matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

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物語パリの歴史―メロヴィング期のパリ
 アトレダイの再来 (B)
 
 パリの王シルドベールは彼の父に倣って豪華な贈物によって罪を償い、そして、フォルチュナという平凡な詩人の言うところを信じるならば、彼は「モーゼの生まれ変わり」、そして「メルキセデスの再来」との評判をとっていたという。そのころパリは元の町の様相を取り戻し、セーヌ川の両岸に広がりはじめた。古い大聖堂はあまりに小さくなっていた。シルドベールはジェルマン司教(のちのサン=ジェルマンであって、サン=ジェルマン・「ロセロワ」と混同しないように)の懇請によって聖母マリアに捧げるべき大教会を建立した。この大教会はどんなようすだったのだろうか。それはずんぐりした建造物で、建築様式としては優雅さを欠くのだが、その強烈な装飾で鈍重さを償っていた。詩人フォルチュナはその豪華さかげんを大げさな賛辞で表わしている。彼はそれについて、おそらくは船頭たちによって建てられた古いユピテル神殿に由来すると思われる大理石の柱、モザイク模様の舗道、フレスコ画が描かれ、また金箔で覆われた壁、ガラスの仕切り、銅で葺かれた屋根などについて描写している。
 同じシルドベールはトレドの西ゴート族の討伐から帰ったとき、聖ヴァンサンの寛衣と夥しい数の聖杯および金の十字架を含む、数々の戦利品を持ち帰った。ジェルマン司教はシルドベールに対し、これらの財宝とりわけ聖遺物たる徽章を安置するための教会を新たに建立するよう勧めた。国王はのちのプレ・オ・クレールの名で知られることになる牧場に接した公共浴場にほど近い場所を敷地として選んだ。教会は聖ヴァンサンに奉献された。それはのちにサン=ジェルマン==プレの僧院付属の教会となった。シルドベールはこの教会のために多くの不動産を寄付した。聖ヴァンサン教会が落成し開堂したその年に国王は死去し、ここに埋葬された。この教会はダゴベール王に至るまでのメロヴィング朝の「サン=ドニ教会」に相当するといってよい。
 伝説によれば、サン=ヴァンサン(およびサント=クロワ、この大教会もこの2人の聖人の庇護を受けている)大教会はイシス女神に捧げられた神殿の跡地に建てられたことになっている。このことは、異教信仰の最後の痕跡をも執拗に抹消しようとしたジェルマン司教がこの場所を指定したことを明らかにする。そこでは風変わりな女神の真っ黒な小立像が崇拝されていたが、やがてそれはその起源が疑う余地のまったくないほど異なっている聖母像と混同されるようになる。コロゼの説明によればこの小立像は次のような状態であった。
 
「痩せており、背が高くその古さゆえに黒く、その手足のまわりに絡みついている肌着の模様を除くと裸であった。それは十字架上のキリスト受難像の安置された北側の壁を背にして立っていた。」
 
 1514年、サン=ジェルマン大修道院長ギヨーム・ブリゴネはこの冒涜的な信仰を終わらせるために、これを取り壊させた。しかし、これは、オシリスの姉であるとともに妻でもあったイシスの表わしたものであるだろうか。
 大聖堂として、そしてその大きさはおそらく威風堂々たるものであっであろうが、その建物は金箔を施され、陽光を浴びて煌くブロンズ製の屋根を被っていた。1576年、ジェルマン司教はこの世を去り、隣接する礼拝堂に埋葬された。教会はそれ以後、サン=ジェルマンという名に変わり、その屋根ゆえに「金メッキ」という渾名をもつことになった。その大修道院の歴史家ドン・ブイヤールは改築工事の際に発掘されたメロヴィング王家の遺物について記述を遺している。
 
「遺骸は、外面に飾りの施されていない石棺の中に安置されていた。それらのほとんどすべてが絹または他の貴重な布で作られた経帷子に包まれていた。いくつかは芳香をもつ牧草のベッドの上に寝かされ、残りは香料の薬瓶に囲まれていた。金刺繍の布地、肩帯、履物などの切れ端もまたこれらの墳墓から収集された・・・。」
 
 ベルナール・ド・モンフォーコンの『フランス王制の記念碑』(パリ、1729年刊)によるとこうである。
 
「国王(シルデリク)の頭上に王冠の形をした大きな金モールの飾紐、その顔を覆っていた金地のリンネル、拍車などを見たと称する人々がいた。彼らは続けて言う。国王のバンドはほぼ完全無疵の状態で残り、1ピエの幅があるようだが、一定の間隔を置いて輪穴と銀の装飾が並んでいた。」
 
 カリベールの墓ではハシバミの樹、杖、折れて錆びた剣、そして「頭が尻尾を齧らんとしているように思われる」双頭の蛇を彫った銀タイルなどが発見された。王妃フレデゴンドの遺物をしっかりと覆っていた墓石についていうと、発見した人はそれを見てひどく訝しく思った。
 
「顔のあった場所は空っぽである。そこはおそらく彩色を施されていただろう。手のあたりにはこれまた今日では、剥き出しになった石があるのみ。顔もまたおそらくは金または銀に後から彩色を施したものであっただろう。」
 
 しかし、われわれは先を急ぎすぎたようだ。558年におけるパリ王シルドベールの死の話に戻そう。その死はクロテールにとって予期せざる授かりものとなった。なぜなら、以後は彼がクローヴィスの4人の息子のうち唯一の生存者となったからである。わずか3年という短い期間、彼はパリを首都とする広大なフランク帝国の首長として復帰した。
彼の長子クラムはいくぶん独立の気があり、ブルターニュ王コナベールに保護を要求した。クロテールは彼を逮捕し、一軒の木造家屋に妻子共に閉じ込めこれに火を放った。悔悟の念にとらわれたクロテールはフランクの風習に従って引退を心に、ツールへの巡礼の旅に出て、聖マルタンの聖地に寄進をおこなった。思うに、これこそ、彼の罪業のなかで最も顕著なものであった。彼は王国にあっては絶対的にして並ぶ者なき首長であったにしても、その死の瞬間まで彼の作中人物――野獣のごとき国王のなかで最も流血を好み、狡猾であった――であることをやめなかった。彼は狩猟に出かけるときに感染した肺炎が因で561年に死んだ。改悛の色があまりに些少であったため、欠くも偉大なる君主に悲惨をもたらした天を罵りつづけた。
 クロテールもまた4人の男子を、すなわち、シジュベール、カリベール、ゴントラン、シルベリクを遺した。嘆かわしいフランクの法に従って、クロテールの帝国は国民の利益を犠牲にして凡俗な相続によりばらばらに解体された。シジュベールはアウストラジアを、ゴントランはブルゴーニュを相続した。カリベールはパリの王に、そして、シルベリクはソワソンの王になった。紛争、残忍な戦闘、政治的殺戮があとに続いた。バジーヌ妃の古い預言はあまりにもぴったりと現実のものとなった。一角獣とライオンの時代が終わると、熊と狼の時代が訪れたのである。クローヴィスの孫たちはちょっとばかり貪欲さと毒性を失ったようである。彼らのうち2人すなわちシジュベールとシルベリクは真の意味の魔女を娶った。彼女らは兄弟殺しの憎悪を掻き立てる役を引き受けたのである。

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