matsui michiakiのブログ

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432. 中世都市の誕生の歴史的意義
 
【質問】
論点は二つある。
一つは、授業レジュメにある「都市は陸の孤島であり、封建社会のなかで異端児」という記述である。すなわち、高校で習う世界史は政治史ないしは法制史であり、領主や王国単位で物ごとを考えるため、封建社会が当時の社会構造のすべてであると錯覚しがちである。都市の経済活動の歴史を追わないと、中世・近世の封建的社会と近代以降の資本主義社会の関係を持続的に理解するのは難しい。そういった意味で市民の生活史に注目し、もう一度世界史を見なおしてみたい。
 もう一つは、都市において文芸作品を嗜む心や現世的享楽などの新しい価値体系が生まれ、画家や彫刻家への資金的援助がルネサンスの要因となったのではないか。
 
【回答】
 二つの論点のうち、ここでは前者のみについてコメントしてみよう。
筆者は、政治史に劣らず経済社会の歴史の視点をもつことが封建社会の研究に欠かせないこと、それと並んで市民の目線で歴史をながめることの重要性を指摘している。まさにそのとおりである。
たとえば、「封建社会」という語を聞くと、ほとんどの人が主従関係つまり「封建制」を頭に描き、社会や経済のことを忘れ去ってしまう。社会や経済を考慮すればこそ、次代の市民社会との連続性ないしは継承性が頭に浮かぶ。政治は基本的に政権交代を意味し、それだけに着目すると、中世と近代はどうしても切断されがちになる。視野を社会と経済にまで広げてみると、中世と近代ともにある種の資本主義が認められるし、それら資本主義のあいだにも何らかの共通項があり、その結果、中世と近代の連続性が浮き出ることになる。
 ここではこの問題についてもう少し突っ込んだ議論をしてみよう。
 中世都市と近代国家においては軍事・外交・政治・経済・社会・文化面で似た面がある。以下の項目のなかで( )内の事項は中世都市に固有のものである。
 ・  (軍事)  防衛(築城)権、軍備権、徴用・徴発権、交戦権 
・(外交)交渉権、条約締結権
・(政治)代議制民主主義、政治参加の平等原則、政府構成権、官吏任免権
・(経済)経済政策、経済(ギルド)統制、造幣権、度量衡監督権、市場権、
               課税権、(ステープル権)〔注〕
・(社会)福祉、慈善、公立職業訓練所、祭祀、(公設質屋)
・(文化)公立学校、文化政策、(公設劇場)
〔注〕ステープル権とは「通過貨物荷解き特権」のことで、その都市を(水路または道路を)通過する貨物に関し強制的に荷解きを命じることができ、その貨物から通行料を徴収したり、その都市に必要な原材料であれば強制的に売却させたりできることを指す。都市のエゴイズムの表れであり、現代国家の保護関税制度に相当する。
 こうみてくると、中世の都市国家と近代国家の相似性が浮き出ていることがわかる。もし対象を農村だけに絞ると、領主=農民関係しか明らかにならず、中世の「反」近代性のみが鮮明になる。上記に示した各項目はすべてもともとは領主権に含まれ、領主の許可がなければ何ごともなしえなかった。しだいに都市は領主権の一部を買い取るか、あるいは力づくで奪取することによって、獲得したのである。ここから、中世都市は近代への足がかり得たが、農村のほうは封建制および領主制の牙城のような様相を呈したままである。
思うに、わが国日本にはヨーロッパに見られるような中世都市の伝統は薄弱である。だから、中世と近代の切断面のみが強調されるがちである。では、わが国では中世都市の伝統が皆無か!というと、そうでもない。中世都市および近世都市においてある程度の市民自治は保証されている。以下、それをみてみよう。
 室町幕府の成立によってあらためて首都となったには公武寺社諸権門の拠点が集中した。東寺、東福寺などの大寺社は土地を集積して「境内」の拡大を図り、居住する商・職人を直接的に支配した。このころ、参道とその両側に「町」が形成されつつあった。ここにおいて幕府の権力とは独立した支配=自治の権力が存在することを意味する。都市の住民にとって家屋所有や居住権はまだ不安定ではあったものの、寺社側が恣意的に住民の退去を強制することはできない。
室町期の鎌倉においても鎌倉府が設置されていたが、そこはひきつづき関東の政治・軍事・経済の拠点であった。奈良では寺社権門が「市」を興行し繁栄していたが、一方で郷民は自治組織を形成し、町内には店舗を構える商人が増えた。
 地方では国府の権力を在地豪族や武士を掌握し、留守所と在庁官人居住地の周縁には「市」・「津」・「宿」が形成され、「府中」と呼ばれる都市域が発生した。また、商業や交通に伴い、西国に「津」、東国に「宿駅」、交易中心地の「市」「町」が各地に展開した。
 応仁の乱以後、京都の住民は戦乱から身を守るために要害「構」(お土居)を構え、地縁自治組織「町」を単位に「町組」を結成し、さらに上京と下京の「惣」などが自治活動を発展させる。京・奈良・堺・博多「町衆たち」は交易を通して経済的文化的な成長を遂げ、茶の湯など民衆の都市文化を発展させた。
 自治組織は浄土真宗や法華宗が建設した「寺内」でも高揚をみせた。1496年に本願寺を本山として建設された石山「御坊」「町」の構成から成り、町にはさまざまな商・職人が居住し自治組織が置かれ、要塞化が進められ、1580年に織田信長が開城するまで繁栄を極めた。
戦国期には町と境内が重層的に結びついた戦国城下町が戦国大名下で建設される。武家屋敷や寺院を取り巻くかたちで自律的に開発された民家が建ち並び、領主(大名)は商工業者に特権を与えて城下に集住させ、町人地を形成する
身分や権能によって居住空間を区分した城下町が日本各地に建設されはじめ、境内と町は領主の城を中心とした空間のなかに再編されていく。
 秀吉や家康が中央権力を掌握しはじめると、「境内」「町」から成る複合的な都市空間の解体と近世的な都市空間の発生。秀吉の太閤検地の実施により重層的であった土地所有権は領主に一元化されていく。
 中世から近世へ移行するにあたり、都市が権力の機構の下に組み込まれていくが、そうはいっても、市民自治(特に治安維持、相互扶助、祭祀、娯楽、旅行、寺子屋)は連綿と続く。これがあればこそ、元禄期の江戸は百万都市でありながら、岡っ引きなど警察機能をもつ役人はわずか300人しかいなかったのである。また人口30万都市の大坂には武家はなんと!1,500人しかいない。これゆえに町人の町大坂と武家の町江戸では雰囲気がまるで違うのは当然であり、それは今も引き継がれている。それにも拘わらず、江戸はむろ、この代表的な商人町の大坂も治安維持の面でなんら問題をかかえなかったのである。
西洋と較べ日本の中世・近世都市に欠けているものは軍事・外交の分野である。今後は封建社会の研究において都市自治の態様を考察対象に含める必要があるといえよう。

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