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大雨の中、マンデラさんのメモリアル・・・現地の人たちの言葉が心に響く。
「歌い踊ることで祝福される悲しみのとき」
「雨は命。偉大なる人だけが雨の祝福を受ける」
ソウェト市。9万4千人くらいは入るメモリアル会場は3分の2程度の入り。
大雨で交通事情が悪かったため、会場に辿りつけなかった市民がたくさんいたそうだ。
歓声、カラフルな傘の花が咲き、国旗が振られる・・・
雨を祝福ととらえ、悲しみを歌い踊ることで昇華する・・・そういうカルチャーなので、メモリアルも厳か、というよりにぎやかに進んだのでしょう。日本の皇太子さまもマンデラ家の方に寄り添って出席されてましたね。
ひときわ歓声の高かったオバマ大統領のスピーチ。 結びにはマンデラ氏が心の糧としていた詩、 インビクタスの一節を引用していました。 オバマ氏渾身のスピーチ It matters not how strait the gate, いかに通るべき門が狭かろうと、かまわない。
私が自分の魂の指揮官であるから。処罰がどれほど重いものであろうと、かまわない。 私が自分の運命の主人であるから。 追記。世界中で物議をかもした“事件”がふたつありました。
事件1: 今や世界中で有名になってしまった、あの、手話通訳の人。
そのでたらめぶりが指摘され、南ア政府の発表では、過去に暴力事件を起こし、現在、殺人事件などに関係していた容疑で取調べを受けている、とのこと。
さらに彼がいかなる経緯で通訳に選ばれたのか、鋭意調査中だそうだ
(・・・って、事前に身元調べてなかったんだ)。
本人は「真面目にやったが途中で幻覚症状に襲われたので、
我を保つのに必死だった」と言い訳をしている。
米国のアフリカ国務担当官は、声明を出し、〜世界の要人のすぐ横で通訳をするわけだし、身元不明の通訳なんて何考えてんだか!(怒怒)と、怒ってる。
それに〜世界中の手話を必要とする方がたが話の内容をわからないままで終わってしまったことは、悲しいことだ、と。
事件2:アメリカ・オランダ・イギリス―3国同盟ならぬ、
3人組でセルフィー取っちゃいました、事件。
ごめんなさい・・・、もう我慢できなくて、写真アップしちゃいました。
(*注:わたしはミシェル夫人の写真集を買おうとして夫に「やめろ」、
といわれたほどのミシェル・ファンです。)
いいね!ナイス!
でも、こうだし・・・。 南アの陽気なメモリアルの雰囲気にすっかりリラックスした感じの3人。
いいじゃないですか。また国に戻ればプレッシャーの毎日。
交友を温めて、また国政にがんばってください!
ユーモアがあって、おおらかな赦しの方だから、マンデラさんも、
〜楽しそうやないか〜(関西アクセントでお願いします)、って、笑って見守ってくれたのではないでしょうか。
end
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POTPOURRI
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生きて続けることの価値を体現してくれた巨星が落ちた。
マディバの先例なくして自分の人生は想像出来ない、とオバマ大統領は語った。
訃報に接して、すぐに追悼の演説を行い、ホワイトハウスの国旗を半旗に掲げた。
軍や連邦オフィスにも半旗の通達を渡した。
涙を堪えるその表情からは心の底から悼みが伝わる。
今年6月にオバマ一家が南アを訪問したときは、マディバの体調により会えなかった。
けど、まだ上院議員だった頃(2005年)に面会がかなっている。
夫人と子供たちも2011年に訪南アの際に面会している。
オバマ氏の政治活動が反アパルトヘイト運動から始まったこともあり、
マディバは彼のヒーローだった。
南アの国葬(あるいはメモリアル、または両方)に参加することも、即日に発表。
ミシェル夫人の同伴も後日追って伝えられた。
さらに、マディバの親しい友人であったジミー・カーターと夫人も同伴する、
とのニュースもあった。
おりしも、ロンドンではマディバ自伝の映画 Mandela:Long Walk to Freedom のプレミア上映が行われていた。プリンス・ウィリアムとキャサリン妃を迎えてのロイヤル上映会。マンデラ氏の娘二人は彼らとプレミアに先立ち、和やかに会話していた。訃報がもたらされたのは、映画のエンドロールが始まってのことだった。映画プロデューサーがステージに上がり、マディバの訃報を報告すると、会場は悲鳴とやがて嗚咽に包まれた。
一日たってもCNNのニュースはマンデラ氏中心で、続々届く最新ニュースの合間には、著名人の追悼コメントの紹介、追悼インタビュー、追悼ビデオが流れる。もう、ずっと・・・。政治家、宗教家、セレブ、俳優、ミュージシャン、そして自宅や大使館前に集まって追悼するたくさんの人々。
南アでは教会でツツ司教によるサービスが行われた。
この方はどれほど世界中の人々から愛されていたのだろう、と思う。
勇気と忍耐と和解の精神。
民主主義の象徴。
憎しみを持たない心。
正義、尊厳を尊ぶ心。
人にパラダイムシフトを起こさせる強い影響力。
過去のインタビュー映像で、すぐれた指導力の秘密は?みたいな質問に、自分の力ではなく、チームの力だ、と答えていたのが印象的だった。反対分子を取り込むには、彼らと和解し協調すること、だという。
オバマ大統領のもう一人のヒーロー、リンカーンにもその思想があった。
敢えて、自分のチームにライバル(政治的に対立する人)を入れることで、むずかしい舵取りをコントロールしようとした。
94年のマンデラ大統領就任式に出席した元国務長官、コーリン・パウエル氏は電話インタビューで言う。「ジョージワシントンと比肩する人。黒人だけでなく白人も解放した。」
マンデラ氏が大統領になって翌年の95年。
国をまさにひとつにまとめたラグビーワールドカップ優勝と言う出来事があった。
これは偶然の結果などではなく、マンデラ大統領の深謀遠慮、ストラテジーと思想で練り上げた一大チーム・プロジェクトだった。CNNのキャスターでも、この試合を覚えていて感動混じりに語るから、当時の興奮たるや、どれほどのものだったか。
以前過去ログで紹介した、映画インビクタス(2009:クリントイーストッド監督) はそのエピソードを描いたもの。とてもよい映画なのでおすすめしたい。
その映画で主役のマンデラを演じたモーガンフリーマンのコメント*も、
ラグピーチーム当時のキャプテン、フランソワ**のコメントも公表された。
マンデラ氏はフランソワの子供たちのゴッドファーザーでもある。
12月5日、95歳。永眠。
ご遺体は自宅から首都にある軍病院へ移され、embalmされてから、首都のプレトリアにある Union Buildingsに安置され、15日に、故郷クヌの先祖のお墓に埋葬される予定だそうだ。隣には投獄中に亡くなった長男が眠っている。
国葬は15日。その前に、10日。ソウェト市で、サッカーワールドカップが行われたFNBスタジアムでメモリアルサービスが予定されている。
*Today the world lost one of the true giants of the past century. Nelson Mandela was a man of incomparable honor, unconquerable strength, and unyielding resolve -- a saint to many, a hero to all who treasure liberty, freedom and the dignity of humankind. As we remember his triumphs, let us, in his memory, not just reflection how far we've come, but on how far we have to go. Madiba may no longer be with us, but his journey continues on with me and with all of us.
**I never imagined that I would be so emotional... You think you will be prepared but it turns out you are not. I turned off the phone and switched on my TV and just watched and watched these tributes pouring in from all over the globe. Of course, we knew this day was coming. But it does not make it any easier to take.
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Free Nelson Mandel (3・4・84)
ネルソン・マンデラの獄中生活は・・・?
・・・と言う疑問で、映画マンデラの名もなき看守をレンタルで見たのは7月。
映画は当時の看守の手記をベースにしたもの.。筆者ジェームズ・グレゴリーはコーサ(Xhosa)語ができ、マンデラの手紙をチェックし、身辺を監視する役を負っていました。グレゴリーはマンデラと特別な友情を結んだわけではなく、交流を持った看守の一人であり、マンデラの大統領就任式や誕生日パーティに招待された看守たちの一人でした。
映画はグレゴリーが、スパイ的な行為とマンデラ師への次第に高まるシンパシーの狭間で苦しむ姿を軸に、囚人生活、看守の日常生活、当時の市井の人々の様子を淡々と描いたもので、興味の一端を満たしてくれました。感動的な友情物語、とか、マンデラ師を称えるという内容ではありません。
マンデラ師が自伝で語っているように、看守とうまくやる、というのが、マンデラたち政治犯のストラテジー。実際に寒い冬、余分な毛布を頼んで持ってきてくれるのは彼らでしたから。
彼らに従うのではなく、彼らを“教育する”というアプローチ。相手が看守であろうと、肩書きを持ったトップであろうと、礼儀をもって接し、相手が無礼な態度を取れば、毅然と怒る。
そうした態度が次第に看守の共感や敬意を勝ち得たようで、前述のグレゴリーもそういった看守のひとりであったようです。
76年に入所してきた若い政治犯たち(ANC以外の革命家が主だった)は、マンデラとは違うアプローチをしたようです。(彼らにとって、マンデラはあこがれのスターでしたが)。かれらはときに刑務所の改善を要求して、ハンガーストライキや労働拒否をすることがありました。そんな姿を見ていたせいでしょう。看守たちが自分たちの食事や待遇の改善を求めてハンガーストライキをまね、実際に上層部を動かした、と言うエピソードもあります。
27年にも及ぶ刑務所生活・・・まず時系列でマンデラ師が入獄した時と場所を挙げます。
A. 1964年冬:終身刑でロッベン島に収監。
B. 1982年3月: ポルスモア監獄に移送。
C. 1988年12月: 肺結核の治療のため、ビクターバースター監獄に移送される。
6月末、オバマ大統領一家が訪れたのは、監獄Aの独居房。インビクタスの詩が髣髴とされる時間と場所でした。
マンデラ師の自伝によれば、ここでは囚人同士の会話は許されなかったので、コミュニケーションの手段を確保することが一番の課題。 看守の捨てたマッチ箱を細工してメモを仕込む。
食事用のドラム缶の底にラップに包んで、隠す。
トイレットペーパーに書いてビニール袋に包みトイレのふちに隠す。
一番簡単で確実だった方法のひとつが、刑務所病院に送られること。
医療所はひとつしかなかったので、そこで囚人を隔離するのは無理だったから。
・・・など。
また、外界の情報に一番飢えていた、といいます。だから、新聞など、あれこれ工夫して手に入れました。闇屋から買うとか、一般囚人が看守から盗んだ新聞を買うとか、看守に賄賂を渡して手に入れるとか・・・。
島への訪問者はジャーナリスト、弁護士、妻だけ。雨の日にジャーナリストが来島した折には、日ごろ与えられないゴム引きのレインコートを着せられ、石切り場に行進したこともありました。
マンデラの弁護士であり友人でもあるジョージ・ビゾスさんという人がいます。
最初に彼が島を訪問したとき、看守たちは白人がマンデラの弁護士であることに驚いた様子でした。マンデラの訪問者は島の幹部用クラブでランチをよばれたので、やはり特別待遇である、とわかったそうです(ただし、訪問者が弁護士である場合だけ)。
当初、マンデラたち政治犯たちは石切り場で石を割ったり、冷たい海水から(日本向けの肥料用)海草を採ったり、の生活でしたが、76年から77年になると、若い政治犯が増えてきたこともあり、音楽やサッカーやテニスも許されるようになりました。これは世間へ向けて、自分たちは政治犯に対し人道的処遇をしている〜というアピールの一面もあったようです。そういう若い政治犯に言葉をかけ、お茶でもてなし、意見交換する、そんな自由もこのころになると許されていました。彼らのハンガーストライキのおかげか、78年には図書館も出来、勉強する権利も得られたのでした。
弁護士との面談は、盗聴が前提だったので、大事なことはメモでやりとり。
ただし、家族の訪問の場合、電話を通しての会話のみで、ブースには看守が控え、政治の話や家族以外の情報を聞こうとした場合、すぐにスイッチを切ったそうです。
当時のマンデラ夫人、ウィニーが生まれた孫を連れてきたときも、ルール上、妻以外の家族と会うことは許されず、赤ちゃんを控え室に預けなくてはならなかった。電話での会話が終わったとき、マンデラはひと目あいたい、と哀願して5分間だけ抱くことを許された。罰則覚悟の看守の温情だったそうです。島の独房生活は18年続きました。
80年に入ると、ANCのマンデラ解放キャンペーンが始まり、たくさんの国の同調を得ます。
抵抗運動は勢いを増し、多数の死者も出し、黒人の居住地(ホームランド)*は無政府状態になってゆきます。85年には、アメリカのエドワードケネディ上院議員が南アを訪れ、反アパルトヘイト支援を表明。前年にノーベル平和賞を受賞したツツ司教に率いられ、南アの教会指導者たちはアパルトヘイト問題に取り組み始めます。ニューヨークやアトランタ、ワシントンでは反アパルトヘイトのデモ行進が続きます。
反アパルトヘイト支援歌
ブルーススプリングスティーンやマイルスデービスたちも、反アパルトヘイトの支援歌、SUNCITY ** (アルバム12・7・85) に参加。ジャズ(ハービーハンコック、ロンカーターなど)、ラップ(メリーメル、Kool DJ Herc, RunDMCなど), ロック(リンゴ・スター、ボノ、ボブディラン、キース・リチャーズ、ロン・ウッド、ダリルホールなど)、ポップ、クラシック、アフリカンなどさまざまな分野の音楽家によるコラボ。マイルスのイントロ、クラランス・クレモンズ(サキソフォン)によるエンディング。
刑務所で音楽は聴けたのか?というと、差し入れや置き土産のレコードがあったそうです。
マンデラ氏は「獄中で、当時ジャクソンズを離れ、ソロ活動に入ったマイケルジャクソンの歌に勇気を貰った」と述懐しています。
世界のそんな動きに、政府もマンデラと密かに接触を始めます。世界のジャーナリズムの目がマンデラに向かうため、彼の刑務所内での待遇が徐々によくなってゆく様子が、映画ではわかります。80年代になると、自由にする代わりに、武装闘争をやめさせる、といったオファーもありました。80年後半には、事務所を構えることも許され、そこではシェフが料理を作り、ワインも出され、電話も設置されたそうです。これは後述するビクターバースターでのことです。
82年には、本土のポルスモアに移されます。そこでは屋上階B4セクションに収監されました。本土なので、新鮮な水がなによりうれしかったようです。マンデラが手紙などを書くのに必要な本がある場合は、検閲を通して、申請する。許可されると2,3週間後に届くシステムでした。
検閲室で働いていた看守によれば、手紙の投函を頼まれると、3通コピーをとり、2部は彼と、もう一人の看守、(手記を書いた)グレゴリーに渡り、彼らの検閲を得てからポストに出されます。3通目はそのあとでセキュリティ部にまとめて渡るのでした。
マンデラのために3人の看守が働いていたけど、かれらの家族にもそのことは秘密にされました。ポルスモアでもやはり監視下に置かれ、囚人が何をしているか外から見えるように、監獄は片面の可視窓がはめられました。夜、看守が除くと、彼らはトランプをしていたそうです。
85年に前立腺手術を受けた後は、ポルスモアの独房に移されますが、そこは3つに区切られ、ひとつは居住、ひとつはトイレと物置、もうひとつは看守の控え間でした。さらに彼用の大きなバスルームと運動場が与えられました。これらの部屋には盗聴器が設置されていました。
そんな日常でも、クリスマスになれば、上層部が休暇をとるので、看守は自分の裁量で便宜を図ったそうです(たとえば、盗聴機器のない部屋で面会をさせるとか)。それでも、看守の付き添いでドライヴを楽しんだり、遠足に出かけたり、より自由な環境になりました。
85年には政府の交渉人、Kobie Coestee(弁護士で司法局長みたいな立場にいた。)との面会も秘密裏に始まりました。Kobieの家に行くときには、看守がマンデラにスーツを着せて、セキュリティなしに車でひそかに連れだしたのです。
当時強大な影響力を持ったアメリカ。
86年8月、レーガン政権のもとで、いよいよ南アに対する経済封鎖が始まり、米国系の銀行や企業はほとんど閉鎖されます。このことは、しかし、米国政府がANCの活動を認め、支援する、ということではありません。実際、アメリカはANCをテロリストと位置づけていましたから、解放後のマンデラも米国に入国することはできませんでした。
88年12月。ビクターバースター刑務所に送られ、肺結核の療養に入りますが、与えられた住居は、プール・庭付の一戸建て。専属シェフも付いたのは、家族や政府関係者の訪問者が多かったからです。メディアはパパラッチのように終日見張り、マンデラたちの車が家をでると、すぐさま跡を追ったのでした。シェフの回想によれば、
〜彼の同志がポルスモアから解放される日。マンデラは病院に検診に行く途中で、
その様子を見たい、と言い出し、車〔窓を黒くしたメルセデス〕で門扉に近づいた。現場は出獄する同志の写真を取ろうとするメディアで大変な混乱状態。 彼らは、マンデラが車の中にいることには全く気づいていなかったから、邪魔だからどけ、と追い払われてしまった。そんな状況をマンデラは笑って多いに楽しんだ。〜
といいますから、そういうユーモラスな一面があったのですね。日常的には甘いワインを楽しみ、初めて触れる電子レンジや洗濯機と格闘する、そんな場面もありました。ここではテレビも用意され、ニュース番組をよくみたそうです。
1989年。当時の大統領ボーサは心臓発作に襲われ、国民党のリーダーを保守派のデクラークに譲ります。7月に入り、ボーサはマンデラを自宅に招待し、友好的な会合が持たれ、マンデラは同志のシスルーの解放を強く主張。8月にはデクラークが大統領に就任し、マンデラ以外の政治犯の釈放を決定。PowerSharing 〔権力の共有〕を受けいれ、アパルトヘイト政策は、もはや維持できないことを見極め、解体に向けて動き始めます。このとき、まずは黒人を一定の土地〔ホームランド〕に縛りつける、という長い間国を支配してきた主軸となる隔離政策を廃止。多くの逮捕者をだしながらも、黒人は禁止区域への移動をやめなかったからです。そして、マンデラとの会合、ANCや他の組織の活動禁止を撤回、などを経て、1990年2月11日。マンデラは解放されました。
マンデラは頑固者で好奇心が強く、怒りを表すこともよくあった、といわれます。ロッベン島で投獄された若い同志は、「とても憂鬱で気難しい一面があったが、それは気質というより、そういう態度を作っていた」と見ています。そういうときは、ポリティクスにせよ、なんにせよ、それは間違っている、と言うことを相手に主張したいときなのだそうです。マンデラ師は礼儀を重んじる人で、看守だろうと、権威者だろうと、侮蔑的な態度には毅然として対応しましたので、相手は「こんなに怒るなんて、ぼく何か間違っている?」と思い始め、次第に態度が改まっていったそうです。相手のパラダイムを変えてしまうんですね。仲間に言い聞かせていたことは、「ゆったりした態度をとること」。ゆっくり歩き、ゆっくり話す。。。相手の気勢を削ぎ、相手のペースに巻き込まれないために、ということでしょう。ロッベン島に収監されたとき、彼らに考えさせたことはまず、リアクティブではなくプロアクティブに状況を変えること。つまり、収監所における自分たちの存在を再構築する(囚人ではなく、人としてリスペクトを得る)という、新しいパラダイムを創造すること。そのための印象つくり、といえましょう。
穏やかなスマイルの奥に幾重にも隠されたパーソナリティはとても複雑で、うかがい知ることはできません。
HOUSE OF MANDELA
・・・と言う名のワイン − マンデラさんの長女と孫娘が近年立ち上げたブランドです。ワイナリーを開発したわけではなくって、既存のメーカーに6千万円ほど投資し、オリジナルブランドを作りました。米国でも今年2月から通販のワインクラブで頒布されています。なぜワイン?かというと、マンデラ家の歴史とルーツ、ワインの持つ情熱と誇りが商品のイメージにあうから、そして40万人の雇用を生むから、だそうです。マンデラと言うグローバルなブランド力。自宅療養中のご本人の名前が一族だから、と一人歩きしないことを祈ります。
注記:
*ホームランド(バントゥースタン Bantustans)1959年のバントゥー自治法で制定された、黒人居住区。生まれた土地や部族から引き離し、強制的にいづれかのホームランドの市民とした。政府は一定の自治権を与え、次いで独立させた。しかし、これは国際社会からの非難をかわす、欺瞞的なものであり、ホームランドは農耕や牧畜に適さない未開発の土地で、資源の権利は政府に保有されていた。つまり、黒人の労働は工場や鉱山に限られ、低賃金しか払われず、実質搾取されていた、ということになる。さらに、「独立国」になることで、黒人である市民は南アの国籍を剥奪された。ポリティクスをたくみに複雑・歪曲化させ、責任の所在や問題の解決を困難にさせるのは、アングロサクソンの伝統的な植民地政策です。
**当時南アの中にあった黒人居住区ホームランドのひとつにボプタツワナという「独立国」があった。ここにはプラチナなどの鉱山があり、サンシティと呼ばれる、白人専用のリゾート地が建設された。
資料:
The prisoner The long walk of Nelson Mandela: Chronology The long walk of Nelson Mandela: |

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1・21はマーチン・ルーサー・キング・Jrの誕生日で国民の休日。
首都ワシントンでは、就任式がパブリックに向けて行われる。。。
宣誓の儀式、スピーチ、パレード、舞踏会などで、10万人の人出が予想されている。
そのあと数日、行事がいろいろ続く。厳しい経済環境なので、舞踏会やイベントは
規模や数を縮小しているらしい。
熱狂の2009年の就任式には百万人集まった、というから凄い。
公式テーマは
FAITH IN AMERICA’S FUTURE
(アメリカの未来を信じる)って感じだろうか。
オバマケアと呼ばれる国民皆保険制度。
共和党は健康保険に加入する選択の自由を奪うから、だと反対していた。
これはもう、詭弁でしょう。現実は保険会社が低所得者の加入を拒絶している。
個人で買えば、月々の支払いは10万を下らず、個人事業者の保険加入料は
毎年倍になっていった。医療格差は深刻である。
親が不定期労働者だったら、保険に入れず、つまりはそのこどもたちも十分な
医療ケアを受けられない。12月からは、我が家の医療保険料も30%あがったけど、
やはりオバマケアの導入は未来のために必要なのだと思う。。。
福祉のいびつさは結構身近に感じる。知り合いのシングルマザーは、福祉手当で
、ロスだのベガスだの大人だけのキャンプだの遊び歩いていた。
子供??じじばばに預けっぱなし、ですわ。福祉の見直しに関しては、
共和党の言うことも心情的にわかる。
オバマ政権の大きな課題のひとつは最近連鎖反応のごとく起こっている銃乱射事件。
早急に規制法案に着手したいオバマだが、立ちはだかる鉄壁のロビイスト、
全米ライフル協会。 最近では会長自らが登場し、「銃をもつ悪人に対抗できるのは、
銃をもつ善人」となんかの独り言のように詭弁を繰り返している。
MJがクリントンの一期目の就任式(1993年)のGALAに出演してから20年。
(GONE TOO SOON とHEAL THE WORLDを歌いました。)
21日は朝からテレビで仮想ワシントン滞在の世界。。。
宣誓式では前回と同じく、リンカーンが宣誓で使用した聖書を使うそうだ。
連邦議会図書館に保管されてある。「スリラー」もここのビデオライブラリーに
永久保存されてます。
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あけましておめでとうございます。
ほわ〜。素敵な気分で迎えた2日。何故かって?
あろうことか、魔王さまが夢にでてきたから。
ファン歴3年4ヶ月。。。初めてですわ。
色つきの夢でして、あらわれたのは内気なBEAT ITマイコー。
以下、魔王様登場シーンを記録。
AFOらしいと思う方はスルーしてくださいね。(ほんとにAFO だから)
学生寮みたいなスペース。
部屋はオープンで廊下やホールも見えている。
2段ベッドの下段で向き合う私と彼。
赤ジャケを着込んだ彼は〔XXさん(忘れた)に失礼な
ことを言ったと思う。〕とくよくよ悩んでいる。
私は〔そんなことないよ。全然気にすることないよ。〕
といいながら腕をとって慰める。
私は彼が気に病んでいることを、XXさん(何故か若林豪さん)
に知らせようと思っている。
ホールを窓越しに見ていると、マイコーが(瞬間移動し)
若林さん扮するXXさんと話し込んでいた。
〔やっぱり彼は責任感の強い人やな〕と一人納得する。
ただこれだけなんですけどね・・・。なんで色っぽくないわけ!?
で、そのあとはカラフルな色のアイスクリームやピンクベージュの車がでてきたり。夢自体は十分に色っぽかったのでした。
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