縛りにあったように動けなかった。

 戦闘機は機首を下げたまま五十メートル位までせまり、パイロットの仕種や表情まで見えた。その肩が僅かに動いたと同時に防空壕の屋根の上にしの字のように、パパパパと白い土煙が上がった。機銃掃射をしながら左回転をしたのだ。

その瞬間我に返り、撃たれたと気付くと吃驚仰天夢中で階段を駆け下りどう戸を開けたのか覚えがなかった。飛び込んでから壕の中で今の目前の光景がはっきり思い出され、あと三メートル直進されていたら殺されていたと思った途端に震えが来た。

二度目の空襲は戦闘機が先頭だったのだ。爆撃機と異なり爆音は小さく空気の震えでよく聞こえなかったのだ。

壕に飛び込み中は暗くて何も見えなかったが、目が慣れるにつれ隣の飯炊き爺さんと他に三人ばかり満人が入っている。彼らも最初の爆撃で懲りたのだろう。

 二回目の空襲も以前に増して凄く一発落されるたびに頭の芯まで強烈に響き、五臓は引っ張られるように吊られ揺り動かされ、吐く寸前まで追いつめられていた。恐怖も絶頂に達しいつ落ちるかと天井を見つめていた。爆弾が近くに落ちるたびに爆震で天井の穴は広がり、土の固まりもさらに大きいのがばらばらと落ちてくる。天井の落ちない事を祈るのみだった。

 いつの間にか穴は三つに増えている。電話局の防空壕が落ちたという話を父から聞いたせいか余計に心配であった。

もう沢山だ早く帰ってくれ、心の中で拝む気持ちで体を丸めていた。二回目の爆撃も約二十分から三十分続きやっと爆音が北へと遠のいて行ったが、頭の中はまだがんがん鳴り続いていた。でもああやっと行ってくれたと一息ついた思いだった。

 外を窺いながら立ち上がり戸を押し開けようと力を入れたが扉は動かない。屋根の土がかなり落ちて出口を塞いでいた。一人の満人が見兼ねて無理やり押し開け何とか抜け出たが、もし天井が落ちたら戸は開かず全員窒息していたかもしれない。飯炊き爺いさんもやれやれという風に大きく深呼吸をして帰っていった。

前回と同じく全身に余震が残り頭の中がぽーっとして馬鹿のように立ちつくしていた。いつの間にか私の足元にひよこが集まり軽く足をつつき、チビは怪訝そうに私の横で見ている。

「私のご主人様どうかなさいましたか?私はここにおりますよ」

と言うように私と目が合うと耳を動かし口で何か言わんが如く、両足を前に突き出しクーンワンと喜びを表す。

チビがまだ小さい時ひよこに戯れ何羽か殺してしまった。母は怒って死んだひよこをチビの鼻に擦り付け首を押さえ何回も御仕置きを受け、それからは自分の体の上を歩かれても鼻を突つかれても、知らぬ振りで相手にしなくなった。目が大きく利口な犬でお手、ちんちん、立て、伏せ、お預け、何でも出来、おしおしと言えば勇敢に挑み人の動作で判断を示した。

 一羽のひよこを捕まえ頬ずりしてやると頬に柔らかな毛がなびき体の温もりが頬に伝わってくる。頭をやさしく撫ぜながらこんなか弱い小さな奴が、一羽も死んだ様子はなく私はひよこを返しながら、

「よし待ってろよ。今餌をやるからな」

いつものようにトトトトと呼ぶと大も中も小も集ってくる。いつ来たのか母が後ろから、

「一羽も死んじゃいねえようだね」

と言った。後ろを振り向くと弟達も一緒に見ている。

「うん、爆弾って小さいのには当たらないのかね。それともどこかに隠れてたのかな」

鶏は餌を貰って何事もなかったかのようである。チビが何か訴えるように、くんくん鼻を鳴らす。

「何だよチビ何か欲しいのか?ああ、そうかお前もお腹が空いてたんだ。母ちゃん昼はとっくに過ぎてたね」

「そうだったね、母ちゃんも忘れてたよ。美津子もポンポン空いたね、お前たちもちょっと待ってな今温めるから。二度も空襲があるもんだからすっかり忘れらあね」

「母ちゃん二度ある事は三度あるって言ったよね。もしかしたらまた来るかも知れないね」

「冗談じゃないよ。もう沢山だよ」

 少しの会話でもだいぶ落ち着いてくる。

「何か変だよな町の中、空襲のときサイレン鳴ったよな」

「鳴ってたよ。それがどうしたの」

「最初の空襲はサイレンが鳴らないで空襲解除で、今度はサイレン鳴って解除がないなんてお前解除聞いたか?」

「頭がぽーとしてたもん。僕わかんないよ」

「空襲警報の声聞えたんか?」

「ううん、あのズズーンって音にびっくりして、母ちゃんが呼んでたから防空壕に走って行ったんだ。そんな警報の声は聞かなかったよ」

「そうだろうな。空襲警報の合図もサイレンも鳴らないのに解除っておかしいよな」

「だけどびっくりしたな。僕が防空壕に飛び込んだ時、母ちゃんが潔、潔って呼んでるの知ってたけど、もう怖くって宏ちゃんがいつ入って来たのか、全然気が付かなかったよ」

生まれて初めての空襲の体験に防空演習や消火練習はしたが、もし焼夷弾を落とされたとしても消火どころではなかったろう。

玄関の方でことっと戸を閉める音がして潔が戻って来た。母はすかさず、

「まあーお前は、どこへ行ってたんだい」

「僕、学校に行ってたの」

「敵の飛行機が来たろうがね」

「うん、こーんなに大きかったよ」

 精一杯両手を広げ足の爪先を立てていた。学校の校庭ならよく見えたろうなと思う。

「何で早く家に走ってこなかったんだい」

 あの化け物みたいな飛行機を見ても、驚いた様子はなくけろっとしている。

「爆弾が落ちた時、どうしていたんだ」

私も聞いて見た。

「兵隊さんがね、危ないから早くあっちへ行けって言ったの」

「あっちってどこなんだよ」

「皆が行くから、僕も走って行ったの」

「ふーん、じゃ学校の防空壕に行ったのか」

「うんそうだよ。いっぱい人がいたよ」

「おうちにも防空壕があるんだから、そうゆう時は走って来るんだよ。いいかい」

 母の注意で弟も一つ利口になったようだ。

「そうだ満ちゃん、あの吹っ飛んだ事務所に行って見るか」

「うん、行って見よう。僕も見たいと思ってたんだ」

事務所跡はすぐ目の先だ。チビも嬉しそうに前に後ろになりながら付いてくる。そうか今日はチビの相手になってやれなかったな。私はしゃがむとチビの頭を撫ぜてやる。チビもどこそこお構いなしに嘗めてくる。

 このチビ飼われ出してもう一年半は経つだろう。先生の宿舎の側に捨てられた毛むくじゃらな子犬だった。近くで遊んでいた時くんくん鳴くのを見てちょっと抱いてやり、結構可愛いのでしばらく遊んでから帰ろうとすると一緒に付いてくる。しかし、

「母ちゃん子犬を拾ったよ」

「そんな汚い犬拾って来るんじゃないよ。捨ててきな」

 と怒られてしまった。私は仕方なく元の所へ行き置いて戻ったが、気になり後ろを振り返ると子犬はチョコチョコ付いて来る。

「駄目だよついて来ちゃ。母ちゃんが駄目だって」

また元の所へ置いて走りながら後ろを振り向けば、ちっちゃいくせにくんくん鳴きながら追いかけて来る。逃げて帰れたがクンクン鳴かれると可哀相でつい足が止まる。逆に子犬の所へ戻ってしまい上から眺め、さてどうしたものかと迷ってしまった。帰ろうとすれば鳴かれ戻れば嬉しそうにするし、連れて行けば母に怒られるしこの時ばかりは参った。

「困ったな、駄目なんだよ。連れて行けないんだ」

私は子犬を抱き上げ周りを見た。そうだあそこがいい、そこには建築用の土管があった。前後を塞げば小犬は出られないし雨も防げる。あとでご飯を持って来てやろう。そう決めると気も楽になり知らぬ半部衛で家に戻った。

 夜は犬の事が心配で中々眠れなかったが、朝昼晩残った食事を捨てる振りをして割れた瓦を皿変わりに餌をやり続けた。

それも長くは続かずチビの方が私の足音を覚えてしまい、母も最初から私の行動を見抜いていながら見て見ぬ振りをしてくれ、自然の承諾となりチビと名付けてわが家の一員となった。

ある日。母が顔の回りの毛が邪魔でよく見えないだろうと鋏でお化粧してもらい、くりくりした大きな目がはっきり見えるようになり、前よりいっそう可愛くなった。

むしろに広げた爆ぜ米は暴風の砂ほこりで食べられそうになかったが、母はよい所だけ選んでメリケン袋にしまい、これが後に大きな役割を果たした。

爆弾の落ちた場所に着いてみると、

「うわあ、凄いでっかい穴だな」

「本当に、凄く大きい穴だね」

道路の真ん中にすり鉢型の大穴がぱっくり口を開け、縁に一メートル幅位土が吹き上げられていて、その土の柔らかさに踏み込んで見たくなった。

「この盛り土の下何かあるのかな。歩いて見よう」

「大丈夫かな。凄く柔らかいよ」

「うわー、足がどんどん吸い込まれるぞ」

柔らかい灰の山を踏む感じだった。泥遊びや砂遊びはよくやったが、これ程細かなふんわりした土は見た事がなかった。三十センチはのめり込みその歩き辛い事。穴の直径は七メートルもあるのに深さはそれ程でなく、起伏の無い滑らかな斜面でよほど降りてみようと思ったが、滑り出したら上がれなくなる巨大なあり地獄を想像して止めた。

 最後の激震は事務所と道路に続けて二発の爆弾投下だった。

「凄い大きな穴の滑り台で面白そうだね」

「うん、滑ってもいいけど助けてやらんぞ」

底からの反動で駆け上がっても縁の盛り土が邪魔をして上りきれないと思った。そんな時、私達の姿を見て橋本君がやって来た。

「どうだった?定雄君のほうは」

私は先に声を掛けた。魚釣りはいつも三人コンビなのでふつうの友達以上に親しい仲だった。空襲が去りもう一時間は立っていたので、恐怖心もある程度去り気持ちも落ち着いていた。どっちかというと彼はおっとり型である。

「ああ、大丈夫だったよ。でもびっくりしたなもう駄目だと思ったぞ」

 橋本君は首をすくて苦笑い。弟も、

「僕も防空壕の屋根が落ちるかと思ってとっても怖かったよ」

「あの爆撃機でっかかったな。定雄君はあの時どうしてた」

「僕かい、あの時は変な音がするなと思っていたけどちょうど家にいてさ。飛行機も見る間がなかったんだ」

「相変わらず、のんきだな」

「へへへ、見ようかなと思ってたらズズーンと来てさ、頭も五臓も吊っちゃってよ。ははは…うちの中を行ったり来たりするうち、振動で危なく柱に当たりそうになるし、埃はばらばら落ちて来るし、茶ぶ台の下で頭抱えて丸くなっていた。部屋の中はごみだらけで僕も天井が落ちるかと思ったぞ」

 と赤くなって笑っていた。

「今ちらっと思ったんだけど君の家この場所から近いのに、被害は無かったのだろう?」

「うん肝を冷やす連続だったけど、別に被害はなかったよ」

「俺の家はもっと離れているのに、窓ガラスは風圧で皆ひびが入ってしまった。と言う事は駅の方向から学校の上を飛んで行ったと思うんだがな。そう思わないか?」

「そうかも知れんな。ここに爆弾が落ちた時耳が破裂するかと思った。でも爆風は感じなかったよ」

「僕も初めてでよくわからんが、この土の盛られ方が飛行機の進行方向だと思ったんだ」

自分で説明しながら確かに一理あるなと思った。

「僕も知らんけどそう言われてみればそうだよな。事務所の向こうは荒れていないし」

橋本君は削られた家の方向を背伸びで見ながら答えていた。彼との会話が最後の別れになろうとは誰ぞ知ろう。


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