matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

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記念事業(3)

第3章   協会と思い出
 
協会の設立はドイツが先行したし、数も多かった。連隊の戦友会は雨後の筍のごとく増え、1866年、1870年の戦闘員のみならず、あらゆる旧戦友を集めた。国家規模の、ついで帝国規模の戦友会は公権力および軍事当局の積極的な協力を得る。1874年になると戦友会はアルザス=ロレーヌにも支部を増やす。メッスおよび戦場の軍墓地と記念碑の装飾と維持のための協会の設立は決定的な転換点となった。なぜなら、この地方協会は公権力、軍当局、市町村間の結合を促す役割を果したからだ。その積極的な保護のもとに各方面で活動が展開された。
フランス側では連隊の戦友会はドイツのそれに遅れること20年〜25年で設立された。それは宴会を組織し、老兵の葬式に参列し、機関紙ないし連隊史を発行する。グラヴロットの元戦闘員とライン軍の協会の設立がきっかけで18884月に設立された。その趣意文は「祖国・回想・希望」である。1887年にアルザス人サヴィエル・ニーセンとメッス人のヴィクトル・フロッスによって設立された「スヴニール・フランセ」は旧戦友会ではなく、一般人の入会も認められていた「スヴニール・フランセ」は設立主旨に軍墓地の維持を掲げた。毎年、活動範囲を広げ、失われた両州で起きたすべての事柄に関心を寄せた。それは共和派の気遣いを得た。なぜなら、その組織はナショナリズムの足跡に引きずられなかったからである。それは1906年に公的有用性を認知された。「スヴニール・フランセ」は多くの記念碑、とくに東部、パリ地方、ロワール川流域における戦死者の記念碑の設立の発起人となった。他の協会はもっと控え目であった。たとえば、1893年以後、サヴォワ、オート=サヴォワの元遊動兵を集めた協会がそれだ。生存者の一団は、かなり弱くなった紐帯を結びなおすための集会を開いた。ミサののち遊動兵は先頭にラッパ手を押し立てて行進。ラッパ手はかつての長官のコスタ伯爵に再会した。新聞記者は書いている。
「ラッパ手は涙を流しながら長官を抱きしめ、2人ともかつて負傷したことを思い出した。群衆は尊敬を込めて望見していた。」
驚くべきことは、諸事件と協会設立の間の時間的ずれである。20年、25年あるいはそれ以上もの隔たりがあったのだ。
次は記念日である。1895年の25年祭、1910年の40年祭では数日間に亘るデモとともに特に爆発的な行事となった。行事が一旦おこなわれると、その儀式は繰り返された。フランスでは最初にイニシアティヴをとったのは僧侶であり、場所は教会堂や礼拝堂だった。僧侶は思い出と場所の守り手でもあった。一度ある地点でおこなわれると、すべてがその周囲でおこなわれた。世俗的精神の支配する共和派の場所では、軍隊の諸協会の助力を得て儀式を組織したのは市町村である。僧侶と兵士は当然の記念祭式の主宰者であった。祖国はフランス人間において分裂を超えた存在であったのだ。
フランスで最も有名な戦いは816日のマルス==トゥールの戦いである。フランスの聖地となったこの寒村において、広大な戦場、何千という兵士の眠る墓地・肖像画・軍服・武器・戦利品・レリーフをもつ記念碑など、あらゆるものが勢揃いいする。何年もの間マルス==トゥールは多数の群衆を引き寄せた。メッスやメッス地方の村落から来る友人や両親に再会するため、家族揃って遠隔地から訪れた。何千という人々がこの日、フランスの空気に浸るべく国境を越えた。主催者は当地の司祭ジョゼフ・ファレル。彼はメッスの錠前工の息子で、共和国は最終的に彼にレジオン・ドヌール勲章を授ける。軍隊も参列した。文官たちは控えめな態度をもち、政治家は私人の資格で招待された。祭式は荘厳なミサでもって始まる。教会堂があまりに狭小のため、群衆は外で待つ。祭壇はしばしば野外に置かれた。次いで行列が形成される。半分宗教、半分デモの行列は先頭に僧侶が立ち、軍人と大衆がそれに続く。人々はその日のために装飾の施され、武器をもつ軍隊に取り囲まれた記念碑に向かう。納骨堂に眠る死者のために合唱がなされ、鐘が鳴らされる。兵士の傍らに揃って喪服を着たアルザス女性とロレーヌ女性が失われた両州を象徴する。後景に朦朧とした群衆が記念碑の前にいる。そして林立する軍旗が旗めく。ドイツ軍の目には、催事の中心テュリナズ猊下は単に国境の司教であるだけでなく、報復の司教でもあった。午後になると戦場訪問が行われる。幾人かは国境を越えて併合地に殺到する。人々は行進を見学し、軍楽に耳を傾ける。各人が自分を取り戻す。マルス==トゥールへ行くことは思い出の地への巡礼を意味するだけでなく、希望を養う方法でもあった。
ドイツの祭式もフランスのそれに似たようなものだ。同じような場所で、しかも同じような日付であった。にもかかわらず、祝賀の地理的空間は絶対的にアルザスとロレーヌの戦場に局限されていた。公権力・軍隊・旧戦友会が主導権を握り、私的な主宰は二義的なものでしかなかった。例外的なケースにおいて、皇帝ヴィルヘルム二世が個人の資格で参加したことがある。皇帝はいつも公式式典の代表者ではあったが。
聖杯蓋が主に教会堂で繰り広げられる。ルター派の従軍牧師が神およびドイツ国民の願望の経常的な解釈者であったが、人が当時読んだところの「神の奉仕」は他の既存の祭式宗教たとえばカトリック教会でも、シナゴーグでも祝福された。ドイツ帝国は、有名な奉献歌「ゴット・ミント・ウンス(神はわれらともに)」と言われるように、キリスト国家である。この言葉は多くのフランス人を苛立たせた。軍事祭典はフランスとは異なり、かなり複雑であった。なぜなら、軍はドイツ国家で第一義的な重要性を帯びていたからだ。軍事祭典は前夜にメッスの街路において松明が点されることをもって始まる。午前、ガルニゾン教会での、あるいは野外での神事が終わると、人々はグラヴロットの高地に赴く。そこでは行列とパレードが展開される。記念碑の前で合唱・鐘音・演説がなされる。音楽のパート(合唱隊による愛国歌、軍歌のレパートリーの一部の演奏)はフランスよりずっと大きな位置を占めていた。
記念式典は戦闘の場所によって異なる。毎年、帝国は兵舎や学校でスダンの日(スダンターク)すなわち決戦勝利の日、ドイツ帝国の建国日を大々的に祝った。軍事力と1870年の将軍たちの才能とを祝賀することは学校生徒や兵役中の兵士にとっては誇り高くもあり、栄光の感覚を維持するのに貢献した。軍幹部にとってはスダンは演習計画と戦略的省察の絶好の機会となった。次期の戦争を仮定してドイツ軍はフランス軍を今一度のスダンとなるよう、決戦を制しなければならない。フランスはフランスで、二度目のスダンの亡霊に脅され、何としてもそれを避けねばならなかった。
あらゆる祝賀演説において、死が引き合いに出され、解釈され、変容された。もっとも頻出するテーマは大乱戦の最中における瀕死の重傷を負った者の英雄的な死であった。それは自己の生命を捧げても義務の履行を伴うのがふつうだった。キーワードは「義務」と「犠牲」。ドライゼ銃と大砲を見くびったこれら英雄的な兵士はあらゆる臆病、あらゆる裏切りを消し去った。彼らは将来の世代の模範となる。シャントーという素性の知れぬトルコはオルレアン近郊でたった一人でドイツの連隊を阻止した。ロワニーでアルジェリア歩兵の先頭に立って負傷したソニス将軍は不具者となった英雄であり、勇気・威厳・犠牲精神の生きた見本とされた。金文字で書かれた碑文はいとも簡単に説明する。年月がたつにつれ、英雄的なレトリックは自由になる。「これら気高い胸甲騎兵、…若く、偉大で、美男子で、赤いズボン、青服のアフリカ狙撃兵…。」敗者自身が変容された。

一例を示そう。1895年、サン=ディエ、ブリニョンの首席司祭にしてヴォージュ県の議員たるカミーユ・クランツは、自分が目撃したノンパトリーズ(ヴォージュ)での戦闘を回顧する。この首席司祭は思い出す。

「私はなお土地のうねりを目撃した。そこでは子どもっぽい砲兵が4門中2門でもって恐るべき砲兵隊に激しく応酬していた。この砲兵隊こそストラスブールを砲撃し、城壁に穴を開けたのだった。私は、2ヵ月前に家族から工場から引き離されたばかりで銃の撃ち方もろくに知らないけれども、大胆不敵で1日中、戦争に慣れ訓練を施され、勝利をおさめ、仕事と戦闘にへとへととなった敵軍を敗戦に追い込んだのだ。」
「伏せた狙撃兵の真直中に立ち上がり、生きながらに自らの身をプロイセン兵の標的としたのだ。最初の弾丸が額を貫いた。彼は怯まない。2発目が肘を壊した。彼は数メートル退って包帯をしてもらうに行くのを拒絶し、静かに腕を吊し、持場にとどまろうとした。三発目がついに首の後ろを貫き重傷を負った。勝者の敵を驚かしたのはそのときであった。彼は民服を着ていた。スダン以来制服を着用する暇さえなかったのだ。ドイツ軍は無慈悲にも止めの一発を与えた。」
ドイツ側の記念演説は勝利を強調する。すなわち、ドイツの戦闘員の勇気、指揮官の優越、組織の質の良さ、ドイツ国民の支援…など。フランス兵は確かに勇気があったが、軽薄で、一貫性に欠け、訓練不足であった。戦場においてはプロイセン兵、バイエルン兵、ヴュルテンベルク兵、ザクセン兵、ヘッセン兵等々がいた。彼らはドイツ人として行動した。記念演説は諸邦独立主義と伝統を尊重する。それは同時に統一的であり、かつ、新しい政治体系を帝国と祖国の体系の正当化に利用する。プロイセン衛兵の犠牲は国家統一の母胎のひとつであった。だからこそ1870年に関する演説は政治力、すなわち新世代に対して帝国創立者の業績を思いださせ、皇帝信仰を正当化する力であった。皇帝は第一に勝利した兵士である。小学校では1870年の諸事件は歴史の論理的な帰結として教えられた。ヴィルヘルム一世、ビスマルク、モルトケは生前のうちにドイツ英雄のギャラリーの中に入った。彼らは、シャルルマーニュやフリードリヒ=バルバロッサが垣間見たところのものを完成させたのだ。偉大な名前の傍らに無名の多数の兵士がいた。戦場で危険なめにあった彼らは忘れられてはならない。演説よりも詩歌のほうが彼らを記憶に固定するのに効果があった。教科書には戦争詩が大きく扱われていた。もっとも象徴的なのがフェルディナン・フライリグラートの「ヴィオンヴィルのトランペット」である。
フランスではポール・デルレードの「兵士の歌」が同じような幸運に恵まれ、長いあいだ人気を博し、再版を重ねた。これらの詩歌は、ジュール・フェリーの干渉により公立学校の教科書から除外された。1918年まで、カトリック系学校では使われていた。
記念事業は軍事と宗教の密接な絡みあいを示す。この当時、僧侶と兵士はつねに交流があった。併合されたロレーヌでは最も有名な事業は、メッス戦で戦死したフランス兵の名誉のためのミサだった。これはメッス大聖堂で毎年98日におこなわれた。婦人グループ、メッスの貴婦人たちがデュポン・デ・ロージュ猊下の請願の成就に臨席する。礼拝式と祈りは死者のそれである。祭式執行者は黒い衣装を着用し、内陣では黒布で覆われ、三色旗で飾られた霊柩台は死者を連想させる。ドイツ軍は政治的意味合いを出さないのを条件として、この行事の挙行を1914年まで許した。
 フランスではこのタイプの宗教的儀式において軍人は名誉ある席に列席し、クレープに覆われた三色旗が霊柩台を取り囲む。元兵士は古い軍服を纏う。平和と希望を求める誓約は多かれ少なかれ強調された愛国的色調をもつ。反教会闘争の最も盛んなときは祖国が現在の闘争の上に位置することが強調されるのがつねであった。ひびの入った団結が復元されるのは祖国のまわりにおいてである。政治的意見の違いを超えて、死者の信仰を引き寄せる1870年の思い出は国民的共同体の団結の象徴であった。
元兵士の埋葬儀式が礼拝式の仲間入りした。フランスでもドイツでも、教会または礼拝堂はこのとき国旗と出陣旗で飾られる。音楽と楽器演奏が戦争の雰囲気を醸しだした。

 
第4章   証言と戦記
 
フランスでもドイツでも何千という書物が出版された。1870年は出版社にとって長い間確実に価値ある年であった。
文学作品と同様、発行部数を知り、普及の具合を評価する必要があるだろう。普仏戦争に関して他の世界より感受性の強い世界が存在した。それは軍人家族や元兵士の家族である。1910年、すなわち事件から40年後、すでに60才から70に達した元兵士らは潜在的な購読者としてなお数多いた。出版社の刊行物やカタログは、興味をいだく公衆の存在を示す。いずれにせよ、ただ単に購入の時期だけを問題とするのは危険であるだろう。しかし、ほかに購読と精神の浸透を評価する手段はあるだろうか。 
1870年の思い出はこれらの多数の出版物によってどのようにして維持され、覚醒され、考察され、歪曲されたのだろうか。答えは単純ではなく、階層・世代・偏見により回答はきわめて多様なものとなろう。問題は1875年と1910年は同じような条件で問われているのではない。事件から遠ざかれば遠ざかるほど、教育が思い出のヴェクトルとして大きくなる。
ドイツ参謀本部の公的歴史書はきわめて迅速に起草され、続々と出版された。それは1875年以後、精細にして体系的な、ドイツ軍の戦略的展望において細かな歴史書として刊行された。フランス語に翻訳され、それは叢書および参考図書となった。フランスの軍当局はこの種の本をまったく刊行しなかった。唯一の大規模な出版物を挙げるとすれば、1904年から1910年にかけて出版されたレオンス・ルッセ中佐の正直で完全な戦史である。ボナル、フォッシュ、ルオクール将軍らの作品はより技術的で、陸軍大学で作りあげられたスタイルのものだった。
軍司令官やほとんどの将軍らも出版した。回想録に値しないものも含まれていたが、少なくとも彼らが指揮したか、あるいは巻き込まれた戦闘についての記録ではあった。彼らは事細かに作戦を説明する。そのなかで彼らの部下の元兵士が姿を現わし、それゆえに長いあいだ完全に読むに堪えないものとなった。それらの本は、依拠資料、雰囲気の記述、自己正当化の気遣いゆえになお貴重な価値をもつ。完全に年老いてから(1888年)書かれたモルトケの回想録は指揮下の参謀部の物語だが、全体的展望を与える点でこのタイプの作品としては稀有なもののひとつである。モルトケは、実際そうであったよりも戦争をより合理的に見る傾向があった。スダンとパリ攻囲を除き、モルトケは戦闘の現場目撃者ではなかったことを想起しよう。もっとも興味深い資料はブロンザール・フォン・シェレンドルフの日々の「日誌」であった。彼はドイツ参謀本部の「半神」のひとりだった。だが、その死後出版(1954年)はほとんど世間の関心を集めなかった。
1914年まで多くの将校が自らの証言をもたらした。価値と面白さの点で開きはあるが、アルザスの戦い、メッスとパリの籠城戦、ロワールの戦い等々に関する大量の著書が出版された。これらの出版物における専門の編者はきわめて豊富なカタログをもつ。フランスではベルジェ=ルヴロー、ラボゼル、シャプロ、ル・ダンテュがそれらである。『二つの世界』誌、『パリ』誌、『ル・コレスポンダン』のような大雑誌において、戦史と政治的、軍事的考察が豊富に展開された。新聞においても同様である。記念日や記念祭に際しては非常に事細かな記事、戦史、未発表の目撃談が見いだされた。重要なことは、それらが再録だったり主張だったりしてオリジナル性に欠けている点である。東部地方ではしょっちゅう新聞が1870年に関して取りあげた。たとえば、1914年の初め、『共和主義の東部』(ナンシー)はおよそ2ヵ月間のコラムでエミール・シャンリオの「ロレーヌにおけるドイツ軍占領」を取りあげた。
多くの書名を引用することができる。回想録・目撃談・歴史書のなかで、一つだけディック・ド・ロンレーの戦史を取りあげよう。この戦史は挿画が多く、光景ないし悲劇的場面における挿話がふんだんにあり、読んでおもしろい作品である。これは長い間ベストセラーとなった。1914年までこれら出版物の数は増える一方にあった。遊動隊長、アルジェリア歩兵隊長、軍司祭、捕虜らは自分らの思い出を書くか、さもなければ所属軍団の行軍日誌を書いた。しばしば子どもたちが父からの戦場便りを出版した。誤りと憶測の一杯詰まった、これら細分化された証言録は一方で掛けがえのない詳細をもたらした。これは戦闘員の立場から見た戦争である。行軍、ビバーク、命令受理とその執行等々。兵士は眠り、食べ、待ち、戦い、しばしば負傷するか捕虜となる。辛苦と死、雨と寒さ、民間人との接触、敵との出会い、これらあらゆる出来事が戦争の日常茶飯事であったのだ。
戦史書について仏独では明確に異なった2つの国民性が見られる。いずれも同じ期待と同じ偏見をもっていなかった。だからこそ、ほとんどの著書が軍事専門家のためのドイツの技術に関するものを例外として翻訳されなかったのである。フランスの大衆に対して提起された著書のなかで『モルトケ回想録』、コルマール・フォン・デア・ゴルツの『ガンベッタとその軍』、ジャーナリストで軍事評論家のカール・ブライプトロイの幾つかの小冊子、クライン牧師の『フレッシュヴィレル通信』が含まれる。カール・ブライプトロイの小冊子はモルトケの人と役割に関する慎重な批判に着手する。1876年に刊行されたドイツ語初版はかなりの成功をおさめ、再版を重ねた。『フレッシュヴィレル通信』の書名でのフランス語版は三版を重ねた。『過ぎ去ったシーン』の最終版は1914年に出版された。フランスの作品のドイツ語版に関して考察がなされるべきであろう。ここでは一例としてポール・デルレードの『日誌』を挙げておこう。これは1876年に出たものだが、ドイツ語版は1907年に出た。
最後に戦場査察旅行がドイツで社会的流行となった。これは編者の関心の的となる。元戦闘員協会は主としてアルザスとロレーヌの戦場巡礼を組織した。幾人かはブルゴーニュ、ロワール河畔、パリ近郊まで出かける。クロッキーまたはカードでの戦場ガイドブックが1890年から1900年にかけてまずドイツで、ついでフランスで出版された。これは驚くべき幸運を約束する部類の始まりであった。

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