matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

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151. 小学校段階から教員は理系と文系に分けるべきである
 
科目への誘い役として教師の果たすべき役割はきわめて大きい。中・高時代も重要だが、小学校段階がいちばん重要である。初等教育の場合、生徒の科目の好き嫌いは教師しだい、というのはよくあることである。そのように教師の役割は重大だが、その意味で小学校の授業において本来的に文科系の教師が理科や数学を担当するのは疑問に思う。たかが初等教育というなかれ、教師にわかることと生徒に教えることは別次元の問題である。理科を得意とする教師は同じ教え方をするにしても、いろいろな立場からのアクセスが可能であち、生徒の感興を誘う。もちろん逆も真なりである。理系教師が国語や社会を教えるにはおのずと限界がある。まず、不承不承、おっかなびっくりの及び腰では生徒に教科のおもしろさや感動を伝えることはできない。
実をいうと、授業でいちばんたいせつなことは教師の意気込みや感動の披瀝である。これは確実に生徒に伝播する。不得意科目を担当している教師が生徒に、その科目を学習することの意義こそ伝えられても、学習の感動を伝えることはむりである。教育とはうまく教えるという技術的な問題ではない。いちばんたいせつなのはパトスである。教え方は下手くそでもかまわない、教師の担当科目への意気込みというの確実につたわる。そのためには、教師自身が科目に熱情をもつことである。不得手で気乗りしないのを、なんとかあたり触らず切り抜ける態度でいるのがいちばんよくない。だから、担当教員を大雑把に理系と文系に分けて配置すべきである。体育や音楽も然りである。
 20年以上も前のことだが、娘が中3のとき、英語のほとんどわからない女性教員が英語を担当したことがある。生徒にとってこんな不幸なことはない。人柄こそ好い教員だったが、それだけで英語教育がうまくいくはずものない。市販のテスト用紙を配るだけで終わった。だから公立学校はダメといわれるのだ。たぶん欠員が生じてこんなことになったであろうが、塾などでは絶対にこうしたことは起こらない。
 教場での失敗を懼れてはならない。そうした失敗はかえって生徒の好奇心を刺激することがある。評者が経験する範囲で大学においても、正直言って、10回の授業で1回ぐらいしか満足感を覚えない。うまくいかなかったときの後味の悪さは経験したものでしかわからないだろう。しかし、教場で失敗することも重要な教育となりうる。「自分がまちがうはずがない」、「何でも教えてやろう」といった“上から目線”で授業に臨むのはよろしくない。学生は萎縮するだけである。それよりも失敗した――たとえば、教場で立ち往生してしまう、沈黙の時間が流れる――ときのほうが、学生は何かを感得するのである。期末の学生による授業アンケートでも、今年は授業がうまくいかなかったというときのほうが案外、評価が高かったりすることがある。

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