matsui michiakiのブログ

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6. 結果
 
 パリでは当初、国防政府閣僚が悲観主義に染まっていたのに対し、共和派左派と社会主義者そして、その影響下にある民衆が楽観的であったことはすでに述べた。ただし、彼らはすべて食糧徴発と厳格統制を要求した。曰く、貧しい人々が何ももたないのに、修道院とブルジョワは多量の食糧を倉庫や地下室に隠しもっている。商人たちは買占めで大儲けを企む。食糧は生存のための共有財産であるはずだから、政府当局は家宅捜索を行って公正価格で買い取り、民衆に低価格ないし無償で分配すべきである。それをやろうとしないのは、政府がカトリック教会と金持ちびいきだからだという。

 カトリック教会・修道院、大金持ち、買占め商人、そしてそれを支える保守的政府の共謀を説くやり方は80年前のフランス大革命当時の食糧騒動と瓜二つだ。もし違う点があるとすれば、そこに貴族がいないだけである。民衆を圧迫するために仕組まれた「飢餓の約束 pacte de famineの考え方がそれだ。この企みは、政府が祖国を降伏に追い込み、敵に民衆を売り渡し、帝政を復活させようとするところから発する、という。こうした解釈はパリ開城後も残った。国民議会選挙ための演説会場において、ある弁士は言った。
    パリが売られなかったら、もっと長い間持ち堪えられたのは明白である。弾薬はもとより食糧も不足していなかったのだ」と。
 これは明らかに言いすぎである。民衆と政府の間のこのギャップは戦争が始まったときから存在する。本当のところは、スダン陥落という慌しい混乱の中から誕生した国防政府は最初から無力だった。不用意にも政府閣僚に祭り上げられた政治家たちが右往左往しているうちに、敵の包囲が始まる。敵が切迫している中で革命を続行すること自体に無理がある。ひとたび抗戦を決めたからには、悠長なことはいっておれない。かくて新政府は軍首脳を留任させ、帝政期の行政官の多くも留任させた。このことが革命派をいたく刺激した。食糧行政の不徹底や場当たり主義の対応は新政府の中に帝政の官僚たちが残ったからだと見なし、それが「飢餓の約束」の根だという。ところが、留任した行政官は高級官僚ではなく実務家たちであり、彼らは混乱のなかでよく踏みこたえ、任務を十分に果たしたといいうる。非難とは正反対に、このような実務家はもっと多数を登用すべきであった。むしろ、実務家の不足が業務の停滞をもたらしたほどである。

 政府の“無為無策”に他の事情も作用している。九月四日革命でパリ市民に人気のなかった帝政が崩壊した。すなわち、その強権政治がなによりも嫌われていた。そうした風潮のなかで新政府が誕生したのである。しかも、パリの革命というとすぐにフランス革命当時の恐怖政治と二月革命の急進化が思い出される。新政府はできるだけ革命派や過激派を政府に引き入れたくなかったのと同時に、自らを帝政のような強力な政府にすることを避けた。これが穏健的な政府の誕生に連なったのである。しかし、時は戦時下しかも敵がパリを窺っているとき、つまり、権力集中の一番必要なときに、政府が反対方向に向かったのは不幸だった。こうして、国防政府は何をおこなうにしても中途半端なものに終わった。かくて国防政府は失政の全責任を帯びることになる。

 食糧が底を尽きはじめるのと比例するかのように、政府の威信は下り坂になる。ゴンクールを始め、パリに残ったすべての観察者の記録がこのことを証明する。政府が開城を決めると同時に、信頼は地に落ちた。187124日の国民議会選挙では、パリの選挙で国防政府の閣僚で当選したのはジュール・ファーヴルただ一人の有様で、他の閣僚たちはことごとく落選する。ちょうど80年前の大革命のとき、主戦論を主張しながら緒戦で連戦連敗を喫し、パリの食糧政策でも失敗したジロンド派が失墜したのと同じことが生じたのだ。

 籠城を通じてパリ内部において経済生活は崩壊し、失業が蔓延し窮乏が深まる。経済の解体は政治的緊張をますます深める。社会それ自体が崩れはじめる。既存の社会が上から下へと崩れていくのに反比例するかのように、下から上へと向かう新たな権力構造が生まれつつある。パリ開城からパリ=コミューン樹立まではまだ50日ほどの隔たりがある。二月段階の勝利者はパリ=コミューン派ではなく、政府と革命派のちょうど中間に位置する人々で、のちに急進党の中核となる勢力である。彼らは区長・助役らがそれであり、第三共和政を代表する政治家クレマンソーもそれに属する。区長と助役は籠城の間、パリ防衛に献身的にとりくみ、食糧の手配、国民衛兵の募集、物資の調達、貧民救済に奔走した。パリ民衆は国防政府には喧しく非難をぶつけるが、区政へのそれはほとんど聞かれない。区政がいかに市民生活に根を下ろしていたかを裏づけるものである。

この穏健共和派から権力がもっと左の勢力に移っていくには、いま一度、首都に政治的緊張をもたらすことが必要であった。すなわち、ティエールを首班とする国民議会政府は謀反の恒常的発火点たるパリから革命左翼を取り除く意図をもって、数々の挑発行為を行う。すなわち、首都のボルドーへの移転、ドイツ軍のシャン=ゼリゼ進駐、出版・報道の自由の停止、家賃支払い猶予令の即時解除、パリの武装解除等々がそれである。
 

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5. 食いものをめぐるてんやわんや
 話を食い物に転じよう。9月中旬以来、ともかく持久・耐乏戦が始まった。後になって判ったことだが、パリには予想外に豊富な食糧備蓄があり、だからこそ長期の抵抗をなしえたのだ。11月末、食糧が底を尽いたと見なしたドイツ側がパリにいくら開城を呼びかけても応じないため、却って心配になるほどだった。だが、この備蓄が底を尽き、本物の飢餓地獄が始まったとき、パリは武器を置くことになる。71年1月末がまさにその時である。籠城中、戦闘および砲撃による死亡者はせいぜい4千程度で、全死亡者6万5千の僅か6%を占めるにすぎない。他の死因はほとんど病死である。それは、過労、栄養失調、厳寒[1]が組み合わさって起きた犠牲である。十分な栄養が摂れず身体が弱っているとき、その年の例外的な厳寒が追い討ちをかけ、病原菌を引き寄せたのだ。極限状況が迫っていたことは年明けから死亡率が急上昇したことからも推定できる。

 予想外の食糧備蓄に話を戻すことにしよう。備蓄食糧「1か月半」といったのは8月29日上院でのオスマン男爵の発言である。「あらゆる備蓄は向こう1か月半分確保された」、と。オスマン男爵は1870年1月までセーヌ県知事の要職にあった人物で、その経歴からパリのすべての問題に精通しているとの評判をとっていた。この発言は「備蓄完了!」と同じ響きをもった。4か月半もの籠城などだれも予測しない当時、すべての人がそれで十分と思ったのも当然で、こうした安堵感は、ようやく本格化しつつあった疎開や物資の流入を押し留める役割さえ果たす。だが、オスマン発言の根拠は薄弱である。のちに国防政府下でパリ市長になるジュール・フェリーの述懐するところ(『国防政府に関する査問録』)によれば、「籠城が始まったころ、われわれは、備蓄食糧は2か月分あるといった」。829日の時点で1か月半分、9月20日の時点で2か月分という違いがある。だが、両者の言い分は矛盾しない。もともと少なかったところに、籠城直前になってかなり持ち込まれたからだ。

 食糧政策はたしかに形式だけはとられた。しかし、調査研究・備蓄・組織・分配などそのいずれをとっても不手際の連続だった。帝政から共和政への政権交替を割り引いてみても両政権ともに、当初は事態を楽観視していたのだから、政権交替なくても同じ結果になったであろう。政府は物資の在庫状態について正確な数字を把握していなかったし、購入・徴発の方法や分配方法に計画性と一貫性をもたせることができなかった。食い物の恨みは恐ろしいもので、籠城中および開城後の住民の政府非難は食糧政策の不手際に集中する。パリ=コミューンがそれで起こったといっても決して過言ではない。ところで、どのような不手際であろうか。簡略を記すため、箇条書きにしてみる。

 1.食糧政策をもたずに開戦し、敗報に接してようやく腰をあげた。
 2.籠城2か月の想定下で小麦粉、食肉、秣、食塩を購入したが、不十分なのは明白。
 3. 計画作成から首都封鎖まで1か月半の余裕があるのに、有効活用がなされなかった。
 4.厳格な食糧統制が必要なときに、農商務省、市役所、区役所の分業体制が一貫した食糧政策の実行を不可能にした[2]
 5.価格統制と割当配給制がとられなかったため、浪費をはやめた。
 6.強制徴発は最初にやるべきことなのに、開城寸前になって実行したため、食糧が地下に潜り、食料不足に拍車をかけた。

 食料政策の前提になるべきパリの人口はどれくらいか。これは実際はっきりしない。
 国勢調査は1801年以来5年毎に行われるのが通例で、1866年はわかっている。182万5千であり、1872年(1871年は調査できず)は185万2千である。Journal des Economistesの1月13日号は困窮者の区別構成を掲載している。それによれば、201万うち困窮者47万と計上。だが、これは信用できない。これより20万人ぐらい少ない180万人が実情だったようだ。軍人がかなり出征しているし、新たな軍籍登録者がダブルカウントされている恐れがある。また、住民のうち包囲が完成する前に金持ちを中心に20万人以上が外に疎開していた[3]からだ。むろん、新たに近隣郊外から避難しパリ市中に入ってきた者もいるが。

ところで、巨大な人口を支える食糧備蓄はどうだったのか。これは関係当局の政策が錯綜しているため、籠城中はどの部局も正確に掴んでいない。事後的に調査した結果、いくらかわかっただけで、それとて実情を正確に把握しているとはいえない。公的備蓄の集計にダブルカウントと脱漏があり、軍の備蓄と供出量が集計されていないし、そして何よりも個人備蓄が集計に入っていない。あくまで概算であると断ったうえで備蓄の概要をみてみよう。

まず、あまり不足しなかったものから先に考察することにしよう。
小麦および小麦粉は政府当局により包囲が完成する前に大量に買い付けられたので不足していない。郊外の農民が持ち込んだものも大量にあったようだ。
食塩も、包囲直前に大量に購入されたので不足していない。
秣も、軍用秣が大量に入っているので、さして不足していない。

アルコール飲料は1割減となっているが、課税(入市税)中断時の購入分と市内在庫分があるため、不足していない。

次に不足したものを列挙しておこう。肉、魚、牛乳、乳製品、野菜および乾燥野菜、砂糖、コーヒー、そして燃料となる。

いちばん最後に挙げた燃料(石炭と薪)は厄介だったため、これから先に述べよう。燃料不足のため、調理と暖房ができなかった。燃料が不足したのは、当局が籠城は冬までつづくと思っていないため備蓄をしなかったし、1870年夏の異常渇水で河川航行に支障を来たし、筏を組めなかったのだ。そうしたところにきて、187071年の冬は記録的な寒さであった。119日にはや1度となり、12月に入ってからは冷雨がつづき、128日は大雪、13日は記録的な雨氷の荒天。12月中に気温が零下となったのは20日間もあり、1220日から17日はとくに寒く、零下4度〜零下9度を上下し、セーヌ川が凍結したのはこのときである。1224日〜25日がピークで零下12度を記録。

燃料は家庭用暖房・調理のために必要であるだけではない。工業用と公道照明にも、風呂・洗濯用にも、軍用にも必要だったが、この供給が半分以下になったのにもかかわらず消費統制が遅れたため、欠乏がひどくなり、大きな支障が出た。

過不足があったため、奇妙なことが数々生じた。小麦粉は当初、ふんだんにあったのに、家畜飼料の燕麦はなかった。そのために馬に余ったパンを食わせるようなことが生じた。その小麦粉も籠城2か月を経て底を尽きはじめる。小麦・大麦があったが粉に挽かれてない。ところで、製粉所はパリに存在しなかった。そこで臨時の製粉所をつくることになり、駅舎と外部要塞の地下室が臨時の工場に指定された。石臼は軍が直前に600個を持ち込んでいたので調達できたものの、肝心の燃料がないため、量産できなかった。技術者の必死の奮闘により、アスファルトとコールタール用の重油が燃料にまわされた。

ぶどう酒は当初、十分にあったので、パン供給の代わりにぶどう酒が出回り、しまいには無償配給までされた。ぶどう酒が底を尽くと、今度は高級蒸留酒が配られた。

パンが割り当て配給制度に付されると、レストランではパンを得ることができなくなった。そこで、レストランには「ここで食事をしたい方はパンをご持参ください」との断り書きが貼りだされる始末。12月に入るや、パンの質は非常に悪化。小麦25%、裸麦・大麦・えんどう豆各5%、米20%、燕麦30%、澱粉10%、糠10%で、巷ではパリ市長ジュール・フェリーの名をとって「フェリーのパン」あるいは「籠城パン」と渾名された。また、小川で拾い集めた藁がパンに入っているというデマが飛び交った。

ぶどう酒とパンはまだあるぶんマシだった。肉不足が深刻だった。パンやぶどう酒と異なり、食肉はもともと保存しにくい食べものである。塩漬け・缶詰・干し肉の方法しかない。ところが、これらは軍が大量に買い占めていたばかりか、パリ近郊の生きた家畜も大量に購入していた。九月四日革命後に新政府は家畜を購入しようとしたが、パリ周辺には家畜がいないため断念している。包囲完成直前に農民がわずかばかりの家畜とともにパリ市中に避難したが、家畜小屋がないため、ブーローニュの森に放し飼いせざるを得ないはめに陥っている。だから、すぐに病気になった。

肉不足は早期に見込まれていたので、統制は他の食品とくらべ早くからおこなわれた。価格公定制が取られたのは籠城前の912日からだ。割当配給制の開始は928日である。配給肉は日に日にやせ細り、10月下旬には一人当たり30グラムに、1110日にはすべての肉屋から完全に姿を消した。以後は配給馬肉が代用となる。やはり30グラムだが、これは無償ではなく、カネを持つ人だけがありつけた。馬は軍馬として多数(約10万頭)が確保されていた。肉の保存法が考案され、亜硫酸の使用が始まった。また、動物の獣脂と血液を動物の腸に詰めて乾燥する、いわゆる腸詰プディンが史上初めて誕生。

フランス人は19世紀半ばまで馬を食べる習慣をもたなかった。1866年にパリ初の馬肉商が店開きをし、同年6月に警察布告で食肉管理規則が定められた。1866年にパリで食肉として消費された馬は902頭、1867年には2,152頭、18682,421頭、18692,758頭、1870年には9月までが3,791頭であった。10月から12月までに29,214頭、711月だけで10,123頭を“消費”している。もぐりと畜があったことを計算に入れると、籠城期に約6万頭が食肉となったと推定できる。馬がいたことはパリ市民にとって幸せであった。

 食糧統制はパンと肉だけであった。これが一貫性を欠き微温的措置に終始したことはすでに述べた。他の食品は市場に放任されたから、不足と価格騰貴はひどかった。貧しい人々が苦労したことは想像するに難くない。

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3. パリの新政府と民衆
 国防政府は中途半端な革命の所産=妥協的政権であった。つまり、スダンで皇帝が捕虜になった報を耳にしたパリ群集は反射的に議会を包囲し、これを解散させるともに、1848年の二月革命の故事に倣って市役所で臨時政府を成立せしめた。九月四日のことだったので、これを九月四日革命ともいう。忠実に二月革命の例に倣うのであれば、この後に憲法制定議会を招集し、これに政体の決定を委ねることになるはずである。しかし、戦時中とあってそうした手続を踏むことができず、民衆と共和派代議士の手により、というよりは民衆の圧力を受けた共和派が帝政廃止と共和政樹立を同時に決めただけでなく、抗戦継続を旗印に掲げ、新政府閣僚を選出した。

そのため、国防政府のこの曖昧な性格はずっとつきまとうことになる。閣僚たちは自らの基盤の合法性に疑いをもち、ためらいがちに政治の舵取りをする。城内平和を優先させるあまり、ずるずると急進派および革命派、愛国者の言い分に引きずられていく。

 包囲されたパリに政府本拠地があったため、戦争指導の面で決定的な障害が生じた。政府はひとまず閣僚の一人ガンベッタを気球で脱出させ、ロワール河畔のトゥール(Tours)に政府出先機関を設置したのだが、包囲されていたパリとトゥール派遣部のあいだの通信が不十分で、作戦上の連携が図れなかった[1]。政府首脳部とパリ市民の間のコンセプション・ギャップも大きい。パリ人は帝政の圧制から解放された安堵感と愛国熱に染まり、80年前の大革命時の祖国防衛戦での勝利の再現を夢見た。そのことは、80年前とまったく同じ名の民衆クラブが生まれ、同じ名の檄文、パンフレット、新聞が出たことに象徴される。民衆は共和主義と愛国主義の結合に過大な期待をかける一方で、「諸外国の干渉があるだろう、やがて地方から援軍が駆けつけるだろう」といった楽観論に染まっていた。こうした期待はパリ市民の士気維持に力があったのは否めない。だが、それがやがて幻想であることが明らかになったとき、ぶつけようのない怒りに転化していく。

一方、戦時下という最も集権的指導の必要なときに、強力な支持基盤をもてない政府は場当たり的な措置に終始する。彼らは一貫して悲観的な状況認識をもち、軍事についても食糧政策についても状況任せで、行動は首尾一貫性を欠くことになった。
民衆が楽観論に染まっているなかで、為政者が悲観論に支配されたことは政府不信という重大な結果につながる。民衆から見たら、状況が好転しないのは政府の無為無策のせいなる。国防政府はその名称Gouvernementde la Défense nationaleをもじって「国民的裏切りの政府Gouvernement de la Défection nationale と揶揄された。

国防政府は選挙から生まれた政府ではなく、自他ともに認める弱体な政権である。政府首脳はつねに革命的、愛国的なパリ市民への遠慮がある一方で、保守的な地方の眼(信認)を絶えず気にしていた。すなわち、政府はドイツ軍に包囲されていただけでなく,膝元で革命派に包囲されていたのである。基盤強化のために選挙の実施を望むが、ドイツ軍に包囲されたままの状態で全国規模の選挙を実施するのは技術的にいって無理だった。停戦をした上での選挙実施となると、事実上、敗北を認めることになるので責任を取らされることになりかねない。ここにジレンマがある。1131日に暴動が起こるが、政府はこの機を捉え、政府への信認投票と区長選挙を絡ませて選挙を実施する。その結果、政府は籠城期にあってこのときは威信を保つことができた。住民から拍手喝さいを浴びた反面、政府がもともと不承不承に受け入れた「国防」という看板を前面に押し出さざるをえなくなる。

政府が市民の信用を失ったのは軍事指導での消極的態度、資源の無駄使い、時間の空費、窮乏の深刻化のゆえである。政府ははじめから軍事的勝利は望み薄と判断し、講和のチャンスを窺っていた。早くも919日にファーブル内務大臣はビスマルクと秘密会談をもった。これが表ざたになり、強気の姿勢をとりつづけざるをえなくなる。国民衛兵を組織し、これに武器を与えたのも、決して好んでのことではなかった。この措置をめぐり政府内に厳しい対立が生じた。武器供与は市民に「興奮剤を配るに等しい」、との非難があったのに。

包囲軍との小さな小競り合い程度の戦闘は9月末と10月初の2度だが、実際に大規模な出撃戦というに相応しい戦闘は2度しかない。最初の激戦は1129日〜122日のシャンピニー出撃戦だが、マルヌ川渡河に失敗し、夥しい損失を蒙って撤退する。2度目は121日のビュザンヴァル出撃戦である。これはパリの西にあるモンヴァレリアン要塞の大砲の援護射撃のもとに、敵大本営の所在地ヴェルサイユを突くという大胆な計画であった。だが、折からの濃霧でモンヴァレリアン要塞の大砲を放てない。未明に始まった戦闘はその日のうちにパリ軍の総崩れとなった。死傷者の計は4千を超えた。パリ軍弱体を市民に印象づけようと、意図して敗北したと喧伝された。ともかく、これが最後の抵抗となった。パリ降伏はその1週間後である。128日に休戦協定の成立が公表されたとき、パリ市民が政府に見切りをつけるターニングポイントとなった。
 
4. 鳩と気球
 包囲は封鎖と同じことであり、包囲した敵の物資補給だけでなく通信を絶つことである。もし外部との通信が自由におこなわれていたとしたら、籠城側は包囲軍のもうひとつ外側にいる味方の軍隊と連絡を取りあって包囲軍を挟み撃ちすることができよう。よって、包囲軍にとって物資補給に加えて、通信を遮断することも必要不可欠となる。
 ドイツ軍による包囲が完成したとき、鉄道、馬車、徒歩での往来が禁止されたし、包囲直前に密かに敷設された電信線もプロイセン軍に発見されてしまい[2]、通信は完全に途絶したように思われた。しかし、籠城期のパリは外部との間で、公文書や手紙の交換はおろか、新聞類の交換までしていたのだ。何に拠ってか?気球と鳩によってである。まさに「必要は発明の母なり」とはよくいったものである。最初の気球ネプテューン号がモンマルトル丘を飛びたった[3]のは923日だから、包囲の僅か5日後である。ということは、かなり前から検討されていたことを意味する[4]。気球の利用を提案したのは著名な写真家ナダール。彼は繋留気球により、包囲軍の偵察を提案したが、この提案が気球による航空郵便への道を開いた。水素ガスを詰めた気球はバラストを捨てて浮上し、空中から舞い降りるときはガスを抜いて降りる。

細かい記述は避けるが、923日から128日までのあいだに運航した気球は65隻、総重量20トン、250万通の郵便物をパリから外に運んだ。手紙は4グラムまでとされた。むろん途中で事故により墜落するもの、海中に没するもの、敵に捕獲されてしまったものもあるが、気球郵便は所期の成果を十分に挙げえたようだ。おかげで地方は籠城下のパリの様子を手にとるようにわかったし、ツールに置かれた政府派遣部とパリとのあいだに共同の軍事作戦を構想するにいたる。飢餓の進行するパリの様子が外国に知れわたり、とくに英国人は戦争介入するよう自国政府に迫ってデモをおこなうほどだった。

気球はパリの様子を地方に外国に具に伝えた。しかし、逆は真ならず。気球は風任せに飛ぶのであって、地方を発ってパリに降り立つのは至難の技である。地方発パリ着の気球計画を実現しようとチームが立ち上げられ、実験を重ねたが、結局いずれも不成功に終り、結局、計画は断念された。
他の方法が試みられた。妙案、チン案まで飛び出した。繋留気球で電信線の端を外に繋ぐこと、犬の利用、砲声での合図、光信号、石切り場の跡地を秘密脱出路とすること、セーヌ川流木の利用、セーヌの川床を這う潜水艦という具合である。結局、いずれもいろいろ支障があって陽の目をみなかった。セーヌ川利用の企ては、プロイセン軍がパリ情報入手に利用していたので、すぐに見破られてしまった。

結局、古典的な通信手段が一番頼りになった。伝書鳩である。パリを出発する気球のほとんどすべてが伝書鳩を積んでいた。地方の人々がパリへの通信文を託したのがこれだ。この小さな愛すべき平和の使徒のおかげで、陸の孤島のパリは食い物こそ不自由したものの、ニュースの枯渇は生じなかった。しかし、一羽の鳩が運べる重量はせいぜい2グラムにすぎない。運べる情報量に限りあるのは当然である。いくら暗号・略号化するといっても限度がある。それなのに、なぜ、民間人の書簡はもとより、地方の新聞情報までもがパリに届けられたのだろうか。ここで一つの発明がなされたからだ。
マイクロフィルムがそれだ。1ページの大版『官報』はマイクロフィルムの中では僅か1ミリメートル四方しかスペースをとらなかった。フィルムは唐ゴマのコロジオンの皮膜で作られたが、皺がよりやすいので非常にデリケートな作業を要した。新聞や公文書はそのまま縮小写真(300分の1)に撮り、通信文は印刷工が植字で組版したうえ写真撮影する。レンズで撮影状況の点検を受けると細いロール状に巻かれ、ガチョウまたは大ガラスの羽根でつくった筒の中に収められ、絹糸で鳩の尻尾にくくりつけられる。

鳩が運んだフィルムは郵政省本部に届けられ、ここで大きな幻灯機を使ってスクリーンに映し出される。この映像は肉眼で読むのに十分な大きさと鮮明度をもつ。スクリーンの前で係員がせっせとペンを走らす。筆写された至急報は通常の電報と同じように配達人に託されて名宛先に届けられた。
この籠城期を通じて、フランスでは郵政と電信の業務が一本化された。以来、今日にいたるまでフランスでは郵便局は郵便と電信の両方の業務を取り扱っている。

伝書鳩のすべてがパリにたどり着いたわけではない。だから、数羽の鳩が同じ通信文を運ぶことになった。鳩の敵は鷹であり、プロイセン軍は鷹をパリ近郊で放っていた。また、距離、寒さ、砲声が鳩の進行を妨げた。最初はできるだけパリに近いところまで運んでいって放出されたが、ドイツ軍の占領地域が広くなると、鳩の飛行距離は長くなった。そこにきて、187071年の冬の記録的な厳寒である。さらに、砲声や銃声が鳩を怯えさせ、道から逸れさせた。よって、鳩のパリへの帰還率は2割程度でしかない。

 それでもなお、通信が確保されていたことの意味は大きい。「ネズミ一匹くぐれまい」と豪語するプロイセン軍を嘲笑うかのように、籠城のパリはほとんど全期間を通じて地方とつながっていた。大空は当時、軍事戦術の点からみて盲点だったのだ。この通信があればこそ、パリは長期の籠城戦に堪えることができた。もし、それがなかったとしたら、プロイセン軍が仕掛ける情報戦の餌食となってもっと早く降伏していた可能性が高い。ギリギリの極限状況まで堪えたという事実によってパリ内部の社会的矛盾はますます大きくなり、こうした矛盾が外戦を内戦(パリ=コミューン)に転化する酵母の役割を果たすことになった。
 


[1] この教訓は残った。第一次大戦でも第二次大戦でもパリが包囲され、降伏の危険性が出てきたとき、政府はいち早く移転を考えた。前者では結局、引き返すことになったが。
[2] 電信局はパリとルーアンを繋ぐセーヌ川床に電信線を敷設し、包囲が完成したばあいに地方とパリの連絡をとるつもりでいたが、924日にプロイセン軍の川浚いで発見され切断されてしまった。
[3] これはパリから百キロメートル離れたエヴルーに見事着陸した。
[4] 気球の歴史はフランス革命直前の1782年に始まる。モンゴルフィエ兄弟がテュイルリー公園の一角で熱気球を揚げて見せた。翌年8月には早くも有人気球の打ち上げに成功した。それの軍事利用も偵察手段として早くから眼をつけられていたにもかかわらず、実際に使われることはなかった。

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第二部  籠城のパリ 132
 
1.敵も味方も長期間のパリ包囲(籠城)戦を想定していなかった
 これから先がパリ籠城と食い物の話である。日本史でいう籠城とは城郭に籠もって戦うことだが、西洋では、都市自体が廻りに壁を張り巡らし、城郭化されているのがふつうで、籠城戦とは武士たちだけの戦いではなく、市民と軍人が力を合わせて包囲軍と戦うことを意味する。こうした籠城戦は歴史上珍しくない。著名なものだけを挙げてみよう。紀元前12世紀のアケーア人によるトロワ包囲、紀元前146年のスキピオによるカルタゴ包囲、紀元前52年のカエサルによるアレジア包囲、1428年のソールズベリ侯爵によるオルレアン包囲、1492年のキリスト教徒によるグラナダ包囲、1628年のリシュリューによるラ・ロッシェル包囲、1793年の普墺軍によるマインツ包囲、1797年のボナパルトによるマントゥヴァ包囲、1854年の英仏軍によるセバストポリ包囲…などである。このなかで包囲に失敗したのはオルレアン包囲のみで、他はすべて長期の激しい抵抗の末、降服・開城にいたっている。

しかしながら、パリのような200万近い住民をかかえる町の包囲は歴史上類例がなかった。そもそもそれまで200万都市は世に存在しなかったのだが…。普仏戦争当時、パリは三重に要塞化された巨大都市となっている[1]。まず、街の周囲33キロメートルにわたり城壁が張り巡らされた。第二に、その城壁から2〜3キロメートル離れた地点に同心円状に16個の外部要塞が並べられている。第三に、都心から数十キロメートルの要所要所に要塞が配置されている。それを繋ぐと150キロメートルに達する。当時、もっとも射程距離の長いドイツ軍のクルップ砲でも射程は3千メートル程度のため、パリ市外に二段に配列された、上記の外部要塞を攻略しないと、包囲軍のほうが反撃を食らうはめになる。

結果からみると、パリは包囲され、4か月半の籠城ののちに開城するにいたる。では、この攻防戦は攻める側、守る側双方が最初から想定していたことだろうか。4か月半とはかなり長い期間であり、それほどにパリの抵抗力が大きかったということだろうか。

結論を先取りすれば、攻撃側も防御側もパリ包囲を想定していなかった。防御側=フランスのほうが一層明瞭であり、のっけから考えていない。つまり、そもそも仏軍がプロイセン軍に敗北するとは思っていなかったからだ[2]。それゆえ、開戦に踏み切った帝政政府にパリ防衛の観点はなかったし、食糧備蓄計画なるものも問題となりえなかった。プロイセン宰相ビスマルクの計略に嵌って開戦を急いだ政府にとって、戦争そのものが晴天の霹靂の出来事であった。不用意に戦争に突入しながら、敗北や首都防衛を想定していないのだから“ノーテンキ”そのものである。

懸念が生じたのは、アルザス国境付近の緒戦で仏軍が敗退してからである。敗退は敵軍のパリへの進撃を意味した。仰天したパリは一時期、パニック状態に陥る。開戦に責任をもつオリヴィエ内閣が倒れ(89日)、陸軍大臣パリカオを首班とする内閣が誕生。同内閣はパリ防衛の三つの目標を掲げた。一つはパリの要塞化、二つ目は首都防衛に必要な外堡の強化、三つ目はパリへの必需品の補給である。「泥縄式」を地で行くような措置である。セーヌ県食糧備蓄局長モリヨンは当時を振り返り、次のように述懐する。
   「連続する凶報の発端となったウィサンブールの敗北を耳にした8月4日の夕刻、初めて備蓄が関係者の頭に浮かんだ。それはけっして備蓄が始まったという意味ではないが。」
 8月半ばの時点で予備役召集はまだ計画段階であり、防衛土木工事は土木業者がようやくパリの城門の閉塞工事に着手したところだった。外堡の工事は未だ始まってもいなかった。万事が遅れ、すべてが状況任せになっていた。最初の敗報がパリに届いた85日から、パリ包囲が完成する918日までのあいだ1か月半の猶予があった。二百万の住民を扶養するに足る食糧の備蓄となると、それが大事であることは容易に想像できる。それにしても1か月半である。政府はこの間に帝政から共和政に移行していたが、この期間を事実上、無為にすごしてしまうのだ。

 対するドイツ陣営はどうか。野戦会戦主義のドイツ軍首脳部は敵主力を大敗させれば、早晩、敵は和平に応じるだろうと考えていた。デンマーク戦争(1864年)でも、普墺戦争(1866年)でもそうだったからだ。それがそれまでのヨーロッパの戦争のやり方だった。頑張ると傷口が大きくなり、そのぶんだけ和平交渉が不利になる。

スダンで捕虜となったナポレオン三世は降服文書に署名した。ところが、パリで革命(九月四日革命)が起こって共和主義の国防政府が誕生し、同政府は抗戦を続行した。ここら辺から事態は予定の道筋を外れていく。パリ内部の亀裂はしだいに大きくなる。

そして、宰相ビスマルクと参謀総長モルトケの思惑違いが明瞭になり、対立も大きくなっていく。宰相は即刻砲撃を願い、参謀総長は時間稼ぎを唱える。ビスマルクはパリの不穏な空気については知っていた。パリ市内に放ったスパイからパリの無防備状態について知らされていた[3]から、早期にパリ攻撃を始めるよう要請[4]。しかし、モルトケは、スダンから逃亡しメッスに陣取った仏軍主力18万を片づけないままパリに攻撃を仕掛けることは、挟撃に遭う危険ありとしてビスマルクの要請を受けつけない。[5]だが、敵側で革命が起きた時点で、プロイセンの政治・軍事を分担する両者においてパリ攻略が戦争終結の前提になるであろうと見なす点では共通する。ともかく包囲に取りかかることになった。パリに差し向けられたのはプロイセン第三軍とザクセン侯率いる第四軍団の総勢18万である。ゆっくりパリを取り巻き、150180キロメートルの大輪を描く。計算上は1メートルおきに1人の兵士を並べたことになる。この密度では心もとないが、そのことを百も承知でモルトケはあらゆる通信線を遮断し、パリを外界から孤立させることを当面の作戦目標の中心においていた。

 フランス側に状況の読みの甘さがあり、籠城戦有利の考え方にとらわれていたのはまちがいない。ドイツが野戦会戦主義であることはすでに述べた。独軍は仏軍にわざと籠城するよう仕向けた1870年、パリとライン国境の間に、有事に備えすべての都市が要塞化されていた。それぞれの都市は独軍の圧力の度合いに応じて、早晩、開城を余儀なくされた。トゥール(Toul)は816日の包囲から40日後に開城し、ヴェルダンは98日に包囲されて2か月後に開城。ソワソンの開城は1016日だが、ここでは抵抗の意思を示した軍司令官に住民が蜂起して司令官を逮捕し、自ら進んで降伏した。

激しく抵抗したのはアルザスの州都ストラスブールとベルフォールである。前者は20万発の砲弾を浴びながら1か月半の抵抗の末、9月28日に降伏した。のちに「死の工場」といわれることになるベルフォールはわずか3千の守備隊でもって、3万の敵兵を迎え撃ち、食糧難と疫病に悩まされながら軍・民一体となって厳冬の中を戦い抜いた。この小都が開城したのは、講和仮条約が締結されて2週間後の311日のことだった。ベルフォールはアルザス州だったが、戦後の講和条約で、その英雄的な戦いのゆえにアルザス州から切り離され、フランス領にとどまることを認められた。このほかファールスブールやビッチュ(いずれもアルザスの小さな町)が英雄的な戦いを繰りひろげた。早期に降伏した都市がほとんど無傷だったのに対し、徹底的に抗った町は集中砲火を浴びて満身創痍となった。
話をパリに戻そう。当時のパリにはスダンから逃げ帰ったデュクロ将軍が率いる精鋭3万がいた。この正規兵を中心に遊動兵と国民衛兵を合わせて40万になる。プロイセン軍は18万だから、数字でみる限りパリ軍のほうが包囲軍に対し圧倒的優位に立っていた。包囲軍が籠城軍に攻勢をかけるばあい、4倍の兵力がなければ落とせない鉄則がある。独軍がパリ軍の4倍の160万をパリに集中するのは無理な相談であり、こうした外見上の優位がパリ市民の主戦論の拠り所となり、市民は国防政府に対し「直ちに出撃せよ」と迫る。パリ軍総司令トロシュ将軍は悲観的であった。40万の軍隊のうち、実戦に投入できる軍隊はせいぜい7万〜75千が関の山で、残りは装備も訓練も行き届かない予備兵にすぎなかった。この兵力でもって敵軍に出撃線を挑むのは愚策と考えた。勝機(可能性でしかない勝機)が訪れるとすれば、敵がパリに正面攻撃を仕掛けてきたとき、外部要塞の火力とパリ軍の共同作戦で迎え撃つときだと判断した。それゆえに、のちにあれほどに非難され、結局のところ国防政府の威信を地に落とすことになる待機戦術に拘ったのである。パリ軍の勝機がここにしかないとみた点でトロシュは間違っていなかった。敵将モルトケもそうみていたのだ。

だが、さすがはモルトケである。その手に乗るほど愚かでなく、彼の頭に正面攻撃の考えは毛頭ない。彼も待機戦術を採った。つまり、攻撃のために充分な態勢が整うまでジッと機を窺っていれば、向こうのほうが焦れて飛び出してくると判断した。そのとき精鋭を投入して一挙に叩く「弾力的防御」の作戦を頭においていた。モルトケはパリに正規兵が残り少なく、たいした攻撃力をもたないことを知っていたからだ。かくして、奇しくも包囲軍も籠城軍も同じ待機戦術をとることになった。だが、時間は公平ではない。籠城側はその数が多ければ多いぶんだけ糧食を消尽するゆえ、時間が経てば自然と包囲軍が有利になる。焦って籠城軍が飛び出せば、包囲軍の餌食になる。事実、そのようになった。

パリの防御施設はどうか。当初の予定では首都からかなり離れた地点に防御拠点をいくつか構築する予定であったが、時間的余裕のないことから計画は縮小され、パリに隣接する外部要塞の補強工事、要塞間を連絡する塹壕の掘削、兵舎と火薬庫の装甲、包囲軍の隠れ蓑となりうる民家の取り壊し、パリに繋がる橋梁の破壊などに限定された。

910日の法令により、プロイセン軍に避難所を与え、移動を隠す恐れのある林や森の伐採が決まった。こうしてパリ郊外のモンモランシー、ビュリーの森、ブーローニュとヴァンセンヌ森を丸裸にする工事が始まった。だが、このような限定された防禦工事ですら、敵の進出があまりに速かったので、中途で放棄せざるをえなかった。
 
2. ビスマルクとモルトケの対立
915日、首都の周辺に最初の偵察兵が現れた。この槍騎兵は迅速な行動で当時のフランス人を驚かせた。恐怖を感じた郊外の村人は慌ててパリ市中に避難を開始する。910日ごろから、ありとあらゆる種の車に家財道具を山と積んで市中に向かう行列が見られた。
917日夕刻、列車の発着が停止した。
918日朝、これまで規則的に営業を続けていた郵便馬車が大急ぎで首都に引き返してきた。この日、パリがすっかり抜きがたい鉄と火のサークルの中に閉じ込められていることが明らかになった。パリは陸の孤島になったのだ。だが、だれもこれが4か月半もつづくとは思わない。この時点で市民生活にはまだ何らの支障はなかったし、包囲はある程度予測されたことだったから、8月初旬の緒戦敗退が招いたときのようなパニックは生じなかった。包囲なんて長く続くまい、パリは巨大な兵営のようなもので、これを長期に囲むこと自体が無謀な企てであり、さらに、パリ軍はやがて準備ができたら出撃するだろうし、そう成らずとも、メッスに控えた大軍はそのうち救援にかけつけるであろう、と。

彼我ともに長期の包囲戦(籠城戦)を予測していなかったにもかかわらず、戦いは長引いた。その原因は攻める側と守る側ともに、いくつかの要因が複合的に組み合わさっている。攻める側の事情のほうがいくらか説明が簡単なので、こちらのほうを先に述べたい。

早期決着を望むビスマルクが早期攻撃を望んだことについてはすでにふれた。しかし、普仏戦争の冒頭からビスマルクは軍首脳部と対立しつづけていた。軍部はビスマルクが作戦行動に注文をつけることを嫌い、プロイセン軍および同盟諸国軍の軍事行動に関しいっさい知らせなかった。ビスマルクから妻ヨハンナ宛てに書いた書簡には、将軍たちに対する彼の怒りの言葉で一杯だった。これは政治と戦争遂行の関係につきまとう根本問題にかかわるものである。政治家と最高司令官を兼ねるナポレオンのような絶対的支配者によって戦争が遂行されないかぎり、どのような戦争にも付いてまわる問題である。

宰相ビスマルクと参謀総長モルトケの確執の根は1866年の普墺戦争時に遡る。ビスマルクは、プロイセン軍がケーニヒグレーツで勝利した時点でオーストリアが求める講和に応じるべきことを主張し、モルトケら軍首脳は即刻ウィーンへの進駐を主張した。ビスマルクが戦後の国際政治を慮り、オーストリアに怨念の残らない形で戦争終結を考えたのに対し、モルトケは(国王ヴィルヘルムも)勝者として獲物(領土割譲)を得ることを主張した[6]。このときから将軍たちは、軍事に関し国王への上奏の場にビスマルクが同席して自分の意見を押しとおすのを不快に感じていた。モルトケは戦術的決断の紛れもない名人と自認していたので、ビスマルクに軍事への口出しを嫌った。ビスマルクが国王を扱う手並みをモルトケは熟知しており、軍事についてビスマルクにいっさい知らせず、重要と思う作戦行動はこっそり国王に奏上した。

政治と軍事の決定は密接に関連しており、これを区分することは選択を誤る因となるはずだ。政治の最高責任者は軍事上の可能性を考慮する必要があり、軍事の最高責任者は政治的な必要を考慮しなければならない。それは、理屈の上で国家元首である君主の任務であるが、ビスマルクやモルトケのような非凡な才能の持主を操るには、老国王には荷が重すぎた。ともかく、ビスマルクとモルトケはパリ攻撃問題で対立する。奇妙なことに、一般的に軍人が過激な手段を、文官が穏便な主張するものなのに、ここではまったく主張が逆である。

パリは、ドイツ軍首脳部(ビスマルクもモルトケも同じ)が予想したよりもはるかに長期にわたって抵抗した。彼らは数週間で目的を達成できると読んでいた。食糧が底を尽き、内

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第3回(6/19) 食い物をめぐるてんやわんや― 籠城のパリ132日―」
 
第一部  普仏戦争の位置づけ
 
1. なぜ、いま普仏戦争なのか?

(1)普仏戦争から数えて150
 今から約150年前の日本は幕末維新の真直中にあり、近代国家の体制をつくるのに悪戦苦闘していた。ちょうど同じ頃のヨーロッパではフランスとプロインセン=ドイツがヨーロッパの覇権をめぐる格闘の最中にあった。この戦いを「普仏戦争」という。富国強兵の旗標を掲げる明治新政府の閣僚たちも軍事査察のため普仏の両陣営に観戦武官を派遣していた。かくて、明治新政府の軍制はこの普仏戦争から強い影響を受けることになった。

(2)20世紀の二度にわたる世界大戦の根因
 普仏戦争に敗れアルザスとロレーヌを奪われたフランスはドイツへの報復の機会を窺っていた。両国の確執を背景に普仏戦争の33年後に第一次世界大戦が勃発する。この戦争でドイツは英仏露連合軍と互角以上の戦いをしながら、アメリカの参戦によって不利に立たされ、結局は敗退する。こうして今度はドイツ側に怨念が残り、それが第二次世界大戦を呼びこむことになる。第一次大戦で約3,000万、第二次大戦では8,500万という空前絶後の犠牲者を出す。戦後は打って変わって普仏両国は協調路線を歩み、現在にいたる。

(3)戦争体験の風化 戦争はとつぜんやってくる!
 この講演でとりあげる封鎖の恐怖、食糧危機などは、今の70代以上の年配者は重々ご承知だろうが、生まれてこのかた飽食一辺倒で育ってきた現代の若者にはほとんど想像さえできないであろう。時間や空間が隔たっていても、戦争下における人間は同じような艱難辛苦を覚えることであろう。戦争の悲惨さを歴史上で検証してみるのも意味深いと思われる。
 
2. 普仏戦争とは何か?
 187071年の普仏戦争はプロイセンとフランスの間で繰りひろげられた戦いである。この戦争自体にも55年前のウィーン体制の根がある。ウィーン条約はナポレオン戦争で痛めつけられたヨーロッパに平和をもたらす講和条約である。ナポレオンにより国土を蹂躙され収奪されたドイツに民族主義の嵐が起こる。一方、フランスはウィーン条約により軍事・外交の自主性を奪われた。ドイツはフランスへの怨念の塊となり、フランスはウィーン体制の足枷から自由になりたいと願う一方で、過去の栄光を再現する願望をいだいていた。そこに待望する人物が現れる。彼こそルイ=ナポレオンこと、皇帝ナポレオン三世である。

 思うに、ナポレオン戦争終結から第一次大戦勃発までの百年間はヨーロッパで戦争が例外的に少ない時期にあたる。大きな戦争はクリミア戦争と普仏戦争しかない。それは、紛争が起こり大きくなりそうになると、利害関係国が一堂に会して未然に防ぐという仕組み(ウィーン体制)による。そして、イギリスが海外進出に余念がなく、ヨーロッパの紛争に関わらなくなったことも影響している。イギリスが参戦したのは、ロシアのバルカン半島南下を阻止するためのクリミア戦争のみである。

 普仏戦争は、統一国家の完成をめざすプロイセン=ドイツが妨害者フランスに対して挑んだ戦争である。独仏戦争史上、初めてドイツが開戦の主導権をとった。プロイセンが決戦不可避とみてフランスを挑発したのに対し、ヨーロッパの古い政治構図の認識にとらわれたフランスは対墺敵視政策をとりつづけたため、プロイセンへの警戒をもたなかった。(拙著『独仏対立の一千年』(2018年)を参照されたい)
 普仏戦争は久しぶりの大国間の一騎討ち勝負となったが、意外にもあっけない結末を迎える。準備不足のまま戦争に突入し、戦法において旧套墨守に染まったフランス軍は大方の予想を裏切って大敗を喫する。
 
3. 普仏戦争の世界史上で占める位置
 普仏戦争がなぜ重要かというと、それが「王朝戦争」から「国家総力戦」への移行を告げる戦いだからである。言いかえると、次期戦争は質と量の面で飛躍的に破壊力を増し、戦争の大惨事を予告したにもかかわらず、普仏戦争がわずか数か月で終わってしまった事実にとらわれ、勝ったドイツも負けたフランスも、さらに中立国もプロイセンの短期決戦=電撃戦戦法の研究に明け暮れてしまう。普仏戦争は多くの課題を提起した。すなわち、①人的・物的資源の総動員、②防備施設拡充、③効率的軍編成、④兵站重視、⑤兵器研究と兵器産業、⑥作戦研究、⑦軍紀維持、⑨銃後対策、⑩軍事教育などがそれだ。これらの課題と真正面から取り組んだ結果が短期決着作戦であるとはあまりに楽観的すぎるだろう! ライバル国が同じくこれらを研究すれば、長期膠着戦になる可能性は十分にあったはずだが…。

 戦争の分類法はいろいろがあるが、「王朝戦争」と「国家総力戦」の区分法がよく用いられる。前者の代表格として18世紀以前の戦争を、後者の代表格として20世紀の二度の対戦を思い浮かべればわかりやすい。「王朝戦争」と「国家総力戦」の特徴を示したので参照されたい。この5つの観点からみると、普仏戦争はちょうどこの中間に位置している。

 まず、軍の最高責任者について。普仏戦争では仏独ともに皇帝と国王の命で動員令がくだり、宣戦布告がなされた。この意味で古いタイプの戦争である。動員令⇒宣戦布告の順序は重要。現代戦ではこれと逆の順になる。もし動員令が先行すると宣戦布告を出したのも同然となり、それ以後、戦争を回避する術がなくなる。よって、動員令は宣戦布告と同時かあるいは事前に秘密裏に行われるのがふつうである。

 次に、開戦動機について。皇帝または国王の恣意に委ねられているとはいえ、普仏両国の衝突の必然性はかなり前から予想されていた。その意味でも「王朝戦争」と「国家総力戦」の中間に位置する。終戦の決め方も中間である。ナポレオン三世が捕虜となって降伏文書に調印するが、パリに革命が起きて戦争はその後もだらだら続き、「国家総力戦」の様相を呈してきたが、その直前でフランス新政府が早期休戦に傾いたため、「国家総力戦」に転化する一歩手前で終わった。

 第三に、兵力について。独仏ともに常備軍と徴兵の両方を繰り出している。独軍が90万、仏軍が80万である。独軍は死者5万、負傷者8万(損失率14%)、仏軍は死者14万、負傷者14万(損失率35%)である。動員数こそ立派な数値だが、損失率はクリミア戦争よりも少ない。しかも、独仏両軍ともに死者の半数はチフス、赤痢などで死んだ者が占める。特徴的なのは捕虜の多さで、仏軍が52万(全兵力の60%強)を出した。これは第一次大戦でフランスの動員兵800万のうち、52万が捕虜となったのと同じである。いかにフランス側に戦意が乏しかったかがわかる。

 第四に、民間人の関り方について。当時はまだ「前線front」「銃後arrière」という用語はない。前線とは敵・味方が対峙してできる何キロ、何十キロ、何百キロメートルにも渡る長い戦線のことを前線という。これには塹壕はつきものである。ここを破られると、回り込まれ背後から攻撃を受ける(挟み撃ち)ことになって決定的に不利になる。前線と糧食弾薬を補給する兵站基地を繋ぐラインを通信線という。

 当時の戦いは軍隊の遭遇戦や要塞攻防戦が主であり、前線をつくる必要がなかった。塹壕があっても、それは要塞を攻略するための塹壕でしかない。

 戦闘に無関係の民間人は身の安全を保証され、かつてナポレオンがおこなった占領地での強制徴発もおこなわれなかった。皆無というわけではないが、独軍が徴発証書を残したため、のちにフランスが住民に支払うことになった。第一次大戦では占領地では見境なく強制徴発がおこなわれた。

 第五に、戦闘形態について。これはチグハグである。独軍が野戦会戦主義を採ったのに対し、仏軍は要塞陣地主義をとった。結局、野戦会戦主義に軍配が挙がったが、圧倒的な優勢というわけでもなかった。仏軍にもう少し事前準備、戦法の妙、士気があれば、戦いはどう転んだかわからない。実際のところ、クリミア戦争、普仏戦争、日露戦争当時おいてはまだ攻守五分五分の状態であり、第一次大戦で初めて六分四分で攻撃側有利に傾き、第二次大戦で籠城側は決定的に不利になったのである。大戦で籠城陣地戦を支えたのは機関銃であり、攻撃側は塹壕を掘って敵拠点に迫るしかない。籠城戦を不利に傾けたのは新式大砲(臼砲・曲射砲・ロケット砲)、そしてなによりも爆撃機である。

 兵員・軍需品の輸送手段は鉄道・馬車・徒歩である。鉄道に新しさがある。鉄道を戦争で初めて使ったのは仏軍だ。1859年のイタリア戦争で仏軍はこれを使ってロンバルジア平原に進出。対するオーストリア軍は戦闘準備が整わないうちに目の前にいきなりフランス軍が出現し、大敗を喫してしまう。これをプロイセン参謀総長のモルトケが「戦争に使える」と判断し、1866年春〜夏の普墺戦争で効用をしっかり確かめた。モルトケは普仏戦争に備え、周到な計画(線路敷設と時刻表)を練った。仏軍は普仏戦争では鉄道を使わず、徒歩で行軍した。ドイツ側にも狂いがあった。つまり独仏のレール幅が異なるため、レールを敷きながら進軍しなければならなかったのだ。ドイツ軍のパリ進撃が予想外に手間取ったのはこのためだ。鉄道は通信線維持の重要なポイントであったため、常にゲリラによって爆破された。

 独仏両軍ともに参謀部と電信をもっていたにもかかわらず、各戦場は孤立したままに残された。送信機と受信機が頻繁に故障したのと、敵によって電信線が切断されたのである。

 軍の機動性は現代戦では勝敗を決める決定的要素であるが、普仏戦争当時はまだそれほどでもなかった。機動力がモノをいうためには、オートバイ、軍用トラック、戦車、航空機に登場を待たねばならない。19世紀中は馬が機動力の中心であった。17世紀来の騎兵、歩兵、砲兵の三軍連携態勢は普仏戦争にも使われたが、用兵術に若干の変化が生まれる。砲兵の役割が重要度を増すとともに、騎兵は偵察行動のみに使われた。
 
4. 普仏戦争は近代日本の形成にどのような影響を与えたか?
 普仏戦争が起きたころの日本は幕末維新の激動期を迎えていた。1867年に大政奉還がなされ、明治新政府が樹立されたものの、すべてがまだ流動的だった。18681月から699月まで旧幕府側の抵抗運動が続いていた。英仏両国はそれぞれ薩長と幕府の後押しをし、一時的に日本の内乱は英仏両国の代理戦争のような観を呈した。しかし、1867年から70年までの決定的な時点で、欧米列強は日本の内乱を観望する立場を貫くことになった。なぜなのか?

 フランスは1867年、数年来のメキシコ干渉戦争に失敗し、遠国に軍隊を派遣することの難しさを自覚していた。対イタリア干渉(イタリア独立運動支援)でも手を焼き、国内的に政府反対の気運がひろがりつつあったため、本腰を入れて日本問題に関わることを断念。かくて、徳川幕府を断固支持していたレオン・ロッシュを更迭する(681月)。

 イギリスも度を過ぎた植民地干渉がセポイの乱や太平天国の乱を招いたとの反省から、日本の内乱にはヨーロッパ列強と共同行動をとることに専念した。そして、イギリスの関心はもっぱら中国にあった。

 日本に一番野心をいだいていたのはアメリカだが、この国は南北戦争が終わったばかりで、極東の問題に手がまわらなかった。

 かくて、日本の政変は結局のところ、外圧抜きに日本の問題として進むことになった。

 新興国プロイセンが旧大国フランスに勝利したことによって、ヨーロッパでは仏・露が接近し、英・独の対立が強まりつつあったが、こうしたヨーロッパ国際政治の構図はやがて日本にまで及んでいく。日本はプロイセン型の憲法を発布し、さらにそれまで不敗神話にまで崇められていたフランス陸軍が普仏戦争で完膚なきまでの叩きのめされたため、プロイセン=ドイツをモデルにした軍制に鞍替えする。そのほか、政府主導の殖産興業政策、刑法もドイツをモデルとするにいたった。フランスが日本の近代化に影響を与えたのは民法と教育制度(複線型学校制度)のみとなった。

 とくに軍制と戦法の点でドイツは日本に重要な影響を与えた。参謀本部の設置が重要である。参謀本部はプロイセン軍でも匿名であって、軍人のなかでもそれを知らない人がいるほどだったが、普仏戦後にそれが明るみに出た。戦闘は闇雲におこなうものではない、事前の周到な準備と計画があって初めて勝利は得られるとの認識が生まれた。プロイセン軍は事前視察でフランスの地理を隈なく調べあげていた。仏軍の陣地・規模はもとより、どこが会戦場として適切なのかも熟知していた。そこに敵を誘導するための囮作戦まで練っていた。このやり方がヨーロッパ列強はもとより、日本の軍首脳にとっての教科書となった。兵隊の訓練が重要であることはわかっていたが、兵隊を動かす将校の重要性を浮かび上がらせたのもドイツ軍であった。日本に限らず、各国は競って参謀本部と陸軍大学の設置を急ぐ。

 日本軍首脳部が衝撃を受けたのはプロイセンの見事な電撃戦法である。プロイセン軍観戦武官として大山巌、品川弥二郎、林有造がいた。日本の武官たちは捕捉した敵に、自軍の総力を一挙に集中して包囲し、砲弾の雨を降らせる短期決戦の重要性を悟り、持久戦法を軽視。日清・日露の戦法で短期決戦を重視した。そのため、日露戦争の旅順攻略で手痛い躓きを味わうことになる。
 

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