matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

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新国境の思い出(4)

第3章  国境の狭間で
 
第1節   シュネーブレ事件
フランスとドイツ連邦の間の1815年から1870年までの国境と同じように、1871年の国境は開かれた国境であった。わが同胞はしばしば監視され、有刺鉄線の張り巡らされた軍事的障壁のようなイメージとしてもち、勇敢な英雄が生命の危険を賭してそこを越えてくるのを想像しがちである。実際はまったく異なっていた。たしかに、帝国の鷲を戴いた国境柱は新たな主権者の苛立たせる象徴であった。しかし、国境付近の住民は何の障害もなく自由に隣接の畑や村落に出かけることができた。列車の乗客は税関吏と憲兵のコントロールを受けねばならなかった。それから列車は国境駅で長い間停車した。それまで国境駅はなかったのだ。ナンシー=メッス線のパニー=シュル=モーゼル駅とノヴェアン駅、ナンシー= ストラスブール線のアヴリクール駅、ブリー=メッス線のバティイ駅、アマンヴィリエ駅がそれらである。フランスとドイツの警官が旅行客の移動を監視した。彼らのうちのひとりギヨーム・シュネーブレが、あわや開戦の瀬戸際にまで発展した大事件のゆえに歴史上に名をとどめることになった。アルザス出身のシュネーブレはもと教授だったが、ティオンヴィルで特任監督官になり、ドイツ語に堪能であったために、エムスでベネデッティ大使に付き添った経歴をもっていた。1870年以後、彼はドイツ側の申出を断りその地位に就いたのであった。彼はまずムルト==モーゼル県ブリーで任に就き、次いでメッス= ナンシー線のパニー=シュル=モーゼルで任に就いた。
『東部年報』の記事において、ギ・カブルダンはムルト== モーゼル古文書館に保存さているシュネーブレの398件の報告を分析した。この県の知事は彼の部下を自慢にしていた。
「シュネーブレ氏はわが特任監督官の中で傑出しており、もっとも確実な情報を提供してくれる。彼は現役の官吏にして、当地で高い評価を受けている」、と。
旅客の身分を確かめたのちに、これらの特任監督官たちは情報を集めた。フランス人と同様、ドイツ人も通信網を維持していた。彼の前歴と人的関係によりシュネーブレは併合地のアンテナの役割を果たした。彼の同僚もそうであっが、人々はスパイという名を口にするのを憚ったが、当時はスパイがうようよしていたことを忘れてはならない。それの大部分がまだ保存されている報告を読めば、経済生活や商業取引に関する情報を得ることができる。それらのことは会話や新聞の切抜きでわかる。これらの文書は当時の雰囲気や感受性をとらえるのに格好の資料である。それらは人や産物の往来について国境が平穏であったことを示している。アマンヴィリエの監督官はピエールポン地方の労働者の季節的移動について記す。
「失業のためにメッス要塞の土木工とおなじようにやってきた、大変恥ずかしいことだがそのことを口にする。しかし彼らは家族を扶養しなければならないのだ」。
イタリアの最初の移民労働者が現れる。「メッスとヴェルダンの間を往来したのは土木工である。彼らは受入れ先で腕力を提供するのだった。」重要人物でさえ名を秘して旅行した。1879年、ティエール夫人は夫の栄誉を称えて立てられた立像除幕式のためにナンシーに招かれたが、彼女はフレデリク・ド・カルシーによりレオポルト宮廷の美邸に招じ入れられた。彼女に与えられた助言にもかかわらずティエール夫人は何が何でもメッスに行くと言い張った!
「われわれは彼女を思いとどまらせることができなかった。政友、姉、私はこの旅行が不都合であると見ていた。彼女は住民の側からのデモを誘発しかねなかった。もしそうなればドイツ人の不興をかう可能性もあったし、またプロイセン当局による慇懃な扱いやサービスの提供を招じさせる可能性もあった。その申し出を受け入れるのも癪にさわり、また拒絶するのも微妙な問題を招じた。そこでお忍びとなったこの旅行に私はお供をした!午前八時に出発し、われわれはナンシーに4時に戻った。」
国境交易は以前と変わらず継続する。ブリーの住民がメッスの店舗に買物に出かけたり、ナンシーに行ったりする習慣をやめたのはきわめて徐々にあった。フランス人は穀物、ぶどう、葡萄酒、ウェーヴルとブリー地方の豚肉をメッスに運んだ。馬の売却についてはそれが軍事的意味を有していたために重用事と見なされる取引であった。移住選択をし、エタンに住み着いたウッカンゲの馬商人レヴィ某はドイツ軍に売られるべき数頭の馬を保有していた。この断言は確証されなければならない、監督官シュネーブレは1875年に記している。重量産物に関してはフランス人は1870年代にドイツに金属製品や鋳造物を売った。ザールのナンシー向け石炭販売の伝統的な流れは今や仏独関係によってよりもベルギーと北仏の競争相手の出現によって影響を受けるようになった。ナンシー盆地の鉱石のザールへの移送はそれが高価すぎるゆえに途絶した。
最終的に、通商を妨げたのは関税率の引上げを伴うところの保護主義の回帰であった。この事はメッスの住民がナンシーにやってきてフランスの製品を購入する妨げとはならなかった。メッスのドイツ人についていえば、こっそりという条件でスタニラス広場の見物に彼らが来るのは観光客としてであった。1887年から1891年の間だけが緊張ゆえに往来が困難な唯一の時期であった。フランスとあまりに密接な関係を弱めるためにビスマルクは彼が長い間躊躇してきた方策をとる決意を固めた。躊躇してきたわけは、その当時それが異常なことと見なされていたからだ。その方策とは併合地に入るのにパスポートの提示を求めるということだった。パリ駐在のドイツ大使に要求すべきこの資料は値段が高く、獲得するのに時間がかかったし、しばしば拒絶に遭った。探求された目的はフランスに身を落ち着けた選択者と併合地に残留した家族および知人の間の接触を減じることであった。この目的はほとんど攻撃的ではなかった。なぜならば、コントロールは今日ほど厳しくなかったからである。いくばくかの巧妙さと共謀があれば、網目を潜ることはできた。ナンシーで医学を修めたメッス人のポール・ジャンドリーズがわれわれに語るところでは、メッスの伯父のアンリのところに行くのにパスポートは不要だったという。彼はアルナヴィルとノヴェアンの間のブドウ畑を通って国境を肥えた。ついでメッスに到着すると、彼は市の民警の目に留まるのを避けた。ほとんどの村落にはドイツ人はまったく存在しなかった。匿名の非難という危険を排除してはならなかったとはいえ、この懸念はまったくの杞憂だった。最悪でも数日間の拘留ののちの追放が待っているだけだった。非常に不人気であったパスポート制度は一時的な苛めであった。それは4年間つづいた。1891年、ビスマルクが退任したのち、ヴィルヘルム二世は現役兵士のみを除きこれを廃止した。
ドイツ側からもフランス側からも国境は心理的ないし軍事的な意味をもっていた。フランス人にとって、それは切断と敗北の国境であった。「陰気な鷲」の章と「ドイツ帝国」を刻む国境の柱はたえずこのことを思いださせた。ブリーでの生活を思い出す小説「ジャン・ペルバル」において、ルイ・ベルトランは国境で愛国心の幾多の兆候を想起する。1882年ナンシー市長に任命されたサヴォワ人のテュリナス猊下は国境の司教となったとき、かれの教区民と一心同体の感情にとらわれた。彼らは大衆に向かって話すのを好んだので、彼はマルス= = トゥールの記念式典に参列を求められた。彼はここで「愛国的誓約」を発したが、それを聞いたフランス政府は事件の発生を恐れて、いくたびか繰り返して参列自重を勧めた。今日、その文を読み返すと、それらが非常に古びて、思い出の力が失われているのに気付くだろう。それらは 同時代人の願望と感受性に与えられたものである。「国境は不変ではありえない」、「フランスは20年以上も前から思い出し、準備し、希望している」と述べること、「国民の生き生きとしたイメージ」たる軍隊は決して結合していないし、あらゆる犠牲に差し出されてもいない」と繰り返すことは、たしかに直接的に報復を呼び掛けてはいない。しかし、それはビスマルクの言うように「灰塵の下に残るおき火を維持すること」にほかならなかった。またそれは「愛国的願望」を蘇生させること、すなわち1870年の国境が不正であること、この不正はいつの日か終りになるだろうこと」を思い出させることだった。この点にかんして、当時、ナンシー大学で歴史学を学んでいたルイ・マドランによって語られた挿話と。彼の師クリスティアン・プフィステル教授について語ることにしよう。中世史学者で共和派のアルザス系のこの学者は口述の合間に弟子の教授候補者たちと気晴らしの時間を過ごすのを常とした。この年、彼は彼らをブラン、つまりその当時国境となっていたセイユ川左岸の小さな村落に連れて行った。
「われわれは昼食をとろう。暑いので、メッスでモーゼル川の水が合流するところの小さな小川の岸に座ろう。プフィステルは静かな対岸を見つめ、彼の側にいた私は明らかに彼の考えていることが分かった。彼はとつぜん口を開いた。『マドラン君、ごらんよ。君はどきどきこの臨時の国境の前に立ち戻らなければならないよ。そしてしばし心臓に短刀を突き刺す必要がある。こちら側で大地を耕すこの勇気ある人々がフランス人でないことを考えてみたまえ。にもかかわらず、若者たちは一本角兜をかぶっているのだ。なぜならモルトケ氏がそれを欲したからである。恥ずかしいと思わないかね。しかし、この歴史はいつか終わるだろう。きっと!』」
ドイツ側ではこうした言葉は聞き届けられなかった。ドイツは国際的には尊敬された。フランクフルト条約はフランス国民議会で批准され、新しい国境は完全に合法的なものだったからだ。1871年の既成事実は覆し難いものだった。彼らは何であれ交渉に応じることができなかった。
完全に両立し難いこれらの2つの立場はこの国境が開かれた国境にとどまることを妨げなかった。1914年まで、民間人は何らの形式もなく、両方向に国境を超えたし、重大な事件が発生するのもきわめてまれなことであった。
 
第2節   国境の防御施設
ドイツと同様、フランスでもフランクフルト条約の基礎が脆弱であることが知られていた。それがどれぐらいの間尊重されるかを断言できる人は皆無だった。すべてが力と状況の均衡に依存していた。国境の防衛は全体的な軍事作戦と戦略計画には書き込まれてはいたが。
敗戦直後に孤立したフランス政府は専守防衛の立場に身を置く。再侵入が起きたばあい、防衛施設のないパリへのルートに通じる「開いた傷口」を即時閉鎖する必要があった。もちろん、ドイツが主敵であり、ドイツ側からの電撃攻撃が恐れられた。この仮説に対抗するため、3つの塹壕兵営をなす“盾”の設営に着手された。それらは数多くの抵抗拠点として残り、敵をヴェルダンの北のストゥネー方向と、シャルム地方のナンシーとエピナルのあいだの2つの狭間で会戦を余儀なくさせるはずであった。セレ・ド・リヴィエール将軍が自分の名をつけたこの防衛作戦は3つの防波堤に基礎をおいていた。すなわち、ヴェルダン、トゥール、エピナルの要塞地帯がこれだ。その役割はフランス軍を迅速にラングル〜ショーモン〜シャロン=シュル=マルヌの軸の南に集中するのを容易ならしめるため、敵の進軍を遅らせることだった。こうした防御布陣の選択はナンシーを故意に犠牲に差しだすものだった。宣戦布告がなされた際にはナンシーは開かれた町を宣言する手はずになっていた。
「東部フランスの大通り」「アルザスの断片」たるベルフォールは特権的待機を享受した。「いかなる召喚もしないことが必要であり、それがベルフォールの隘路の防御の要であった。」
石づくりの要塞は187475年に建造された。エピナル〜リュール鉄道線が急いで敷設された。ソーヌ川渓谷とラングルまでのフランシュ= コンテでは、1870年の侵入と同じタイプのそれの再発を防ぐ目的で防御陣地が敷設された。
この盾の後ろで、第2ラインがシャンパーニュ側に設置された。第2ラインは東はシャロン、ラングル、ディジョンで、西はランス、ラン、ソンム川で支えられる。現役軍の全体の動員がなされるまで20万の強力な軍の集中が準備されるのはシャンパーニュの側である。この布陣ではシャロンに設置された第6軍事地帯の総本部が枢要の役割を演じるはずであった。第2ラインの盾と要塞化はかなり迅速に実行された。債券が発行され、1870年代の末には石造工事は完了した。かなりの兵力がフランスに振り向けられる可能性のあるベルギーを牽制するため、メジエールとシャルルヴィルに陣地が築かれた。だが、それは弱体だった。なぜならこの当時、ドイツ軍がベルギー領を通過する可能性を無視できなかったからだ。援護部隊(歩兵と騎兵)は最良の現役軍のなかから選抜された。同軍は敵の進軍を妨害し、予想される軍のラングル〜ショーモンへの集中をかなり南方で保護することだった。鉄道網は軍用鉄道で補強された。こうすれば、軍隊が戦闘配置につく場所に集中するのが容易になるはずであった。1870年の誤りと義務欠怠が克服され修正された。アンリ・コンタミーヌは著書『報復』の中で、集中の継続的計画を検討している。彼の示すところによれば、作戦の基本は1880年代の末まで防御的なもののままであったという。ヨーロッパのコンテクストにおいて東部国境はフランス政府の唯一の関心事ではなかった。フランス政府は、ドイツの同盟国たるイタリアの脅威を受けたアルプス国境を防御しなければならなかった。政府はこの目的でタランテーズ、モーリエンヌ、オート=デュランスの渓谷を要塞化した。ブリアンソンを見下ろす頂上に位置する数多くの要塞は一世紀後もなお、こうした配慮があったことを物語る光景である。
新ドイツ帝国にとってアルザス=ロレーヌは防御斜堤のようなものだった。ビスマルクとプロイセン諸将はこのことを繰り返し述べていた。ドイツの戦略的利害のためにこの空間をどのように組織化すべきか。ドイツ軍参謀本部は恒久的な要塞化よりも進撃のほうに重点をおいていた。参謀本部が遺産として受け取った要塞を整理し、同本部は財産目録をつくった。周辺部のマルサルとフアールスブールは防備を外され、ストラスブールも砲台を取り除かれた。ティオンヴィルは、その軍事的価値がいかに薄れたとはいえ、防備はそのままに残された。反対に、フランス軍当局によって着手されたメッスの4つの外部要塞は完成され、1870年の勝利者の名をとって、マンシュタイン、アルヴァンスレーベン、フリードリヒ=カールと命名された。それは以後、ヴェルダン、トゥールを仮想敵とし、抑止力と防御の機能をもつことになった。ヴォージュの線は要塞化されなかったし、ベルフォールに面するアルザス南部も同様だった。ヴォージュとライン川の間の空間はあまりに狭いため、フランス軍は攻撃できないものと見られていた。ヴォージュ渓谷のみが、フランス軍がアルザスへの侵入を妨害する目的で抑止要塞によって閂をかけられた。いずれにせよ進撃の優位を確信するドイツ参謀本部は軍事的道具をこの意味で完成させた。アルザス=ロレーヌは援護兵力で支配され、その目的は防御におかれた。ストラスブールを司令本部とする第5軍団は5万を超えなかった。メッスの守備隊はもともと弱体で、フランス支配下におけるのと同じく7〜8千しか配備されなかった。明らかにドイツ参謀本部はフランスの急襲を想定していない。1874年、1881年、1887年の7年兵役制は同本部に均衡兵力ないしおそらく優越兵力を維持するための物材と人材を提供した。もし軍事的優越が評価の対象となり、論争ができることならば、外交的優越は必要なかった。たしかに1871年以来、参謀本部は西部で対フランス、東部で対ロシアという2正面での同時戦争の想定に直面した。ロシアがドイツとの友好関係を維持し、そしてビスマルクが成功裡に事をすすめることができるかぎり、このタイプの紛争は考えられないことだった。ドイツの優勢はデュプリス条約の締結(1881年)によってさらに固いものとなった。この条約はオーストリア=ハンガリーとの同盟であり、この結果、3国同盟(ドイツ=オーストリア=イタリア)によってフランスはアルプス国境に防御陣地を築かなくてはならなくなった。
技術と外交という2つの与件は相互に入り交わりながら国境の軍事的様相を変えていく。技術進歩はメリナイト爆薬の砲弾の発明物である。これは恒久的要塞の構想の変更を迫る。石造砲塁はもはや非常に脆い防備となった。それを砂層または鉄筋コンクリートで保護しなければならなくなった。セレ・ド・リヴィエール計画のすべてが達成されるか、されないうちにそれはもはや古すぎるものとなり、メッスの分離要塞も同じ運命に遭った。未来は地下要塞に向かった。敵味方双方ともに防備体系について考えなおす必要があった。二番目の与件は外交術であり、それはドイツ帝国とロシア間の関係の悪化に起因した。ビスマルクはこの国との友好関係の維持が不可欠と考えたが、ヴィルヘルム二世は反対の意見をもっていた。ビスマルクと皇帝の間の齟齬という複雑な根をもちつつ、ロシアに対してとるべき態度の差が老宰相の辞任を早まらせた(1890年)。
これは構造的変化にほかならない。なぜなら、社会の上層から下層にいたるまでプロイセンとロシアの同盟はナポレオン一世以来ずっと安定していたからだ。この意図的な放棄はロシアの指導層に行動の自由を与えることになった。彼らはフランスに接近し、1893年に同国との間に攻守同盟を結んだ。同盟は脆かった。それはドイツをして2正面戦争の仮定を前面に押し出させることになった。2対となったこうした2つの与件のためにドイツ参謀本部は戦略計画と兵力の分割配置を修正せざるをえなくなった。
これら2つの相互に絡まった与件のためドイツ参謀本部は戦略計画を修正し、軍の再分割を余儀なくされた。国境を要塞化するか、少なくとも重要地点の要塞化が不可欠となった。メッスに塹壕野営陣地の新たな構築がなされたのはこの目的に沿ってである。20年以上を費やしたこの工事はフェストの構築に達した。これはコンクリート製の装甲を施された広大な地下要塞である。ティオンヴィルを含め、この要塞の周辺は約70キロメートルにも達した。これは世界最大最強の要塞構築物であった。平行してこの軍事地域には第16軍団が配備された(メッス)。ビッチュ、サールブール、デューズ、モルアンジュはメッスとヴォージュの間の空間を維持した。このことは軍事用語で人は「ロレーヌ隘路」と呼ぶ。西方に向かってドイツ軍はもはや攻撃に直面しない。この急襲はヴェーヴルにおいてメッスの全軍を挙げてヴェルダンに進撃すればよくなった。ドイツ軍は敵軍の新劇断念を願ったのであった。
フランス側では1887年に危機到来の場合、幾つかの警戒措置を取らざるをえなくなった。ビスマルクの引退、国際関係の変化はフランスにとって有利な要素だった。このときシャルル・ド・フレシネが陸軍大臣の地位にあり、彼は以後5年間(188893年)留任した。初代の文官の陸軍大臣は、彼がトゥール派遣部で職務について以来描いていた意向の幾つかを実行することができたが、その業績はかなりのものだった。そのひとつに大臣局の中に参謀本部の設置が挙げられる。東部国境に関していえば、エピナル、トゥール、ヴェルダンのセレ・ド・リヴィエール式要塞の近代化に着手した。それらの幾つかは鉄筋コンクリートの保護を施され、装甲砲台が設置された。ヴォー、ドゥオーモンのような新要塞は新たな要求に対応したものだった。要塞の前の野営陣地の防備に重点が置かれ、掩護部隊の増員がはかられた。第20新軍団はトゥールとナンシー師団に創設された。守備隊はトゥール、サン= ミエル、モンメディ、ナンシー、エピナルで増強された。集中計画は国境近辺において、シャロン以北、トゥールとヌフシャトーのあいだ、エピナルとベルフォールのあいだに作成された。戦時において大軍をもってのロレーヌでの攻勢に対処するため、防御態勢の構築案は放棄された。かくて、1870年の25年後、国境付近は双方ともに防備を施されたが、平和のうちに時が流れる。大演習中の独仏両軍はともに国境付近で写真を撮りあった。トーチカも有刺鉄線も見当たらなかったが、畑地と森には静寂が広がるだけであった。

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