matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

全体表示

[ リスト ]

新国境の思い出(6)

第3節   失望から諦めへ
1905年、ヴィルヘルム二世のタンジール演説すなわち第一次モロッコ事件は一部の世論を覚醒させ、失われた諸州を再発見させるにいたった。アルザスまたはロレーヌの小説は数多くの熱心な読者を見出だす。バーレスのメッスに関する小説「コレット・ボドーシュ」(1908年)はこの事態の急変に恵まれて多くの読者を獲得した。ジョルジュ・デュクロクの「変わらざる諸州」の発表、『マルシュ・ドゥ・レスト』誌の周囲に引かれた小グループも同じ方向に作用した。しかし、バーレスのような成功はもたらさなかったが。いわばナショナリストによる思い出の没収のようなものが存在した。まり、メッスの元反抗的な代議士老ドミニク・アントワーヌ――ビスマルクによってアルザス= ロレーヌから1887年に追放された――が傾斜を示したのは彼らに対してである。共和派に属する友人らは彼を丁重に扱った。エドゥアール・テューチュと同じように、彼は財務長官に任命された。彼は1911年、ナンシーで快適な老後を過ごしていた。66才であったが気難しさは続いた。彼は以下のような遺言を残した。
「不幸なアルザス=ロレーヌよ! 多年、私はフランスの放棄、正当な語法によれば臆病風にほかならぬ放棄によって絶望的気分にとらわれてきた。私は、破壊とはいわないまでも陸軍・海軍・外交・良心を弱めたわが国の内政に憤りを覚える。わが忠実、わが戦い、わが苦悩と比べ、われわれに模範を示すのは正しくこの国なのだ。」(1911年)。
この老いた抗議者はすでに諦め、希望を失っていることを示す。彼は他のところで書いている。「不可避のことは諦めねばならない」、と。「既成事実」の暗黙の受容は愛情深いノスタルジーと両立しないわけではなかった。
ナンシーで1909年の夏に万国博覧会が開催された。その主要なアトラクションは――見物人がもっとも多かったが――民俗衣装をまとう住民をもつアルザスの村であった。公式の開会式がおこなわれたとき、市長のルドヴィク・ボーシェはルイ・バルトゥー大臣を伴って、「わが愛情の変わりなき永続」を思い出し、次のように結論づける。
「この村は単に興味深いアトラクションであるにとどまらず、姉妹たる両州の間に親しみ深い、愛情の籠った統一の残存を確証するためにここに展示されたのである」、と。
大臣は「民俗衣装を纏った少女」を抱きしめる。報復の精神とはいわないまでも、多くのノスタルジーと感情の発露が見られた。それはストラスブール像の前のデルレードの演説ではなかった!
アルザスとの絆が1870年以前に溯るエルネスト・ラヴィスは4半世紀前から大学人となり、知識人世界に属していた。彼は1911年にストラスブールに行き、友人と会い、若い学生の前で私的会話を交わした。『パリ雑誌』の記事の中で、彼はアルザス、フランス、ドイツの運命に考察をめぐらす。両国間の戦争は、1870年以後つねにありうることである。
「今なお戦争に常時備える必要があるだろうか。私はそれを知らないし、だれもそれを知らないだろう!」 
この歴史家はドイツへの憎悪と軽蔑を拒絶する。
「われわれはドイツの天才が何であり、何に値するかを知っている。両国間に共感は可能である。この共感は協力に変わりうるだろう。」
ラヴィスの精神のなかで、若きアルザス人たちは「この平和的で和解的な使命」を果たすことができただろう。そして彼は結論づける。「フランスとドイツを和解させることは夢であろう! 私はいくたびもそれを夢見たが。」69才になる老歴史家はその心中で「既成事実」を認容しなかったのだ。「わが麗しきアルザスの無限の魅力にとっては」、彼はフランスに戻ることを欲しているように思える。しかし、その一方で平和の維持と両国間の困難な協調とを切望する。
マルク・ブロックの証言を引き合いに出そう。彼はラヴィスとは異なるゼネレーションに属する歴史家だが、彼はラヴィスと同じようにドイツ旅行をおこなった。アルザスのユダヤ人の息子であり、甥である彼は1870年ののちに自発的にアルザスを離れた。マルク・ブロックはパリで知的世界に身をおいて育った。その知的世界は、アルザスから亡命したユダヤ人がつねにもっとも熱情的維持者であったこの愛国的伝統の信仰を保持したのであった。1940年の大敗北の直後で、彼が抵抗運動に没入する前に書かれた『奇妙なる戦争』のなかで、この中世史家は2つの戦前派を大雑把に比較している。かれの考察は他の者のそれとだいたいにおいて一致する。殉教者となった州のイメージは控えめな影のなかに包まれている。「それは再生するが、最初の戦闘ののちにふたたび姿を現す。」そして、彼は次のような回想的で、真実を突いた文句を発する。すなわち、
「平和の間、家族の安全こそが肝心とする世論に対して、リトグラフィーのアルザス人の美しい眼は、涙を乾かすようなたった一度の試みがあっても、人々が心の陽気さを装っても、この地方がもっと残虐極まりない危険に向かっていることを自分に受け入れさせるには十分なインパクトをもたなかった」、と。
パリのインテリの愛国的な世界はどうか。アルザス=ロレーヌは人目につかないハレーションと、感傷的なノスタルジーに包まれる。人々は涙を流し、ハンジ叔父の獰猛な風刺画に笑い転げる。大多数のフランス人にとってアルザス=ロレーヌは精々のところで学校時代の淡い記憶でしかなくなったのである。
この分析を終わるにあたり、2つの結論が出てくる。まず、1871年の国境はフランス人に受け入れられなかったことである。にもかかわらず、それは人の往来を妨げることもなく、また資本の移動や交易を妨げない平和的な国境であった。同時にそれは、双方の国が根本的な防御体制を敷いたところの軍事化された国境でもあった。強化された軍事施設は仏独の敵対関係の結果であった。しかし、堪えず修正された武力均衡こそが平和の有力な要素であり、国境付近の巨大な製鉄産業の発展と両立するものではなかった。
第二の結論はこうだ。すなわち、たとえアルザス=ロレーヌがドイツ帝国の指導者たちにとって懸念の中心であったとしても、それは決して主要な心配事ではなくなったことである。ヨーロッパ列強は併合を承認し、フランスは条約を修正させるべきいかなる手段ももっていなかった。併合地においても多くの突発事・宣言・抗議・厳格と自由主義的な交互の措置はドイツの存在を再問題視することにはならなかった。ドイツ世界の完成は多くの困難に衝突した。その事業は緩やかになされたが、20世紀の初頭において統一事業は1911年における自治の付与によってすべての分野において前進していた。ウェッテルレ僧正に代表されるような生粋の民族主義に染まったアルザス人においてすら、ドイツの枠内にとどまる国の将来に直面したのだった。メッスでは教会参事会員でフランス贔屓のロレーヌ会会長のコランもほかのことを考えなかった。ドイツ反対派はドイツ主義に対抗してアルザス=ロレーヌの自治主義の擁護に方針を転回した。
仏独関係においてアルザス=ロレーヌは戦争の原因ではなかった。それは依然として和解に向かっての障害の一つを成したにすぎなかった。

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事