matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

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記念事業(7)

普仏戦争略年表

 18707
   2日 ホーエンツォレルン家レオポルト王子のスペイン王への再立候補の報道
   5日 外務大臣グラモン公爵の立法院における攻撃的演説
   7日 フランス政府はプロイセンに立候補取下げを要求
  12日 パリ駐在のスペイン大使オロサガはフランス政府にホーエンツォレルン家王子の辞退を通告
  13日 エムス電報事件
  15日 フランス政府は立法院で戦争債券を可決。ヴィルヘルム一世はプロイセン軍の動員を命令
  17日 遊動兵の動員命令
  19日 フランスの対プロイセン宣戦布告
  20日 オーストリアとイタリアの中立宣言
  27日 メッス、ティオンヴィル、ロンウィ、ビッチュ、マルサル、ファールブール、モンメディ、ヴェルダン、トゥールが籠城状態に入ったことを宣言
  28日 ナポレオン三世がメッスに到着し、ライン軍総司令官に就任
  31日 ヴィルヘルム一世、モルトケ、ビスマルクがベルリンを出発、ドイツ軍に進軍命令下る
 18708
   2日 ザールブリュッケン近くでの小競り合い、ドイツ大本営はマインツに
   4日 独軍のウィサンブール攻略
   6日 シュピヘルンとウェルトの戦い
   7日 セーヌ県の籠城宣言
   9日 オリヴィエの辞職
  10日 パリカオ内閣の組閣
  12日 ナンシー占領、国民衛兵の再建、バゼーヌがライン軍総司令官に就任
  14日 ボルニー=ノワスヴィルノ戦い
  16日 レゾンヴィル=マルス==トゥールの戦い、ナポレオン三世シャロンに到達
  18日 サン=プリヴァの戦い、バル==デュクの占領、シャロンで皇帝はトロシュ将軍をパリ総督に任命
  20日 メッス包囲の開始、ドイツ第三軍はパリに発進
  23日 マク=マオンはシャロン兵営を出発
  25日 モルトケは第三軍に北進を命ず
  30日 ボーモンの急襲
  31日 ノワスヴィルの戦い
 18709
   1日 スダンの戦い
   2日 スダン降伏、ナポレオン捕虜となり、ヴィルヘルムシェーエに出立
   4日 パリは帝政の廃止を宣言、共和制の樹立宣言、トロシュを首班とする国防政府の成立
  10日 デルブリュックはランスでビスマルクと憲法問題について協議
  11日 国防政府派遣部のトゥールへの出発
  12日 ティエールはパリを発ちロンドンに向かう
  19日 パリ包囲の完成、シャティヨンの戦い
  20日 イタリア兵がローマを占領
  2021日 フェリエールでビスマルクとファーヴルの会見
  23日 トゥールの降伏
  2226日 デルブリュックはミュンヘンで南ドイツ諸国の代表と会見
  2526日 ティエールのウィーン到着
  28日 ストラスブールの降伏
  31日 シュヴィイとショワジ==ロワの攻撃
187010
  3日 バーデン大公は北ドイツ連邦への加盟を提案
   5日 ヴイルヘルム一世がヴェルサイユに大本営を設置
  6日 ノンパトリーズ=ラ・ブルゴンスの戦い
  7日 マルメゾン公園の攻撃、ガンベッタは気球でパリを発つ
   9日 ローマがイタリアの首都となる
  11日 レオン・ガンベッタのトゥール到着、バイエルン軍によるオルレアン占領
  12日 ティエールはザンクト=ペテルブルクを去る
  21日 マルメゾンの戦い
  23日 バイエルン代表のヴェルサイユ到着
  27日 メッス降伏調印
  29日 プロイセン軍のメッス入城
  30日 ブールジェの戦い、ティエールはパリ経由でヴェルサイユに到着
  31日 パリと南仏の諸都市で革命騒動が発生、ロシアは黒海の非武装化を非難、ディジョン陥落
 187011
   1日 ヴェルサイユでのティエールとビスマルクの最初の会見
   2日 二一〜四〇才の壮健男子の動員、国家総動員令、ベルフォール包囲の開始
   6日 ティエールとビスマルク会談の決裂
   7日 ドイツ第一軍はオワーズへ進軍
   8日 総動員令のデクレ、ヴェルダンの降伏
   9日 クールミエの戦い
  10日 オルレアンの解放
  15日 バーデンとヘッセンの北ドイツ連邦への加盟成る
  23日 バイエルンとの協議妥結
  24日 ティオンヴィルの降伏
  25日 ヴュルテンベルクとの協議妥結
  28日 ボーヌ==ロランドの戦い
  30日 ルドッヴィヒ二世のヴィルヘルム一世への書簡
 187012
   13日 パリ軍のシャンピニーへの進撃の企図
   24日 ロワール軍がロワニーとパテーで戦う
   5日 オルレアンの再占領、マントイフェルのルーアン入城
   8日 将来憲法について南ドイツ諸国と北ドイツ連邦の間に一致、トゥール派遣部はボルドーへの移動
  14日 ファールスブールとモンメディの降伏
  18日 ニュイ=サン=ジョルジュの戦い、ヴィルヘルム一世は北ドイツ連邦議会代表に謁見
  20日 ヘッセン第二院による協約の批准、北ドイツ連邦はドイツ帝国となる
  21日 バーデン第二院による協約の批准、ブールジェの不幸な出撃
  23日 ヴュルテンベルク第二院による協約の批准、ポン=ノワイエルの戦い
  27日 ドイツ軍の東部要塞の砲撃とアヴロン高地の占領
 18711
   1日 ドイツ帝国が法律的に発効
   3日 バポームの戦い、メジエールの降伏
   5日 南部要塞とパリ左岸の砲撃の開始
   9日 ブルバキがヴィレルセクセルを攻撃
  1012日 ル・マン近郊での戦い、フリートリヒ=カールはル・マンに入城
  1417日 エリクールの敗北、リゼーヌ近辺での戦い
  18日 ヴェルサイユ宮鏡の間でのドイツ帝国の建国宣言
  19日 サン=カンタンの敗北、ビュザンヴァルとモントルトゥーの出撃戦
  21日 バイエルン下院が協定を批准
  22日 フォントノワ=シュル=モーゼル橋の破壊、トロシュ将軍の辞職、ヴィノワパリ総督に就任、ブルバキ軍のポンタリエへの撤退
  25日 ロンウィの降伏
  26日 ヴェルサイユで二一日間の休戦協定(東部を除外)の調印、二六日午前零時に停戦、ブルバキのブザンソンでの自殺未遂、クランシャンが東部軍の司令官に就任
  27日 ヴェルサイユで軍事協定交渉、ブルゴーニュとフランシュ=コンテで戦闘の継続
  29日 ドイツ軍がパリを包囲する諸要塞を占拠
 18712
   12日ブルバキ軍のスイス国境越え
   6日 ボルドーでレオン・ガンベッタの辞職、食糧積載の列車がパリに到着
   8日 国民議会選挙
  13日 東部における停戦
  14日 ボルドーで国民議会開会
  16日 ベルフォールの降伏
  17日 アドルフ・ティエールが行政長官に就任
  20日 ドイツ連邦議会の招集
  2126日 ヴェルサイユにおいてビスマルクとティエールの間で和平交渉開始
  26日 講和仮条約調印
 18713
   1日 ドイツ軍のシャン=ゼリゼ行進、国民議会が講和仮条約を批准
   3日 第一回ドイツ帝国議会選挙
  12日 ビッチュ要塞が開城
  13日 黒海の中立化に終止符を打つためのロンドン会議議定書
  15日 ヴィルヘルム一世のドイツ凱旋帰国
  18日 モンマルトル大砲接収事件、ティエール政府はパリを撤収
  21日 パリ=コミューン宣言、ベルリンで第一回帝国議会開会、ビスマルクは帝国宰相に就任
  22日 ヴィルヘルム一世の生誕記念式典
  26日 コミューン選挙
 18714
   4日 ブリュッセル交渉の開始
   8日 ティエールはマク=マオンをヴェルサイユ軍総司令官に任命
  14日 ドイツ帝国議会で帝国憲法が採択される
  16日 ドイツ帝国憲法の発効
 18715
   6日 フランクフルト=アム=マインで仏独講和本交渉の開始
  10日 フランクフルト条約調印
  13日 教皇ピウス九世による「保証法」の拒絶
  18日 国民議会による本条約の批准
  2128日 血の一週間
 18716
   9日 アルザス=ロレーヌのドイツ帝国内への編入
  16日 ベルリンでの凱旋行進
  23日 ティエールによる最初の借款
 187110

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記念事業(6)

第8章   1918年は1870年を消去したか
 
第1節   消しがたい統治体制
最近までフランスの戦争の目的はドイツのそれの正反対であると書かれてきたし、また考えられてきた。フランスの戦争目的はかなり後になってから説明され、アルザス=ロレーヌに局限されたものであった。それはピエール・ルヌヴァンによって新しい資料とともに支持された観点である。彼の論文のタイトルは「フランス政府の戦争目的」で1966年に書かれた。19178月の戦況が困難な時期に、ペタン将軍は書いている。すなわち、「アルザス=ロレーヌはフランスに復帰しなければならない。われわれはわが権利のために原状回復の戦争を実行する」、と。彼はそこでフランス人の圧倒的多数の意見を表明している。「フランスと東部の辺境」(1979年)と題する論文において、ジョルジュ=アンリ・ストゥーは未発表資料に照らしてみるとき、フランスの指導部は失われた州の復帰という単純な目標よりはるかに野心的な目標をいだいていることを示す。1916年と17年の会合と文書はそのことを証明する。もはや勝利の暁には1870年の消去は問題ではなかった。人々は1814年および1790年の国境を語った。これにはザール地方のフランスへの編入が含まれることになる。経済的動機(炭田地帯)は本質的であったが、決定的なものとはほど遠かった。共和派のある政治家たちは遥か先を行き、自然国境ないしはライン線の「ナポレオン」的観念を共有する。彼らはライン計画を策定し、そのキーワードは「保証」であった。この言葉はそれだけで拡大しうる計画だといえる。それはルクセンブルクの併合、フランス軍のライン左岸への常駐、ライン地方の中立化と占領、プロイセンの防備を破壊する東部ライン国家の創設などを意味した。動機は経済的であると同時に戦略的であった。それはフランクフルト条約の不正義の是正という単純な動機より遥か先を行っていた。それはプロイセンの破壊とドイツ統一の終焉を狙う。191418年はもはや仏独の対決ではなかった。英国と合衆国が参戦し、フランスの野心に反対した。同盟国は1870年を消去することでは一致したが、それを超えることでは一致しなかったのだ。
1918年は1870年を消去したか。191811月に続く幸福状態のもとで、フランスにおける反応は自明であるように見えた。ドイツは敗北し、ヴィルヘルム二世は退位し、共和政が宣言された。アルザス=ロレーヌは三色旗を取り戻し、フランス解放軍を歓呼のうちに迎え入れた。外見的には悪しきページが決定的に捲られたような印象が残る。
フランス側では軍事的勝利は1870年の大敗北を消去した。マルヌとヴェルダンはメッスとスダンを忘れさせた。フォッシュ、ジョッフル、ペタンの名はバゼーヌ、マク=マオンの名を忘れさせた。共和政はまさに雄々しく再興する。ポワンカレとクレマンソーはファーヴルとガンベッタが失敗に終わったものを成功裡に導く。ヴェルサイユ条約はフランクフルト条約を消去した。4大国を集めてのパリでの交渉は19196月に「鏡の間」で調印された。この部屋こそヴィルヘルム一世が皇帝を宣言した場所である。ヴェルサイユはフランスの衰退の象徴的な場所であったが、今度は正義の講和の調印の象徴的な場所となった。最も重要なことは領土的不正の是正であった。すなわち、失われたアルザス=ロレーヌはフランスに復帰する。それは力に対する正義の勝利となった。メッスとストラスブールの町では住民はフリードリヒ=カールと皇帝ヴィルヘルム一世の立像およびその他のドイツ支配を象徴する記念物をひっくり返した。「愛国的希望」が達成された。ドイツの兵士、ドイツの官僚、ドイツの実業家たちは強制送還された。ストラスブールとメッスはふたたびフランスの都市となる。回復の作業はゆっくりとデリケートな配慮をもっておこなわれた。48年間に及ぶ多くの分野における積極的な存在を一気に消し去るようなことはなされなかった。
復帰した州と固有のフランスのあいだには習慣、言語、文化の違いがある。国境は目に見えないけれども、だからといって現実的でないとも言いきれない。国境は併合時代に形作られ、あるいは単純にフランス的過去を保存したところの法制度的、社会的、商業的、宗教的、学校教育的な秩序によって強められる。アルザス=ロレーヌとフランスは半世紀に亘って同じリズムで過ごさなかった。世俗的な共和国は信仰告白の公立小学校(フランスではフェリー法以来、姿を消した)とコンコルダ(1905年に廃棄)の維持を図った。エドゥアール・アンリオによる世俗法の導入の試みは1924年に失敗のうちに廃止された。同じく、フランクフルト条約に起因する県の切断は維持された。1919年、クレマンソーは1870年以前の県を再建しようとした。彼は心理的、行政的理由によりそれを放棄しなければならなかった。以後のあらゆる試みは頓坐し、1871年の県制は今日まで維持されることになった。
1924年、アルザス=ロレーヌは特殊な領土的単位として姿を消した。ストラスブールの総督府は廃止されたが、管理の要求は政府をしてあるときは内務省に、またあるときは議会に帰属するアルザス=ロレーヌ行政の存続を余儀なくさせた。とくに、宗教と公教育に関わるあらゆる事項については特別なやり方で取り扱うことが必要であった。1920年代末にフランス政府はアルザスで騒乱にまで発展した自治要求の運動に直面した。その運動は社会学的な文化的な堅固な基礎をもっていた。緊張はやがて緩んだが、少数派はかつての帝国領土時代を懐かしみ、ドイツの諸機構との秘密の関係を維持した。
1918年は1870年の思い出を復活させた。以後は宣言すべきもうひとつの勝利、涙を流すべきもうひとつの死というのが何千となく存在した。事物の力に導かれて1870年は少々ぼんやりと霞みゆく過去に追放された
幾人かの老兵たちは交際を結んだ。ドーレル・ドゥ・パラディーヌ、シャンジー、フェデルブらの将軍たち、テシエとダンフェール=ロシュロー中佐らの名が大戦の勝利者の諸将と相並んでパンテオンの壁に刻み込まれた。1870年の老兵たち以上に速やかに、第一次大戦の兵士らは協会を設立した。彼らは賞揚すべき権利、維持すべき団結、生かすべき理想を保持していた。多くの点で1870年は統合モデルと同様に記念モデルとなった。1916年の恐るべき戦いを思い起こすために、ヴェルダンの町は明瞭にマルス==トゥールの記念式典から着想を得ている。1870年の高地において記念日の式典は忠実に尊重されたが、年々、参列者席は次第に疎らになっていった。1927年にマルス==トゥールに招かれたリオテー元帥の評判は大群衆を集めるのに十分ではなかった。協会はしだいに80才代の少数グループとなり、グラヴロット、パリ籠城、ロワール軍の最後の生き残りたちはしだいに少なくなっていった。1931年、ブリー=ロンウィの元代議士で、ムルト==モーゼル県選出の上院議員アルベール・ルブランが共和国大統領に選出された。メッスへの公式の訪問のとき、彼はマルス==トゥール経由で行くことを強く主張した。彼はこの町の名誉市民だったのだ。彼は昔日の大群衆、最後に消えた国境、勝利の和平を再現させた。彼は1870年の最後の思い出をボワ==プレートル、エパルジュ、ヴェルダンの戦士たちと結合させた。1930年代のうちに、1870年はもはや死者略伝においてしか現れなくなった。遺族らはその軍事的呼称つまり「元ライン軍兵士」、「1870年の遊動兵」、「1870年の義勇兵」、「1870年の従軍メダル」などを思い出すのに固執した。
ドイツ側では1918年の敗北は大激震の効果をもった。それは革命であり、内部的な無政府状態であった。187071年に構築された政治的機構は風化したように見えた。ナポレオン三世と同様ヴィルヘルム二世は軍隊の大混乱に巻き込まれ、彼とともにあらゆるドイツの王朝は陥没を経験した。カイザー、皇帝、正統王朝の原則などは突然消えた。勝利が作りあげた事柄を敗北が一掃した。11才の年齢で若きヴィルヘルム皇太子は父と祖父の絶頂期に補佐した。53才で彼は亡命せざるをえず、1942年に異国の地で死去した。
共和政が宣言された。やがて、プロイセンの軍事王政の栄光は色褪せた。ヴァイマールは自然発生的に1848年の理想を結合した。じっさいのところ、変化は表面的なものであって1871年の重要な獲得物に影響しなかった。ヴェルサイユ条約はドイツの領土的基礎を保存する。なぜというに、アルザス=ロレーヌおよびポーランドの一部の失陥は辺境的なものであったからである。ドイツ国家を指しつづけた「帝国 Reich」という言葉は継続の象徴であった。指導階級、将校、ルター派牧師たちはその言葉を放棄しなかった。普通選挙で共和国大統領に選出された(1925年)ヒンデンブルク元帥はこの継続性の化身だった。彼は創立者たちの世代の生きた繋がりであった。彼こそ1870年の戦士の一人だったのだ。彼の後見のもとで「ライヒ」は存続し、将校らは国家において自分らの占めるべき席を見いだす。外見上、軍隊はその兵員と手段を失ったが、ライヒスヴェールは軽い構造であり、それは急速に人口学的経済的力の次元において軍事力の母胎になりうる可能性を秘めていた。戦前との継続を示すもうひとつの要素としての仏独の敵愾心は依然として予断を許さないものとして残る。
 
第2節   ヴェルサイユ体制と仏独和解の道
ヴェルサイユ講和条約はドイツ人の大多数によって拒絶された。これは強制された和平であって、報復の観念を呼び起こす。歴史上よく起こる配置換え(シャッセ・クロワゼ)によって、報復の観念はドイツ側に移った。これは広まった、しかも混乱した願望であり、あるときは仮面をつけ、またあるときは残酷な形で姿を現わす。この観念は不正義の感情に、他国との権利の平等の喪失に、戦争責任を集団的に強制するドイツ国民の道徳的非難に、フランスのみによってドイツの劣位が要求され維持されたという確信に、それぞれ基礎を置くものであった。両国において沈静化に有利な要素は少数派であり、多数派になる可能性はなかった。たしかに、1870年の思い出は第一次大戦のそれによって修復された。とはいえ、フランスにおける反ドイツ主義のテーマ体系、ドイツにおける反フランス主義のテーマ体系は根本的に変化したのではない。「ボッシュ」[注、ドイツ野郎の意]がプロイセンに取って代わった。ルール進駐(192324年)が昂じてフランス軍によりライン左岸の占領がおこなわれたこと、ザールに特別の体制が組み込まれたことはドイツ人に、かつてのルイ十四世とナポレオン一世に溯る外国軍による占領と殉教の犠牲を染み込ませた。191418年はつづく新しい世代に、両国民が相互にいだいている否定的で敵対的な観念を蘇生させ委譲した。この意味においても187071年の戦争は根本的な事件であったのである。
アドルフ・ヒトラーとナチ党はこうした民族主義的な腐食土をおし拡げ、根を張らせた。こうした手段の巧妙な利用によりヒトラーは1933130日に政権の座に就いた。第三帝国は第二帝国を継承する。本能的にヒトラーは便利で弾力的なこの言葉を多用することで国民のあいだに共鳴を喚起し、力の夢を実現しうるすべての事柄を、ヴェルサイユが決定したすべての事柄を捕らえることができたのである。語彙の継続性はしばしば大胆な平行物を裁可する。これは警戒に値する。なぜならば、第三帝国は根本的に第二帝国とは異なっていたからだ。第三帝国は統一し中央集権化することによって、ビスマルクが国家の軸として保存した連邦主義を破壊した。ヒトラーは今や小ドイツ国家の歴史的に有用な段階を乗り越えたのである。ヨーロッパ的世界的野心にとってそのあまりに狭い基礎はすべてのドイツ人に拡げられる必要があった。人種主義のプログラムと民族主義の熱情――両者はビスマルクとは無縁であったが――をもって、オーストリア系ドイツ人のヒトラーは大ドイツ主義の計画を再浮上させる。1918年のオーストリア=ハンガリー帝国の消滅はそれ以後、大ドイツ主義を可能なものにした。オーストリア、ズデーテン、ポズナムのドイツ人はもはや参照物であることをやめ、恣意的に祖国を奪われた孤児の感情をもつにいたった。ここで人は、オーストリア=ハンガリー帝国の瓦壊が数多くの遠心力を解放することにより、どれだけか中部ヨーロッパの不安定に貢献したか、あるいは民族自決主義の原則がどれだけか堕落した効果をもたらしたかを測ることができよう。だからこそ、しばしば描かれ、しばしば示唆されてきたヒトラーとビスマルクの比較はまちがったアナロジーのもとに展開されてきたのである。外交的配置が異なり、目的はもはやその方法においても手段においても同じではなかった。
対比させるとしたら、ヒトラーとヴィルヘルム二世であろう。しかし、それは誤りにおいて同じ系列に属する。カイザーと同じように、経験の教訓と単純なる良識を無視することによって、ヒトラーは第三帝国の運命をもてあそんだ。また、カイザーと同じように、ヒトラーはロシアとの決裂および二正面戦争という致命的な過ちを犯してしまった。その結果は1945年のドイツの破局であったが、1918年の敗北とは程度においてまったく異なっていた。1918年の結果は1866年から71年に樹立されたドイツ帝国の壊滅であった。勝利したソ連は中部ヨーロッパに拠点を築き、大ドイツ主義の夢を頓坐させ、小ドイツ国家も破壊してしまった。ソ連は小ドイツといっしょにその母胎たるプロイセンとその社会学的な基礎、すなわち幾世代にもわたり高級官僚と上級将校を輩出させてきた高貴な一族をも破壊したのであった。1866年と1870年の戦勝がヨーロッパの地平に出現させたプロイセン=ドイツ流の軍国主義が葬り去られたのと同じように、こうした家系も葬り去られたのである。ヒトラーはビスマルクのドイツを破壊した。
1945年、ベルリン――その運命と光輝は1870年以降膨らんだが――は首都の役割を奪われ、世界でも稀な一条文によって分割された町となるのである。ビスマルクが蘇生させ、ナチ党が迷わせた帝国という語は以後、常軌逸脱と罪深い愚行と同義となる。それは拒絶された。少々古臭くなった用語、1870年以前の用語が人々の口にのぼり、文章に載りはじめた。それが「ブント」すなわち連邦である。覇権的使命における中軸であるどころか、ドイツの空間は3つの国家に分割された。すなわちドイツ連邦共和国、ドイツ民主共和国、オーストリアである。187071年において構築された政治的構造は単に3半世紀のあいだだけ存続した。これはドイツ国民の1千年の歴史に照らしてみれば非常に短いものである。
1940年のフランスの敗北は1870年の再現のように見える。同じような軍事的大敗北、敗戦に責任ありとされた法制度の同じような廃絶、アルザス=ロレーヌの再統合。地理は混同される。またしてもスダンの町は軍事的敗北の現場となったからである。もし類似が描かれるとしても、相違点が大きいため比較は短い。1940年によく知られたテーマ、すなわち、国家的没落とフランスの退廃というテーマが蘇生するのが見られる。軍事的ならびに民事的な敗戦の責任が追及されたが、前の体制の衰退が否認された。「民族の革命」が国を組成させる主要な野心となった。ペタン元帥の取り巻き連はティエールにもガンベッタにも共感をいだかない。彼らのうちのある者は国民議会の王党派の後継者であった。かつての王党派が帝国と共和国を苦しめたのと同じように、彼らは人民戦線と議会政治を告発する。レオン・ブルムとエドゥアール・ダラディエに対するリオム裁判において、王党派のガンベッタと国防政府の共和派に対する告発状と同じものを見出せる。北フランスと東部フランスの占領は自然発生的に拒否の態度と抵抗運動を生じせしめた。ヴェールマッハトの兵士は1870年におけるプロイセンと191418年ボッシュの後継者であった。それは同じ種類に属し、同じような行動をした。その存在は同じ反応を招く。抵抗運動は反ファシズム以上にこの地平において根を張った。194445年においてまたしてもナチ帝国に併合されたアルザス=ロレーヌは解放された。1919年のクレマンソーと同じように、ド・ゴール将軍は県境の修正に慎重な態度で臨む。1939年の条文と第二帝国の条文を維持しつつ、国法がふたたび導入された。それはとくに宗教制度と公学校の信仰告白の法規においてそうである。しだいに法制度的な分権主義――地方法と呼ばれたが――は宗教と学校教育の分野で風化していった。
1870年は遠ざかり、4世代が、やがては5世代が継承していく。地方の配置、ベルフォール領、1871年の創造物はアルザス地方にではなく、フランシュ=コンテに帰属する。同じ遺産から出発するところのモーゼルとアルザスの間の独特で非常に微妙な関係は次第次第にほどけていった。ナンシー=メッス・アカデミーの創立、メッス大学の創立、メッスでの高等裁判所の再建、コルマール高等裁判所の独立等々。1969年、メッスはロレーヌ州の首都となり、そのことによってストラスブールから自由になった。数多くの分野においてモーゼル県をアルザスの後見のもとに置いたドイツの置き土産を完全に消去するためには1世紀を要した。反対に、県地図は安定したままである。1870年以前の県境は二度と再現されなかった。ムルト==モーゼルームルト県とモーゼル県から切り取られた諸県は、ベルギー国境まで引き伸ばされたペイ=オー県とともに奇妙な形を保持することになった。近い将来、こうした不動の状況を何らか修正されるか否かは今のところはっきりしない。
思い出の次元では191418年と193945年は完全に一変させた。多くの記念碑は破壊されるか破損された。だれももはやそれらを復元するのを望まない。ルミルモンのような最良のケースにおいてさえ、1870年の記念碑は共同墓地に移設された。思い出の聖地たるマルス==トゥールでも、いかなる僧侶、いかなる退役将校も記念式典を再現することを保証しなかった。集会はもはや過去に属する。うっちゃらかしにされた記念館は閉館された。これら老人たちを感動させて何になろうか。
1970年、百年祭が一時的に計画を起案させた。新聞とメディアは稀になった儀式と展示会を簡単に報告した。いくつかの雑誌が特別号を刊行した。たった一つの新しい記念碑がアルザスのフレッシュウィレルに設立された。当時の陸軍大臣ミシェル・ドゥブレを招いての除幕式が挙行された。彼は祖父がアルザスの出身で、亡命を余儀なくされたのであった。ほどなくして古き記念物が再出現した。人々は目録をつくり修復し、利用しはじめた。なぜならば、それらはたいてい美しい記念碑だったからである。メッス地方においてことにそうであった。そこでは長いあいだ無視され、かつ自然発生的に壊されたドイツの記念碑が復元されはじめた。コレクターは武器・兜・制服に関心を注いだ。
戦争骨董趣味が広まるにつれて1870年の一本角兜は垂涎の的となった。世襲財産への関心は最初の仏独戦争の再検討を促す。思い出は朧になり、口述の伝統はもはや取るに足りない断片しか伝えなくなった。第一次仏独戦争は、つづく二度の大戦の恐怖によって色褪せ、消去され、凌駕された。ヴィクトル・ユゴーの宣言『恐怖の一年』はその本質的な意味を失い、今日では笑い種になっている。この遠い昔の戦争からは、残り物となった幾つかのイメージがばらばらに飛び出す。つまり、ライヒスショッフェンの胸甲騎兵、ガンベッタの風船旅行、バゼーヌの裏切り、善良なアルザス人とロレーヌ人、ヴォージュの青線、一本角兜、等々。
ドイツの分割と国際機構の根本的な変化、ロベール・シューマン、シャルル・ド・ゴール、コンラッド・アデナウワーらに示される幾人かの意思――これら3人は家族の歴史においていずれも1870年の衝撃を受けているが、彼らは古き領土的紛争(アルザス=ロレーヌとザール)を決定的に解決した。彼らは仏独両国民の和解への道とヨーロッパの範囲における国家の緊密な協力関係の道を開いたのである。
第一次大戦と同じ資格において187071年の戦争は仏独の和解の道に引き入れた。象徴的な場所としてのヴェルダンで両国の指導者たちは会合をもち、平和の発言を交換する。1985年、サン=プリヴァ==モンターニュの近くで、フランスとドイツの兵士が国籍の別なく眠る共同墓地がつくられた。「平和のための柱」、これがこの記念碑に与えられた意味である。1870年の思い出が敵の非難から真なる和解の意思に転移するには実に1世紀以上を要したのである。

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記念事業(5)

第6章   フランスは事態を打開することができるだろうか
 
スヴニールの信仰はひとつの事柄であり、政治はまた別の事柄であった。指導者たちは1870年の刻印の執拗な存続を考慮しなければならなかった。30年後、忘却とまではいかないにせよ、少なくともより現実的な態度を採用することは可能であっただろうか。
ニュアンスと屈折こそあるものの、共和政政府の対ドイツ政策は非常に安定していた。ティエールによって定められた慎重と中庸の路線をレオン・ガンベッタ、ジュール・フェリー、ジュール・グレヴィ、エミール・ルーベ、ジョルジュ・クレマンソーも継承した。ガンベッタ――1871年当時の彼の徹底抗戦主義が非常に高くついたが――は死の間際まで「関係回復が急務である」と宣言した。ヴォージュ出身のジュール・フェリーはアルザスに深い愛着をつないでいたが、控えめにドイツ帝国との合意に基づく領土回復の道を選択した。悲しそうに視線を「ヴォージュの青線」に向けながら、「時が最後に運命の文字盤で鳴る」ことを待つことを説いた。幾多の非難――彼については不当な非難ではあったが――にも堪えつつとりつづけたこの賢明な現実主義の彼の態度は「報復」の放棄でもなければ、平和主義でもなかった。フランスがそれ自身の意思で戦争を始めないこと、を彼は強調する。もしフランスが攻撃されるならば撥ねつけるであろうし、こうした起こりうる反撃の準備は国家の義務である、と彼は考える。
この現実主義と慎重の指針は是非とも維持されねばならなかった。たとえブーランジスムの圧力が圧しかかるときにおいても。ブーランジスムの退潮ののち、その指針は国民大多数の願望に沿っていたことは明瞭である。ビスマルクの辞職(1890年)はフランス政府をして態度変更に導くであろうか。政府は局面打開の鍵を握っていなかった。それはドイツの意向と国際的政策に依存する。ところで、1890年代の初め、重要な変化がドイツの自主的選択の問題を課す。ドイツはビスマルクの根本原則、すなわち独露緊密関係の維持の原則を放棄するにいたる。自由となったロシアにとってフランスへの接近が可能となった。2国間で交渉が始まり、1893年に攻守同盟の締結に帰結する。フランス世論はこの成功に大喜びした。ビスマルクによって張りめぐらされた鉄鎖が初めて崩れた。フランスは1870年以来、経験してきた国際的孤立に終止符を打った。この紛れもない成功はまた裏面をもっていた。ロシア帝国は、フランスの側からもちかけられた既成事実の上程を支持することを承諾しなかった。明らかに新たな同盟はアルザス=ロレーヌ問題の再燃には何の効果ももたなかった。今までになく1871年の既成事実は国際的地政学において揺るぎないものとなった。
平行してヴィルヘルム二世のドイツとの関係は沈静化する。ビスマルク時代の末期と比較すると、それはあらゆる分野における緊張緩和であった。アルザス=ロレーヌでは静穏な統治がつづいた。2国間の関係を改善するときがくるだろうし、ドイツはこの方向での幾つかのサインを送った。しかし、何らの盟約も結ばれなかった。
フランス世論もしくは少なくともその一部の世論の振るまいの重要な局面に軽くふれておかねばなるまい。世論は、明言しないこと、とくに宿敵に対した何らかの譲歩を流布させるような公的な振るまいをしないことを条件としてドイツとの和親に同意した。それというのは、ブーランジェ将軍が多様な社会階層において、外見的に和解しがたい確信をもつ階層において絶大な人気を博した1887年にビスマルクの餌食になる可能性があったからだ。だからこそ、ドイツとの仲直りは不可能であった。フランクフルト条約は2国民の間に溝を穿ち、いかなる慇懃行為も、またいかなる些細な譲歩もその間隙を埋めることができなかった。50億フランは忘れ去ることができたが、失われた2州はそうではなかった。モーリス・ルーヴィエのような人物――彼の現実主義は遍く知れわたっていたが――は、超えがたい限界、つまり世論が行き過ぎを許さないであろう限界の存在を知っていた。世論は修復を待つ。この修復は返還によってのみ可能であった。1887年(ブーランジェ将軍)と1905年(テオフィル・デルカッセ)の更迭というかたちで、危険と見做された大臣を犠牲にすることによって仏独関係の改善が図られた。しかし、それ以上に進むことは許されなかった。
ヴィルヘルム二世が和解提言と慇懃行為を幾たびもくり返した(1901年)ため生じた仏独間の緊張緩和の時期において、共和国の賢明な大統領エミール・ルーベは彼の腹心の協力者たるアベル・コンバリューとともにしばしば、この厳しい問題に取り組もうとする。ドイツの和解提言について語るときコンバリューは書いている。
「いつもと同じ繰り返しである。…[中略]…大統領はそれ以上に進もうとはしない。…[中略]…ドイツとの和解政策は、フランス人がフランクフルト条約の結果のすべてを法的にかつ決定的に承認しないかぎり不可能である。ところで、われわれは1871年の強奪に対して自由で自発的な服従をもたらすことができよう。」
この最後の文脈において、私的談話のかたちで話したのは共和国大統領である。彼はこの短い文において政治家と国民のほぼ全体の意見を表明する。報復戦も時効もない、と。フランスは略奪されたのだ。歴代政府はしばしば、不平不満こそあるもののドイツに受け入れられる和解のラインにとどまってきた。両国は武装平和の体制のもとに暮らす。一方は報復を恐れる。他方は新たな侵入を恐れる。互いに監視しあい、相互に不審感をいだき、動静を探りあう。諸新聞は敵対感情を維持する。この背景なしに、ドレフュス事件で切って落とされた愛国熱については何ら理解することができない。
20世紀の初頭、権力の座にあった指導者たちのすべてが1870年を経験していた。若者ないし子どもであった者にとって、敗戦の思い出は大多数のフランス人におけるのと同様に重たく圧しかかる。彼らのめざす方向は共和国の創立者のそれと同じである。彼らがたとえ祖国が孤立から脱出したことを悟ったとしても、いかなる政治家も公然とアルザス= ロレーヌを放棄したり、サドワの16年後にドイツとオーストリア=ハンガリーの間に生じたようなタイプの和解を引き寄せたりすることはできなかった。これに手を出す者はたちどころに粉砕されたであろう。
1911年、下院議長ジョゼフ・カイヨーはアガジール事件のときドイツと交渉をおこなった。彼は交渉し条約に調印した(191111月)。赤道アフリカのフランスの領土的譲歩との交換条件としてドイツはフランスにモロッコへの自由進出を許した。この条約は批准され履行されたが、そうこうするうちにカイヨーは権力の座から滑り落ちた。一部の世論の見るところ、彼は裏切り者と見なされたのである。戦争の最中に彼は非常に高い、いな、高すぎる代償を払ったのである。失われた両州の思い出が少しばかり色褪せ、目立たないノスタルジーの色合いをもつようにいたったとしても、1870年を経験した世代は監視の眼を緩めなかった。60歳代を超えた代表たちは、幼年時代から戦争と侵入の物語を聞かされていた次世代にバトンタッチされたのである。レイモン・ポワンカレは例外であるどころか、その代表格であった。だからこそ、1870年つまり仏独戦争の劈頭、最も古いもの、現代人に最も忘れられているもの、最も殺戮的でない戦争を今一度想起する必要があったのだが、その感受性と現代人への影響力をもつこの戦争は時間においてもっとも大きな広がりをもっていた。
40年後、なおまだページを捲るのは不可能のようだ。両国間の緊張の要素も同じことがいえるだろうか。確実に「否」である。1912年以降に進展した緊張はある面で植民地争奪紛争と国際的な文脈における紛争であった。底に留まるドイツへの敵意はちょっとした事件でもあればすぐに発火した。とくにパリと東フランスにおいてそうであった。しかし、それは戦争の要素とは別物であった。1875年よりも1910年により多く武装化された仏独国境が平和な国境として残ったことを思い起こすべきであろうか。アルザス= ロレーヌとフランスの間にはヒト・カネ・モノが巡っていた。ペイ=オの鉱山会社は何らの障害なしに活動を継続する。まちがいなくレイモン・ポワンカレは1912年以後、全土において苛立ちと神経衰弱つまり敵意のサインを呼び起こした。アルザス=ロレーヌにおいてはドイツの政策がプロイセン方法にたち戻ったように見えた。ある者が予想したにもかかわらず、1887年のビスマルク流の過酷政策に戻ったというべきであろうか。確実に「否」である。フランスではドイツ人は巡回し旅行し、通商をおこなうことができた。
一例を挙げよう。フランスの戦場で1914年春、ドイツの1870年の老兵は13日間の旅行をおこない、うちパリとその周辺で6日間を過ごした。こうした旅行的巡礼は何らの事故もなくとりおこなうことができたのだ。この1870年の記念事業の心理的役割を誇張しないようにしなければならない。それは仏独関係のバロメーターと見なすことができる。緊張緩和の時代には儀式は慣例的であり、公式的であり、そして観衆をあまり引き寄せない。仏独関係の緊張が戻ってくると、群衆は再び儀式に参加するようになる。それは本能的に少々忘れ去られた熱情をもって昔の感情を蘇生させ、思い出は急激に息を吹き返す。
 
第7章  1870年と1914年

パンフレット作者、政治家、歴史家はしばしば1870年を191418年の論理的序章として描く。にもかかわらず、関係ないわけではないにしてもストレートな関係はない。43年間に仏独間の敵対感情は平和的にコントロールされた。戦争は避けられない問題ではなかった。単純にそれは、両国間における人心が対決を準備するにつれて可能となってきた。それを理解するため、危機の平和的解決のための意思についてざっとふれておく必要があるだろう。1875年、1887年、1905年、1911年の危機は未然に暴発するのを免れた。19147月のそれは18707月の危機とは似ても似つかぬものだったが、これもまた平和的に解決することも可能であった。われわれはそうならなかったことを知っている。
19147月の数週間――この間ヨーロッパの悲劇が企てられたが――においてアルザス=ロレーヌはいかなる役割も演じていない。仏独国境は7月の最終日まで平穏なままであった。ヨーロッパの戦争に導くプロセスは他のところに由来する。それは今まで何度も検討されてきた。
フランス人の圧倒的大多数にとって戦争は晴天の霹靂であった。ジャン=ジャック・ベッケルが示したように、きわめて普及した決まり文句とは正反対に、フランス人は武器を枕にした雰囲気の中で生活をしたのではなかった。1870年とは異なり1914年の動員はほとんどの世帯を襲った。それは、あらゆる地方とあらゆる社会階層に関わる大量的現象であった。行軍命令書の受領はけっして朗報ではなかった。にもかかわらず、卑しい少数派を除いて動員はすんなりと、いわばこれといった感情もなしにそれは静かに受け入れられた。1870年の教訓は実を結んだのである。このとき報復とアルザス=ロレーヌを思い出させる動員はほとんどなかった。宣戦布告がなされた8月の初め、「神聖同盟の要素」となったのは「攻撃に対する憤慨」であって、報復の精神ではない。フランス人は防御的な振るまいをしたのである。この点で『1914年』誌におけるジャン=ジャック・ベケルの結論「なぜフランス人は戦争に突入したか」は恐らく決定的なものといえるだろう。
アルザス=ロレーヌ人とフランス東部住民の子孫のあいだでは、より活発な反応が見られた。もはや兵士の年齢を超えた亡命地の父親は息子たちを報復の聖なる兵舎に送り込んだ。ロレーヌ出身の家族の若きマルセル・アマンはパンタンにいたが、1914年8月に出征する。以下に彼の初期の手紙の一つの重要な抜粋を掲げておく。
「われわれは戦いの運命の日を待ち受けた。ドイツは負けるということを皆が確信していた。にもかかわらず、わが第160連隊がメッスに行き、そこにしばらく駐屯するという栄誉を受けたならば、私はフレミング[注、フォルバックの近郊の集落]にある1870年のわが振り子時計を捜しに行くだろう。アルザスとロレーヌはフランスに復帰するだろうし、それは早すぎることはない。」
マルセル・アマンは1916611日にタユールのそばで戦死する。よく理解できるこの反応はきわめて少数であった。1914年に動員されたほとんどの者は心中で復讐を刻んで国境に出かけたのではない。両国民において新鮮で陽気な戦争を夢見た者はごく少数でしかなかった。多くの者は震え、短期の戦争を希望した。彼らの幻想はすぐに消し飛ぶのだ。
動員がたやすかったのは、戦争の仮定がすべてのフランス人とドイツ人によって内面化されていたからである。この点に関して学校で、軍で、新聞で、著書に因る思い出によって、しかも、常時提起されてきた1870年の思い出は両国民の敵愾心の台座であり、基盤であった。それは、仏独に共通する現象である神聖同盟に貢献し、あらゆる社会階層とあらゆる政治的感受性を根こそぎ引きずる触媒の役割を演じたのである。フランスでは2つの異なった要素がいわばこれらの蘇生を助成する。すなわち、フランスは攻撃されたことである。今度はフランスは開戦を望まなかったし、その国土を守ることを余儀なくされた。そして緒戦は緊急を要すること。政治的演説は二の次のものである。フランスは権利・自由・共和政をドイツ軍国主義から守らねばならない。これこそ野蛮な力、国際的な正義と倫理の否認を体現するものなのだ。そこに、かつて国防政府の共和派がすでに使ったところのテーマ体系がある。1914年の指導者たちは自発的にガンベッタの愛国的にして徹底的な抗戦のエネルギーの強調を再発見したのである。
戦争の展開過程をみると、新奇さも根本的であった。つまり、1914年の戦争はもはや仏独の単独対決ではなかった。1914年はすぐに2正面の戦争となり、やがて植民地と海洋を含む世界戦争に発展していく。にもかかわらず、その外見はしばしば以前の戦いの再現となった。すべての人々が当然のごとくそれを1870年と比較する。われわれは同じ過ちを犯してはならない、と。悲観論者は新たなスダンの亡霊に怯える。最初の突撃が恐らく決定的でありうるだろう。1870年と同じく、フランスとドイツが対決した。ドイツ軍の北フランスに向けての急速な行軍は1870年の急襲とはさほど似ていなかった。フランス軍は後退したが、隊列は維持し、ジョッフル総司令官はマルヌ川で戦況をたて直した。大モルトケ流の進軍スタイルは予期された結果をもたらさなかったのである。
19149月、パリがふたたび包囲される恐れが生じた。公権力のボルドーへの急いでの脱出は不吉な兆候であった。マルヌの勝利は当面の敗北の危険性を遠ざけた。それは決定的なものになるだろうか。 1914年の末における政府の帰還とともに苦難は消える。パリは再度の包囲の恐怖を経験しない。
しかし、それでも前の戦争と類似した面はあった。すなわち、民間人の殺害、1870年の思い出を想起させるような破壊行為、侵入と占領の物語がそれだ。ドイツの蛮行はふたたび証拠をもって提起される。1914年のドイツ人――人々はなおプロイセン人と呼んだが、やがて「ボッシュ」なる呼称に代わった――1870年時よりもはるかに残酷であるとともに破壊的であった。フランス人は野蛮な行為に直面する。彼らは国土・文明・権利のために戦う。彼らは祖国とともに普遍的な価値を守りとおす。日増しに増える数多くの具体的な事実に支えられつつ、戦争のこうした正当化はしばしば1870年の記憶と対比された。
多くの老兵たちはまだ生きていた。彼らは証言し、助言し、激励した。高齢であるにもかかわらず、ある者は直接的な関係を保つことができた。なお明晰な頭脳を保持している当年87才のシャルル・ド・フレシネは国務大臣となる。彼は1923年まで生存し、勝利とアルザス= ロレーヌの復帰を目撃した。上院の議長としてアントナン・デュボスト(イゼール県出身の上院議員)がいた。彼はガンベッタの時代の元知事である。最も著名な人物の一人にジョルジュ・クレマンソーがいる。彼は1914年当時75才であった。自分の未来は自分の後ろにある、と彼は考える。彼のエネルギーはまったく衰えず、高齢であるにもかかわらず、彼は191711月の危機のときにも頼みの綱として身を捧げた。彼は議会の議長に就任。1870年のモンマルトル地区の若き進歩的な区長はすべてのフランス人にとって「勝利の父」となった。将士のなかで19147月当時、現役でいた者はほとんどいなかった。例外的な人物の名を挙げよう。ガリエニがいる。スダンで捕虜となった彼は元帝国軍の陸軍少尉であった。ガリエニは19149月、パリの精力的な総督であり、マルヌの戦いの補給タクシーの起案者となった。1870当時19才のサン=シール卒の士官のカステルノーは少尉および中尉としてロワールの全線を戦い抜いた。19149月、「長靴を履いたカプチン会修道士」はグラン=クーロネの勝利者となった。彼はナンシーを占領から救い出した。ジョッフルを補佐したニヴェルとフォッシュは1918年までフランス軍のなかで最も傑出した将軍の仲間である。フェルディナン・フォッシュは1870年に戦うのには若すぎた。彼はメッスの悲劇に熱心に加わった。1871年、彼はサン=クレマンのイエズス会修道院で生活した。彼が理工科大学校への入学試験の準備をしたのは、併合された初期のこの町においてである。最後にルッセ陸軍中佐の名を挙げておこう。彼は1870年戦争の最良の軍事史家である。彼は体系的で精細な作品を書きあげた。1914年戦争の最中、彼は『プティ・パリジアン』紙の軍事紀行作家となった。この新聞は最多発行部数を誇った日刊紙である。
ドイツでは小モルトケ――1870年の大モルトケの甥であり、相続人であった――1914年に参謀本部長であった。彼は勝ち戦とは無縁だった。マルヌ作戦に彼は反対した。彼は1914年秋に皇帝に辞職を申し出る。モルトケの名は忘却の彼方に消えた。栄光は勝ち得るべきもので、譲渡さるべきものではなかった。
1870年と同様に戦争はフランス領土内で戦われ、ドイツの民間人は戦争の直接の結果を知覚しなかった。紛争の重荷がしだいしだいに非戦闘員の肩に圧しかかってくるには統制を待たねばならなかった。戦争は短期の、動きの早いものと見なされていた。西部戦線で当てこまれた決戦は生じず、陣地戦が全戦に亘って1914年秋に始まる。これは1870年のそれとは何の共通性もない戦法である。ひとつの名前が想起されねばならない。1911年に引退したパウル・フォン・ヒンデンブルクがその人である。フィリップ・ペタンと同じように、彼は1914年に現役に復帰する。67才で彼は東部方面の司令官に就任し、69才で総司令官に就いた。この役職は大モルトケが187071年に在職した地位と同じである。1918年まで1870年の記念日はドイツ全体で祝われていた。総司令官は1918818日にサン=プリヴァで、第三連隊のフランス軍と対峙しつつ式典を挙げた。これはこの種類の式典の最後のものとなった。
第一次世界大戦の激戦と長さはいくつかの要素によって説明されるのが通例である。そのなかの主要なものは闘争における両国民の総動員にあった。この総動員は未曾有の事実であり、1870年の思い出の内面化が基礎となっている国民的団結の果実でもあった。

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記念事業(4)

第5章    25年後と40年後
 
1節  25周年
25年めに盛大な記念式典がおこなわれた。全ドイツから集まった何千という老兵たちがヴィルヘルム二世を取り囲む。国家募金で設立されたグラヴロットの記念館の開館式に、皇帝は参列したのであった。マルス==トゥールから数キロメートル離れたグラヴロットはドイツの聖地となった。1897年、ヴィルヘルム一世の生誕百年祭がおこなわれた。このとき、ザクセンヴァルトから選ばれた柏の若木が植えられた。この森は1871年、ドイツ国家の名において謝意としてビスマルクに与えられた森である。
フランスではパリの周辺で数多くのデモ行進が行われた。最も盛大な儀式が挙行されたのはベルフォールにおいてである。ローヌ県、オート=ソーヌ県、セーヌ==オワーズ県、オート= ガロンヌ県の元遊動兵らが参列。アルザス人も然り。ベルフォールの共和派市長はダンフェールの思い出と要塞での抵抗、つまり187071年戦争史の陰気な基調の中での『輝き』」を想起する。フランスは立ち直ったこと、この立ち直りは共和政に負うことを、彼は強調する。
「共和国政府はあらゆる災禍を復興し、大国および義侠心に富む国民とのあいだに確固たる同盟条約に調印し、祖国の聖ある土を守ることができ、かつ侵略者を撃退しうる国民軍を組織した」、と。
もはや報復戦は問題ではない。記念日以外には記念の熱情は次第に色褪せていく。それでもなお幾つかの新しい記念碑が設立された。たとえば、シャニーの記念碑はリゼーヌでの戦いを、フォントノワ= シュル= モーゼルの記念碑は、ゲリラ兵によるパリ〜ストラスブール鉄道線の橋の破壊をそれぞれ記念したものである。後者は1898年に15千の観衆を集めてナンシー司教、テューリナズ猊下のもとで式典がおこなわれた。
新聞は参列者の数に対して、熱情の程度に対して、稀には無関心さに対して一定の影響を与えた。1890年代の末になるとドイツ同様、フランスでも掲載回数が少なくなった。ロラン主宰の、メッスで刊行されたフランス語新聞カトリック系新聞『ル・シャノワーヌ・コラン』――その機能のひとつは炎を再点灯することだった――1901年に醒めた記事を載せる。
1870年の思い出はほとんど通俗的な対象となってしまった。人は語り尽くし、書き尽くし、われわれが黙って悲しむべき記念日を祝う日々に関して涙を流しつくした。今や新たに言うべき事柄は何も残っていない。これらの事件から1世紀が経ったような気分である。祖国、それは公共集会にとって、そして祭にとっては善であるだろう。しかし、昔と違って自分の生命を祖国のために喜んで差し出すということは夢見ないだろう。国民はその怨恨を鎮めしだいしだいに仲直りする手段を見いだすようになり、彼らの利害関係をまるで中国においてなしてきたかのごとく混同するのだ。[注]元帥ヴァルダーゼーの司令のもとでの北京へのヨーロッパ軍の遠征への当てこすり)
愛想づかしが真実のものであろうと、「忘却の時代が来た」と結論づけるのは早計である。潜伏と幻滅の時期の間、思い出の譲渡は続いていた。学校で、軍で、新しい世代は教育を受けていたのだ。
家庭は口頭伝達の特権的な場所である。占領の悪事、籠城の艱難、プロイセン兵による蛮行の過程を通じての伝達は無疵であり、汲み尽くされることがなかった。1870年の物語は数多くのフランス人の若い日に染み込んでいた。仏独戦争が奥深い刻印を残したシャルル・ド・ゴールの家族も同様だった。『大戦回想録』の第1ページでシャルル・ド・ゴール(1890年生れ)は家庭でのこの浸透を想起している。
「わが過去の不幸な物語以上に私を揺り動かしたものはない。私の父はブールジェおよびスタンでの無駄な脱出戦で傷を負ったことを思い出す。私の母は、幼い娘が両親の見ている前で『バゼーヌが降伏した!』と、絶望のあまり大粒の涙を流したことを思い出す。」
この若者はコレージュに入る。彼は体系的かつ情熱をもったやり方で歴史を学ぶ。すでに彼の軍人としての性向は描かれていた。シャルル・ド・ゴールの記録の冒頭部分は彼の息子フイリップによって発表されるまで出版されなかった。それはフランクフルト条約の歴史とその結果に関する記述である。
今は1905年のタンジール演説のときである。ヴィルヘルム二世のこの演説はゴングを鳴らした。彼は第一次モロッコ危機を、1887年以来、初めての仏独関係の重大緊張を開いた。その事件は国際会議によって仮の解決を見た。それは少なからず1870年の思い出を蘇生させた。70年の思い出は仏独関係の岐路となった。緊張緩和の局面において、記念式典は老兵、現役の将校と兵卒において保持された慣行的な振る舞いを鎮めた。人々は癒しと平和を強調する。ヴィルヘルム二世は彫刻家のクロイツナッハに「グラヴロットの天使」なる作品の制作を命じてこの癒しの象徴とする。彼はタンジール演説の直後に仏独関係が悪化したときにその除幕式を行う。
1905年以降、併合地の公的生活の自由化は1870年の記念事業に、ビスマルクならば絶対に許さなかったであろう広がりと観衆を与えた。新立法のおかげで、フランス協会はグラヴロットならびにライン軍戦友会およびフランスの思い出協会とおなじようにアルザスとロレーヌにおいて支部を置き始める。それは法規をもち、会員を集める。そのなかでももっとも活発な活動を展開したのはジャン=ピエール・ジャンが主宰したフランスの思い出協会である。ヴァリエールの印刷屋たる彼は飽くことを知らぬ情熱家であり、記念碑の設立に新たな息吹を与えた。併合されたアルザス=ロレーヌ人協会はドイツ人が立てた記念碑とは別の独自のものをもとうとした。フランスの思い出協会はドイツの元戦闘員協会と協力して、1870年の兵士らの散在した墓を集中した。フランス人とドイツ人はこの「聖なる義務」を共同して成就した。儀式に際しては、スヴニールの旗とドイツ戦友会の旗が並んだ。制服のドイツ将校はジャン= ピエール・ジャンとその仲間の傍らに立ち並んだ。この寛容政策に励まされ、ジャン=ピエール・ジャンはノワスヴィルで倒れたフランス兵の栄誉を称える記念碑を建立しようとする考え方がいだいた。彼は名士らの支持を集め、ヴィルヘルム二世の許可を得た。ノワスヴィルの記念碑はエマニュエル・アノーに託され、1908104日に除幕式が行われた。この日はロレーヌが併合された記念日である。夥しい数の熱心であるとともに沈着な群衆が委員会の訴えに耳を傾けた。数週間後に本屋の店頭にモーリス・バレスの『メッスの小説』が並んだ。「コレット・ボドーシュ」はまったくの偶然とは言いきれない一致である。なぜならばモーリス・バレスはノワスヴィルで準備していたグループをよく知っており、交流を行っており、また評価していたからである。彼がいだいたテーマはたしかに彼が長い間温め、メッスの友人との接触を通じて熟成させたものであった。彼が経験した成功は、その本が世論の期待に、そして少なくとも世論ー失われた地方のノスタルジーを保持し、「揺るぎなき忠誠」を信じていた世論ーの一部に訴えるものがあったからである。
 
第2節  40周年
バレスの小説を読んだ人々のなかにハヤンジュ(併合されたロレーヌ)とジュフ(ムルト==モーゼル県)の製鉄工場主フランソワ・ド・ウェンデルの名を挙げることができる。フランソワ・ド・ウェンデルは35才の野心的な青年だった。彼は政治と実業に大きな責任を帯びることを夢見ていた。彼は若い日々をハヤンジュで過ごし、次いで2人の兄弟とともに亡命生活を送る許可を願い出た。彼はフランスに身を落ち着けた。メッスのフランス人世界の思い出、メッスの新聞『ル・ロラン』――彼は購読者の一人であった――が掻きたてる思い出はノスタルジーと願望を呼び覚ました。彼は日誌にこうした省察を書き残す。
「私は心の奥底で、特にいつも見いだすのは『報復』である。男の子、若者たる自分が将校となり、サン= シールで過ごそうと欲するのは何よりもこのためである。私の両親を工業の方向に導いたのに、私はすぐに政治の方向に視線を追いやったのはまさしくこの事業に奉仕するためである。奥底で党派政治は私の興味を引かない。私の確信は生温いけれども、その目的は崇高であり、私は確かにそこにいる。われわれはわれわれの感情を詰まらせるために死者と墳墓を必要とするのではない。我々が勝利するのを可能とし、義務とするのに村落と陣地の名を見るだけで十分である。」
彼の同僚であり、かつライヴァルであるカミーユ・カヴァリエ――彼もまた敗北とポン= = ムッソンの占領の強烈な思い出を保持していた――とは正反対に、フランソワ・ドゥ・ウェンデルは1870年を経験しなかった(彼は1874年に生誕)。しかし、彼の環境と実業家としての日々の活動を通じて彼は国境の近くにおり、愛国心は1870年の悲劇に関する熟考に根を下ろした。文学的な感興は、彼が頻繁に訪れる人々や彼が指揮する企業の日常生活において経験した具体的事実と交わり、確証する。
ノワスヴィルに話を戻そう。あらゆる名士を集めての儀式が挙行されたが、そのなかにドイツ帝国議会議員のシャルル・ド・ウェンデルがいた。ノワスヴィルはドイツ人がすぐに理解した続きと意味をもった。その大多数が1870年の諸事件や失われた祖国の思い出を経験しなかった住民は兵士の思い出と繋がった。スヴニール・フランセの支部がここかしこに誕生。「ノワスヴィルの精神」は死者に負うべき「敬虔な義務」のなかに「希望」の注記を入れた。この「希望」とは反ドイツ主義である。
ノワスヴィルの足跡においてジャン=ピエール・ジャンは励まされ、彼のアルザス人の友人の援助を得て、ウィサンブールにおけるのと同じタイプの記念碑を建立する計画を立てた。今度はドイツ人はそれほど協力的ではなかったが最後に折れた。彼らは除幕式時に警戒心を緩めなかった。引き換えにドイツ人はフランス政府から、マルス==トゥールでのドイツ記念碑の建立許可を要求してきた。しかし、騒動を呼ばない控え目な除幕式を諦めなければならなかった。                               40年の記念式典は国境の両側で、多数の観衆を呼び寄せて盛大に行われた。マルス==トゥールでは元大臣でムーズ県の上院議員、アカデミー会員であるレイモン・ポワンカレが招かれて式典が行われた。彼は友人のアルフレッド・メジエールとアルベール・ルブランを伴って何度もここを訪れたことがあった。彼が宣した演説は個人的記録から始まった。「ここで、私と同じように幼年時代が侵入によってかき乱されたフランス人は自身の力で憂鬱な帰郷を余儀なくされ、修復すべき正義の希望を膨らませ、過ぎ去った時代よりもよく感じ、自分の運命を履行していないことを思い出す」。人々はすぐさま節度のある後悔の念をいだく。「フランスは心底から平和を願う。フランスはけっして平和を乱すことはしないだろう。フランスはつねに平和の維持のために尽くし、それらすべてはフランスの威信と両立するであろう。しかし、平和はわれわれを呪わないし、忘却と不誠実を呪わない。」宴会の乾杯の儀式において、レイモン・ポワンカレはより政治的な論調で締め括った。「われわれは強力なフランスを欲する。われわれは、今後は人格化された共和政とフランスを別れさせないし、国防の聖なる義務を負う軍隊との決別もさせないだろう。」併合されたロレーヌではヴィルヘルム二世は移動することもできなかった。皇帝は自己の権限をハエゼラー老元帥に託した。75才の高齢にもかかわらず元帥はあらん力をふり絞って、全ドイツから来た何千という老兵に向って、1870年の戦闘について説明した。彼自身この戦闘に参加し、西部軍の進軍を阻止した思い出があった。ベルフォールでは「ライオン」がベンガル花火で真っ赤になった。
40年後」これはジュール・クラルティが戦場と併合諸州査察に与えたタイトルである。冒険心に富む若きジャーナリストはコメディ=フランセーズの館員となっていた。彼が「名誉市民」となっていたマルス= = トゥールで、彼は短い演説を行ったが、私はその中から2つのフレーズを引用する。
「この戦争の響きのする、そして犯しがたい名称は起床ラッパのように鳴り響くというのは正しい。なぜならば、希望を除いて男をとらえるからである。」
続いて彼はメッスに赴き、ここでスヴニール・フランセ協会の会長ジャン= ピエール・ジャンに会う。
 この文脈においてメッスの国立中等学校の宗教学授ピエール・ウェィテル僧正は『メッスの悲劇』と題する著書を出版した(1911年)。これは兵士の証言録であり、非常に具体的でかつ人心を抉るような証言の記録である。籠城経験のある人々によって日々語られるところの籠城生活である。すなわち終わりなき待機、エネルギーの分解、降伏の恥辱、捕虜の出発、ドイツ兵営における187071年の冬等々。この作品は読者を魅了した。なぜなら、つづいて3版を出さねばならなかったからだ。それは印刷され、メッスつまり40年前からドイツの町となっていたメッスで売られた。その住民の半分は出身も文化もドイツのものであった。これは執拗な関心の象徴であり、1870年の諸事件に再会した。
他の兆候は記念碑建立の再開である。ベルフォールではオーギュスト・バルトルディによって輪郭の描かれた「3つの籠城像」が完成され、多くのアルザス人の観衆を集めて除幕式が行われた。ムルト= = モーゼルでは、ブラモンの碑(1910年)、バカラの碑(1912年)、ボセルヴィルの碑(1912年)が除幕式を迎えた。
ヴァランスでは元遊動兵たちが記念碑を立てた。そこには共和国の標語「勝利か、さもなくば死か」を読み取れる。「パリのファールスブール人」――これは首都における数多いアルザス= ロレーヌ協会のひとつであるが――1870年の籠城を記念しようと欲した。彼らは応募をおこない、ファールスブールに砂岩の陰気な記念碑を立てるのに必要な資金を集めた。ここに「回想と希望」の文字が刻まれた。1914年の春、ヴェストファーレンの歩兵連隊はサン=プリヴァに、龍騎兵をへとへとにさせている聖ジョルジュを表わす青銅像を立てた。
関心の蘇りを示すもうひとつの兆候は記念メダルの創造である。長いあいだ協会によって要求された計画は1911年の議会で承認を得た。陸軍大臣ベルトーはブロンズメダルを選んだ。表は兜をかぶった共和国、裏は旗飾、リボンは黒の縞模様の緑となっている。刻印は「祖国の防衛者」とあり、平和的なものだった。モーリス・バレスはアルザス=ロレーヌの老兵について報復者を象った「覚えておけ!」という銘を提案したのだったのだが。このような計画に感動したドイツ当局は公式メダルについて許す方針を決め、アルザス=ロレーヌ人がそれを受け取ることを認めた。
国際関係の領域で登記された一般的問題を超えて、ドイツ当局の苛立ちの理由となることが理解された。数多くの兆候において当局は、1870年の参照は重い敵対感情を育むものであることを感じた。1914年の初め、マルス==トゥールの巡礼看守の、年老いた教会参事のファレルが死んだ。葬式は多数の参列者を呼び寄せた。ナンシー司教シャルル・リュクの幇助修士が祭式を執りおこなった。このアルザス人の息子は感情をもって愛国的僧侶の美徳を称え、国民団結の要素としての軍隊風の式典をおこなった。ここから30キロメートルほど離れた、メッス北方のヴリの小さな村で祭りが行われた。日が暮れると、300人の住民は1870年の記念メダル授与式に参列する。7人にそれが授与された。市長、司祭、教師が控えめな演説をおこなった。しかし、彼らの話題は重く、言外に深い意味が込められていた。ずいぶん前から苛立ちを覚えていたヴィルヘルム二世は、そうこうするうちにスヴニール・アルザシアン・ロランとなっていたスヴニール・フランセへの干渉を命令した。裁判はジャン=ピエール・ジャンとその仲間に向けられた。3年兵役法に関する論争によってもたらされた緊張の雰囲気のなかで、1870年の思い出の反ドイツ的利用は併合地住民のなかに、「ドイツ人は容赦しない」ことを悟らせた。感受性が上辺だけのフランス語圏の、併合されたロレーヌでは特にそうであった。

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記念事業(3)

第3章   協会と思い出
 
協会の設立はドイツが先行したし、数も多かった。連隊の戦友会は雨後の筍のごとく増え、1866年、1870年の戦闘員のみならず、あらゆる旧戦友を集めた。国家規模の、ついで帝国規模の戦友会は公権力および軍事当局の積極的な協力を得る。1874年になると戦友会はアルザス=ロレーヌにも支部を増やす。メッスおよび戦場の軍墓地と記念碑の装飾と維持のための協会の設立は決定的な転換点となった。なぜなら、この地方協会は公権力、軍当局、市町村間の結合を促す役割を果したからだ。その積極的な保護のもとに各方面で活動が展開された。
フランス側では連隊の戦友会はドイツのそれに遅れること20年〜25年で設立された。それは宴会を組織し、老兵の葬式に参列し、機関紙ないし連隊史を発行する。グラヴロットの元戦闘員とライン軍の協会の設立がきっかけで18884月に設立された。その趣意文は「祖国・回想・希望」である。1887年にアルザス人サヴィエル・ニーセンとメッス人のヴィクトル・フロッスによって設立された「スヴニール・フランセ」は旧戦友会ではなく、一般人の入会も認められていた「スヴニール・フランセ」は設立主旨に軍墓地の維持を掲げた。毎年、活動範囲を広げ、失われた両州で起きたすべての事柄に関心を寄せた。それは共和派の気遣いを得た。なぜなら、その組織はナショナリズムの足跡に引きずられなかったからである。それは1906年に公的有用性を認知された。「スヴニール・フランセ」は多くの記念碑、とくに東部、パリ地方、ロワール川流域における戦死者の記念碑の設立の発起人となった。他の協会はもっと控え目であった。たとえば、1893年以後、サヴォワ、オート=サヴォワの元遊動兵を集めた協会がそれだ。生存者の一団は、かなり弱くなった紐帯を結びなおすための集会を開いた。ミサののち遊動兵は先頭にラッパ手を押し立てて行進。ラッパ手はかつての長官のコスタ伯爵に再会した。新聞記者は書いている。
「ラッパ手は涙を流しながら長官を抱きしめ、2人ともかつて負傷したことを思い出した。群衆は尊敬を込めて望見していた。」
驚くべきことは、諸事件と協会設立の間の時間的ずれである。20年、25年あるいはそれ以上もの隔たりがあったのだ。
次は記念日である。1895年の25年祭、1910年の40年祭では数日間に亘るデモとともに特に爆発的な行事となった。行事が一旦おこなわれると、その儀式は繰り返された。フランスでは最初にイニシアティヴをとったのは僧侶であり、場所は教会堂や礼拝堂だった。僧侶は思い出と場所の守り手でもあった。一度ある地点でおこなわれると、すべてがその周囲でおこなわれた。世俗的精神の支配する共和派の場所では、軍隊の諸協会の助力を得て儀式を組織したのは市町村である。僧侶と兵士は当然の記念祭式の主宰者であった。祖国はフランス人間において分裂を超えた存在であったのだ。
フランスで最も有名な戦いは816日のマルス==トゥールの戦いである。フランスの聖地となったこの寒村において、広大な戦場、何千という兵士の眠る墓地・肖像画・軍服・武器・戦利品・レリーフをもつ記念碑など、あらゆるものが勢揃いいする。何年もの間マルス==トゥールは多数の群衆を引き寄せた。メッスやメッス地方の村落から来る友人や両親に再会するため、家族揃って遠隔地から訪れた。何千という人々がこの日、フランスの空気に浸るべく国境を越えた。主催者は当地の司祭ジョゼフ・ファレル。彼はメッスの錠前工の息子で、共和国は最終的に彼にレジオン・ドヌール勲章を授ける。軍隊も参列した。文官たちは控えめな態度をもち、政治家は私人の資格で招待された。祭式は荘厳なミサでもって始まる。教会堂があまりに狭小のため、群衆は外で待つ。祭壇はしばしば野外に置かれた。次いで行列が形成される。半分宗教、半分デモの行列は先頭に僧侶が立ち、軍人と大衆がそれに続く。人々はその日のために装飾の施され、武器をもつ軍隊に取り囲まれた記念碑に向かう。納骨堂に眠る死者のために合唱がなされ、鐘が鳴らされる。兵士の傍らに揃って喪服を着たアルザス女性とロレーヌ女性が失われた両州を象徴する。後景に朦朧とした群衆が記念碑の前にいる。そして林立する軍旗が旗めく。ドイツ軍の目には、催事の中心テュリナズ猊下は単に国境の司教であるだけでなく、報復の司教でもあった。午後になると戦場訪問が行われる。幾人かは国境を越えて併合地に殺到する。人々は行進を見学し、軍楽に耳を傾ける。各人が自分を取り戻す。マルス==トゥールへ行くことは思い出の地への巡礼を意味するだけでなく、希望を養う方法でもあった。
ドイツの祭式もフランスのそれに似たようなものだ。同じような場所で、しかも同じような日付であった。にもかかわらず、祝賀の地理的空間は絶対的にアルザスとロレーヌの戦場に局限されていた。公権力・軍隊・旧戦友会が主導権を握り、私的な主宰は二義的なものでしかなかった。例外的なケースにおいて、皇帝ヴィルヘルム二世が個人の資格で参加したことがある。皇帝はいつも公式式典の代表者ではあったが。
聖杯蓋が主に教会堂で繰り広げられる。ルター派の従軍牧師が神およびドイツ国民の願望の経常的な解釈者であったが、人が当時読んだところの「神の奉仕」は他の既存の祭式宗教たとえばカトリック教会でも、シナゴーグでも祝福された。ドイツ帝国は、有名な奉献歌「ゴット・ミント・ウンス(神はわれらともに)」と言われるように、キリスト国家である。この言葉は多くのフランス人を苛立たせた。軍事祭典はフランスとは異なり、かなり複雑であった。なぜなら、軍はドイツ国家で第一義的な重要性を帯びていたからだ。軍事祭典は前夜にメッスの街路において松明が点されることをもって始まる。午前、ガルニゾン教会での、あるいは野外での神事が終わると、人々はグラヴロットの高地に赴く。そこでは行列とパレードが展開される。記念碑の前で合唱・鐘音・演説がなされる。音楽のパート(合唱隊による愛国歌、軍歌のレパートリーの一部の演奏)はフランスよりずっと大きな位置を占めていた。
記念式典は戦闘の場所によって異なる。毎年、帝国は兵舎や学校でスダンの日(スダンターク)すなわち決戦勝利の日、ドイツ帝国の建国日を大々的に祝った。軍事力と1870年の将軍たちの才能とを祝賀することは学校生徒や兵役中の兵士にとっては誇り高くもあり、栄光の感覚を維持するのに貢献した。軍幹部にとってはスダンは演習計画と戦略的省察の絶好の機会となった。次期の戦争を仮定してドイツ軍はフランス軍を今一度のスダンとなるよう、決戦を制しなければならない。フランスはフランスで、二度目のスダンの亡霊に脅され、何としてもそれを避けねばならなかった。
あらゆる祝賀演説において、死が引き合いに出され、解釈され、変容された。もっとも頻出するテーマは大乱戦の最中における瀕死の重傷を負った者の英雄的な死であった。それは自己の生命を捧げても義務の履行を伴うのがふつうだった。キーワードは「義務」と「犠牲」。ドライゼ銃と大砲を見くびったこれら英雄的な兵士はあらゆる臆病、あらゆる裏切りを消し去った。彼らは将来の世代の模範となる。シャントーという素性の知れぬトルコはオルレアン近郊でたった一人でドイツの連隊を阻止した。ロワニーでアルジェリア歩兵の先頭に立って負傷したソニス将軍は不具者となった英雄であり、勇気・威厳・犠牲精神の生きた見本とされた。金文字で書かれた碑文はいとも簡単に説明する。年月がたつにつれ、英雄的なレトリックは自由になる。「これら気高い胸甲騎兵、…若く、偉大で、美男子で、赤いズボン、青服のアフリカ狙撃兵…。」敗者自身が変容された。

一例を示そう。1895年、サン=ディエ、ブリニョンの首席司祭にしてヴォージュ県の議員たるカミーユ・クランツは、自分が目撃したノンパトリーズ(ヴォージュ)での戦闘を回顧する。この首席司祭は思い出す。

「私はなお土地のうねりを目撃した。そこでは子どもっぽい砲兵が4門中2門でもって恐るべき砲兵隊に激しく応酬していた。この砲兵隊こそストラスブールを砲撃し、城壁に穴を開けたのだった。私は、2ヵ月前に家族から工場から引き離されたばかりで銃の撃ち方もろくに知らないけれども、大胆不敵で1日中、戦争に慣れ訓練を施され、勝利をおさめ、仕事と戦闘にへとへととなった敵軍を敗戦に追い込んだのだ。」
「伏せた狙撃兵の真直中に立ち上がり、生きながらに自らの身をプロイセン兵の標的としたのだ。最初の弾丸が額を貫いた。彼は怯まない。2発目が肘を壊した。彼は数メートル退って包帯をしてもらうに行くのを拒絶し、静かに腕を吊し、持場にとどまろうとした。三発目がついに首の後ろを貫き重傷を負った。勝者の敵を驚かしたのはそのときであった。彼は民服を着ていた。スダン以来制服を着用する暇さえなかったのだ。ドイツ軍は無慈悲にも止めの一発を与えた。」
ドイツ側の記念演説は勝利を強調する。すなわち、ドイツの戦闘員の勇気、指揮官の優越、組織の質の良さ、ドイツ国民の支援…など。フランス兵は確かに勇気があったが、軽薄で、一貫性に欠け、訓練不足であった。戦場においてはプロイセン兵、バイエルン兵、ヴュルテンベルク兵、ザクセン兵、ヘッセン兵等々がいた。彼らはドイツ人として行動した。記念演説は諸邦独立主義と伝統を尊重する。それは同時に統一的であり、かつ、新しい政治体系を帝国と祖国の体系の正当化に利用する。プロイセン衛兵の犠牲は国家統一の母胎のひとつであった。だからこそ1870年に関する演説は政治力、すなわち新世代に対して帝国創立者の業績を思いださせ、皇帝信仰を正当化する力であった。皇帝は第一に勝利した兵士である。小学校では1870年の諸事件は歴史の論理的な帰結として教えられた。ヴィルヘルム一世、ビスマルク、モルトケは生前のうちにドイツ英雄のギャラリーの中に入った。彼らは、シャルルマーニュやフリードリヒ=バルバロッサが垣間見たところのものを完成させたのだ。偉大な名前の傍らに無名の多数の兵士がいた。戦場で危険なめにあった彼らは忘れられてはならない。演説よりも詩歌のほうが彼らを記憶に固定するのに効果があった。教科書には戦争詩が大きく扱われていた。もっとも象徴的なのがフェルディナン・フライリグラートの「ヴィオンヴィルのトランペット」である。
フランスではポール・デルレードの「兵士の歌」が同じような幸運に恵まれ、長いあいだ人気を博し、再版を重ねた。これらの詩歌は、ジュール・フェリーの干渉により公立学校の教科書から除外された。1918年まで、カトリック系学校では使われていた。
記念事業は軍事と宗教の密接な絡みあいを示す。この当時、僧侶と兵士はつねに交流があった。併合されたロレーヌでは最も有名な事業は、メッス戦で戦死したフランス兵の名誉のためのミサだった。これはメッス大聖堂で毎年98日におこなわれた。婦人グループ、メッスの貴婦人たちがデュポン・デ・ロージュ猊下の請願の成就に臨席する。礼拝式と祈りは死者のそれである。祭式執行者は黒い衣装を着用し、内陣では黒布で覆われ、三色旗で飾られた霊柩台は死者を連想させる。ドイツ軍は政治的意味合いを出さないのを条件として、この行事の挙行を1914年まで許した。
 フランスではこのタイプの宗教的儀式において軍人は名誉ある席に列席し、クレープに覆われた三色旗が霊柩台を取り囲む。元兵士は古い軍服を纏う。平和と希望を求める誓約は多かれ少なかれ強調された愛国的色調をもつ。反教会闘争の最も盛んなときは祖国が現在の闘争の上に位置することが強調されるのがつねであった。ひびの入った団結が復元されるのは祖国のまわりにおいてである。政治的意見の違いを超えて、死者の信仰を引き寄せる1870年の思い出は国民的共同体の団結の象徴であった。
元兵士の埋葬儀式が礼拝式の仲間入りした。フランスでもドイツでも、教会または礼拝堂はこのとき国旗と出陣旗で飾られる。音楽と楽器演奏が戦争の雰囲気を醸しだした。

 
第4章   証言と戦記
 
フランスでもドイツでも何千という書物が出版された。1870年は出版社にとって長い間確実に価値ある年であった。
文学作品と同様、発行部数を知り、普及の具合を評価する必要があるだろう。普仏戦争に関して他の世界より感受性の強い世界が存在した。それは軍人家族や元兵士の家族である。1910年、すなわち事件から40年後、すでに60才から70に達した元兵士らは潜在的な購読者としてなお数多いた。出版社の刊行物やカタログは、興味をいだく公衆の存在を示す。いずれにせよ、ただ単に購入の時期だけを問題とするのは危険であるだろう。しかし、ほかに購読と精神の浸透を評価する手段はあるだろうか。 
1870年の思い出はこれらの多数の出版物によってどのようにして維持され、覚醒され、考察され、歪曲されたのだろうか。答えは単純ではなく、階層・世代・偏見により回答はきわめて多様なものとなろう。問題は1875年と1910年は同じような条件で問われているのではない。事件から遠ざかれば遠ざかるほど、教育が思い出のヴェクトルとして大きくなる。
ドイツ参謀本部の公的歴史書はきわめて迅速に起草され、続々と出版された。それは1875年以後、精細にして体系的な、ドイツ軍の戦略的展望において細かな歴史書として刊行された。フランス語に翻訳され、それは叢書および参考図書となった。フランスの軍当局はこの種の本をまったく刊行しなかった。唯一の大規模な出版物を挙げるとすれば、1904年から1910年にかけて出版されたレオンス・ルッセ中佐の正直で完全な戦史である。ボナル、フォッシュ、ルオクール将軍らの作品はより技術的で、陸軍大学で作りあげられたスタイルのものだった。
軍司令官やほとんどの将軍らも出版した。回想録に値しないものも含まれていたが、少なくとも彼らが指揮したか、あるいは巻き込まれた戦闘についての記録ではあった。彼らは事細かに作戦を説明する。そのなかで彼らの部下の元兵士が姿を現わし、それゆえに長いあいだ完全に読むに堪えないものとなった。それらの本は、依拠資料、雰囲気の記述、自己正当化の気遣いゆえになお貴重な価値をもつ。完全に年老いてから(1888年)書かれたモルトケの回想録は指揮下の参謀部の物語だが、全体的展望を与える点でこのタイプの作品としては稀有なもののひとつである。モルトケは、実際そうであったよりも戦争をより合理的に見る傾向があった。スダンとパリ攻囲を除き、モルトケは戦闘の現場目撃者ではなかったことを想起しよう。もっとも興味深い資料はブロンザール・フォン・シェレンドルフの日々の「日誌」であった。彼はドイツ参謀本部の「半神」のひとりだった。だが、その死後出版(1954年)はほとんど世間の関心を集めなかった。
1914年まで多くの将校が自らの証言をもたらした。価値と面白さの点で開きはあるが、アルザスの戦い、メッスとパリの籠城戦、ロワールの戦い等々に関する大量の著書が出版された。これらの出版物における専門の編者はきわめて豊富なカタログをもつ。フランスではベルジェ=ルヴロー、ラボゼル、シャプロ、ル・ダンテュがそれらである。『二つの世界』誌、『パリ』誌、『ル・コレスポンダン』のような大雑誌において、戦史と政治的、軍事的考察が豊富に展開された。新聞においても同様である。記念日や記念祭に際しては非常に事細かな記事、戦史、未発表の目撃談が見いだされた。重要なことは、それらが再録だったり主張だったりしてオリジナル性に欠けている点である。東部地方ではしょっちゅう新聞が1870年に関して取りあげた。たとえば、1914年の初め、『共和主義の東部』(ナンシー)はおよそ2ヵ月間のコラムでエミール・シャンリオの「ロレーヌにおけるドイツ軍占領」を取りあげた。
多くの書名を引用することができる。回想録・目撃談・歴史書のなかで、一つだけディック・ド・ロンレーの戦史を取りあげよう。この戦史は挿画が多く、光景ないし悲劇的場面における挿話がふんだんにあり、読んでおもしろい作品である。これは長い間ベストセラーとなった。1914年までこれら出版物の数は増える一方にあった。遊動隊長、アルジェリア歩兵隊長、軍司祭、捕虜らは自分らの思い出を書くか、さもなければ所属軍団の行軍日誌を書いた。しばしば子どもたちが父からの戦場便りを出版した。誤りと憶測の一杯詰まった、これら細分化された証言録は一方で掛けがえのない詳細をもたらした。これは戦闘員の立場から見た戦争である。行軍、ビバーク、命令受理とその執行等々。兵士は眠り、食べ、待ち、戦い、しばしば負傷するか捕虜となる。辛苦と死、雨と寒さ、民間人との接触、敵との出会い、これらあらゆる出来事が戦争の日常茶飯事であったのだ。
戦史書について仏独では明確に異なった2つの国民性が見られる。いずれも同じ期待と同じ偏見をもっていなかった。だからこそ、ほとんどの著書が軍事専門家のためのドイツの技術に関するものを例外として翻訳されなかったのである。フランスの大衆に対して提起された著書のなかで『モルトケ回想録』、コルマール・フォン・デア・ゴルツの『ガンベッタとその軍』、ジャーナリストで軍事評論家のカール・ブライプトロイの幾つかの小冊子、クライン牧師の『フレッシュヴィレル通信』が含まれる。カール・ブライプトロイの小冊子はモルトケの人と役割に関する慎重な批判に着手する。1876年に刊行されたドイツ語初版はかなりの成功をおさめ、再版を重ねた。『フレッシュヴィレル通信』の書名でのフランス語版は三版を重ねた。『過ぎ去ったシーン』の最終版は1914年に出版された。フランスの作品のドイツ語版に関して考察がなされるべきであろう。ここでは一例としてポール・デルレードの『日誌』を挙げておこう。これは1876年に出たものだが、ドイツ語版は1907年に出た。
最後に戦場査察旅行がドイツで社会的流行となった。これは編者の関心の的となる。元戦闘員協会は主としてアルザスとロレーヌの戦場巡礼を組織した。幾人かはブルゴーニュ、ロワール河畔、パリ近郊まで出かける。クロッキーまたはカードでの戦場ガイドブックが1890年から1900年にかけてまずドイツで、ついでフランスで出版された。これは驚くべき幸運を約束する部類の始まりであった。

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