歴史徒然:History Tsurezure

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明星院だより・広島県関連・日記

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 ≪日本古代王族の婚姻系譜(11)≫
 ※出典:加治木義博
     大学院講義録04:32〜34頁

 柿本一征(かきもとかずゆき)
 言語復原史学会正会員

 壹與は254年ごろ沖縄で咄固を産んだ
 (咄固は儒礼王=首里王、284〜298)。

 晋書武帝妃泰始二年(266年)と、
 同書四夷蛮伝・倭人条の
 「泰始初め、使いを遣わし、訳を重ねて入貢す」
 とあるのは、壹與の献使とされている。

 この年(266年)壹與は32歳位で、
 宗教家として成熟していく年齢に該当する。

 咄固は12歳である。
 咄固はトン(カラ)コで、
 トンカラコといえばトンカラリンだ
 (玉名市にある遺跡)、
 玉名市の近くには菊池市や菊池川がある。

 咄固の息子の美川王は
 肥前王の名乗りであるから
 (肥前は長崎県、佐賀県)、
 美川王の出生はその周辺一帯のどこかであろう…。

 だから咄固の妃は菊池姫で、
 八女津姫の別名を持つ
 高田姫の妹にあたる女性ではないか…などと、
 微かな手掛かりを頻りにして、
 記録のない女性を復原した次第である
 (「七支刀」)。

 本稿ではD系図のように修正したが、
 これも文献的史料があってのことではないから、
 読者への申し訳なさと、
 自分自身へや恥ずかしさとで充満している。

 誰も、
 信用してかかる(認める)必要はないのであって、
 僕もそれを(認めてもらえる)
 期待しているわけではない。

 ただ、
 咄固の妃のおよその世代関係だけは、
 正しく修正されたものと確信している。
 
    
 「D系図再掲」

  4      5     6     7
 難升米‖_|多婁王‖_|己婁王
 中日女‖   清姫‖ |菊池姫‖ |美川王 
      |高田姫‖  咄固 ‖
       烏越 ‖_|慕容傀
 
 咄固の出生と成育の記録が
 「常陸国風土記那賀郡茨城の里条」である。 

 咄固は日増しに
 母の手に負えないくらい成長していったと
 書いてある。

 家来を欲したが、
 母と伯父(息長日子王)は無力で、
 付け人を付けてやることも出来なかった。

 母が甕を投げたので天に昇れなかった
 (沖縄に帰ることが出来なかった)と、
 咄固が死んだ時のことまで
 (愛媛県の雉之尾古墳に埋葬された)書いてある。

 常陸国の風土記だから
 沖縄は無関係だと素人のような判断を下して、
 それ以上の追及をやめるような者は、
 古代史研究に不向きな人に属する。

 咄固の父は位宮であって、
 位宮が『古事記』、『日本書紀』
 の神武天皇(の一人)であることは
 間違いないのだから、
 神武天皇は間違いなく実在する。

 ただ、
 位宮はその生存期間が限定されるから、
 紀元前7世紀に即位したのでないことは
 間違いない。

 神武天皇段には
 天武天皇の事跡が投影されている、
 というのが「学会の常識」である。

 他にも多くの神武天皇(のモデル)が
 含まれているというのが、
 『古事記』神武天皇、
 『日本書紀』神武天皇段の
 結論ということになる。

 そのモデルと彼の事跡を、
 限り無く一人残さず、
 一つ残さず鮮明していくのが古代史学であり、
 古代史解明に従事する者の役割である。

 「神武天皇は架空(の人物)である、
  これは歴史学の常識である
  (某年しんぶん赤旗の『絹』記者)」
 などというのは、
 「『記・紀』神武天皇」の解明に従事する者への
  政治介入になるのではないだろうか。
 
 加治木義博先生の
 KKロングセラーズ社シリーズは、
 ある面で
 「『記・紀』神武天皇」段の
 解明の著書であるから、
 少なくとも入手通読の手間隙をかけるぐらいは、
 「神武天皇に言及する」記者としての
 最低限の礼儀というものではなかろうか。

 例えば
 「卑弥呼を攻めた神武天皇」には
 こういう解明がある。

 その日こそ、
 私たち日本人が、
 「建国記念の日」として、
 尊重しようとしている日なのだから、
 ここでいい加減に見通ごしてしまっては、
 なにもならない。

 国家主義だとか帝国主義だとか、
 皇国史観だとか唯物史観だとかいう看板は、
 それを商売に利用している連中だけの問題で、
 私たち大多数の日本人にとって
 迷惑な前世紀の遺物でしかない。

 そんなものとは無関係に、
 純粋に日本という国の一つの出発点になった、
 この「グレート・エポック」について
 知らない日本人は、
 「文化人」の中に入る資格がないことは確かだ。
 
 それは一体いつなのだろう。                      
 だからここできっちりと、
 この「大発見l」について
 正確に記憶しておいてほしい。

 それは[西暦241年1月1日]=
 「魏の少帝・芳の正始二年・
  辛酉(しんゆう)の春・更辰(こうしん)の
  朔の日(ついたち)」
 である。(p37)。

 以下の文章は各自で読んでいただくしかないが、
 一言だけ付け加えるなら
 (おそれおおいことであるが)
 この日付は
 個々の人の主義や主観で左右することが出来な
 「真理」であるということである。
 
 M.K記

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 ≪日本古代王族の婚姻系譜(10)≫
 ※出典:加治木義博
     大学院講義録04:28〜31頁

 柿本一征(かきもとかずゆき)
 言語復原史学会正会員

 掖邪狗(拘)は正しくは(?)
 「ヨーナ・ジャナ・公」で、
 このジャ「ナ」とジャ「ロ」は
 同じ「〜の」という意味の助詞にあたる。

 この助詞はあってもなくても同じだから、
 石勒はジャナクのナがロに変化したもので、
 石虎のジャコはナ、ロの部分が省かれたものだと、
 音韻学的には説明がつく。
 「ソヤロ」
 「ソウジャロ」
 「ソヤナー」
 「ソウジャナー」
 「ソヤソヤ」という
 俗会話を持ち出すと、
 少しは理解の足しになるかもしれない。

 しかし、
 人の会話(発音)の場合はそうであるとしても、
 人の名として記録される場合には、
 勒には琉球(の支配者だった)、
 という名乗りも含まれたものであって、
 石虎も人為的に選択された当て字であることに
 気付く必要がある。

 この文字を教えたのは倭人(列島人)側であった、
 とだけは言えそうである。

 劉淵、劉聡、劉曜の場合も
 淵はフチ、
 フヂで葛(フジ)、
 百済(フジ)、
 聡は襲王(ソウ)、
 曜はヨース、余氏、
 尾久島の名乗りを持っていて、
 彼らの生地や故地、出身地を示している。

 曜の場合で言えば、
 哀邪本王の王子の妃は星久島で曜を
 生んだことになるから、
 屋久島と関わりのある女性だったのである。

 「系図J」

 
  3    4       5        6
     _|末仇2 ━  末仇3 ━    末仇4(扶余王玄)‖
 |末仇‖         蜂上王   ‖ |石城別
  休礼‖        |哀邪本嬢  ‖_|高奴子
 |味鄒‖_|哀部本王‖_|哀邪本皇子 ‖ |サホ姫      ‖
  光明‖  玉姫  ‖          |水歯郎女(五十香彦の妃)
      |室比古王‖  屋久島の女性‖__|劉曜
       張氏  ‖_|劉聡(四男)

 E系図とJ系図の室比古王の列を並立させてみると、
 次のようになる。

  2         3     4    5
 仇道(剄頚) ‖ |末仇‖_|末仇2 ━末仇3
   (伊声耆) _ 休礼‖      (比流王)304〜344
 息長水依姫  ‖ |味鄒‖ |室比古王‖
           光明‖  張氏  ‖_|劉曜(四男)

 僕の「ホケノ山古墳の被葬者特定」という
 論考の中で、
 味鄒=山代大国淵、室比古王=劉淵で
 あることは解明してあるから、
 陳舜臣前掲書p384に
 「劉淵の祖父於夫羅(オフラ)は、
  献帝の東帰を援け、
  その居住地は
  中原からごく近いところだったのです」と
 ある文章のオフラのルビはオフロと変更出来る。

 オフロは
 オフロー(=イフロー=ユーロー=ギリシャ人)
 である。
 仇道は烏越(慕容渉)にとっても祖父である
 (仇道━臣濆姑━烏越)。

 どちらから見ても合うものは、
 それが真実の系譜であることの証拠である。

 ギリシャ人である
 伯固(紀妃の孝霊天皇)の息子は
 やはりギリシャ人である。

 この人種の名は、
 後のオホド大公王(継体天皇)になって
 復活(?する。

 オホド=オホロ=オフロ=イフロ
 (意はイとオの南方の発音を持っている)=
 ギリシャ(人)になるからである。

 劉淵は大航海王味鄒の息子で、
 彼自身も航海王(船長、海軍大将)だったし、
 彼は三世紀未に沿海州で人望を得て、
 ついに皇帝になった(漢)=304〜30年病没。

 沿海州で人望を得た、
 彼は航海王(大商人=海商)というのなら、
 南九州、瀬戸内海のみならず、
 日本海沿岸と半島、大陸を
 航海(交易)していたのである。

 2002年1月12日各紙の報道は
 紙面の大きさと内容面の両面において、
 実に濃淡の差があって、
 尽きない興味をそそられるものであったが、

 その報道とは、石川県七尾市の
 「万行(まんぎょう)遺跡」に関してであった。

 「ヤマト政権の支配がはやくも及んでいた」
 という
 パターン通り(共同配信?)の解説の他に、

 「ヤマトとは異なる独自の勢力が、
  朝鮮半島から日本列島へ放射状に伸びる
  交易ルートのうちの一つを
  担っていたのではないか」
 (山尾幸久・毎日新聞)などのコメントが
 掲載されていた。

 報道の通り
 「三世妃未〜四世紀始め(の倉庫群跡)」の
 年代が正しいものならば、
 どう考えてもこの時期、
 この地域を航行していたのは
 室比古王(劉淵)たちの商船、軍船である
 (劉淵は名前が確認される
  彼ら豪族連合の一代表者にすぎない)。

 劉淵の父は畿内、大和に移住していて、
 息子の室比古王も瀬戸内海を航海したから、
 ヤマトと無縁ではないが、どうみても、
 彼、(室比古王)が
 ヤマト政潅の代表者だったと
 位置付けるわけにはいかないではないか。

 彼が大和政権なら、
 彼が「大陸で皇帝に推される」筈はない。

 「ヤマトとは異なる独自の勢力」の表現の方が
 正しいのだと思う。

 また、味鄒も大和政権ではない。

 「方位は北極星を基準にした真北に沿っており」
 「高度な測量、設計技術がうかがえる」とあり、
 天御中主(金味鄒)の息子の宗教観を反映している。

 室比古王は若狭の耳別の祖であり、
 若狭は秦氏の居住が濃厚に確認される地域である。

 3 北九州列石遺跡
   (おつぼ山、雷山、帯隈山)の築造者推定

 美川王は肥前王で、
 美川王の祖母息長帯姫(壹與)が
 久留米市とかかわりのある
 女性=倭女王であることは、
 次の二つの説
話が残されていて、
 疑いようがない。

 「万葉緯所引逸文風土記」

  八小男八少女等、比(ここ)に
  こぞり逢いてイスス樹キ接(まじ)はりき
 (p1135山上伊豆母「神話の原像」岩崎美術社)

 「住吉大社神代記」

  …そこで、
 垂仁天皇の皇后は八大夫(やおとこ)と
 八美女をひきつれてみずから神主となり、
 神を祀った。
 (p146谷川健一「白鳥伝鋭」集英社)

 前者は歌垣(豊穣予祝の儀礼)のことだろうが、
 後者は
 「(この説話の舞台どなっている)
  八女県の藤山というのは今日、
  久留米市郊外の藤山に比定されている」

 とあるように、場所は久留米市である。
 垂仁天皇は位宮で、
 位宮の妃は狭穂姫(初小の母)、
 弟苅羽田=狭穂姫の妹
 (磐衝姫=播磨稲日大郎女の母)、
 壹與(咄固の母)の三人で、
 このうち壹與は「イスス」
 (伊勢の、五十鈴《川》)と
 かかわりのある別名を持っている女性
 (前の文は五十鈴川の川の名の縁起)である。
 
 M.K記

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 ≪日本古代王族の婚姻系譜(8)≫
 ※出典:加治木義博
     大学院講義録04:22〜24頁

 柿本一征(かきもとかずゆき)
 言語復原史学会正会員

 「系図G」 

   7          8        9
  美川王      |故国原王
 (備前車塚古墳)━|武(山王山古墳)━|神宮寺山古墳150m
   50m        70m    |金蔵山古墳 160m
          |娘   ‖  
           武内宿祢‖   _|石川宿祢
           (網浜茶臼山古墳)   (湊茶臼山)150m
             80(又は120)m

 このG系図を理解しやすくするために、
 もう少し周辺の系図を加えて俯瞰図を
  構築してみると、
  次のようになる。
   
 「系図H」

   4        5       ・6      7      8
 |大筒木垂根‖_|息長日子王‖_|千熊長彦━|真浄   ━ 武内宿祢
  管韓多羅 ‖  附志   ‖       |石虎   ━|15人の息子
                              |娘   ‖
         |虚空津姫  ━|石勒  ━|娘   ‖_|故国原王‖
         |息長帯姫                |武
          位宮   ‖_|咄固  ━|美川王 ‖ |娘   ‖  
                               武内宿祢‖
 |中日女   ━ 多婁王   ━ 己婁王 ━ 蓋婁王  ━ 玉彦姫
                              (姪岡陋姫)

  石虎の后は劉曜の娘である。

 晋書によると、15人の息子がいて、
  互いに殺し合ったり、
 石虎の死後の反乱で全滅したと書かれている
 (陳舜臣「中国の歴史(三)」講談社学術文庫) が、
 娘のことは出ていないようである
 (石虎に娘がいたという記録はない、
   ということになる)。

 「故国原王は335年には
    遼東の撫順市郊外に新城を築き、
   342年2月に鴨緑江中流の北に国内城
  (遼寧省集安県)を築いた。
  また8月には国内城近くの
   丸都城に遷都するなど、
   高句麗は『石虎をバックに』、
 じりじりと遼東に勢力を伸ばしてきていた…」
 とある(p118小林「4C」)。

 石虎と故国原王の同盟関係
 (婚姻関係でもある)が推察出来る部分である。

 H系図によれば、
  石虎の娘と故国原王は「またいとこ」になる。

 さて、
  「山王山古墳」
  「網浜茶臼山古墳」
  「湊茶臼山古墳」の
  古墳名について考察すると、
 山王=邪馬・王で、
  これはおよそ「スサノオ」の別称である。

 位宮は「山上王」である(邪馬のお上)
 (㊟鹿児島県隼人町の「高屋山上陵」が
   位宮の墓━加治木先生)、
 美川王墓のある「四御神」は
  「死の神(エンマ)」という意味がふくまれていた。

 H系図であきらかなように、
  美川王と「武」は
  位宮(スサノオ、邪馬、エンマ)の
 子孫(孫と曾孫)である。

 網浜は阿爾(兮)国(バ、ハ、マ)
 (阿爾王の国という意味)、
 湊は弥奴(ミナ)・投(ト=投馬)になる。

 H系図の玉彦姫の別名姪「岡陋姫」は
 「崗(遠賀)水門姫」の意味だから、
    ミナト=水門=遠賀でもある。
  H系図の武内宿祢の先祖を逆上ると
  菅韓多羅に至る。

 菅韓多羅B系図によると阿爾兮の娘であるから、
  彼ら(子孫)はだれ一人として例外なく、
 「阿爾兮(アミ・キ=アジ之岐)」
  ということになる。

 菅韓多羅の夫大筒木垂根
  「三野前(弥奴国)国造」であることは、
 もう少し別の系譜解明の部分で
 扱う方が便利なので、ここでは保留にする。

  その子孫の墓の名の中に
 「弥奴国投馬国、遠賀水門」の名乗りが
  含まれていて、
 それが美川王の墓の周辺にあるということは、
 美川王━その娘(その夫武内宿祢)━
  石川宿祢の系譜の蓋然性を強めるのである。

 故国原王と五十琴(近肖古王)、
 伊呂弗(仲哀天皇)との間には、
 互いに攻略しあう因果関係がある。

 大筒木垂根の妹(の一人)は時姫であるから、
 両者の子孫系簿を並立させて眺めてみる。

 「系図I」

   4       5     6    7    8    9    
 |大筒木垂根━息長帯姫‖_|咄固 ━美川王━故国原王━小獣林王
        位宮  ‖ 
 |時姫   ━汾西   ━ 胆咋 ━五十琴━伊呂弗‖ |真椋(枕=枕崎)
                      |玉彦姫‖_|布都久留
                      |多遅麻

 この図の
 五十琴=近肖古王、
 伊呂弗=仲哀天皇、
 玉彦姫=神功皇后、
 布都久留=応神天皇、
 多遅麻=近仇首王(武内宿祢)
 として、
  このあたりの略年表を見つめてみる。

 M.K記

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  『造幣さいたま博物館』http://www.mint.go.jp/enjoy/plant-tokyo/plant_visit_museum_t.html

 ≪日本古代王族の婚姻系譜(7)≫
 ※出典:加治木義博
     大学院講義録04:18〜21頁

 柿本一征(かきもとかずゆき)
 言語復原史学会正会員

 とはいえ、せっかくの解明であるから、
  もう少し系譜の解明を継続する必要がある。
 
 位宮(東川王)     ‖_|咄固
 壹與(新羅初代朴赫居世)‖  (儒礼王、基臨王)‖_|美川(肥前、備前)王
                菊池姫      ‖
 これでみると、
  高句麗王統譜と(前)新羅王統譜はあきらかに
  交錯(?)している。

 この図のうちの、
  菊池姫の系譜的な位置はおよそ次のようになる。 
    
 「系図D」

  1    2      3     4      5     6     7
 伯固 ‖_|仇道              |多婁王‖_|己婁王(陳元達)
 忍日女‖ |内礼‖_|奈解‖_|大新川  _  清姫‖ |菊池姫(咄固の妃)
       伊買‖_|昔 ‖  (難升米)       |比メ古‖
                 (中川王) |高田姫
                       |比メ古‖_|胆咋 ‖_|五十琴
                |十市根  _|汾西王‖
                 (都市牛利)|附志
                       |清姫
                |玉姫
                 (哀邪本王の妃)

 以上のように、
 系図A、B、C、Dが
  3世紀後半から4世紀前半にかけての、
 日本列島(九州大陸)と朝鮮半島、
  中国大陸における歴史上の重要な人物で、
 だれ一人残らず実在者である。

 高句麗王、前新羅王統譜はみな、
  伯固の子孫であることが理解される。
 
 仇道の子の末仇と休札夫妻の子孫は
  別に大切であるから、
 次のような略系図を復原しておいて、
  補講として論じることにしたい。

 「系図E]

   3   4     5      6          7
 末仇‖_|末仇2_|末仇3 _|扶余王玄     _|奈勿王
 休礼‖       (比流王) (奈勿王356〜)  (〜402)
                |娘         |企利

 この系図Eの6代目のときから、
 石城別王との対婚が発生しているようなので、
  後に検討してみる。

 なお、ついでのことであるから、
  金官加羅国王統譜の後半部分(の一部)を
  解明しておきたい。

 「系図F」

  3    4      5     6    7    8    9    10     11  
  12
 八坂王━大筒木垂根━息長日子王━千熊長彦━真浄 ━武内宿祢━石川宿祢━菅韓子 ━大河音宿祢
 ━都奴牟斯
 奈解_|大新河  ━多婁   ━己婁  ━蓋婁 ━多遅麻 ━大別  ━戸田  ━紀生磐  
 ━紀大磐                         (伊尺品)(坐知) (吹希)
    |十市根  ━汾西   ━胆咋  ━五十琴━伊呂弗 ━洛   _|木事 ━市川臣    ━久爾辛                    (仲哀天皇)     (阿華)
                                    |木蓮子━太郎子   ━乎非王

 F系図の五十琴が
  前首済13代近消古王(346〜375)、
 多遅麻が14代近仇古王(375〜384)に
  該当することを、
 前稿(「七支刀は同時代遭物か?」)において
  検討した。

 F系図一列目(八坂王の列)の7代真浄までが
  金官加羅国王統譜の前半である。

 しかし、同王統譜の後半は、
  二列目(大新河の列)の
 8代目多遅麻からに移行していることが
  理解されよう(10代目戸田=的=紀小弓)。
 
 この多遅麻が(「も」)武内宿祢であることも
  前稿でみておいたことである。

 11代目紀生磐以後については別項で鮮明する。

 なお、
  大別は前百済16代辰斯王であり、
 『記・紀』の葛城長江襲津彦であることも、
 前稿で解明した。

 さて、
 大筒木垂根、菅韓多羅夫妻について、
 若干の言及をしておくと、
 この夫妻の名がどういう地名を
 反映しているかについては、
 加治木先生の通信講座に導かれて
 前稿でおこなったし、
 南朝鮮の「多羅」は
 僕自身は田中俊明氏の本を紐解いて確認した
 (「大伽耶連盟の興亡と『任那』」吉川弘文館)
 ものの、それだけではなんのことかわからない、
 というのが正直なところである。

 ところが、
 加治木著「おとぎ日本誕生」(徳間書店)
 によると、
 竹取物語のかぐや姫は壹與であり、
 その両親がこの難しい名の夫妻にあたるとなると、
 話は別である。

 本年のNHK教育テレビ新春番組でも、
 これらの人々をモデルにした舞踏劇が
 放映されていた
 (深夜長時間番組のフィナーレの部分)。

 2 故国原王の妃、
   備前車塚古墳周辺古墳披葬者の推定

 美川王の后は周氏(石勒のこと)の娘で、
 息子が故国原王と弟の「武」である(高句麗本紀)。

 しかし、
 もう一人、娘がいたのではないかと想定すると、
 次の系図になる。

 「系図G'」

   7       8       9
 美川王 ‖ |故国原王‖ |小獣林(伊集院)王
 石勒の娘‖_   妃 ‖_|故国壌(隈之城)王
       |武
       |娘   ‖_|石川宿祢          
        武内宿祢‖

 備前車塚古墳が美川王の墓であることは
 前稿(「七支刀」)で推定(特定)したが、
 このG'系図に周辺古墳の名を加えると、
 次のようになる。

 なお、
 これらの周辺一群の古墳群が、
 備前車塚古墳の一族のものであることは、
 どの本を読んでも(著者名は略)
 承認されているようなので、
 なにも付け加える必要はないと思う。

 ただし、未発掘なのかどうか、
 発掘報告の記録を読んでいないので、
 副葬品、棺の方位は吟味していないし、
 古墳の方位や相互の位置関係は
 図表によって解るものの、何も吟味しておらず、
 ただ古墳の規模と古墳名を
 検討対象にするだけだから、
 きわめて浅薄な推定にすぎないことは
 認めなければならない。

 M.K記

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 ≪日本古代王族の婚姻系譜(6)≫
 ※出典:加治木義博
     大学院講義録04:15〜17頁

 柿本一征(かきもとかずゆき)
 言語復原史学会正会員
 次は「系図A」の4代、5代の
  兄弟柿妹関係をみておく必要がある。

 「系図B」
   2          3      4           5
          _ 八坂王‖_|大筒木垂根     ‖_|息長日子王
 |抜奇              菅韓多羅      ‖_|息長帯姫(壹與)
 |伊夷模    ‖_|真敷 ‖ |八坂入姫 ‖      |虚空津姫(弟姫)‖
  ヨソ足姫   ‖ |位宮     烏越  ‖     _|大碓      ‖
                 |中日売      ‖
                   大新河(難升米)‖ _|多婁
                              |比メ古
                              |高田姫
                 |時姫         ‖
                   十市根(都市牛利) ‖_|汾西
                               |清姫
                               |附志
 |抜奇
 |伊夷模
 |内礼    ‖ _|奈解 ‖_|大新河(難升米)
    伊買    ‖    昔 ‖ |十市根(都市牛利)
                 |玉姫(西川王の妃)
           |阿爾兮‖_|菅諸男(烏越)
 |仇道    ‖        |菅韓多羅
  公孫度の宗女‖ _|臣濆沽‖ 
     
 石勒とその后、押黒弟日子王とその妃、
  大碓については後に解明する。
 A系図には書き入れていないが、
  真浄の弟が石虎で、
  石虎の后は劉曜の娘である
 (美川王妃が石勒=周氏の娘であることは
   「高句麗本紀」に、
  劉曜の妃が羊氏であること、
  石虎の妃が劉曜の娘であることは
   「載記」に出ている)。

 次に、
  高句麗王統譜、前新羅王統譜の「実際の系譜」は
  次のようである。
 
 [系図C]
  1        2      3       4       5
              
 伯固 ‖  公孫度の宗女‖_|臣濆沽
 忍日女‖_|仇道    ‖ (助濆王)  |狭穂彦
       息長水            |狭穂姫‖_|初小(烽上王)
       依姫    ‖_|味鄒 ‖ _  位宮‖
                光明 ‖  |哀邪本王(西川王)

 C系図のうち、
  臣濆沽と味鄒の間に末仇がいる。

 これを略図にすると、次のようになる。

 仇道_|臣濆沽(助濆王) 新羅11代王 230〜247
       |末仇 (沾解王) 新羅12代王 247〜261
       |味鄒王      新羅13代王 262〜284

 これは金仇遁
 (「魏書倭人章」の伊声耆イシェンギに該当)の
  三人の息子(三兄弟)がピッタリと、
 系譜としても、
 新羅王統系譜としても、
 代数(11→12→13)、
 在位年代としても、
  きれいに復原出来たということに
  ならざるを得ない。

 末仇の「末」は
 「末羅(廬)」
 「馬韓(マ又はウマ・ガ・ラ)」、
 仇は「喜入」又は
  アダ(吾田地方=南九州)になるから、
 沾=テン=添=ソ=襲=ソツヒコ=襲津彦と
  完全に一致してくれる。

 彼の行動領域が解るとともに、
 当時倭国の北の端とされている
  狗邪韓国の王が彼だったのではないか、
 ということまで推定させてくれるのである。

 なお、高句麗王統譜の
 「伯固→抜奇→伊夷模→位宮(東川王)→
    難升米(中川王)→哀邪本王(西川王)→
  初小(岩衝別王=烽上王)→美川王→
    故国原王…」
 についてはもういいだろうと思う。

 この解説は本稿の課題ではなく、
 今後の別稿での繰り返しての吟味と
  解説、再解明、精密化の際の課題である。

 M.K記

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