歴史徒然:History Tsurezure

至福は浦和レッズレディースの応援&歴史ブログUP・ラフレでの温泉入浴&さいたま新都心花木散策・コックン寄道・昭和歌謡を聞くこと

通信講座(言語復原史学)

すべて表示

日本古代王族の婚姻系譜(15)

 『My ブログ』http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/folder/1696745.html
 『生涯学習(History)』http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/folder/1657956.html
 『至福の時』http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/56770049.html
 『浦和レッズレディース』http://www.urawa-reds.co.jp/ladies/
 『猶本光サポーターズサイト』http://hikaru-naomoto.net/
  『造幣さいたま博物館』http://www.mint.go.jp/enjoy/plant-tokyo/plant_visit_museum_t.html

 ≪日本古代王族の婚姻系譜(15)≫
 ※出典:加治木義博
     大学院講義録05:38〜40頁

 柿本一征(かきもとかずゆき)
 言語復原史学会正会員

 「イトと五十跡手と天の日槍系譜」
 肥前国風土記逸文に
 「高麗の国の意呂山に天から降ってきた
  日槍の末裔の五十跡手とは私のことです、
  といったところ、
  天皇はお前五十跡手の本拠地を
  恪勤(いそし)の国というがよいといったのが、
  訛って恰土の郡というようになった」
 というような意味のことが書いてある。

 恰土郡は今の前原市、
 旧糸島郡の糸郡である
 (この糸島郡《現前原市》は
  魏書倭人章の「伊都国」と
  誤解されていることで有名であるが、
  後の時代の地名を三世紀半ば当時のものと
  誤認したもので、
  倭人章の伊都国は佐賀市一帯である)が、

 「この恰土国は日槍の同族が建てた国」
 (浮田洋太郎「ヤマト国家成立の秘密」・
  新泉杜77頁)と判定して間違いない。
 日槍の系譜はK系図を少し変えさえすれば、
 簡単に理解できる。
   
  2      3      4      5     6   7   8
 仇道 ‖_|臣潰沽 ‖_|菅韓多羅‖_|壹與‖_|咄固━美川王━故国原王
 公孫度‖  (清日子)  大筒木 ‖  位宮‖        (天日槍の
 の宗女   (天日槍)    垂根‖ (熊襲タケル)    末裔五十跡手)
       阿爾兮 ‖

 五十跡手が仲哀天皇に降伏したのは
 354年のことだが、
 362年になると逆に仲哀天皇
 (=五十琴の長子伊呂弗)を戦死させている
 (故国原王=熊襲、故国原王は熊毛郡=南九州
  《襲》と南西諸島の王)のである。

 (仲哀9年=362年、
  肥前国風土記逸文基肆郡姫杜郡粂
  あらぶる神がいて道行く人を殺した=
   仲哀天皇戦死)
 (前掲文の同義反復)。

 降伏した時に既に恰土郡にいたのだから、
 そこは故国原王の領地だったことになる。

 「イトと五十跡手と天の日槍系譜」
 肥前国風土記逸文に
 「高麗の国の意呂山に天から降ってきた
    日槍の末裔の五十跡手とは私のことです、
  といったところ、
  天皇はお前五十跡手の本拠地を
  恪勤(いそし)の国というがよいといったのが、
  訛って恰土の郡というようになった」
 というような意味のことが書いてある。

 恰土郡は今の前原市、
 旧糸島郡の糸郡である
 (この糸島郡《現前原市》は
  魏書倭人章の「伊都国」と
  誤解されていることで有名であるが、
  後の時代の地名を三世紀半ば当時のものと
  誤認したもので、
  倭人章の伊都国は佐賀市一帯である)が、
 「この恰土国は日槍の同族が建てた国」
 (浮田洋太郎「ヤマト国家成立の秘密」・
  新泉杜77頁)と判定して間違いない。
 日槍の系譜はK系図を少し変えさえすれば、
 簡単に理解できる。
   
  2      3      4      5     6   7   8
 仇道 ‖_|臣潰沽 ‖_|菅韓多羅‖_|壹與‖_|咄固━美川王━故国原王
 公孫度‖  (清日子)  大筒木 ‖  位宮‖        (天日槍の
 の宗女   (天日槍)    垂根‖ (熊襲タケル)    末裔五十跡手)
       阿爾兮 ‖
 五十跡手が仲哀天皇に降伏したのは
 354年のことだが、
 362年になると逆に仲哀天皇
 (=五十琴の長子伊呂弗)を戦死させている

 (故国原王=熊襲、故国原王は熊毛郡=南九州
  《襲》と南西諸島の王)のである。
 (仲哀9年=362年、
  肥前国風土記逸文基肆郡姫杜郡粂=
  あらぶる神がいて道行く人を殺した=
  仲哀天皇戦死)
  (前掲文の同義反復)。

 降伏した時に既に恰土郡にいたのだから、
 そこは故国原王の領地だったことになる。

 「美川王と蓋婁王」
 美川王と蓋婁王との「同族のよしみ」を
 系図で確認すると、次のようになる。

 「系譜L」

   4        5      6     7
 |大筒木垂根  ━|息長日子王
 (息長宿祢王)  |壹與    ━咄固  ━美川王
           (息長帯姫)
 |中日女 ‖
  大新河 ‖  _|多婁王‖━|己婁王‖_|蓋婁王
           清姫 ‖  清姫 ‖
 
 美川王の父方の曾祖父と、
 蓋婁王の父方の曾祖母とは
 兄と妹の仲だったのである。

 この己婁王が陳元達、蓋婁王が陳安の
 別名であることは後にみる。
 なお、
 美川王の勢力は南廻りの有明海ルートと、
 西方廻りで伊万里市(伊万里湾)に
 抜ける陸のルートがあったろうことが、
 その地形と地名から考察出来ると思うが、
 詳細な吟味は今は別のテーマである。

 M.K記

.


みんなの更新記事