matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

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記念事業(5)

第6章   フランスは事態を打開することができるだろうか
 
スヴニールの信仰はひとつの事柄であり、政治はまた別の事柄であった。指導者たちは1870年の刻印の執拗な存続を考慮しなければならなかった。30年後、忘却とまではいかないにせよ、少なくともより現実的な態度を採用することは可能であっただろうか。
ニュアンスと屈折こそあるものの、共和政政府の対ドイツ政策は非常に安定していた。ティエールによって定められた慎重と中庸の路線をレオン・ガンベッタ、ジュール・フェリー、ジュール・グレヴィ、エミール・ルーベ、ジョルジュ・クレマンソーも継承した。ガンベッタ――1871年当時の彼の徹底抗戦主義が非常に高くついたが――は死の間際まで「関係回復が急務である」と宣言した。ヴォージュ出身のジュール・フェリーはアルザスに深い愛着をつないでいたが、控えめにドイツ帝国との合意に基づく領土回復の道を選択した。悲しそうに視線を「ヴォージュの青線」に向けながら、「時が最後に運命の文字盤で鳴る」ことを待つことを説いた。幾多の非難――彼については不当な非難ではあったが――にも堪えつつとりつづけたこの賢明な現実主義の彼の態度は「報復」の放棄でもなければ、平和主義でもなかった。フランスがそれ自身の意思で戦争を始めないこと、を彼は強調する。もしフランスが攻撃されるならば撥ねつけるであろうし、こうした起こりうる反撃の準備は国家の義務である、と彼は考える。
この現実主義と慎重の指針は是非とも維持されねばならなかった。たとえブーランジスムの圧力が圧しかかるときにおいても。ブーランジスムの退潮ののち、その指針は国民大多数の願望に沿っていたことは明瞭である。ビスマルクの辞職(1890年)はフランス政府をして態度変更に導くであろうか。政府は局面打開の鍵を握っていなかった。それはドイツの意向と国際的政策に依存する。ところで、1890年代の初め、重要な変化がドイツの自主的選択の問題を課す。ドイツはビスマルクの根本原則、すなわち独露緊密関係の維持の原則を放棄するにいたる。自由となったロシアにとってフランスへの接近が可能となった。2国間で交渉が始まり、1893年に攻守同盟の締結に帰結する。フランス世論はこの成功に大喜びした。ビスマルクによって張りめぐらされた鉄鎖が初めて崩れた。フランスは1870年以来、経験してきた国際的孤立に終止符を打った。この紛れもない成功はまた裏面をもっていた。ロシア帝国は、フランスの側からもちかけられた既成事実の上程を支持することを承諾しなかった。明らかに新たな同盟はアルザス=ロレーヌ問題の再燃には何の効果ももたなかった。今までになく1871年の既成事実は国際的地政学において揺るぎないものとなった。
平行してヴィルヘルム二世のドイツとの関係は沈静化する。ビスマルク時代の末期と比較すると、それはあらゆる分野における緊張緩和であった。アルザス=ロレーヌでは静穏な統治がつづいた。2国間の関係を改善するときがくるだろうし、ドイツはこの方向での幾つかのサインを送った。しかし、何らの盟約も結ばれなかった。
フランス世論もしくは少なくともその一部の世論の振るまいの重要な局面に軽くふれておかねばなるまい。世論は、明言しないこと、とくに宿敵に対した何らかの譲歩を流布させるような公的な振るまいをしないことを条件としてドイツとの和親に同意した。それというのは、ブーランジェ将軍が多様な社会階層において、外見的に和解しがたい確信をもつ階層において絶大な人気を博した1887年にビスマルクの餌食になる可能性があったからだ。だからこそ、ドイツとの仲直りは不可能であった。フランクフルト条約は2国民の間に溝を穿ち、いかなる慇懃行為も、またいかなる些細な譲歩もその間隙を埋めることができなかった。50億フランは忘れ去ることができたが、失われた2州はそうではなかった。モーリス・ルーヴィエのような人物――彼の現実主義は遍く知れわたっていたが――は、超えがたい限界、つまり世論が行き過ぎを許さないであろう限界の存在を知っていた。世論は修復を待つ。この修復は返還によってのみ可能であった。1887年(ブーランジェ将軍)と1905年(テオフィル・デルカッセ)の更迭というかたちで、危険と見做された大臣を犠牲にすることによって仏独関係の改善が図られた。しかし、それ以上に進むことは許されなかった。
ヴィルヘルム二世が和解提言と慇懃行為を幾たびもくり返した(1901年)ため生じた仏独間の緊張緩和の時期において、共和国の賢明な大統領エミール・ルーベは彼の腹心の協力者たるアベル・コンバリューとともにしばしば、この厳しい問題に取り組もうとする。ドイツの和解提言について語るときコンバリューは書いている。
「いつもと同じ繰り返しである。…[中略]…大統領はそれ以上に進もうとはしない。…[中略]…ドイツとの和解政策は、フランス人がフランクフルト条約の結果のすべてを法的にかつ決定的に承認しないかぎり不可能である。ところで、われわれは1871年の強奪に対して自由で自発的な服従をもたらすことができよう。」
この最後の文脈において、私的談話のかたちで話したのは共和国大統領である。彼はこの短い文において政治家と国民のほぼ全体の意見を表明する。報復戦も時効もない、と。フランスは略奪されたのだ。歴代政府はしばしば、不平不満こそあるもののドイツに受け入れられる和解のラインにとどまってきた。両国は武装平和の体制のもとに暮らす。一方は報復を恐れる。他方は新たな侵入を恐れる。互いに監視しあい、相互に不審感をいだき、動静を探りあう。諸新聞は敵対感情を維持する。この背景なしに、ドレフュス事件で切って落とされた愛国熱については何ら理解することができない。
20世紀の初頭、権力の座にあった指導者たちのすべてが1870年を経験していた。若者ないし子どもであった者にとって、敗戦の思い出は大多数のフランス人におけるのと同様に重たく圧しかかる。彼らのめざす方向は共和国の創立者のそれと同じである。彼らがたとえ祖国が孤立から脱出したことを悟ったとしても、いかなる政治家も公然とアルザス= ロレーヌを放棄したり、サドワの16年後にドイツとオーストリア=ハンガリーの間に生じたようなタイプの和解を引き寄せたりすることはできなかった。これに手を出す者はたちどころに粉砕されたであろう。
1911年、下院議長ジョゼフ・カイヨーはアガジール事件のときドイツと交渉をおこなった。彼は交渉し条約に調印した(191111月)。赤道アフリカのフランスの領土的譲歩との交換条件としてドイツはフランスにモロッコへの自由進出を許した。この条約は批准され履行されたが、そうこうするうちにカイヨーは権力の座から滑り落ちた。一部の世論の見るところ、彼は裏切り者と見なされたのである。戦争の最中に彼は非常に高い、いな、高すぎる代償を払ったのである。失われた両州の思い出が少しばかり色褪せ、目立たないノスタルジーの色合いをもつようにいたったとしても、1870年を経験した世代は監視の眼を緩めなかった。60歳代を超えた代表たちは、幼年時代から戦争と侵入の物語を聞かされていた次世代にバトンタッチされたのである。レイモン・ポワンカレは例外であるどころか、その代表格であった。だからこそ、1870年つまり仏独戦争の劈頭、最も古いもの、現代人に最も忘れられているもの、最も殺戮的でない戦争を今一度想起する必要があったのだが、その感受性と現代人への影響力をもつこの戦争は時間においてもっとも大きな広がりをもっていた。
40年後、なおまだページを捲るのは不可能のようだ。両国間の緊張の要素も同じことがいえるだろうか。確実に「否」である。1912年以降に進展した緊張はある面で植民地争奪紛争と国際的な文脈における紛争であった。底に留まるドイツへの敵意はちょっとした事件でもあればすぐに発火した。とくにパリと東フランスにおいてそうであった。しかし、それは戦争の要素とは別物であった。1875年よりも1910年により多く武装化された仏独国境が平和な国境として残ったことを思い起こすべきであろうか。アルザス= ロレーヌとフランスの間にはヒト・カネ・モノが巡っていた。ペイ=オの鉱山会社は何らの障害なしに活動を継続する。まちがいなくレイモン・ポワンカレは1912年以後、全土において苛立ちと神経衰弱つまり敵意のサインを呼び起こした。アルザス=ロレーヌにおいてはドイツの政策がプロイセン方法にたち戻ったように見えた。ある者が予想したにもかかわらず、1887年のビスマルク流の過酷政策に戻ったというべきであろうか。確実に「否」である。フランスではドイツ人は巡回し旅行し、通商をおこなうことができた。
一例を挙げよう。フランスの戦場で1914年春、ドイツの1870年の老兵は13日間の旅行をおこない、うちパリとその周辺で6日間を過ごした。こうした旅行的巡礼は何らの事故もなくとりおこなうことができたのだ。この1870年の記念事業の心理的役割を誇張しないようにしなければならない。それは仏独関係のバロメーターと見なすことができる。緊張緩和の時代には儀式は慣例的であり、公式的であり、そして観衆をあまり引き寄せない。仏独関係の緊張が戻ってくると、群衆は再び儀式に参加するようになる。それは本能的に少々忘れ去られた熱情をもって昔の感情を蘇生させ、思い出は急激に息を吹き返す。
 
第7章  1870年と1914年

パンフレット作者、政治家、歴史家はしばしば1870年を191418年の論理的序章として描く。にもかかわらず、関係ないわけではないにしてもストレートな関係はない。43年間に仏独間の敵対感情は平和的にコントロールされた。戦争は避けられない問題ではなかった。単純にそれは、両国間における人心が対決を準備するにつれて可能となってきた。それを理解するため、危機の平和的解決のための意思についてざっとふれておく必要があるだろう。1875年、1887年、1905年、1911年の危機は未然に暴発するのを免れた。19147月のそれは18707月の危機とは似ても似つかぬものだったが、これもまた平和的に解決することも可能であった。われわれはそうならなかったことを知っている。
19147月の数週間――この間ヨーロッパの悲劇が企てられたが――においてアルザス=ロレーヌはいかなる役割も演じていない。仏独国境は7月の最終日まで平穏なままであった。ヨーロッパの戦争に導くプロセスは他のところに由来する。それは今まで何度も検討されてきた。
フランス人の圧倒的大多数にとって戦争は晴天の霹靂であった。ジャン=ジャック・ベッケルが示したように、きわめて普及した決まり文句とは正反対に、フランス人は武器を枕にした雰囲気の中で生活をしたのではなかった。1870年とは異なり1914年の動員はほとんどの世帯を襲った。それは、あらゆる地方とあらゆる社会階層に関わる大量的現象であった。行軍命令書の受領はけっして朗報ではなかった。にもかかわらず、卑しい少数派を除いて動員はすんなりと、いわばこれといった感情もなしにそれは静かに受け入れられた。1870年の教訓は実を結んだのである。このとき報復とアルザス=ロレーヌを思い出させる動員はほとんどなかった。宣戦布告がなされた8月の初め、「神聖同盟の要素」となったのは「攻撃に対する憤慨」であって、報復の精神ではない。フランス人は防御的な振るまいをしたのである。この点で『1914年』誌におけるジャン=ジャック・ベケルの結論「なぜフランス人は戦争に突入したか」は恐らく決定的なものといえるだろう。
アルザス=ロレーヌ人とフランス東部住民の子孫のあいだでは、より活発な反応が見られた。もはや兵士の年齢を超えた亡命地の父親は息子たちを報復の聖なる兵舎に送り込んだ。ロレーヌ出身の家族の若きマルセル・アマンはパンタンにいたが、1914年8月に出征する。以下に彼の初期の手紙の一つの重要な抜粋を掲げておく。
「われわれは戦いの運命の日を待ち受けた。ドイツは負けるということを皆が確信していた。にもかかわらず、わが第160連隊がメッスに行き、そこにしばらく駐屯するという栄誉を受けたならば、私はフレミング[注、フォルバックの近郊の集落]にある1870年のわが振り子時計を捜しに行くだろう。アルザスとロレーヌはフランスに復帰するだろうし、それは早すぎることはない。」
マルセル・アマンは1916611日にタユールのそばで戦死する。よく理解できるこの反応はきわめて少数であった。1914年に動員されたほとんどの者は心中で復讐を刻んで国境に出かけたのではない。両国民において新鮮で陽気な戦争を夢見た者はごく少数でしかなかった。多くの者は震え、短期の戦争を希望した。彼らの幻想はすぐに消し飛ぶのだ。
動員がたやすかったのは、戦争の仮定がすべてのフランス人とドイツ人によって内面化されていたからである。この点に関して学校で、軍で、新聞で、著書に因る思い出によって、しかも、常時提起されてきた1870年の思い出は両国民の敵愾心の台座であり、基盤であった。それは、仏独に共通する現象である神聖同盟に貢献し、あらゆる社会階層とあらゆる政治的感受性を根こそぎ引きずる触媒の役割を演じたのである。フランスでは2つの異なった要素がいわばこれらの蘇生を助成する。すなわち、フランスは攻撃されたことである。今度はフランスは開戦を望まなかったし、その国土を守ることを余儀なくされた。そして緒戦は緊急を要すること。政治的演説は二の次のものである。フランスは権利・自由・共和政をドイツ軍国主義から守らねばならない。これこそ野蛮な力、国際的な正義と倫理の否認を体現するものなのだ。そこに、かつて国防政府の共和派がすでに使ったところのテーマ体系がある。1914年の指導者たちは自発的にガンベッタの愛国的にして徹底的な抗戦のエネルギーの強調を再発見したのである。
戦争の展開過程をみると、新奇さも根本的であった。つまり、1914年の戦争はもはや仏独の単独対決ではなかった。1914年はすぐに2正面の戦争となり、やがて植民地と海洋を含む世界戦争に発展していく。にもかかわらず、その外見はしばしば以前の戦いの再現となった。すべての人々が当然のごとくそれを1870年と比較する。われわれは同じ過ちを犯してはならない、と。悲観論者は新たなスダンの亡霊に怯える。最初の突撃が恐らく決定的でありうるだろう。1870年と同じく、フランスとドイツが対決した。ドイツ軍の北フランスに向けての急速な行軍は1870年の急襲とはさほど似ていなかった。フランス軍は後退したが、隊列は維持し、ジョッフル総司令官はマルヌ川で戦況をたて直した。大モルトケ流の進軍スタイルは予期された結果をもたらさなかったのである。
19149月、パリがふたたび包囲される恐れが生じた。公権力のボルドーへの急いでの脱出は不吉な兆候であった。マルヌの勝利は当面の敗北の危険性を遠ざけた。それは決定的なものになるだろうか。 1914年の末における政府の帰還とともに苦難は消える。パリは再度の包囲の恐怖を経験しない。
しかし、それでも前の戦争と類似した面はあった。すなわち、民間人の殺害、1870年の思い出を想起させるような破壊行為、侵入と占領の物語がそれだ。ドイツの蛮行はふたたび証拠をもって提起される。1914年のドイツ人――人々はなおプロイセン人と呼んだが、やがて「ボッシュ」なる呼称に代わった――1870年時よりもはるかに残酷であるとともに破壊的であった。フランス人は野蛮な行為に直面する。彼らは国土・文明・権利のために戦う。彼らは祖国とともに普遍的な価値を守りとおす。日増しに増える数多くの具体的な事実に支えられつつ、戦争のこうした正当化はしばしば1870年の記憶と対比された。
多くの老兵たちはまだ生きていた。彼らは証言し、助言し、激励した。高齢であるにもかかわらず、ある者は直接的な関係を保つことができた。なお明晰な頭脳を保持している当年87才のシャルル・ド・フレシネは国務大臣となる。彼は1923年まで生存し、勝利とアルザス= ロレーヌの復帰を目撃した。上院の議長としてアントナン・デュボスト(イゼール県出身の上院議員)がいた。彼はガンベッタの時代の元知事である。最も著名な人物の一人にジョルジュ・クレマンソーがいる。彼は1914年当時75才であった。自分の未来は自分の後ろにある、と彼は考える。彼のエネルギーはまったく衰えず、高齢であるにもかかわらず、彼は191711月の危機のときにも頼みの綱として身を捧げた。彼は議会の議長に就任。1870年のモンマルトル地区の若き進歩的な区長はすべてのフランス人にとって「勝利の父」となった。将士のなかで19147月当時、現役でいた者はほとんどいなかった。例外的な人物の名を挙げよう。ガリエニがいる。スダンで捕虜となった彼は元帝国軍の陸軍少尉であった。ガリエニは19149月、パリの精力的な総督であり、マルヌの戦いの補給タクシーの起案者となった。1870当時19才のサン=シール卒の士官のカステルノーは少尉および中尉としてロワールの全線を戦い抜いた。19149月、「長靴を履いたカプチン会修道士」はグラン=クーロネの勝利者となった。彼はナンシーを占領から救い出した。ジョッフルを補佐したニヴェルとフォッシュは1918年までフランス軍のなかで最も傑出した将軍の仲間である。フェルディナン・フォッシュは1870年に戦うのには若すぎた。彼はメッスの悲劇に熱心に加わった。1871年、彼はサン=クレマンのイエズス会修道院で生活した。彼が理工科大学校への入学試験の準備をしたのは、併合された初期のこの町においてである。最後にルッセ陸軍中佐の名を挙げておこう。彼は1870年戦争の最良の軍事史家である。彼は体系的で精細な作品を書きあげた。1914年戦争の最中、彼は『プティ・パリジアン』紙の軍事紀行作家となった。この新聞は最多発行部数を誇った日刊紙である。
ドイツでは小モルトケ――1870年の大モルトケの甥であり、相続人であった――1914年に参謀本部長であった。彼は勝ち戦とは無縁だった。マルヌ作戦に彼は反対した。彼は1914年秋に皇帝に辞職を申し出る。モルトケの名は忘却の彼方に消えた。栄光は勝ち得るべきもので、譲渡さるべきものではなかった。
1870年と同様に戦争はフランス領土内で戦われ、ドイツの民間人は戦争の直接の結果を知覚しなかった。紛争の重荷がしだいしだいに非戦闘員の肩に圧しかかってくるには統制を待たねばならなかった。戦争は短期の、動きの早いものと見なされていた。西部戦線で当てこまれた決戦は生じず、陣地戦が全戦に亘って1914年秋に始まる。これは1870年のそれとは何の共通性もない戦法である。ひとつの名前が想起されねばならない。1911年に引退したパウル・フォン・ヒンデンブルクがその人である。フィリップ・ペタンと同じように、彼は1914年に現役に復帰する。67才で彼は東部方面の司令官に就任し、69才で総司令官に就いた。この役職は大モルトケが187071年に在職した地位と同じである。1918年まで1870年の記念日はドイツ全体で祝われていた。総司令官は1918818日にサン=プリヴァで、第三連隊のフランス軍と対峙しつつ式典を挙げた。これはこの種類の式典の最後のものとなった。
第一次世界大戦の激戦と長さはいくつかの要素によって説明されるのが通例である。そのなかの主要なものは闘争における両国民の総動員にあった。この総動員は未曾有の事実であり、1870年の思い出の内面化が基礎となっている国民的団結の果実でもあった。

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