matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

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記念事業(2)

第2章   敗戦の変容
 
フランスでは時間の経過とともに真実の変容が起きた。たしかに、スダンもサン=プリヴァも、メッスとパリの降伏も忘れられることはなかった。しかし、アクセントは特殊な事実のほうに移った。それは戦闘に関して二義的であるけれども、英雄的解釈を受け入れるという理由のために興味深い事実である。スダンについては語られなくなったが、アフリカの狙撃兵の突撃ないしバゼイユにおける植民地兵の突撃が代わって語られるようになった。818日の戦闘はサン=プリヴァの墓地の防衛に矮小化された。作家・画家・彫刻師らは挙って戦争のテーマを奪いあい、それを変容させた。最も代表的なのが、海軍歩兵によるバゼイユ村(スダン南方)の防衛である。この村の一軒の家ブルジュリの家ではヴァソワーニュ師団に属する植民地兵は最後の力を振り絞ってバイエルン軍の猛攻に堪えていた。「最後の弾薬の家」という名をつけられたこの家屋は激戦のために、天井に穴があき、機関銃の銃痕が残り、時計は1135分で停止していた。1873年の展覧会においてアルフォンス・ド・ヌーヴィルは「最後の弾薬の家」と題する絵でセンセーションを巻き起こした。安値の数えきれないほどの絵が人気となった。こうした孤立した戦闘場面の絵はスダンの敗北を変容させた。1882年、スダン生れのロベール・ドゥブレは、フランス国籍を選択したアルザスのユダヤ人主教の息子である。彼は作品「生きる名誉」のなかで次のように述べる。
「私の父は近郊の野戦で私を義勇兵に導いた。われわれはバランとバゼーユまで行き、そこで『最後の弾薬の家』を訪問した。その家はまさしく戦闘ののちそうした状態にあった。アルフォンス・ドゥ・ヌーヴィルの絵の複製画が私に与えられた。これを見たことはわたしの記憶の中に決定的に刻み込まれ、細かな点まではっきり思い起こすことができる。」
アルフォンス・ド・ヌーヴィルと並んでエドゥアール・デタイユ、エメ・モロー(ライヒスショッフェンの第3胸甲騎兵の攻撃)の名前を引用しなければならない。アルフォンス・ド・ヌーヴィルは後々まで名前が残った。毎年、彼は展覧会に出品した。クリミア戦争とイタリア戦争を取り扱った後、1870年代には彼は仏独戦争の幾つかのエピソードを取りあげた。たとえば、「パリ城外の塹壕」、「ル・ブールジェの野営」は彼自身の遊動兵としての個人的経験から着想を得ている。いくつかの画はロレーヌの戦闘、すなわち「メッス周辺の急襲」「シュティリンク駅の小道」「レゾンヴィルのパノラマ」を思い出す。もっとも有名なのが「サン=プリヴァの墓地」であり、これはあまりにも有名になったため、サン=プリヴァ墓地の門柱にこの芸術家の名が記されている。ヌーヴィルの多くの絵は版画の形で広範にひろまった。この画家の晩年には、大衆はこの戦闘シーンに少々飽き飽きし、他の題材を望むようになったようだ。ヌーヴィルはかく言う。
「私は187071年の悲しむべき戦争に余りにも長い間関わって来た、思い出はすでに消えたと各方面から私に寄せられるようになった。大通りではまったく戦争の思い出がまったく消えたのを見出だすのは非常に簡単であることを、私は知っている。」
忘却を前にしてパリ籠城の戦闘員の一人は言う。「人が何といおうと、われわれは栄光なしに破れたのではなかった」、と。
 多くの戦争画が次第に愛好者を減らしたとしても、絵は売られつづけた。とくにナポレオンの伝説画を流布させたことで有名なエピナルの版画屋ペルランがそうであった。同社は事件が終わってから数か月後に一連の主要な会戦を示すカラー刷りの版画を出した。この版画は多数刷られ、1914年まで在庫が残っていた。メッス近郊の戦いのうちで2番目のものであるグラヴロットの戦い(1870816日)の描写を検討して見よう。全体としての印象は、プロイセン兵士の左翼に向かって進むフランス軍の突撃のようすである。フランス軍は画面前方の少なくとも4分の3を占めている。右手でフランス歩兵はプロイセン騎兵の突撃を凌いだばかりであった。左手ではフランスの胸甲騎兵が一人の将校に率いられサーベルを抜いて躍りかかる。攻撃を食らってもんどり打って倒れるプロイセン兵は防御し、大砲には銃剣が差し込まれる。彼らは屈服を迫られる。やがてフランス軍が彼らを御すであろう。版画においても伝説においてもバゼーヌの指揮の致命的な欠陥は示唆されない。彼こそ戦場を敵に明け渡し、彼らに戦場の再制圧を許したのではなかったか。
これらの版画のどれひとつとして戦闘の真実を表現していない。これはひとつの解釈である。制服・色彩・髪型のみが細心の注意深さをもって再現された。すなわち一本角兜はプロイセンを表わし、軍帽と赤パンツがフランス兵を表わす。説明文は英雄談であり、絵といっしょに説明・注釈・強調としてかたちを与える。それは想像力と感受性に訴える。それは当然のことながら賞賛を、そして後になるとふつうの男たちに模倣を求めるようになる。大ナポレオン軍の近衛兵から籠城のパリの遊動兵までの当然のつながりは「勇猛果敢ぶり」である。フランスの兵士はイメージの中心的人物である。注意書きには、勇気があり大胆不敵であり、「英雄的兵士」「勇敢なトルコ兵」「勇敢な胸甲騎兵」であると記されている。
1870年の兵士は、その名が尊敬を込めて挙げられている自分たちの指揮官を自慢する。命令は不平不満なく実行に移され、将校たちは申しぶんなく大胆な訓練者として働き、恐れをもたず行動する。クールミエの戦いの石碑にはこう読める。「彼らの将軍の声を聴くや直立不動となり、これら勇猛な兵士は銃剣をさっと取り、バイエルン兵を撃退した。」この絶対的な信頼は、なぜ兵士が不平不満も言わず自分の命を犠牲にしたかの説明となる。
突撃命令が下る。騎兵隊は戦慄を覚え逃げ腰になる。これら勇敢な胸甲騎兵は自分らが死に向かって前進していることを知っているため、プロイセンの歩兵と砲兵隊に襲いかかる。」
にもかかわらず、敗北を説明しなければならない。グラヴロットでは著者は数の劣勢を説く。
「グラヴロットは何であれ、この流血の戦闘はフランス兵にとってもっとも光栄あるものであり、他の多くの戦闘と同様に、1人が3人に立ち向かったのだ。」
軍事的計算は総じて空想的である。だが、名誉は傷つけられない。「恐るべき位置」つまり「圧倒的な敵兵」を前にした勇敢なフランス兵に何ができるのだろうか。彼らは戦い、大潰走、パニック、逃亡に陥ることなく、激しい戦闘のちに漸く屈服するのだ。無名の個人的な戦功はしばしばである。サン= プリヴァでは「ある竜騎兵は大格闘で頭に剣で5か所の傷を負い、彼の兜は落ち、血が滝のように流れて顔中が血だらけになりながらも、戦いつづけた。彼と馬はプロイセン軍の横列に穴をつくり、彼の剣は敵の胸を突き刺す」。凛々しい勇気は「恐るべき砲兵」たるプロイセン砲兵の優越の前に屈服する。「大量の殺戮をもたらす銃撃と砲撃」、「24門の大砲」、「砲弾は雨霰と降り落ちる。」
最終的に勇敢な行動は敗北をぼかす。「ライヒスショッフェン、フランスの胸甲騎兵に幾度となく名誉を与えた。」この戦場で大胆不敵の胸甲騎兵はデイロー戦やモスクワ戦における前例としての好敵手に相当する。親子関係は皇帝の叙事詩とともに作られた。イメージは現実を歪め、戦闘に叙事詩的なディメンションを与えるところの価値と参照の体系に基づいて形づくられる。
作家たちは彼ら自身が参戦したにせよ、彼らが目撃したにせよ、戦争を素早く完成させる。われわれはルナン、テーヌ、フュステル・ド・クーランジュらの大作家たちにたち戻らないし、彼らにフランスの運命と文明の将来を着想させた省察にもたち戻らない。詩歌、歌謡、ニュース、小説をざっと見ておこう。そこでは戦争は悲劇であり苦しいものであり、英雄的であり劇的である。アルテュール・ランボーは『渓谷の眠る人』のなかで、純真無垢の若者がその花盛りの年齢で斃れたことを思いだす。数多くの詩歌と歌謡は流れ弾やプロイセン軍の大虐殺で犠牲となった若い男たちをテーマとする。その年老いた母親と美しい許嫁の落涙。英雄的な戦士、騎兵の絶望的な突撃、狙撃兵の大胆不敵、これらが成功を保証されたありきたりのテーマであった。最も多用された2つの言葉は「義務」と「犠牲」である。「ドレイゼ銃と大砲を見くびった兵士たち」「これら気高い胸甲騎兵、…若くて偉大で、美男子の…。両翼をなす寓話的なこれらの兵士は」裏切りを消す。
敗北を精神的勝利に転じてしまうような、こうした英雄的な変容が支配的であり、しかし、それはいつもというわけではなかった。ジョリス=カール・ユイスマンは『リュックサック』のなかで自分自身の遊動兵として経験を逐一語る。彼はシャロン兵営への通過についてリアリスティックに描写する。ギ・ド・モーパサンは『恐怖』のなかでノルマンディへの退却の物語を展開する。
「大地は雪で覆われていた。日が暮れる。朝から何も食べていない。速やかな潰走であった。プロイセン軍は遠くにいない。われわれはつねに骨の髄まで凍りついている。悲しみと敗北と絶望感で押し潰され、とりわけ自暴自棄・最期・死・虚無の憎むべき感覚によって締めつけられる。」
アルフォンス・ドーデの『月曜物語』はコミックとノスタルジーを関わらせる。タラスコンの狙撃兵団の滑稽な行動は笑わせる。ドイツ軍から余りに遠くのところにいたので、戦争を真面目に受け止めることがほとんど不可能であった。『最期の授業』とともに空気は重苦しいものとなる。ここはアルザスの村である。学校のドイツ化が始まり、先生は重苦しい面持ちで真面目にフランス語の最期の授業を行う。透かし模様としてアルザスとアルザス人のフランス語とフランス文化への揺るがない愛着が展開する。2世代の間、この物語は小学校で読まれ説明され、フランス=アルザスという神話の存続に貢献した。1870年を意図的に完成させるうえで重要な役割を果した最初の作家はエミール・ゾラである。『大潰走』は1892年つまり事件の22年後に発表された。物語の中心はスダンの戦闘である。ゾラは入念に史料を収集する。所縁の地を訪問したり証言者に質問をしたりした。今日なお、この本は正確さ、真実への切迫感の点で傑出している。これが出版されるや否や、彼は激しく攻撃された。人は著者をその無知と、彼が軍事的ならびに心理的風化の作法を描写した執拗さのゆえに非難した。記念事業が敗北を歪めている頃、ゾラは、今日人が悪しきフランス語の表現の一つと呼ぶところのものについて漫画化というほどに強調したのである。1870年の大敗走よりももっと恐ろしい大敗走を人々が経験したとき、ゾラの規則を無視した表現は極めて中途半端であるように思える。後の事件はあまりにも衝撃的だったので、作家は反愛国主義者、反軍国主義者として現われる。世人は彼の姿勢を理解しないばかりか、彼が、『大潰走』の結果として生起した論争なきドレフュス事件のときに矢面となった憎悪をも理解しなかった。実際、ゾラが攻撃されたのは、彼がフランス人の多数派の解釈に逆行したからである。こうした解釈によれば、戦争が敗北したのは、フランス人が数において劣勢であったからである、帝政によって準備が遅れたからであったという。たしかにエミール・ゾラは帝政を圧し潰した。そして、発表された回想録ないし現場で収集された。あるいは目撃者への尋問を通じて得た情報において汲み尽くされた多くの詳細は真実究明のために組み直されうる。しかし、英雄潭を再検討することによってゾラは自らを突き出し、軍隊の敵のような印象を与えたのであった。彼は決してそれを望まなかったし、そうでもなかったのだが。

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