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FOREVER, MICHAEL

マイケルジャクソンの音楽とアート。ジャズ・ロック・ブルースなど黒人音楽の歴史とライブ魅録。

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Free Nelson Mandel (3・4・84)
 

 
ルソン・マンデラの獄中生活は・・・?
 
 
・・・と言う疑問で、映画マンデラの名もなき看守をレンタルで見たのは7月。
映画は当時の看守の手記をベースにしたもの.。筆者ジェームズ・グレゴリーはコーサ(Xhosa)語ができ、マンデラの手紙をチェックし、身辺を監視する役を負っていました。グレゴリーはマンデラと特別な友情を結んだわけではなく、交流を持った看守の一人であり、マンデラの大統領就任式や誕生日パーティに招待された看守たちの一人でした。

映画はグレゴリーが、スパイ的な行為とマンデラ師への次第に高まるシンパシーの狭間で苦しむ姿を軸に、囚人生活、看守の日常生活、当時の市井の人々の様子を淡々と描いたもので、興味の一端を満たしてくれました。感動的な友情物語、とか、マンデラ師を称えるという内容ではありません。
 
マンデラ師が自伝で語っているように、看守とうまくやる、というのが、マンデラたち政治犯のストラテジー。実際に寒い冬、余分な毛布を頼んで持ってきてくれるのは彼らでしたから。
彼らに従うのではなく、彼らを“教育する”というアプローチ。相手が看守であろうと、肩書きを持ったトップであろうと、礼儀をもって接し、相手が無礼な態度を取れば、毅然と怒る。 
そうした態度が次第に看守の共感や敬意を勝ち得たようで、前述のグレゴリーもそういった看守のひとりであったようです。

76年に入所してきた若い政治犯たち(ANC以外の革命家が主だった)は、マンデラとは違うアプローチをしたようです。(彼らにとって、マンデラはあこがれのスターでしたが)。かれらはときに刑務所の改善を要求して、ハンガーストライキや労働拒否をすることがありました。そんな姿を見ていたせいでしょう。看守たちが自分たちの食事や待遇の改善を求めてハンガーストライキをまね、実際に上層部を動かした、と言うエピソードもあります。
 
27年にも及ぶ刑務所生活・・・まず時系列でマンデラ師が入獄した時と場所を挙げます。
 
A.     1964年冬:終身刑でロッベン島に収監。
B.     1982年3月: ポルスモア監獄に移送。
C.     1988年12月: 肺結核の治療のため、ビクターバースター監獄に移送される。
 
6月末、オバマ大統領一家が訪れたのは、監獄Aの独居房。インビクタスの詩が髣髴とされる時間と場所でした。



マンデラ師の自伝によれば、ここでは囚人同士の会話は許されなかったので、コミュニケーションの手段を確保することが一番の課題。
 
看守の捨てたマッチ箱を細工してメモを仕込む。 
食事用のドラム缶の底にラップに包んで、隠す。
トイレットペーパーに書いてビニール袋に包みトイレのふちに隠す。
一番簡単で確実だった方法のひとつが、刑務所病院に送られること。
医療所はひとつしかなかったので、そこで囚人を隔離するのは無理だったから。
・・・など。
 
また、外界の情報に一番飢えていた、といいます。だから、新聞など、あれこれ工夫して手に入れました。闇屋から買うとか、一般囚人が看守から盗んだ新聞を買うとか、看守に賄賂を渡して手に入れるとか・・・。
 
島への訪問者はジャーナリスト、弁護士、妻だけ。雨の日にジャーナリストが来島した折には、日ごろ与えられないゴム引きのレインコートを着せられ、石切り場に行進したこともありました。

マンデラの弁護士であり友人でもあるジョージ・ビゾスさんという人がいます。
最初に彼が島を訪問したとき、看守たちは白人がマンデラの弁護士であることに驚いた様子でした。マンデラの訪問者は島の幹部用クラブでランチをよばれたので、やはり特別待遇である、とわかったそうです(ただし、訪問者が弁護士である場合だけ)。

当初、マンデラたち政治犯たちは石切り場で石を割ったり、冷たい海水から(日本向けの肥料用)海草を採ったり、の生活でしたが、76年から77年になると、若い政治犯が増えてきたこともあり、音楽やサッカーやテニスも許されるようになりました。これは世間へ向けて、自分たちは政治犯に対し人道的処遇をしている〜というアピールの一面もあったようです。そういう若い政治犯に言葉をかけ、お茶でもてなし、意見交換する、そんな自由もこのころになると許されていました。彼らのハンガーストライキのおかげか、78年には図書館も出来、勉強する権利も得られたのでした。
 
弁護士との面談は、盗聴が前提だったので、大事なことはメモでやりとり。
ただし、家族の訪問の場合、電話を通しての会話のみで、ブースには看守が控え、政治の話や家族以外の情報を聞こうとした場合、すぐにスイッチを切ったそうです。
当時のマンデラ夫人、ウィニーが生まれた孫を連れてきたときも、ルール上、妻以外の家族と会うことは許されず、赤ちゃんを控え室に預けなくてはならなかった。電話での会話が終わったとき、マンデラはひと目あいたい、と哀願して5分間だけ抱くことを許された。罰則覚悟の看守の温情だったそうです。島の独房生活は18年続きました。
 
80年に入ると、ANCのマンデラ解放キャンペーンが始まり、たくさんの国の同調を得ます。
抵抗運動は勢いを増し、多数の死者も出し、黒人の居住地(ホームランド)は無政府状態になってゆきます。85年には、アメリカのエドワードケネディ上院議員が南アを訪れ、反アパルトヘイト支援を表明。前年にノーベル平和賞を受賞したツツ司教に率いられ、南アの教会指導者たちはアパルトヘイト問題に取り組み始めます。ニューヨークやアトランタ、ワシントンでは反アパルトヘイトのデモ行進が続きます。
 
反アパルトヘイト支援歌 


ブルーススプリングスティーンやマイルスデービスたちも、反アパルトヘイトの支援歌、SUNCITY **

(アルバム12・7・85) に参加。ジャズ(ハービーハンコック、ロンカーターなど)、ラップ(メリーメル、Kool DJ Herc, RunDMCなど), ロック(リンゴ・スター、ボノ、ボブディラン、キース・リチャーズ、ロン・ウッド、ダリルホールなど)、ポップ、クラシック、アフリカンなどさまざまな分野の音楽家によるコラボ。マイルスのイントロ、クラランス・クレモンズ(サキソフォン)によるエンディング。
 
刑務所で音楽は聴けたのか?というと、差し入れや置き土産のレコードがあったそうです。
マンデラ氏は「獄中で、当時ジャクソンズを離れ、ソロ活動に入ったマイケルジャクソンの歌に勇気を貰った」と述懐しています。
 
世界のそんな動きに、政府もマンデラと密かに接触を始めます。世界のジャーナリズムの目がマンデラに向かうため、彼の刑務所内での待遇が徐々によくなってゆく様子が、映画ではわかります。80年代になると、自由にする代わりに、武装闘争をやめさせる、といったオファーもありました。80年後半には、事務所を構えることも許され、そこではシェフが料理を作り、ワインも出され、電話も設置されたそうです。これは後述するビクターバースターでのことです。
 
82年には、本土のポルスモアに移されます。そこでは屋上階B4セクションに収監されました。本土なので、新鮮な水がなによりうれしかったようです。マンデラが手紙などを書くのに必要な本がある場合は、検閲を通して、申請する。許可されると2,3週間後に届くシステムでした。
検閲室で働いていた看守によれば、手紙の投函を頼まれると、3通コピーをとり、2部は彼と、もう一人の看守、(手記を書いた)グレゴリーに渡り、彼らの検閲を得てからポストに出されます。3通目はそのあとでセキュリティ部にまとめて渡るのでした。

マンデラのために3人の看守が働いていたけど、かれらの家族にもそのことは秘密にされました。ポルスモアでもやはり監視下に置かれ、囚人が何をしているか外から見えるように、監獄は片面の可視窓がはめられました。夜、看守が除くと、彼らはトランプをしていたそうです。
 
85年に前立腺手術を受けた後は、ポルスモアの独房に移されますが、そこは3つに区切られ、ひとつは居住、ひとつはトイレと物置、もうひとつは看守の控え間でした。さらに彼用の大きなバスルームと運動場が与えられました。これらの部屋には盗聴器が設置されていました。

そんな日常でも、クリスマスになれば、上層部が休暇をとるので、看守は自分の裁量で便宜を図ったそうです(たとえば、盗聴機器のない部屋で面会をさせるとか)。それでも、看守の付き添いでドライヴを楽しんだり、遠足に出かけたり、より自由な環境になりました。

85年には政府の交渉人、Kobie Coestee(弁護士で司法局長みたいな立場にいた。)との面会も秘密裏に始まりました。Kobieの家に行くときには、看守がマンデラにスーツを着せて、セキュリティなしに車でひそかに連れだしたのです。
 
当時強大な影響力を持ったアメリカ。
86年8月、レーガン政権のもとで、いよいよ南アに対する経済封鎖が始まり、米国系の銀行や企業はほとんど閉鎖されます。このことは、しかし、米国政府がANCの活動を認め、支援する、ということではありません。実際、アメリカはANCをテロリストと位置づけていましたから、解放後のマンデラも米国に入国することはできませんでした。
 
88年12月。ビクターバースター刑務所に送られ、肺結核の療養に入りますが、与えられた住居は、プール・庭付の一戸建て。専属シェフも付いたのは、家族や政府関係者の訪問者が多かったからです。メディアはパパラッチのように終日見張り、マンデラたちの車が家をでると、すぐさま跡を追ったのでした。シェフの回想によれば、

〜彼の同志がポルスモアから解放される日。マンデラは病院に検診に行く途中で、
その様子を見たい、と言い出し、車〔窓を黒くしたメルセデス〕で門扉に近づいた。現場は出獄する同志の写真を取ろうとするメディアで大変な混乱状態。 彼らは、マンデラが車の中にいることには全く気づいていなかったから、邪魔だからどけ、と追い払われてしまった。そんな状況をマンデラは笑って多いに楽しんだ。〜 

といいますから、そういうユーモラスな一面があったのですね。日常的には甘いワインを楽しみ、初めて触れる電子レンジや洗濯機と格闘する、そんな場面もありました。ここではテレビも用意され、ニュース番組をよくみたそうです。
 
1989年。当時の大統領ボーサは心臓発作に襲われ、国民党のリーダーを保守派のデクラークに譲ります。7月に入り、ボーサはマンデラを自宅に招待し、友好的な会合が持たれ、マンデラは同志のシスルーの解放を強く主張。8月にはデクラークが大統領に就任し、マンデラ以外の政治犯の釈放を決定。PowerSharing 〔権力の共有〕を受けいれ、アパルトヘイト政策は、もはや維持できないことを見極め、解体に向けて動き始めます。このとき、まずは黒人を一定の土地〔ホームランド〕に縛りつける、という長い間国を支配してきた主軸となる隔離政策を廃止。多くの逮捕者をだしながらも、黒人は禁止区域への移動をやめなかったからです。そして、マンデラとの会合、ANCや他の組織の活動禁止を撤回、などを経て、1990年2月11日。マンデラは解放されました。
 
マンデラは頑固者で好奇心が強く、怒りを表すこともよくあった、といわれます。ロッベン島で投獄された若い同志は、「とても憂鬱で気難しい一面があったが、それは気質というより、そういう態度を作っていた」と見ています。そういうときは、ポリティクスにせよ、なんにせよ、それは間違っている、と言うことを相手に主張したいときなのだそうです。マンデラ師は礼儀を重んじる人で、看守だろうと、権威者だろうと、侮蔑的な態度には毅然として対応しましたので、相手は「こんなに怒るなんて、ぼく何か間違っている?」と思い始め、次第に態度が改まっていったそうです。相手のパラダイムを変えてしまうんですね。仲間に言い聞かせていたことは、「ゆったりした態度をとること」。ゆっくり歩き、ゆっくり話す。。。相手の気勢を削ぎ、相手のペースに巻き込まれないために、ということでしょう。ロッベン島に収監されたとき、彼らに考えさせたことはまず、リアクティブではなくプロアクティブに状況を変えること。つまり、収監所における自分たちの存在を再構築する(囚人ではなく、人としてリスペクトを得る)という、新しいパラダイムを創造すること。そのための印象つくり、といえましょう。
 
穏やかなスマイルの奥に幾重にも隠されたパーソナリティはとても複雑で、うかがい知ることはできません。
 
HOUSE OF MANDELA
・・・と言う名のワイン − マンデラさんの長女と孫娘が近年立ち上げたブランドです。ワイナリーを開発したわけではなくって、既存のメーカーに6千万円ほど投資し、オリジナルブランドを作りました。米国でも今年2月から通販のワインクラブで頒布されています。なぜワイン?かというと、マンデラ家の歴史とルーツ、ワインの持つ情熱と誇りが商品のイメージにあうから、そして40万人の雇用を生むから、だそうです。マンデラと言うグローバルなブランド力。自宅療養中のご本人の名前が一族だから、と一人歩きしないことを祈ります。
   
end


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虹の国:マンデラとMJ

インビクタス

次回はお久しぶり♪マイケル・ジャクソンの歌、マネー。
 
 
 注記:                                              
 
*ホームランド(バントゥースタン Bantustans)1959年のバントゥー自治法で制定された、黒人居住区。生まれた土地や部族から引き離し、強制的にいづれかのホームランドの市民とした。政府は一定の自治権を与え、次いで独立させた。しかし、これは国際社会からの非難をかわす、欺瞞的なものであり、ホームランドは農耕や牧畜に適さない未開発の土地で、資源の権利は政府に保有されていた。つまり、黒人の労働は工場や鉱山に限られ、低賃金しか払われず、実質搾取されていた、ということになる。さらに、「独立国」になることで、黒人である市民は南アの国籍を剥奪された。ポリティクスをたくみに複雑・歪曲化させ、責任の所在や問題の解決を困難にさせるのは、アングロサクソンの伝統的な植民地政策です。
 
**当時南アの中にあった黒人居住区ホームランドのひとつにボプタツワナという「独立国」があった。ここにはプラチナなどの鉱山があり、サンシティと呼ばれる、白人専用のリゾート地が建設された。
 
 
 
資料:

The prisoner The long walk of Nelson Mandela:  

Chronology The long walk of Nelson Mandela:

 


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    日本の先住民族のアイヌ・エゾ民族や、日本のアジア植民地政策+在日朝鮮人への、差別の歴史についての記事も、書いて下さい。

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    2016/4/28(木) 午前 8:15

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