matsui michiakiのブログ

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記念事業(1)

記念事業
 
 20世紀の人々が経験したことと較べると、187071年の諸事件は短い脱線のように思われる。1年後にすべてが正常に復した。たとえば、住民は仕事に復帰し、工場は生産活動を再開し、やがて戦前の水準を上まわった。
こうした単純な外見にとどまってよいだろうか。1870年の戦争は両国の個人や団体の記憶に刻印を残した。どれくらいの期間か。それは消失するだろうか。政治的、領土的結果の範囲についても問う必要がある。アルザス=ロレーヌはドイツにとどまるだろうか。ドイツ帝国はビスマルクが建設したような方向で持続性をもったのだろうか。1870年の戦争は1918年と1945年の大変動によって拭い去られたのであろうか。「恐怖の一年」の傷は完全に癒えたであろうか。――すべて明らかに否である。
 
第1章   記念式典の誕生
 
ドイツと同様、フランスでも記念式典は戦後におけるほとんど共同的な事業となった。和平が成立するやいなや、思い出の祭事がかたちづくられはじめる。イニシアティヴは個人・戦友会・市町村、特別に作られた協会ないし委員会など多岐に亘る。公権力がイニシアティブヴとることはめったにない。公権力はせいぜいのところで金銭的ないし精神的な援助にとどめ、やがては儀式に参加するようになる。交戦国の双方で民間と軍の儀式はかなり似ていたが、象徴的意味は異なっていた。ドイツ側ではそれは建国記念日となった。フランス側では国家選択の作業が始まった。敗北した戦争でも賞賛に値する個人的あるいは集団的な英雄的行為は事欠かなかった。多くの兵士は祖国のために血を捧げたのである。名誉ある戦場に葬られたこれら模範死の犠牲は忘却から救われなければならない。記念式典が組織されたのは死者の周囲においてである。ドイツでも事情は同じだった。ここでは犠牲となった場所の地理はアルザス=ロレーヌに限られた。一方、フランスの場合はきわめて広範な広がりをもっていた。
ドイツでもフランスでも記念碑の建造は終戦の翌年から始まり、40年後にもなお続いていた。記念碑は大きさも数もきわめて多様だった。それらは戦場・広場・墓地・教会・聖地など象徴的な場に建立された。資金調達の最もありふれた方法は公募だった。委員会、ときには個人(僧侶ないし将校)が住民をまわって基金求めをおこなった。例外的なケースとして訴えは国家的規模になることも(マルス==トゥール)、国際的な規模になることもあった(ベルフォール)。反応は全般的で寄付金は必要額を上まわるのが通例だった。ベルフォールのライオン像計画はコルマール出身の彫刻家オーギュスト・バルトルディに委託されたが、寄付金総額は92千フランに達した。
最も単純で最初の記念式典は1年後におこなわれた。187197日のシャンビエール砲兵射撃演習場でのメッス市主催の記念式典、1871106日のラ・サールとノンパトリーズのそれである。元モーゼル県選出の議員オーギュスト・ドルネスの発意によるフォルバックの記念式典は18729月に始まった。サント=マリー==シェーヌ(前モーゼル県)の記念式典はゲスラン伯爵将軍が元部下兵士と住民に対しておこなった募金にもとづいておこなわれた。記念式典は住民国家選択が終わってもなお継続された。ゲスランは参列者に向かってこう演説を結ぶ。「心の奥底において1つのものになる2つの考え方を諸君はもつ。つまり、宗教的精神と愛国的精神がこれだ。」ドイツ当局はこれを放任した。
フランスでブリーの住民は募金活動によってこの町で死んだ兵士の栄誉を称えた記念碑を建立した。これは高さ6メートルにもなるピラミッドであり、2つの岩石の間に立てられ、大口径の砲弾を融解して作られた鉄の鎖で囲われた。1872818日に除幕式が挙行された。それはサン=プリヴァの戦いの2年目に当たる。「われわれは憎悪をいだいてはならない。されど、われわれはこれを記憶にとどめねばならない」、副知事はこうコメントした。ベルフォールでは遊動隊の墓地にローズ砂岩のピラミッドが建てられた。1873年のことである。
最も権威ある記念碑は戦場に立てられた。屍収容所のシャンピニー、マルス==トゥール(ともに1875年)、シャトーダン(1876年)が代表例である。しかし、いくぶん時間が経過してからのものもある。1880年にセーヌ県議会は25万フランを起債し、「パリ防衛」の立像のコンクールをおこなった。ルイ・バリーによって彫刻された集団像がビュザンヴァル――ここから18711月に戦闘員が出征した――の円形広場につくられた。作品の完成は1883812日である。
記念碑の種類はきわめて多様である。もっとも控え目なものは柏・旗ないし兵士記章で飾られた石柱である。刻まれた若い娘または若い妻は将来ととともに共和政の象徴であった。碑銘はしばしば共和政の意味があった。ラン=レタプ、ランベルヴィリエ、エピナルのケースがそれである。
なかでも最も著名な記念碑はベルフォールのライオンであった。バルトルディは抵抗の精神とエネルギーを暗示しようと欲した。彼は、ストラスブールの大聖堂の石材と同じヴォージュのピンク砂岩を用いて巨大な動物像(長さ22メートル、高さ11メートル)を造った。彫刻は遠くからでも見えるようにと、ダンフェール=ロシュローによって防衛された砦の側壁の中ほどに設置された。彫刻家は市役所に宛てて書いている。この記念碑は巨大な形において、焦らされ追い詰められ、怒り猛り狂ったライオンを表わしている、と。いかなる公式の除幕式典も事件を祝福しなかった。なぜなら、この町と彫刻家の関係が悪化したからである。ライオンはすぐにベルフォールの象徴となり、レプリカがパリのダンフェール=ロシュロー広場にも設置された(1896年)。ライオンの彫刻の残りの部分とともに、この町は1884年、ダンフェールとティエールを記念して第二の記念碑を立てた。2人の人物は彫刻のなかでは一緒になっている。アレゴリーの群衆はアルザス人を示し、彼は負傷しながら銃を構えている。いくつかの記念碑は個人を表わす。たとえばル・マンのシャンジー将軍、リールのフェデルブ将軍がその例である。
「パリの防衛」の記念碑は3人のアレゴリーの群像である。大砲を支え、他の手でフランスの大きな旗を翳す大きく美しい女性はパリ市を象徴する。その大外套をパリの上にかけ、今まさに戦わんとするのは、立ち姿の遊動兵を示す。彼らの足元で若き遊動兵は負傷し、最後の弾薬をシャスポー銃に装填しようとしている。
他の記念碑は宗教的であった。ロワニー(ロワール県)はある王党派の僧侶が募金活動の中心となって、アルジェリア歩兵と西部の義勇兵の栄誉を称えた記念碑としての教会堂を建立した。それは、礼拝壇と納骨堂をもつネオ=ロマン式建築物である。礼拝壇には「シャレットを待つソニスが眠っていた」ガラスには「キリストの兵士にして殉教者のガストン・ソニス」と銘打たれている。別のガラスにはシャンボール伯の筆でサクレ=クール、サン=ルイ、聖アンリが飾られていた。芸術家や記念碑作者の中にはオーギュスト・バルトルディが名声を博した。彼がニューヨーク港の入口に立つ「自由の女神像」のゆえに歴史に残ったとすれば、彼は他の誰よりも「彫刻家のデルレード」に負っている。「ストラスブールの艱難を救うスイス」「パリの航空士たち」など。
ドイツ側では記念事業の発起は素早かった。アンリ・ウィルマンはスピッヘルン高地にプロイセン軍によって建設された記念事業の調査をおこなった。
「第74プロイセン連隊は187186日、すなわち戦闘の1年後にローテベルクで記念式を祝った最初のものである。翌年、エーレンタールの第55連隊の記念碑が続き、ローテベルクにおける第39、第40連隊、シュティリンク近くでの第77連隊がそれに続いた。遅れて第48、第12連隊が記念碑を高地に建てた。」
巨大な記念碑ヴィンテルベルクデンクマルはまさしく高さ20メートルの寺院のようだった。この芸術家リーベル・ドゥ・デュッセルドルフの作品は187489日に陸軍大臣フォン・カメッケの臨席のもとに除幕式がおこなわれた。そこからは全戦場を望むことができた。彼はその功績により、皇帝ヴィルヘルム一世から年金を授与されることになった。
メッス近傍の戦場に関しては、主に連隊に関わる記念碑群で一杯になった。25年間に53の記念碑が建立されたが、そのうち2つがフランスのものである。墓地と集団埋葬地、孤立した墓地はそれに含まれない。記念碑のいくつかは巨大であった。たとえば、ノワスヴィルにおける第一軍団の記念碑とかレゾンヴィルのブレドフ旅団の記念碑とかがそれである。
アルザスの北部では記念碑は数多い。ウィサンブール近くのジースベルクではブロンズ製の4頭のライオンによって監視されるオベリスクは、ここで繰りひろげられた激戦を思い起こさせる。小さな記念碑の刻銘からは次のような文を読むことができる。「ドイツ統一のために最初のプロイセン女性が斃れた。」ウェルトでは記念碑のスタイルは多様である。ネオ=ゴチック式のバイエルンの記念碑の上に、負傷した兵士を助け起こす1人の工兵が乗っている。ヘッセンの記念碑は上部の欠けたピラミッドの形をしており、もうひとつのものはぎざぎざ模様の塔の形をしている。プロイセンの記念碑はどちらかというと陰気である。それらの一つはヴィルヘルム一世のレリーフの彫像が乗っていた。
多くの連隊記念碑に関して、戦闘で倒れた兵士や将校の名簿を読むことができる。よくあることだが、ブルゴーニュで、パリ近傍で、そしてロワール河畔で死んだ兵士らはアルザス= ロレーヌで死んだ戦友と一緒に刻印された。記念碑は言うならば一種の統一(併合)、戦闘の全体を集約しており、プロイセン軍、バイエルン軍、ザクセン軍、ヘッセン軍等々のためにドイツ領となった大地に建立された。ベルリンでは戦勝記念柱(ジゲサウレ)が建立された。その一般除幕式は1873年ヴィルヘルム一世の臨席のもとに挙行された。
記念事業は戦勝記念日の祝賀ないし戦闘員の愛国的勇気の賞揚に限定されない。それは当然のことながら、回想、皇帝一家、政治指導者の祭式となった。ドイツ人共有の戦勝は彼らの明晰さ、統治および戦闘の指導の正しさを証明する。彼らはいわば固有の祭式の組織化と受益者であると同時に、彼らがドイツに与えた国家形式の正当化であった。新聞・軍人会・学校教科書が特権的なヴェクトルである。皇帝ヴィルヘルム一世、フレッシュヴィレルの勝者たる息子フリードリヒ、皇帝の甥で赤皇太子(ツィーテンの軽騎兵の赤色上着を好んで着用)フリードリヒ=カールらは大衆的なヒーローであった。皇帝の名誉のために人々は「汝、月桂冠の勝者に幸いあれ」という賛美歌を歌った。すべての学校生徒は1918年までいろいろな機会にそれを歌った。勝利者たる皇帝、賢い皇帝、国民を集結させ、ヨーロッパから敬意を集めた皇帝、ここに汲めど尽くせぬテーマがある。1870年の記念事業はあらゆる種の例証をもたらしたのである。この光栄あるパンテオンにモルトケは生前に入った。1881年以来、ヴァルダーゼーの補佐を受けた彼は88才の高齢まで参謀本部の長にとどまった。そしてかれは1890年に帝国議会で最後の演説をおこなった。年齢のせいで顔色が悪く、言葉がいっそう少なくなった。新聞は彼の言について賞賛を込めて伝えた。だれもこの偉大な勤勉家を止めることができなかった。休暇中ですら彼は仕事をしていた。天気が悪くても馬に乗った。緑色の老人は、シレジアのクライザウの領地に入るときに植えた柏のイメージである。彼の筆跡は柏の近くに建てられた花崗岩のブロックに似ている。それには次の一語が刻まれていた。すなわち「スダン、187091日」

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