matsui michiakiのブログ

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433. 中世都市の属地主義
 
【質問】
講義レジュメの「ヨーロッパ中世都市の特質」に載っている「属地主義」の考え方に驚きました。社会的流動性を体現する思想に、とてつもない自由への魅力を感じます。また城塞を建てるところからみても、「人」よりも「土地」への帰属に力を入れていて、さらに「属地主義」への強化が見られます。
 以下は質問です。ギルド、城塞など、属地主義が主流だった中世の頃からの名残が現代にありますか。EUという制度に属地主義がどのような影響を与えたのでしょうか。
 
【回答】
 重要な問題提起が含まれている。われわれ現代人は「属地主義」を意識するのは、外国に行くときに限られる。「郷に入っては郷に従え」で、外国領土に一歩でも足を踏み入れると、その国の法律に従わなければならない。たとえば、タバコの吸い殻を道路にポイ捨てしてもわが国で処罰されることはまずないが、シンガポールではたちどころに罰金を徴収されるし、トイレの水を流さなければ、それだけで罰金を取られる。
また、西洋の民主主義国で夜間通行中に警察官に誰何(すいか)されたとき、身に覚えがないと勝手に判断して、急いでその場を離れようとすると、すぐに銃で撃たれる。弾丸が脚に当たらず心臓が撃ち抜かれても文句はいえない。「ところ変われば品代わる」を肝に銘じておかないと大変なことになる。
 話を本題の「属地主義」の問題に戻そう。古代ローマの世界では都市と農村の違いは風景上の違いでしかなかった。なぜなら、ローマ法は居住地によって市民はいかなる区別もされないからだ。すなわち、奴隷は何処へ行っても奴隷であり、自由民は自由民でありえたのである。これがいわゆる「属地主義」の対極「属人主義」の立場である。
中世ヨーロッパでは都市は別の実体を表わす。中世都市は単なる人口の集まりや大きな組織体ではなくて、都市自体が誇り高き自治権をもち、その意味で周辺の農村から画然と分かたれていた。物理的に都市は防壁または堀と城門によって別世界を形成していたが、それよりも重要なことは、都市が法の見地から別世界であったことだ。これが「属地主義」なのだ。
人が城門を一歩くぐれば、今日の旅人が国境を越えるときに味わうような別の法律に従わなければならない。都市の住民は農村世界の拘束や義務、文化価値のいっさいを認めなかった。農村の領主は都市の住民に対し権力をふるうことができなかったし、城壁の内側から村びとや役人をからかうのも自由だった。領主の家来とて城壁の外側にいては手の出しようがなかったのである。農民が自分の土地を離れて都市に行き着くと、彼はたちどころに別人格となる。つまり、彼は「市民」になったのだ。領主が彼の身柄の引き渡しを請求しても、都市が彼を仲間に加えてくれたあとならば、そのようなことは平気で無視できたのである。
 町びとたちは自分たちの力で法秩序と文化と価値を打ちたてた。11世紀に都市が出現したということは単なる地域的変化とみるべきでなはない、これは一種の文化的・社会的革命の表現であったのだ。農村の荘園制度に馴染んできた人々はこのことをよく知っており、領主層(貴族)は憤りの念を隠そうとはしなかったのである。
 さて、上掲文の質問に答えることにしよう。
 まず、今なおギルドの残存形態はあるか?についてだが、ギルドに似た同業組合はなおあるけれども、それは法律的な強制力をもっていない。各種の手工業(たとえば、宝石細工業、家具職人、仕立職人、石工、左官、大工、船大工など)や料理・理美容などの職種において徒弟・職人・親方の身分序列は緩やかなものになってはいるが存在する。しかし、徒弟や職人において今どき無給で働く者はいない。多少の給金は出る。薄給とはいえ、こうした同業組合に属し修行を積まないかぎり、一人前の職人にはなれない。将来的な独立をめざし、修業の旅に出て腕を磨くのである。いわゆる「渡り職人」または「巡歴職人」といわれるものがこれだ。今なおイタリアやフランスの伝統工芸の質が高いのはこうした修業と練磨によって保持されているのだ。
 次に城塞の残存状況はどうか?筆者がここで問うているのは、囲繞都市の中の城塞だと思うが、それは確かに残っており、驚くべきことに、そこにいまだに人が居住し、通常の生活を営んでいるのである〔注〕。諸君に教室で見せた、城壁で囲まれた街の写真を見れば、それが単なる歴史的記念碑でなく、明らかに人びとが生活を営む本拠地であることがわかるだろう。人びとが全く居住しない城塞というものがあるのか?それも確かに残っている。歴史的な大事件の舞台となったものはたいてい記念館となり、有料または無料で観光客を迎え入れている。
〔注〕「城に町人が住むって?」と奇異に感じるのは、日本の城を連想するからだ。日本の城はお殿様の居住地であり、一般の職人や商人は城外に住む。西洋の城は町全体が囲繞され、外部から遮断されている。囲繞都市の中に天守閣らしきものがある場合もあれば、それがない場合もある。南仏やイタリアの都市は領主と町びとが一体化している場合が多いため、町の中にもう一つ天守閣らしきものも存在する。天守閣はもとの領主の城館である。
3番目の質問つまりEUと属地主義の関連。これへの回答は「イエス」とも「ノー」ともなる。
EUは人間の尊厳に対する敬意、自由、民主主義、平等、法の支配、マイノリティに属する者の権利を含む人権の尊重という価値観にもとづいて設置された。いわば国家を超えた国家のようなものである。これらの価値観は多元的共存、無差別、寛容、正義、結束、女性と男性との間での平等が普及する社会において加盟国に共通するものである。したがって、EUは国家の枠組を否定するところにあり、EUに含まれる圏内での住民の往来、労働、経済活動はいっさい自由である。商品やサービスについて関税を課されることはない。ただし、EUの加盟条件は国家単位での加盟を要するため、加盟国民以外はこの恩恵に属さない。その意味では属人主義が作用しているとみることができる。
EUの権限の及ぶ範囲だが、経済は基本的に全部に及び、軍事・外交、警察・司法の分野で相互に協力しあうことは確約されているが、強制的なものではない。政治についても中途半端なものとなり、加盟国は独自の政府を維持している。一方、現在のEUは根幹である経済においてもぎくしゃくした状況にあり、今後、どのようになるのか先行き不安でいっぱいである。
いちばんの問題は、経済的意味での国家主権が否定されているため、国家が本来もっている財政政策を独自に展開できない点である。そこにきて貨幣も「ユーロ」という共通貨幣があるため―通貨同盟に参加していないEU加盟国は別だが独自の為替政策がとれない。当該国家における輸出・輸入の調節ができないため、もとからある経済力格差が拡がってしまう。つまり、強い国(ドイツなど)はますます豊かになり、弱い国(ギリシアなど)はますます貧しくなる。おまけに、労働者はふつう低賃金国から高賃金国へ移動するため、独仏など先進国の労働者賃金は停滞するどころか、むしろ低下気味にある。東欧諸国が挙って加盟したため、雇用をもとめ大挙して西欧諸国に押し寄せたり、あるいは東欧諸国内で西欧諸国の企業の下請け作業に従事したりしたため、「西」「東」の経済格差はいっこうに縮まっていない。
そのうえ、加盟国外からいろいろな事情により難民(イスラム系)がEU内に流入し、これを拒絶する術がないためさまざまな問題を投げかけているのである。
EUの問題は中世都市とは別問題として検討しなくてはならないだろう〔注〕。中世都市は国家主権の要件としての貨幣政策を自由に展開できたし、難民を受け入れるようなことはまずありえなかったからである。飢饉時に市民に備蓄食料を提供するような社会政策はたしかにおこなったが、「よそ者」への供与や救済はおこなわなかった。
〔注〕EU結成が可能であったのは、ヨーロッパで近代国家がつくられる前に都市的なまとまりが先にあり、その都市的な機能を国家が引き継ぐかたちで近代国家ができあがった。こうした歴史的経緯を共有しているために、国家を超えた地域的なまとまりEUの結成が可能であったのである。EUの原型となった6か国はすべて西欧に属し、いずれも中世都市の伝統をもっているという特徴がある。一方、イギリスは最初から王権が強大であり、中世都市のコミューン運動を経験していない。この国のEUの加盟および離脱の時の躊躇ぶりにコミューン運動の欠如のゆえとみるのはあまりに穿った見方であろうか。

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432. 中世都市の誕生の歴史的意義
 
【質問】
論点は二つある。
一つは、授業レジュメにある「都市は陸の孤島であり、封建社会のなかで異端児」という記述である。すなわち、高校で習う世界史は政治史ないしは法制史であり、領主や王国単位で物ごとを考えるため、封建社会が当時の社会構造のすべてであると錯覚しがちである。都市の経済活動の歴史を追わないと、中世・近世の封建的社会と近代以降の資本主義社会の関係を持続的に理解するのは難しい。そういった意味で市民の生活史に注目し、もう一度世界史を見なおしてみたい。
 もう一つは、都市において文芸作品を嗜む心や現世的享楽などの新しい価値体系が生まれ、画家や彫刻家への資金的援助がルネサンスの要因となったのではないか。
 
【回答】
 二つの論点のうち、ここでは前者のみについてコメントしてみよう。
筆者は、政治史に劣らず経済社会の歴史の視点をもつことが封建社会の研究に欠かせないこと、それと並んで市民の目線で歴史をながめることの重要性を指摘している。まさにそのとおりである。
たとえば、「封建社会」という語を聞くと、ほとんどの人が主従関係つまり「封建制」を頭に描き、社会や経済のことを忘れ去ってしまう。社会や経済を考慮すればこそ、次代の市民社会との連続性ないしは継承性が頭に浮かぶ。政治は基本的に政権交代を意味し、それだけに着目すると、中世と近代はどうしても切断されがちになる。視野を社会と経済にまで広げてみると、中世と近代ともにある種の資本主義が認められるし、それら資本主義のあいだにも何らかの共通項があり、その結果、中世と近代の連続性が浮き出ることになる。
 ここではこの問題についてもう少し突っ込んだ議論をしてみよう。
 中世都市と近代国家においては軍事・外交・政治・経済・社会・文化面で似た面がある。以下の項目のなかで( )内の事項は中世都市に固有のものである。
 ・  (軍事)  防衛(築城)権、軍備権、徴用・徴発権、交戦権 
・(外交)交渉権、条約締結権
・(政治)代議制民主主義、政治参加の平等原則、政府構成権、官吏任免権
・(経済)経済政策、経済(ギルド)統制、造幣権、度量衡監督権、市場権、
               課税権、(ステープル権)〔注〕
・(社会)福祉、慈善、公立職業訓練所、祭祀、(公設質屋)
・(文化)公立学校、文化政策、(公設劇場)
〔注〕ステープル権とは「通過貨物荷解き特権」のことで、その都市を(水路または道路を)通過する貨物に関し強制的に荷解きを命じることができ、その貨物から通行料を徴収したり、その都市に必要な原材料であれば強制的に売却させたりできることを指す。都市のエゴイズムの表れであり、現代国家の保護関税制度に相当する。
 こうみてくると、中世の都市国家と近代国家の相似性が浮き出ていることがわかる。もし対象を農村だけに絞ると、領主=農民関係しか明らかにならず、中世の「反」近代性のみが鮮明になる。上記に示した各項目はすべてもともとは領主権に含まれ、領主の許可がなければ何ごともなしえなかった。しだいに都市は領主権の一部を買い取るか、あるいは力づくで奪取することによって、獲得したのである。ここから、中世都市は近代への足がかり得たが、農村のほうは封建制および領主制の牙城のような様相を呈したままである。
思うに、わが国日本にはヨーロッパに見られるような中世都市の伝統は薄弱である。だから、中世と近代の切断面のみが強調されるがちである。では、わが国では中世都市の伝統が皆無か!というと、そうでもない。中世都市および近世都市においてある程度の市民自治は保証されている。以下、それをみてみよう。
 室町幕府の成立によってあらためて首都となったには公武寺社諸権門の拠点が集中した。東寺、東福寺などの大寺社は土地を集積して「境内」の拡大を図り、居住する商・職人を直接的に支配した。このころ、参道とその両側に「町」が形成されつつあった。ここにおいて幕府の権力とは独立した支配=自治の権力が存在することを意味する。都市の住民にとって家屋所有や居住権はまだ不安定ではあったものの、寺社側が恣意的に住民の退去を強制することはできない。
室町期の鎌倉においても鎌倉府が設置されていたが、そこはひきつづき関東の政治・軍事・経済の拠点であった。奈良では寺社権門が「市」を興行し繁栄していたが、一方で郷民は自治組織を形成し、町内には店舗を構える商人が増えた。
 地方では国府の権力を在地豪族や武士を掌握し、留守所と在庁官人居住地の周縁には「市」・「津」・「宿」が形成され、「府中」と呼ばれる都市域が発生した。また、商業や交通に伴い、西国に「津」、東国に「宿駅」、交易中心地の「市」「町」が各地に展開した。
 応仁の乱以後、京都の住民は戦乱から身を守るために要害「構」(お土居)を構え、地縁自治組織「町」を単位に「町組」を結成し、さらに上京と下京の「惣」などが自治活動を発展させる。京・奈良・堺・博多「町衆たち」は交易を通して経済的文化的な成長を遂げ、茶の湯など民衆の都市文化を発展させた。
 自治組織は浄土真宗や法華宗が建設した「寺内」でも高揚をみせた。1496年に本願寺を本山として建設された石山「御坊」「町」の構成から成り、町にはさまざまな商・職人が居住し自治組織が置かれ、要塞化が進められ、1580年に織田信長が開城するまで繁栄を極めた。
戦国期には町と境内が重層的に結びついた戦国城下町が戦国大名下で建設される。武家屋敷や寺院を取り巻くかたちで自律的に開発された民家が建ち並び、領主(大名)は商工業者に特権を与えて城下に集住させ、町人地を形成する
身分や権能によって居住空間を区分した城下町が日本各地に建設されはじめ、境内と町は領主の城を中心とした空間のなかに再編されていく。
 秀吉や家康が中央権力を掌握しはじめると、「境内」「町」から成る複合的な都市空間の解体と近世的な都市空間の発生。秀吉の太閤検地の実施により重層的であった土地所有権は領主に一元化されていく。
 中世から近世へ移行するにあたり、都市が権力の機構の下に組み込まれていくが、そうはいっても、市民自治(特に治安維持、相互扶助、祭祀、娯楽、旅行、寺子屋)は連綿と続く。これがあればこそ、元禄期の江戸は百万都市でありながら、岡っ引きなど警察機能をもつ役人はわずか300人しかいなかったのである。また人口30万都市の大坂には武家はなんと!1,500人しかいない。これゆえに町人の町大坂と武家の町江戸では雰囲気がまるで違うのは当然であり、それは今も引き継がれている。それにも拘わらず、江戸はむろ、この代表的な商人町の大坂も治安維持の面でなんら問題をかかえなかったのである。
西洋と較べ日本の中世・近世都市に欠けているものは軍事・外交の分野である。今後は封建社会の研究において都市自治の態様を考察対象に含める必要があるといえよう。

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