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書庫歴史徒然

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「原 爆」
                       広島市立幟町中学二年 金原美子

けたたましくなりひびく
サイレンと共に、
人々はわれ先にと、
むし暑い防空壕をとびだして、
ホット一息。

防空ズキン、防空服ぬげるだけぬいで、
ホット一息。

ピカッーと物すごい光と共に大爆音
建物は一瞬にしてくずれる。

やっとはい出して家族をさがす。

父、祖母、弟そして母は
だれもかれも頭からものすごい血
かみはふりみだれ、服はさけている。

人々は安全な場所へと逃げていく
なき叫ぶ声、助けを求める声……
四方はみな火の海。

瓦(かわら)をふみこえ
長寿園へと水を求める。

ガードの上では汽車が火だるま
道路では母が死に、
そのそばで幼な子が
乳を求めて
光にあった人は真黒で
ヒフはツララのようにたれさがって……
ああ、あの瞬間の
おそろしさ物すごさ。

ああ、あれからもう今年で
八年目をむかえる。

広島の町も復興した。

平和の鐘もおくられた。

世界の人々から
援助の手もさしのべられた今日に
なったけど
私は戦争がいやだ
思っただけでも
身ぶるいする。

世界の人々手をつなぎ合って、
平和の道に進みたい。

※出典:デルタの記・暮らしの手帖編・
    190頁・暮らしの手帖社・
    平成七年六月十日発行

※出典:暮らしの手帖15.・
    1988 8・9月・108頁


「原爆体験記・青い閃光」

澤田(旧姓金原)美子(35歳)

 私が、被爆したのは、
 西白島町の国民学校
 (今の小学校)一年生でした。

 あの日のことは今でも、
 瞼の裏に焼きついて
 一生私の頭から離れることはないでしょう。

 八月六日、その日は朝から、
 ぎらぎら照り返す暑い日でした。
 
 本当でしたら近くのお寺で
 勉強があるのでしたが、
 私は足のリンパ腺がはれて、
 ずっと休んでいました。

 今になって考えると、
 それが私の命拾いでした。

 そのお寺に行っていた先生や生徒は、
 一瞬にして
 全員なくなられてしまったのですから。

 その日は父が出張代休で、
 庭でパンツ一枚の姿で
 自転車の手入をしていました。

 母はせまい風呂場で、洗濯をし、
 祖母は台所をかたづけていました。
 
 私と弟二人は、
 家の中立ち飛びをして遊んでいました。

 空襲警報が解除されてまもなく、
 飛行機の爆音がした。

 父が庭先から大きな声で
 「おー、みんなきてみぃー
  B29が大きく飛んでいるぞ。」
 といったかいなや、
 (今まで見たことがない)青い閃光が
 光ったのと同時に目の前が真暗になり、
 (原子爆弾の)爆風で
 壊れた家屋や家具の中にたおれ、
 頭がふらふらして、
 何が何だがわからなくなって、
 ぼう然として立っていました。

 弟はとは思ってみると
 3メートル位先まで飛ばされている。

 もう一人の弟はいないので
 まわりの床の下やたたみの下を掘ってみると、
 次の部屋のたたみの下から見つかりました。

 父は祖母と母をさがしていましたが、
 せまい風呂場にいた母は戸にはさまれて
 頭の上に一寸釘がささり腕は折れていました。
 
 みんな
 それぞれ頭や顔、腕、足とそこらじゅう
 傷だらけでしたけれど
 無事に見つかりましたので、
 急いで外へ出ました。

 隣の小路の人達はみな焼けただれて
 頭や顔の皮膚がたれさがっていました。
 
 みんな頭の上だけまるくはげて
 頭の上の毛が少し残っているという状態でした。
 
 あちらこちらからも助けを求める声、うめき声、 母親の死体のそばで無心に遊んでいる子供、
 みんなきているものはついているかいないかで
 裸同然な姿でした。

 一面瓦礫の山、すっきりと見渡され、
 向こうの
 陸軍工兵第五連隊(今の安田学園)の方から
 どす黒い煙が上がっていて、
 (山陽本線の)線路の上では
 列車が燃え上がっていました。

 「水…………助けて。」と
 私達が逃げて行く間、
 水をほしがる人ばかりでしたがどうにもできず、 逃げるのがやっとでした。

 破壊された自宅(白島西中町)から
 長寿園の桜土手まで逃げてきますと、
 川の中には水を求めてそのままおぼれて死ぬ人、 真っ黒に焼け爛れた死体などが
 あちこちに浮かんでいました。

 私はおそろしいというより
 死体の中を元気で逃げているのが、
 こわいような気がして、
 父にしがみついていたのを覚えています。

 父がどこからかトタンとむしろ二枚を
 さがしてきて長寿園で休んでいると、
 突然真っ黒な大粒の雨が降ってきました。

 私は、
 一枚のむしろを急いで頭にかけましたが、
 父や母はそれをかけなかったので、
 放射能を受けて
 一ヶ月後から頭の髪がぬけて
 斑点が体じゅうに出ました。

 それから京橋川の右岸
 白島九軒町に架かる神田橋を渡り、
 京橋川の左岸牛田町の土手を
 北に戸坂村まで逃げ
 太田川の船の渡しで
 反対側の原村の田舎まで逃げていきましたが
 逃げる道、
 兵隊さんの死体・子供・大人・死体・死体を
 よけて逃げました。

 私の記憶は遠い昔の出来事ですけれど、
 小学一年の時、そんな目にあっていますの
 一番大切なのは
 命、生命、それと運、不運ということを
 しみじみ思います。

 もうこんなことが
 二度と起こってはいけないのです。

 人間も生き物もみな命があるのです。

 わたしは子供達にいつも
 「命・生命を大切にしなさい。」
 といっています。

 わたしは
 あまり原爆の時の事、
 その後の事などを語ることはきらいなのです。

 でも広島で被爆した以上、
 永遠にこの事は、
 語り続けて二度とあってはいけない、
 いつまでも平和で安心して
 暮らせるようにしたいのです。

※出典:子どもと父母と教師が書いた 
    原爆の記録2 地獄からの汽車   90頁 
    原爆の記録3 悪魔の銀のサイコロ 47頁
    昭和50年8月6日 発行

 広島大学教育学部 付属小学校内 
 国際平和教育研究会編
 ㈱教育出版センター

 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908

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