matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

全体表示

[ リスト ]

記念事業(6)

第8章   1918年は1870年を消去したか
 
第1節   消しがたい統治体制
最近までフランスの戦争の目的はドイツのそれの正反対であると書かれてきたし、また考えられてきた。フランスの戦争目的はかなり後になってから説明され、アルザス=ロレーヌに局限されたものであった。それはピエール・ルヌヴァンによって新しい資料とともに支持された観点である。彼の論文のタイトルは「フランス政府の戦争目的」で1966年に書かれた。19178月の戦況が困難な時期に、ペタン将軍は書いている。すなわち、「アルザス=ロレーヌはフランスに復帰しなければならない。われわれはわが権利のために原状回復の戦争を実行する」、と。彼はそこでフランス人の圧倒的多数の意見を表明している。「フランスと東部の辺境」(1979年)と題する論文において、ジョルジュ=アンリ・ストゥーは未発表資料に照らしてみるとき、フランスの指導部は失われた州の復帰という単純な目標よりはるかに野心的な目標をいだいていることを示す。1916年と17年の会合と文書はそのことを証明する。もはや勝利の暁には1870年の消去は問題ではなかった。人々は1814年および1790年の国境を語った。これにはザール地方のフランスへの編入が含まれることになる。経済的動機(炭田地帯)は本質的であったが、決定的なものとはほど遠かった。共和派のある政治家たちは遥か先を行き、自然国境ないしはライン線の「ナポレオン」的観念を共有する。彼らはライン計画を策定し、そのキーワードは「保証」であった。この言葉はそれだけで拡大しうる計画だといえる。それはルクセンブルクの併合、フランス軍のライン左岸への常駐、ライン地方の中立化と占領、プロイセンの防備を破壊する東部ライン国家の創設などを意味した。動機は経済的であると同時に戦略的であった。それはフランクフルト条約の不正義の是正という単純な動機より遥か先を行っていた。それはプロイセンの破壊とドイツ統一の終焉を狙う。191418年はもはや仏独の対決ではなかった。英国と合衆国が参戦し、フランスの野心に反対した。同盟国は1870年を消去することでは一致したが、それを超えることでは一致しなかったのだ。
1918年は1870年を消去したか。191811月に続く幸福状態のもとで、フランスにおける反応は自明であるように見えた。ドイツは敗北し、ヴィルヘルム二世は退位し、共和政が宣言された。アルザス=ロレーヌは三色旗を取り戻し、フランス解放軍を歓呼のうちに迎え入れた。外見的には悪しきページが決定的に捲られたような印象が残る。
フランス側では軍事的勝利は1870年の大敗北を消去した。マルヌとヴェルダンはメッスとスダンを忘れさせた。フォッシュ、ジョッフル、ペタンの名はバゼーヌ、マク=マオンの名を忘れさせた。共和政はまさに雄々しく再興する。ポワンカレとクレマンソーはファーヴルとガンベッタが失敗に終わったものを成功裡に導く。ヴェルサイユ条約はフランクフルト条約を消去した。4大国を集めてのパリでの交渉は19196月に「鏡の間」で調印された。この部屋こそヴィルヘルム一世が皇帝を宣言した場所である。ヴェルサイユはフランスの衰退の象徴的な場所であったが、今度は正義の講和の調印の象徴的な場所となった。最も重要なことは領土的不正の是正であった。すなわち、失われたアルザス=ロレーヌはフランスに復帰する。それは力に対する正義の勝利となった。メッスとストラスブールの町では住民はフリードリヒ=カールと皇帝ヴィルヘルム一世の立像およびその他のドイツ支配を象徴する記念物をひっくり返した。「愛国的希望」が達成された。ドイツの兵士、ドイツの官僚、ドイツの実業家たちは強制送還された。ストラスブールとメッスはふたたびフランスの都市となる。回復の作業はゆっくりとデリケートな配慮をもっておこなわれた。48年間に及ぶ多くの分野における積極的な存在を一気に消し去るようなことはなされなかった。
復帰した州と固有のフランスのあいだには習慣、言語、文化の違いがある。国境は目に見えないけれども、だからといって現実的でないとも言いきれない。国境は併合時代に形作られ、あるいは単純にフランス的過去を保存したところの法制度的、社会的、商業的、宗教的、学校教育的な秩序によって強められる。アルザス=ロレーヌとフランスは半世紀に亘って同じリズムで過ごさなかった。世俗的な共和国は信仰告白の公立小学校(フランスではフェリー法以来、姿を消した)とコンコルダ(1905年に廃棄)の維持を図った。エドゥアール・アンリオによる世俗法の導入の試みは1924年に失敗のうちに廃止された。同じく、フランクフルト条約に起因する県の切断は維持された。1919年、クレマンソーは1870年以前の県を再建しようとした。彼は心理的、行政的理由によりそれを放棄しなければならなかった。以後のあらゆる試みは頓坐し、1871年の県制は今日まで維持されることになった。
1924年、アルザス=ロレーヌは特殊な領土的単位として姿を消した。ストラスブールの総督府は廃止されたが、管理の要求は政府をしてあるときは内務省に、またあるときは議会に帰属するアルザス=ロレーヌ行政の存続を余儀なくさせた。とくに、宗教と公教育に関わるあらゆる事項については特別なやり方で取り扱うことが必要であった。1920年代末にフランス政府はアルザスで騒乱にまで発展した自治要求の運動に直面した。その運動は社会学的な文化的な堅固な基礎をもっていた。緊張はやがて緩んだが、少数派はかつての帝国領土時代を懐かしみ、ドイツの諸機構との秘密の関係を維持した。
1918年は1870年の思い出を復活させた。以後は宣言すべきもうひとつの勝利、涙を流すべきもうひとつの死というのが何千となく存在した。事物の力に導かれて1870年は少々ぼんやりと霞みゆく過去に追放された
幾人かの老兵たちは交際を結んだ。ドーレル・ドゥ・パラディーヌ、シャンジー、フェデルブらの将軍たち、テシエとダンフェール=ロシュロー中佐らの名が大戦の勝利者の諸将と相並んでパンテオンの壁に刻み込まれた。1870年の老兵たち以上に速やかに、第一次大戦の兵士らは協会を設立した。彼らは賞揚すべき権利、維持すべき団結、生かすべき理想を保持していた。多くの点で1870年は統合モデルと同様に記念モデルとなった。1916年の恐るべき戦いを思い起こすために、ヴェルダンの町は明瞭にマルス==トゥールの記念式典から着想を得ている。1870年の高地において記念日の式典は忠実に尊重されたが、年々、参列者席は次第に疎らになっていった。1927年にマルス==トゥールに招かれたリオテー元帥の評判は大群衆を集めるのに十分ではなかった。協会はしだいに80才代の少数グループとなり、グラヴロット、パリ籠城、ロワール軍の最後の生き残りたちはしだいに少なくなっていった。1931年、ブリー=ロンウィの元代議士で、ムルト==モーゼル県選出の上院議員アルベール・ルブランが共和国大統領に選出された。メッスへの公式の訪問のとき、彼はマルス==トゥール経由で行くことを強く主張した。彼はこの町の名誉市民だったのだ。彼は昔日の大群衆、最後に消えた国境、勝利の和平を再現させた。彼は1870年の最後の思い出をボワ==プレートル、エパルジュ、ヴェルダンの戦士たちと結合させた。1930年代のうちに、1870年はもはや死者略伝においてしか現れなくなった。遺族らはその軍事的呼称つまり「元ライン軍兵士」、「1870年の遊動兵」、「1870年の義勇兵」、「1870年の従軍メダル」などを思い出すのに固執した。
ドイツ側では1918年の敗北は大激震の効果をもった。それは革命であり、内部的な無政府状態であった。187071年に構築された政治的機構は風化したように見えた。ナポレオン三世と同様ヴィルヘルム二世は軍隊の大混乱に巻き込まれ、彼とともにあらゆるドイツの王朝は陥没を経験した。カイザー、皇帝、正統王朝の原則などは突然消えた。勝利が作りあげた事柄を敗北が一掃した。11才の年齢で若きヴィルヘルム皇太子は父と祖父の絶頂期に補佐した。53才で彼は亡命せざるをえず、1942年に異国の地で死去した。
共和政が宣言された。やがて、プロイセンの軍事王政の栄光は色褪せた。ヴァイマールは自然発生的に1848年の理想を結合した。じっさいのところ、変化は表面的なものであって1871年の重要な獲得物に影響しなかった。ヴェルサイユ条約はドイツの領土的基礎を保存する。なぜというに、アルザス=ロレーヌおよびポーランドの一部の失陥は辺境的なものであったからである。ドイツ国家を指しつづけた「帝国 Reich」という言葉は継続の象徴であった。指導階級、将校、ルター派牧師たちはその言葉を放棄しなかった。普通選挙で共和国大統領に選出された(1925年)ヒンデンブルク元帥はこの継続性の化身だった。彼は創立者たちの世代の生きた繋がりであった。彼こそ1870年の戦士の一人だったのだ。彼の後見のもとで「ライヒ」は存続し、将校らは国家において自分らの占めるべき席を見いだす。外見上、軍隊はその兵員と手段を失ったが、ライヒスヴェールは軽い構造であり、それは急速に人口学的経済的力の次元において軍事力の母胎になりうる可能性を秘めていた。戦前との継続を示すもうひとつの要素としての仏独の敵愾心は依然として予断を許さないものとして残る。
 
第2節   ヴェルサイユ体制と仏独和解の道
ヴェルサイユ講和条約はドイツ人の大多数によって拒絶された。これは強制された和平であって、報復の観念を呼び起こす。歴史上よく起こる配置換え(シャッセ・クロワゼ)によって、報復の観念はドイツ側に移った。これは広まった、しかも混乱した願望であり、あるときは仮面をつけ、またあるときは残酷な形で姿を現わす。この観念は不正義の感情に、他国との権利の平等の喪失に、戦争責任を集団的に強制するドイツ国民の道徳的非難に、フランスのみによってドイツの劣位が要求され維持されたという確信に、それぞれ基礎を置くものであった。両国において沈静化に有利な要素は少数派であり、多数派になる可能性はなかった。たしかに、1870年の思い出は第一次大戦のそれによって修復された。とはいえ、フランスにおける反ドイツ主義のテーマ体系、ドイツにおける反フランス主義のテーマ体系は根本的に変化したのではない。「ボッシュ」[注、ドイツ野郎の意]がプロイセンに取って代わった。ルール進駐(192324年)が昂じてフランス軍によりライン左岸の占領がおこなわれたこと、ザールに特別の体制が組み込まれたことはドイツ人に、かつてのルイ十四世とナポレオン一世に溯る外国軍による占領と殉教の犠牲を染み込ませた。191418年はつづく新しい世代に、両国民が相互にいだいている否定的で敵対的な観念を蘇生させ委譲した。この意味においても187071年の戦争は根本的な事件であったのである。
アドルフ・ヒトラーとナチ党はこうした民族主義的な腐食土をおし拡げ、根を張らせた。こうした手段の巧妙な利用によりヒトラーは1933130日に政権の座に就いた。第三帝国は第二帝国を継承する。本能的にヒトラーは便利で弾力的なこの言葉を多用することで国民のあいだに共鳴を喚起し、力の夢を実現しうるすべての事柄を、ヴェルサイユが決定したすべての事柄を捕らえることができたのである。語彙の継続性はしばしば大胆な平行物を裁可する。これは警戒に値する。なぜならば、第三帝国は根本的に第二帝国とは異なっていたからだ。第三帝国は統一し中央集権化することによって、ビスマルクが国家の軸として保存した連邦主義を破壊した。ヒトラーは今や小ドイツ国家の歴史的に有用な段階を乗り越えたのである。ヨーロッパ的世界的野心にとってそのあまりに狭い基礎はすべてのドイツ人に拡げられる必要があった。人種主義のプログラムと民族主義の熱情――両者はビスマルクとは無縁であったが――をもって、オーストリア系ドイツ人のヒトラーは大ドイツ主義の計画を再浮上させる。1918年のオーストリア=ハンガリー帝国の消滅はそれ以後、大ドイツ主義を可能なものにした。オーストリア、ズデーテン、ポズナムのドイツ人はもはや参照物であることをやめ、恣意的に祖国を奪われた孤児の感情をもつにいたった。ここで人は、オーストリア=ハンガリー帝国の瓦壊が数多くの遠心力を解放することにより、どれだけか中部ヨーロッパの不安定に貢献したか、あるいは民族自決主義の原則がどれだけか堕落した効果をもたらしたかを測ることができよう。だからこそ、しばしば描かれ、しばしば示唆されてきたヒトラーとビスマルクの比較はまちがったアナロジーのもとに展開されてきたのである。外交的配置が異なり、目的はもはやその方法においても手段においても同じではなかった。
対比させるとしたら、ヒトラーとヴィルヘルム二世であろう。しかし、それは誤りにおいて同じ系列に属する。カイザーと同じように、経験の教訓と単純なる良識を無視することによって、ヒトラーは第三帝国の運命をもてあそんだ。また、カイザーと同じように、ヒトラーはロシアとの決裂および二正面戦争という致命的な過ちを犯してしまった。その結果は1945年のドイツの破局であったが、1918年の敗北とは程度においてまったく異なっていた。1918年の結果は1866年から71年に樹立されたドイツ帝国の壊滅であった。勝利したソ連は中部ヨーロッパに拠点を築き、大ドイツ主義の夢を頓坐させ、小ドイツ国家も破壊してしまった。ソ連は小ドイツといっしょにその母胎たるプロイセンとその社会学的な基礎、すなわち幾世代にもわたり高級官僚と上級将校を輩出させてきた高貴な一族をも破壊したのであった。1866年と1870年の戦勝がヨーロッパの地平に出現させたプロイセン=ドイツ流の軍国主義が葬り去られたのと同じように、こうした家系も葬り去られたのである。ヒトラーはビスマルクのドイツを破壊した。
1945年、ベルリン――その運命と光輝は1870年以降膨らんだが――は首都の役割を奪われ、世界でも稀な一条文によって分割された町となるのである。ビスマルクが蘇生させ、ナチ党が迷わせた帝国という語は以後、常軌逸脱と罪深い愚行と同義となる。それは拒絶された。少々古臭くなった用語、1870年以前の用語が人々の口にのぼり、文章に載りはじめた。それが「ブント」すなわち連邦である。覇権的使命における中軸であるどころか、ドイツの空間は3つの国家に分割された。すなわちドイツ連邦共和国、ドイツ民主共和国、オーストリアである。187071年において構築された政治的構造は単に3半世紀のあいだだけ存続した。これはドイツ国民の1千年の歴史に照らしてみれば非常に短いものである。
1940年のフランスの敗北は1870年の再現のように見える。同じような軍事的大敗北、敗戦に責任ありとされた法制度の同じような廃絶、アルザス=ロレーヌの再統合。地理は混同される。またしてもスダンの町は軍事的敗北の現場となったからである。もし類似が描かれるとしても、相違点が大きいため比較は短い。1940年によく知られたテーマ、すなわち、国家的没落とフランスの退廃というテーマが蘇生するのが見られる。軍事的ならびに民事的な敗戦の責任が追及されたが、前の体制の衰退が否認された。「民族の革命」が国を組成させる主要な野心となった。ペタン元帥の取り巻き連はティエールにもガンベッタにも共感をいだかない。彼らのうちのある者は国民議会の王党派の後継者であった。かつての王党派が帝国と共和国を苦しめたのと同じように、彼らは人民戦線と議会政治を告発する。レオン・ブルムとエドゥアール・ダラディエに対するリオム裁判において、王党派のガンベッタと国防政府の共和派に対する告発状と同じものを見出せる。北フランスと東部フランスの占領は自然発生的に拒否の態度と抵抗運動を生じせしめた。ヴェールマッハトの兵士は1870年におけるプロイセンと191418年ボッシュの後継者であった。それは同じ種類に属し、同じような行動をした。その存在は同じ反応を招く。抵抗運動は反ファシズム以上にこの地平において根を張った。194445年においてまたしてもナチ帝国に併合されたアルザス=ロレーヌは解放された。1919年のクレマンソーと同じように、ド・ゴール将軍は県境の修正に慎重な態度で臨む。1939年の条文と第二帝国の条文を維持しつつ、国法がふたたび導入された。それはとくに宗教制度と公学校の信仰告白の法規においてそうである。しだいに法制度的な分権主義――地方法と呼ばれたが――は宗教と学校教育の分野で風化していった。
1870年は遠ざかり、4世代が、やがては5世代が継承していく。地方の配置、ベルフォール領、1871年の創造物はアルザス地方にではなく、フランシュ=コンテに帰属する。同じ遺産から出発するところのモーゼルとアルザスの間の独特で非常に微妙な関係は次第次第にほどけていった。ナンシー=メッス・アカデミーの創立、メッス大学の創立、メッスでの高等裁判所の再建、コルマール高等裁判所の独立等々。1969年、メッスはロレーヌ州の首都となり、そのことによってストラスブールから自由になった。数多くの分野においてモーゼル県をアルザスの後見のもとに置いたドイツの置き土産を完全に消去するためには1世紀を要した。反対に、県地図は安定したままである。1870年以前の県境は二度と再現されなかった。ムルト==モーゼルームルト県とモーゼル県から切り取られた諸県は、ベルギー国境まで引き伸ばされたペイ=オー県とともに奇妙な形を保持することになった。近い将来、こうした不動の状況を何らか修正されるか否かは今のところはっきりしない。
思い出の次元では191418年と193945年は完全に一変させた。多くの記念碑は破壊されるか破損された。だれももはやそれらを復元するのを望まない。ルミルモンのような最良のケースにおいてさえ、1870年の記念碑は共同墓地に移設された。思い出の聖地たるマルス==トゥールでも、いかなる僧侶、いかなる退役将校も記念式典を再現することを保証しなかった。集会はもはや過去に属する。うっちゃらかしにされた記念館は閉館された。これら老人たちを感動させて何になろうか。
1970年、百年祭が一時的に計画を起案させた。新聞とメディアは稀になった儀式と展示会を簡単に報告した。いくつかの雑誌が特別号を刊行した。たった一つの新しい記念碑がアルザスのフレッシュウィレルに設立された。当時の陸軍大臣ミシェル・ドゥブレを招いての除幕式が挙行された。彼は祖父がアルザスの出身で、亡命を余儀なくされたのであった。ほどなくして古き記念物が再出現した。人々は目録をつくり修復し、利用しはじめた。なぜならば、それらはたいてい美しい記念碑だったからである。メッス地方においてことにそうであった。そこでは長いあいだ無視され、かつ自然発生的に壊されたドイツの記念碑が復元されはじめた。コレクターは武器・兜・制服に関心を注いだ。
戦争骨董趣味が広まるにつれて1870年の一本角兜は垂涎の的となった。世襲財産への関心は最初の仏独戦争の再検討を促す。思い出は朧になり、口述の伝統はもはや取るに足りない断片しか伝えなくなった。第一次仏独戦争は、つづく二度の大戦の恐怖によって色褪せ、消去され、凌駕された。ヴィクトル・ユゴーの宣言『恐怖の一年』はその本質的な意味を失い、今日では笑い種になっている。この遠い昔の戦争からは、残り物となった幾つかのイメージがばらばらに飛び出す。つまり、ライヒスショッフェンの胸甲騎兵、ガンベッタの風船旅行、バゼーヌの裏切り、善良なアルザス人とロレーヌ人、ヴォージュの青線、一本角兜、等々。
ドイツの分割と国際機構の根本的な変化、ロベール・シューマン、シャルル・ド・ゴール、コンラッド・アデナウワーらに示される幾人かの意思――これら3人は家族の歴史においていずれも1870年の衝撃を受けているが、彼らは古き領土的紛争(アルザス=ロレーヌとザール)を決定的に解決した。彼らは仏独両国民の和解への道とヨーロッパの範囲における国家の緊密な協力関係の道を開いたのである。
第一次大戦と同じ資格において187071年の戦争は仏独の和解の道に引き入れた。象徴的な場所としてのヴェルダンで両国の指導者たちは会合をもち、平和の発言を交換する。1985年、サン=プリヴァ==モンターニュの近くで、フランスとドイツの兵士が国籍の別なく眠る共同墓地がつくられた。「平和のための柱」、これがこの記念碑に与えられた意味である。1870年の思い出が敵の非難から真なる和解の意思に転移するには実に1世紀以上を要したのである。

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事