matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

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新国境の思い出(5)

第4章   失われた2州のイメージ
 
1節   メッスとストラスブール
フランス人は奪われた 2ついてどのようなイメージをもっていたのだろうか。このイメージは時とともに変わったのであろうか。それは国土全体において同質のものだったろうか。
フランス人のうち失われた2州について直接の知識をもつ者はごく少数だったことを想起する必要がある。守備隊で過ごすか、または参戦した(この点に関してメッスはストラスブールよりもずっと馴染みが深かった)ことのある兵士らと、われわれが今まで考察してきたところのフランスの各地に散った亡命者とを区別する必要もある。他方、これら2つのカテゴリーは同じ認識も、また同じ利害ももっていない。だからこそ、多くのフランス人はしばしば現実からかけ離れ、新聞・歌謡・学校により流布されたステレオタイプに基づいて生きてきたのだ。政治家の儀式的な宣言、記念日の演説ないし記念式典が絶えず想起させるところの、そして、その主要な特徴が戦争直後に形作られたところのアルザス=ロレーヌの神話である。
しばしば2州は相互に連携され、最もよくあることだが個性化された。不幸と希望において両者を接近させるイメージ、最も人気があり、最も広がったもののひとつであり、かつ最も感動的なもののひとつでもあるイメージというのは宗教的な衣装をまとったアルザス娘とロレーヌ娘の2人の女性のイメージである。背景に、失われた2州の地図とアルザスの村のシルエット、ヴォージュの松またはストラスブールの大聖堂の塔が描かれている。
尊重される愛国的なあらゆる儀式において、子どもらは参列し、ときには息子や娘たちも軍民当局の側に並ぶ。彼らの存在は、失われた2人の姉妹の国民的共同体に属する、生きた象徴であった。
ロレーヌの代表はおそらくはアルザスのそれよりも混乱していただろう。敗戦直後、メッスとナンシー間の以前の紛争をもみ消そうとする地域的な自覚があった。人々は、ロレーヌ州は一つの州であることを見いだす。これは1870年以前にはほとんど考えられないことだった。忌まわしい国境によって分かれた両州は、ドイツ軍が紐帯を断ち切ろうと欲した、単一の人的および精神的な共同体を見た。こうしたテーマを発展させ、ロレーヌの「統一」の象徴的場所のシオンの丘への巡礼の際に表明したのは保守的かつカトリック的勢力であった。1873年、ロレーヌの司教らは聖母マリアの祭壇から、方言で「これはいつもというわけではない」と銘うたれたロレーヌ十字章を追放した。象徴的に壊されたこのロレーヌ十字章はたとえばエミール・ガレの陶器にしばしば利用される装飾的な要素となった。
同じ傾向ではあるけれども、10年のずれのある方向において、ジャンヌ=ダルクの祭式の驚くべき躍進を置かねばならない。多くの僧侶はこの神話の同化と流布において一定の役割を果たす。なぜ民衆の反応がかくも熱情的で、長つづきするものだったのだろうか。提案されたジャンヌのイメージは態度と感受性に一致することは疑いない。ドンレミの巡礼は多数の参加者を数え、詰めかける大衆を受け入れるために新しい礼拝堂を建造しなければならないほどだった。ジャンヌ=ダルクの祭式は本質的に宗教的な次元のものであり、それに基づいて愛国的な暗示の意味が込められる。ジャンヌは大義、すなわち国土の解放のために神から遣わされた人民の娘であった。よきロレーヌの娘はその眼差しと剣を忌むべき国境の方に向ける。彼女の栄誉を称え人々が歌う聖歌と賛美歌は反ドイツ一色であった。ジャンヌ=ダルク像を立てることは宗教的であると同時に愛国的な行為となった。ドイツ人はそれに思い違いをしなかったし、併合地におけるジャンヌ=ダルク信仰の流布は彼らの見るところ、ドイツ主義(ドイチェトゥム)に対する敵対行為にほかならなかったのである。
ジャンヌ=ダルク信仰はロレーヌに広がった。それは他の所縁の地たるオルレアンやルーアンでも再生した。そこでは信仰の表現はジャンヌの他の所業について強調する。ロレーヌのジャンヌ、フランスの娘ジャンヌ、人民の娘ジャンヌはもはや単にカトリックの遺産ではなくなる。それは一部の共和派にとってさえも国民的シンボルとなった。このジャンヌ=ダルク信仰の蘇生は1870年の諸事件の予期せざる、異なった結果であった。それは国境の愛国心に彩りを与え、ロレーヌに国民共同体における特殊な位置を与えた。
記憶のもう一つの極はメッスである。この町がロレーヌに属していることは二の次の問題であった。ここでは人々はフランスの、かつ軍事的な過去の歴史とメッス人の愛国心が強調された。パンフレット作者や将士らはメッスの戦いの模様を伝える。1555年以来、この町はちょうど1814年と15年の2度の籠城のときそうであったのと同じように、つねに勇敢に抵抗してきた。「乙女メッス」はバゼーヌの裏切りによって汚された。当時の詩人たちはその独特のやり方で憤慨し、あるいは憤慨を共有した。彼らのうちの一人のアルザス人のエドゥアール・シベッカーは「メッス」と題する長文の詩を発表した。以下の3行の詩にその色調を見ることができる。
   汝は黙って涙を流す。おぉ、メッスよ、乙女のメッスよ!
   汝は、汝の恐るべき城壁になされた侮辱に涙を流す
   メッスは崇高な叫びであり、崇高な希望である!
メッスに生まれること、あるいはメッスに居住することは勇気と愛国心の象徴であった。1885年、ある教師は生徒たちに向かって次のような作文を言って聞かせた。
「トゥーロンの病院で、ある若き軍曹はトンキンで被った怪我がもとで切断の憂き目にあった。この負傷者は目を覚まし、傷口を眺めた。『プロイセン人なることよりは、これに我慢するほうがましだ』と、彼は言った。軍曹はメッスの出身だった。」
小さな少年ルイ・マランは思い出す。彼の父が彼をサント=ジュヌヴィエーヴの丘の頂上に上らせ、そこで晴れわたったなかで、メッスの大聖堂の塔を望むことができた日のことを。リュネヴィルの若き将校であったマクシム・ウェーガンはしばしば友達といっしょにポン==ムッソンを訪れた。「メッスの鐘楼を眺めることはわれわれにとって失楽園への窓のようなものだった」と、彼は1931年に述懐している。『神の石臼』の中で、ジャン・ドゥ・パンジュは熱情と恥辱を込めて「私が育った籠城戦の思い出」を思い起こす。メッスで幼少時代を過ごしたポール・ヴェルレーヌは、失われた町のノスタルジーを表現するところの今日では忘れ去られた微妙な詩を残した。モーリス・バーレスが『コレット・ボドーシュ』で思い浮かべ、編曲したのはメッスの思い出であった。この著書は次の象徴的なフレーズで始まる。すなわち、「私はこの転属させられた町の入口を通るたびごとに、この町は私をわが遮られた感情に導くのだ」、と。われわれは40年後の1908年まで来ているのだ。
アルザスは牧歌的にして軍事的な二重のイメージを引きずっている。ここはまず素晴らしい田園であり、「森が、陽光の差さない平和な村落の上に、緑の巨大なカーテンのように立ち上がる。そこに人は山の曲がり角に鐘楼、小川に跨がる工場、仕事場、水車小屋、見知らぬ衣装の生き生きとした調べを見ることができる。…」(A・ドーデ)。木骨造りの家屋、コウノトリの巣、ブドウ園、ホップ畑をもつアルザスの陽気な村落はところどころに美しい繁栄した国と、後景にヴォージュを従える美しい庭園をちりばめる。ストラスブールはとりわけアルザスの町である。その大聖堂、その古びた街区は、メッスがとうてい及ぶべくもない刻印である。アルザスの歴史を紐解けば、それはつねに同じエピソードの連続である。つまり、テュレンヌの戦い、ルージェ・ドゥ・リスルが「ラ・マルセイエーズ」を歌ったディートリヒ市長のサロン、クレベール将軍または大革命と帝国のアルザス兵の模範的にして英雄的な生活が息づく。もし人がアルザスのドイツ的過去を黙って過ごすことができないにしても、人々は、アルザスの自発的なフランスへの統合――連盟祭のときのフランス国家への加盟――を主張するのがつねである。このアルザスの歴史に固有の見方はまた偏見に染まったものであったため、ドイツの歴史家たちによって皮肉を込めて思い出されないわけにはいかなかった。共和主義の小学校がアルザスに関して運んだすべてのイメージは2つのテーマに結びつくのは避けられないことだった。
第一のテーマは愛着と忠誠である。この点に関してアルフォンス・ドーデの、『月曜物語』において1873年に発表された「最後の授業、アルザスの少年の物語」のテクストは小学校の教科書の選集の一部となった。その感情的な力は強烈であったため、多くの者の脳裏に焼きつけられることになった。
第二のテーマは住民による運命の自由選択のそれである。アルザス人はその文化的属性によるのではなく、その自由な選択によってフランス人となった。法的に選出された議員が1871年のボルドーで、また1874年にベルリンで確証したこの選択はドイツによって足蹴にされたのだ。いつの日か、権利が力に勝利するだろう。
もっとも頻繁に思い出されるシーンは住民の併合地からの流出のシーンである。ここから併合地は生きた力を奪われたかのような印象が残り、人は絶えずビシュヴィリエの織物業者を引用する。同社はアルザスを去って遠隔の地スダンに、ルーヴィエに、ル・アーヴルに移設した。また人々は、一本角兜を拒絶し、外国人部隊ないしフランス軍に入るために国境を越えた若者の名を引用する。この永続的な移住したアルザス=ロレーヌ人は117人にのぼる。一方、ドイツで陸軍大臣になったのは僅か1人のみである!)は不動のフランスへの愛着の紛れもない証拠である。あらゆる文学はこうしたテーマを普及させ維持する。アルザス=ロレーヌの連続環は戦後すぐに始まった。そして忘れさられ、そして最後に1905年に蘇生した。それはまず、エアックマン=シャトリアンの作品によって代表される。そのなかで「国民主義的、民衆的物語と小説」は非常に広範に普及した。テェオフィル・シュレルの挿絵入りのヘッツェル版はヴォージュの景色と森を、アルザスとロレーヌの村落を、そしてその住民を思い出させる。それらは愛国的にして共和主義的な民衆の血管の中に刻み込まれた。
 
第2節   アルザス=ロレーヌとナショナリスト
 G.ブルーノの「2人の子どものフランス一周旅行」は真っ先に学校の朗読本となった。2人の英雄アンドレとジュリアン・ヴォルダンはファールスブール出身の若者である。彼らは父の臨終の床で、フランス人として残るためにこの町を去る約束をする。この本はアンドレとジュリアンの出発によって始まる。
9月の深い靄を突いて、2人の子ども、2人の兄弟はロレーヌのファールスブールの町を脱出する。彼らは通称フランス門と呼ばれる防御装置のついた巨大な門を潜り抜けたところである。」
この物語に沿って、1870年の恐るべき試練が示される。たとえファールスブールが忌まわしい国境によってフランスから切断されたとしても、故郷の町は保証人であり、比較の対象として残った。初版は1877年に発行された。その後の25年間で800万部が売却され、当時のベストセラーとなった。『フランス一周旅行』は当時、最も読まれ、最も愛好された本であった。一例を挙げよう。のちにアカデミー・フランセーズ会員となる若き日のピエール・ガクゾットはレヴィニー=シュル= オルナン(ムーズ県)の小学生であった。彼は、『フランス一周旅行』は彼の先生が最も愛好した本であったと語る。それはあらゆることに奉仕した。ピエール・ガクゾットの注釈は、失われた地方の思い出の存続、歴史の教訓、朗読書において共和主義的小学校の特権的役割を示している。アルザス=ロレーヌはしっかりと脳裏に刻まれることになったのだ。若いフランス人が目にする掛地図は、不具者となったフランス、東から両州がもぎ取られたフランスの地図である。この単純な理由により、忘却は不可能であり、人々は1914年の時点でもなおそれを見ることになる。しかし、それはブルトンの漁師、ランドの農民、プロヴァンスのブドウ園主、コマントリの鉱夫の日常的な観念であったのだろうか。まちがいなく否である。1世代のちにその奥底においてフランスはそれを忘れなかった。
しかし、フランスはアルザス=ロレーヌの運命にそれほど動かされいようになっていく。失われた両州は控えめなノスタルジーに包まれていく。多くの併合地住民は1890年代になっても併合を怒っていた。だが、フランスは彼らを見捨てた。彼らは半ば強制された状態でドイツの制度のなかに組み込まれるのに甘んじた。なぜならば、そうするより術がなかったからだ。人々が不幸なアルザス=ロレーヌの運命を思い出すやいなや、無関心は一時的には一掃されたが。たしかに、国境に近い地方では亡命者が多く、非常に明確なかたちで関係が維持されていた。ナンシーのような町は非常に象徴的である。フランスの東部、中央部のように戦場となりドイツ軍の占領を受けた地域では、失われた両州への思い入れを維持し、あらゆる階層を通してほとんどすべての政治的感受性においてこの特徴は残った。
全体としてみると、アルザス=ロレーヌへの思い入れはナショナリストの専売特許となる。ポール・デルレードの愛国者同盟がその例である。彼らは共和制反対のためにアルザス=ロレーヌのテーマを利用するのをやめない。彼は非常に強く要求したため、人々はそれのみを耳にし、歴史家は他のことを忘れた。アルザス=ロレーヌの協会によって維持されたアルザス=ロレーヌへの共和主義者の愛着が存在したことを忘れてはならない。レーモン・ポワンカレーのような政治家は、ジョルジュ・クレマンソーがちょうどそうであったように、彼らの願望を共有した。たしかに彼は報復戦争のばかげた冒険行動をなす準備はなかった。しかし、彼らはけっして忘れてはいないことを示した。
パリはおそらく、失われた両州の思い出がもっとも強烈に生き残っている町であっただろう。この特殊な感受性は幾つかの理由によって示される。つまり、新聞と著書の出版活動、愛国的結社の存在、程度の差こそあれ軍隊と関係のある活動のゆえに。アルザス=ロレーヌ協会は、そうしたテーマが敬意をもって保持される中心、アルザス=ロレーヌ文学が読者を維持する中心を構成した。しばしば回想録・随筆・小説の類は著者の名のゆえに、また全体の雰囲気ないしは時代の雰囲気のせいで、比較的狭い環境を抜け出て有名になった。
20世紀の初め、アルザスとロレーヌがもはや世論で第一級の関心事ではなくなったとき、そして、ドイツ化がアルザスとロレーヌでかなり進行したとき、炎のような愛国熱を維持したのはナショナリストたちである。共和制によって犯された罪のなかで、シャルル・モーラスは不幸なアルザス=ロレーヌの放棄を非難する。愛国者同盟は炎熱の維持に腐心する。毎年、そのメンバーはストラスブールのヴェールを被った立像の足元での行列を繰り返す。
メッスまたはストラスブールへの巡礼がジャーナリストや作家たちのあいだで流行する。モーリス・バーレスがしばしば引き合いに出される。彼は最初の人物でもなければ唯一の者でもなかったが。18968月末、すなわち、記念像の足元に置かれた花輪が萎れたとき、ポールとヴィクトル・マルグリットは戦場を訪れ、警報の記事を書き、それをエルネスト・ラヴィス主宰の『ルヴュ・ド・パリ』誌に発表した。「われわれは八時にマイヨー門を出てメッスの門に達した。」彼らはフランス領のバティイで列車を降りた。なぜなら、彼らは新しい国境の両側を比較しようと欲したからだ。「この国は、いたるところに墓と十字架の林立する広大な墓場でしかなかった。」彼らはマルス= =トゥールに到達し、ルグラン将軍の墓前に立つ。それから国境を越えてアマンヴィリエを通ってサン=プリヴァに行く。彼らは2本の柱に行く手を遮られる。「2番目はより強大で背丈があった。それは大きな紋章で飾られていた。刻銘にドイツ帝国とあった。」2人の旅行者は併合地住民と会話を交わす。彼らは確証する。「この土地はフランスのものであり、その心情はフランスのものである。」にもかかわらず、彼らは時差(すでにドイツ時間なのだ)とドイツ国旗に堪えねばならないのだ。
彼らは4半世紀程前にライン軍が辿ったロゼリュール街道を通ってメッスに行く。城壁(メッスは1902年以後になってようやく、砲台を撤去されることになるが)と、サン=カンタンの陰気な群衆を目撃したとき、心臓の締め付けられる思いに駆られた。ちょっと見たところではメッスはほとんど変わっていなかった。昔と同じように、哨舎・監視団・兵舎・練兵場など軍事で一色だった。しかし、制服が異なっていた。「ドイツ兵がうようよしており、[中略]一本角兜と平たい兜の林であった。」カフェと酒場には、兵卒と将校しかいなかった。並木道では彼らは顎鬚をたくわえ、「伝説の馬に跨がり、町を見下ろす」カイザー(皇帝)の立像に驚かされた。人々は彼らに騎兵のシルエットを見せた。それはフォン・ハエスラー将軍であった。彼は、2人の副官を帯同した第16軍団の司令官であった。この人物はけっして眠らず、じっと監視をつづけていた。すでにこのルポルタージュにおいて、のちにモーリス・バーレスが数年後にその溢れる才能でもって発展させることになるテーマのいくつかが存在した。失われた栄光の町メッス、その魂を奪われた町メッス、にもかかわらず、古きフランスの面持ちを修正せんとドイツのものとなってもなお忠実なメッスというテーマがそこにあるのだ。

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