matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

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記念事業(4)

第5章    25年後と40年後
 
1節  25周年
25年めに盛大な記念式典がおこなわれた。全ドイツから集まった何千という老兵たちがヴィルヘルム二世を取り囲む。国家募金で設立されたグラヴロットの記念館の開館式に、皇帝は参列したのであった。マルス==トゥールから数キロメートル離れたグラヴロットはドイツの聖地となった。1897年、ヴィルヘルム一世の生誕百年祭がおこなわれた。このとき、ザクセンヴァルトから選ばれた柏の若木が植えられた。この森は1871年、ドイツ国家の名において謝意としてビスマルクに与えられた森である。
フランスではパリの周辺で数多くのデモ行進が行われた。最も盛大な儀式が挙行されたのはベルフォールにおいてである。ローヌ県、オート=ソーヌ県、セーヌ==オワーズ県、オート= ガロンヌ県の元遊動兵らが参列。アルザス人も然り。ベルフォールの共和派市長はダンフェールの思い出と要塞での抵抗、つまり187071年戦争史の陰気な基調の中での『輝き』」を想起する。フランスは立ち直ったこと、この立ち直りは共和政に負うことを、彼は強調する。
「共和国政府はあらゆる災禍を復興し、大国および義侠心に富む国民とのあいだに確固たる同盟条約に調印し、祖国の聖ある土を守ることができ、かつ侵略者を撃退しうる国民軍を組織した」、と。
もはや報復戦は問題ではない。記念日以外には記念の熱情は次第に色褪せていく。それでもなお幾つかの新しい記念碑が設立された。たとえば、シャニーの記念碑はリゼーヌでの戦いを、フォントノワ= シュル= モーゼルの記念碑は、ゲリラ兵によるパリ〜ストラスブール鉄道線の橋の破壊をそれぞれ記念したものである。後者は1898年に15千の観衆を集めてナンシー司教、テューリナズ猊下のもとで式典がおこなわれた。
新聞は参列者の数に対して、熱情の程度に対して、稀には無関心さに対して一定の影響を与えた。1890年代の末になるとドイツ同様、フランスでも掲載回数が少なくなった。ロラン主宰の、メッスで刊行されたフランス語新聞カトリック系新聞『ル・シャノワーヌ・コラン』――その機能のひとつは炎を再点灯することだった――1901年に醒めた記事を載せる。
1870年の思い出はほとんど通俗的な対象となってしまった。人は語り尽くし、書き尽くし、われわれが黙って悲しむべき記念日を祝う日々に関して涙を流しつくした。今や新たに言うべき事柄は何も残っていない。これらの事件から1世紀が経ったような気分である。祖国、それは公共集会にとって、そして祭にとっては善であるだろう。しかし、昔と違って自分の生命を祖国のために喜んで差し出すということは夢見ないだろう。国民はその怨恨を鎮めしだいしだいに仲直りする手段を見いだすようになり、彼らの利害関係をまるで中国においてなしてきたかのごとく混同するのだ。[注]元帥ヴァルダーゼーの司令のもとでの北京へのヨーロッパ軍の遠征への当てこすり)
愛想づかしが真実のものであろうと、「忘却の時代が来た」と結論づけるのは早計である。潜伏と幻滅の時期の間、思い出の譲渡は続いていた。学校で、軍で、新しい世代は教育を受けていたのだ。
家庭は口頭伝達の特権的な場所である。占領の悪事、籠城の艱難、プロイセン兵による蛮行の過程を通じての伝達は無疵であり、汲み尽くされることがなかった。1870年の物語は数多くのフランス人の若い日に染み込んでいた。仏独戦争が奥深い刻印を残したシャルル・ド・ゴールの家族も同様だった。『大戦回想録』の第1ページでシャルル・ド・ゴール(1890年生れ)は家庭でのこの浸透を想起している。
「わが過去の不幸な物語以上に私を揺り動かしたものはない。私の父はブールジェおよびスタンでの無駄な脱出戦で傷を負ったことを思い出す。私の母は、幼い娘が両親の見ている前で『バゼーヌが降伏した!』と、絶望のあまり大粒の涙を流したことを思い出す。」
この若者はコレージュに入る。彼は体系的かつ情熱をもったやり方で歴史を学ぶ。すでに彼の軍人としての性向は描かれていた。シャルル・ド・ゴールの記録の冒頭部分は彼の息子フイリップによって発表されるまで出版されなかった。それはフランクフルト条約の歴史とその結果に関する記述である。
今は1905年のタンジール演説のときである。ヴィルヘルム二世のこの演説はゴングを鳴らした。彼は第一次モロッコ危機を、1887年以来、初めての仏独関係の重大緊張を開いた。その事件は国際会議によって仮の解決を見た。それは少なからず1870年の思い出を蘇生させた。70年の思い出は仏独関係の岐路となった。緊張緩和の局面において、記念式典は老兵、現役の将校と兵卒において保持された慣行的な振る舞いを鎮めた。人々は癒しと平和を強調する。ヴィルヘルム二世は彫刻家のクロイツナッハに「グラヴロットの天使」なる作品の制作を命じてこの癒しの象徴とする。彼はタンジール演説の直後に仏独関係が悪化したときにその除幕式を行う。
1905年以降、併合地の公的生活の自由化は1870年の記念事業に、ビスマルクならば絶対に許さなかったであろう広がりと観衆を与えた。新立法のおかげで、フランス協会はグラヴロットならびにライン軍戦友会およびフランスの思い出協会とおなじようにアルザスとロレーヌにおいて支部を置き始める。それは法規をもち、会員を集める。そのなかでももっとも活発な活動を展開したのはジャン=ピエール・ジャンが主宰したフランスの思い出協会である。ヴァリエールの印刷屋たる彼は飽くことを知らぬ情熱家であり、記念碑の設立に新たな息吹を与えた。併合されたアルザス=ロレーヌ人協会はドイツ人が立てた記念碑とは別の独自のものをもとうとした。フランスの思い出協会はドイツの元戦闘員協会と協力して、1870年の兵士らの散在した墓を集中した。フランス人とドイツ人はこの「聖なる義務」を共同して成就した。儀式に際しては、スヴニールの旗とドイツ戦友会の旗が並んだ。制服のドイツ将校はジャン= ピエール・ジャンとその仲間の傍らに立ち並んだ。この寛容政策に励まされ、ジャン=ピエール・ジャンはノワスヴィルで倒れたフランス兵の栄誉を称える記念碑を建立しようとする考え方がいだいた。彼は名士らの支持を集め、ヴィルヘルム二世の許可を得た。ノワスヴィルの記念碑はエマニュエル・アノーに託され、1908104日に除幕式が行われた。この日はロレーヌが併合された記念日である。夥しい数の熱心であるとともに沈着な群衆が委員会の訴えに耳を傾けた。数週間後に本屋の店頭にモーリス・バレスの『メッスの小説』が並んだ。「コレット・ボドーシュ」はまったくの偶然とは言いきれない一致である。なぜならばモーリス・バレスはノワスヴィルで準備していたグループをよく知っており、交流を行っており、また評価していたからである。彼がいだいたテーマはたしかに彼が長い間温め、メッスの友人との接触を通じて熟成させたものであった。彼が経験した成功は、その本が世論の期待に、そして少なくとも世論ー失われた地方のノスタルジーを保持し、「揺るぎなき忠誠」を信じていた世論ーの一部に訴えるものがあったからである。
 
第2節  40周年
バレスの小説を読んだ人々のなかにハヤンジュ(併合されたロレーヌ)とジュフ(ムルト==モーゼル県)の製鉄工場主フランソワ・ド・ウェンデルの名を挙げることができる。フランソワ・ド・ウェンデルは35才の野心的な青年だった。彼は政治と実業に大きな責任を帯びることを夢見ていた。彼は若い日々をハヤンジュで過ごし、次いで2人の兄弟とともに亡命生活を送る許可を願い出た。彼はフランスに身を落ち着けた。メッスのフランス人世界の思い出、メッスの新聞『ル・ロラン』――彼は購読者の一人であった――が掻きたてる思い出はノスタルジーと願望を呼び覚ました。彼は日誌にこうした省察を書き残す。
「私は心の奥底で、特にいつも見いだすのは『報復』である。男の子、若者たる自分が将校となり、サン= シールで過ごそうと欲するのは何よりもこのためである。私の両親を工業の方向に導いたのに、私はすぐに政治の方向に視線を追いやったのはまさしくこの事業に奉仕するためである。奥底で党派政治は私の興味を引かない。私の確信は生温いけれども、その目的は崇高であり、私は確かにそこにいる。われわれはわれわれの感情を詰まらせるために死者と墳墓を必要とするのではない。我々が勝利するのを可能とし、義務とするのに村落と陣地の名を見るだけで十分である。」
彼の同僚であり、かつライヴァルであるカミーユ・カヴァリエ――彼もまた敗北とポン= = ムッソンの占領の強烈な思い出を保持していた――とは正反対に、フランソワ・ドゥ・ウェンデルは1870年を経験しなかった(彼は1874年に生誕)。しかし、彼の環境と実業家としての日々の活動を通じて彼は国境の近くにおり、愛国心は1870年の悲劇に関する熟考に根を下ろした。文学的な感興は、彼が頻繁に訪れる人々や彼が指揮する企業の日常生活において経験した具体的事実と交わり、確証する。
ノワスヴィルに話を戻そう。あらゆる名士を集めての儀式が挙行されたが、そのなかにドイツ帝国議会議員のシャルル・ド・ウェンデルがいた。ノワスヴィルはドイツ人がすぐに理解した続きと意味をもった。その大多数が1870年の諸事件や失われた祖国の思い出を経験しなかった住民は兵士の思い出と繋がった。スヴニール・フランセの支部がここかしこに誕生。「ノワスヴィルの精神」は死者に負うべき「敬虔な義務」のなかに「希望」の注記を入れた。この「希望」とは反ドイツ主義である。
ノワスヴィルの足跡においてジャン=ピエール・ジャンは励まされ、彼のアルザス人の友人の援助を得て、ウィサンブールにおけるのと同じタイプの記念碑を建立する計画を立てた。今度はドイツ人はそれほど協力的ではなかったが最後に折れた。彼らは除幕式時に警戒心を緩めなかった。引き換えにドイツ人はフランス政府から、マルス==トゥールでのドイツ記念碑の建立許可を要求してきた。しかし、騒動を呼ばない控え目な除幕式を諦めなければならなかった。                               40年の記念式典は国境の両側で、多数の観衆を呼び寄せて盛大に行われた。マルス==トゥールでは元大臣でムーズ県の上院議員、アカデミー会員であるレイモン・ポワンカレが招かれて式典が行われた。彼は友人のアルフレッド・メジエールとアルベール・ルブランを伴って何度もここを訪れたことがあった。彼が宣した演説は個人的記録から始まった。「ここで、私と同じように幼年時代が侵入によってかき乱されたフランス人は自身の力で憂鬱な帰郷を余儀なくされ、修復すべき正義の希望を膨らませ、過ぎ去った時代よりもよく感じ、自分の運命を履行していないことを思い出す」。人々はすぐさま節度のある後悔の念をいだく。「フランスは心底から平和を願う。フランスはけっして平和を乱すことはしないだろう。フランスはつねに平和の維持のために尽くし、それらすべてはフランスの威信と両立するであろう。しかし、平和はわれわれを呪わないし、忘却と不誠実を呪わない。」宴会の乾杯の儀式において、レイモン・ポワンカレはより政治的な論調で締め括った。「われわれは強力なフランスを欲する。われわれは、今後は人格化された共和政とフランスを別れさせないし、国防の聖なる義務を負う軍隊との決別もさせないだろう。」併合されたロレーヌではヴィルヘルム二世は移動することもできなかった。皇帝は自己の権限をハエゼラー老元帥に託した。75才の高齢にもかかわらず元帥はあらん力をふり絞って、全ドイツから来た何千という老兵に向って、1870年の戦闘について説明した。彼自身この戦闘に参加し、西部軍の進軍を阻止した思い出があった。ベルフォールでは「ライオン」がベンガル花火で真っ赤になった。
40年後」これはジュール・クラルティが戦場と併合諸州査察に与えたタイトルである。冒険心に富む若きジャーナリストはコメディ=フランセーズの館員となっていた。彼が「名誉市民」となっていたマルス= = トゥールで、彼は短い演説を行ったが、私はその中から2つのフレーズを引用する。
「この戦争の響きのする、そして犯しがたい名称は起床ラッパのように鳴り響くというのは正しい。なぜならば、希望を除いて男をとらえるからである。」
続いて彼はメッスに赴き、ここでスヴニール・フランセ協会の会長ジャン= ピエール・ジャンに会う。
 この文脈においてメッスの国立中等学校の宗教学授ピエール・ウェィテル僧正は『メッスの悲劇』と題する著書を出版した(1911年)。これは兵士の証言録であり、非常に具体的でかつ人心を抉るような証言の記録である。籠城経験のある人々によって日々語られるところの籠城生活である。すなわち終わりなき待機、エネルギーの分解、降伏の恥辱、捕虜の出発、ドイツ兵営における187071年の冬等々。この作品は読者を魅了した。なぜなら、つづいて3版を出さねばならなかったからだ。それは印刷され、メッスつまり40年前からドイツの町となっていたメッスで売られた。その住民の半分は出身も文化もドイツのものであった。これは執拗な関心の象徴であり、1870年の諸事件に再会した。
他の兆候は記念碑建立の再開である。ベルフォールではオーギュスト・バルトルディによって輪郭の描かれた「3つの籠城像」が完成され、多くのアルザス人の観衆を集めて除幕式が行われた。ムルト= = モーゼルでは、ブラモンの碑(1910年)、バカラの碑(1912年)、ボセルヴィルの碑(1912年)が除幕式を迎えた。
ヴァランスでは元遊動兵たちが記念碑を立てた。そこには共和国の標語「勝利か、さもなくば死か」を読み取れる。「パリのファールスブール人」――これは首都における数多いアルザス= ロレーヌ協会のひとつであるが――1870年の籠城を記念しようと欲した。彼らは応募をおこない、ファールスブールに砂岩の陰気な記念碑を立てるのに必要な資金を集めた。ここに「回想と希望」の文字が刻まれた。1914年の春、ヴェストファーレンの歩兵連隊はサン=プリヴァに、龍騎兵をへとへとにさせている聖ジョルジュを表わす青銅像を立てた。
関心の蘇りを示すもうひとつの兆候は記念メダルの創造である。長いあいだ協会によって要求された計画は1911年の議会で承認を得た。陸軍大臣ベルトーはブロンズメダルを選んだ。表は兜をかぶった共和国、裏は旗飾、リボンは黒の縞模様の緑となっている。刻印は「祖国の防衛者」とあり、平和的なものだった。モーリス・バレスはアルザス=ロレーヌの老兵について報復者を象った「覚えておけ!」という銘を提案したのだったのだが。このような計画に感動したドイツ当局は公式メダルについて許す方針を決め、アルザス=ロレーヌ人がそれを受け取ることを認めた。
国際関係の領域で登記された一般的問題を超えて、ドイツ当局の苛立ちの理由となることが理解された。数多くの兆候において当局は、1870年の参照は重い敵対感情を育むものであることを感じた。1914年の初め、マルス==トゥールの巡礼看守の、年老いた教会参事のファレルが死んだ。葬式は多数の参列者を呼び寄せた。ナンシー司教シャルル・リュクの幇助修士が祭式を執りおこなった。このアルザス人の息子は感情をもって愛国的僧侶の美徳を称え、国民団結の要素としての軍隊風の式典をおこなった。ここから30キロメートルほど離れた、メッス北方のヴリの小さな村で祭りが行われた。日が暮れると、300人の住民は1870年の記念メダル授与式に参列する。7人にそれが授与された。市長、司祭、教師が控えめな演説をおこなった。しかし、彼らの話題は重く、言外に深い意味が込められていた。ずいぶん前から苛立ちを覚えていたヴィルヘルム二世は、そうこうするうちにスヴニール・アルザシアン・ロランとなっていたスヴニール・フランセへの干渉を命令した。裁判はジャン=ピエール・ジャンとその仲間に向けられた。3年兵役法に関する論争によってもたらされた緊張の雰囲気のなかで、1870年の思い出の反ドイツ的利用は併合地住民のなかに、「ドイツ人は容赦しない」ことを悟らせた。感受性が上辺だけのフランス語圏の、併合されたロレーヌでは特にそうであった。

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