matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

歴史学エッセイ

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全98ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

485. 「持ち逃げ」のおそれ
【質問】
業務委託(コンメンダ制)は当時にしてみれば画期的なことだと思うが、持ち逃げなどの詐欺行為はなかったのか? ふつうに考えて、どんな関係性においても借りた金を持ち逃げされるリスクを完全になくすことはできないはずである。持ち逃げを思いとどまらせるような実利的なインセンティブはあったのだろうか?
手形などは信用関係がなければ成り立たないものであるため、どうやって普及させたのだろうか?
 
  【回答】
 この論考に見られるような持ち逃げに関する危惧を何人かの受講生が表明していた。筆者は「手形などは信用関係がなければ成り立たない」と言う。まさにそのとおりであり、信頼のおけない者におカネの運用を任せるようなことは考えられない。また、この信用というものは、普及しようとしても簡単にできることではない。だとすると、どういう条件のもとで普及したのだろうか。
危険を冒してでも金銭の増殖にありつきたい強い願望をもつ者の存在が前提となる。しかも、この者にとっては利殖のために業務委託以外の方法を見つけることができないことが条件となろう。そして、彼の強い願望の実現を手助けする状況が整っていなければならない。たとえば、戦争切迫のような不安状態のもとでは商業取引はすんなりいくもではないだろうから、平和であることが望ましい。また、インフレやデフレがなく貨幣の価値が変わらず購買力が一定していなければ、貨幣での取り引きはこわい。インフレやデフレが横行すると、人びとは貨幣を持ちたがらず、むしろモノを持ちたがる。これらが第一の条件をなす。
そして、日ごろから見知っている商人への信頼感があることが第二の条件である。商人が旅から帰ったときに正直かつ正確に会計報告をなすことが前提になるのである。この条件が揃わないかぎり、業務委託制度は成り立たないだろう。貸主側がカネを商人に委託する際に安全のためになにがしか担保をとることも当然考えられるが、もしそうなると、利益が出た際にその4分の3をも貸主が取得することはできないことになるだろう。なぜならリスクが小さすぎるからだ。
中世ヨーロッパでは上記の2条件が揃っていたのである。銀行制度や為替制度もまだ完全なかたちでは備わっていないもとで、これ以外に投資の方法はなかったのでる。
 ここで、抵当付き金貸しについてこれまで不問に付してきた事柄を一つだけ付け加えておこう。抵当を取ったうえでの金貸し行為は教会組織の一部である修道院がしばしばおこなった。これを見た教皇庁は禁止を命じている。「聖書」「利をとっての金貸し行為は許されない」と明記されている以上、カトリック教会組織はこのタブーを破ることはできなかったのだ。必要とタブーの矛盾を突いたのがユダヤ人による高利貸しである。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)


484. 中世において資本主義が頓挫しなかった理由

【質問】
なぜ中世ヨーロッパでは資本主義の萌芽が潰えず、古代では失敗してしまったのか?
 古代ローマは一時期、資本主義の萌芽のあったラティフンディア制が帝国中に広まっていた時期で、古代資本主義と呼ばれる。これは奴隷制にもとづいていたため、「ローマの平和」が保たれるようになってから衰退する。奴隷制のはらむリスクの高さもそれを助長した。
 中世ヨーロッパで資本主義が挫折しなかった理由は3つある。
 1つ目が奴隷制でなかったことである。奴隷は初期投資が高いが、突然死や暴動などによって投資を回収する前に農園主の手元からいなくなることもある。労働意欲の湧かない環境なので効率も悪い。
 2つ目が貿易の進展である。古代ローマでは季節風に頼ってしか航海できず、羅針盤などの諸技術がない。中世にいたってからは庶民も東方の産品を消費できるほどになった。
 3つ目が中世ヨーロッパで一度も統一国家をもたなかったことである。たとえ一国が資本主義の進展を阻害したとしても、ヨーロッパ内の他の国では阻害されない。(中国の不幸はここに発し、日本の幸運もここから発する。)
 共産主義が広まるかどうかもこれらの理由いかんに起因するのかもしれない。
 
【回答】
 経済史に関する基礎知識を修得したうえでの叙述になっているところがよい。単なる出来事の編年的な羅列に終わらせることなく、一定の学問的視点および軸を据えて出来事を整理しながら問題指摘に結びつけるという質問者の叙述法は優れている。しかも、筆者においてはいつものことながら、10分程度の短時間でコンパクトかつ正確に表記するのもよい。
上掲文で筆者は中世ヨーロッパと古代社会を比較し、資本主義が古代において頓挫したのにもかかわらず、中世では継続し近世近代への橋渡し役を演じたという問題意識で臨む。筆者の叙述内容は大筋として当たっているとまず言っておこう。
 以下は評者のコメントである。ここでは古代社会の「資本主義」をどう見るかという観点から、ラティフンディウムの解体過程についてのみふれることにしよう。
 古代社会ではギリシャ=ローマ史の初期からおこなわれており、戦争や異民族との交流によってしだいに盛んになった。貨幣経済の開始期に同じ市民団の成員のなかで債務によって一方が他方の奴隷となるという形態が生じたが、これを防いで市民共同体を守ったのがアテネのソロンの改革、ローマではBC4世紀末のペテリウス=パピリウス法である。その後は戦争の捕虜や、奴隷市場で購入される異民族の捕虜を奴隷とするのが通例となった。
 大規模な奴隷使用はBC5〜4世紀のアテネの商工業や鉱業において、またBC2〜1世紀のイタリアの農業において見られる。ローマではこの頃、富裕市民が大土地所有Latifundium で奴隷の大規模使用をおこなう反面、無産市民が多く出ており、奴隷使用は市民団の解体に拍車をかけた。しかし、無産市民も市民団の成員であるかぎりは自負心旺盛で政治人としての関心が強かった。一方、奴隷のほうはシチリアやイタリアでBC2世紀からBC1世紀にかけて奴隷反乱が相次ぎ、ローマ社会に衝撃を与えた。
 AD1世紀頃から奴隷制は衰退に向かう。マックス・ウェーバーはその原因を「ローマの平和」による奴隷供給の途絶に求める。すなわち、征服地がなくなり奴隷の供給が減少したために奴隷の追加補給に支障を来し、そこから奴隷に財産を与えたり家族を構成させたりして労力の確保につとめ、こうして奴隷ではなくコローヌスと呼ばれる生産活動の担い手が誕生したという。
 しかし、この理解は一面的である。この頃になるとローマ社会における奴隷への需要も実は減少しつつあった。奴隷使用にはいくつかの不利な点があった。まず監督が必要であり、監督不届きの場合には反乱や逃亡が相次ぐ。また、奴隷は勤労意欲が乏しく、仕事が粗雑で商用作物や工芸品の製造には不向きであった。こうして、BC1世紀ごろから大土地所有では奴隷と並んで小作人の使用が一般的となった。やがて小作人が土地所有者に隷属性を帯びる傾向が見られ、他方では奴隷があたかも小作人のような状態になっていき、これらの傾向が進んでAD4世紀になると、コローヌスが一般的となる。
 コローヌスは奴隷ではないが、移動の自由を禁じられ、現物の地代を納め、地主に賦役を提供するなどの点で自由な小作人とはいえない隷属的な条件を負わされている。コローヌスがローマ帝国全体を通じて、農業の直接生産者として主要な地位を占めるところに古代末期の社会の特質が見いだせる。
 さて、ラティフンディウムを「資本主義」と見なせるかどうかだが、それはまさに「資本主義」をどう定義するかにかかっている。ゾムバルト「古代資本主義」という呼称を使っているが、所有者と無産の直接生産者という2区分で生産機構を見るとき近代の資本主義の擬制と見なすこともできるが、奴隷使用をそもそも「労働する」と見なさず家畜の使用と同じだとすると、そうした2区分は不適切となる。たしかに、奴隷は財産権も人権も家族構成権ももたない存在であり、いっさいの自由をもたない。近代の労働者のように自分の労働力を切り売りする自由さえもたない。一切合切が所有者の意志に任されているのだ。これについては以前にもふれたことがある。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)


483. 金銀があるのになぜ証券が使われたか?

【質問】
中世において手形など為替取引の発達した背景にはやはり商業の拡大があると思う。しかし、手形などはいくら信用があるといっても只の紙切れであり、それとは対照的に金・銀は価値が保証されている。したがって、そういったものを持っている王や貴族が自国でそれを使い流通させれば、経済的に安定したのではないだろうか。それとも、やはり権力を維持するために手放さなかったのか?
 
【回答】
 上掲文には現代的価値観が表れている。つまり、金銀のように普遍的価値をもつものを王侯貴族が独占しないで流通させれば、財の循環になんら問題を生じなかったのではないかとの疑問がそれだ。この疑問を解くためには、それに先立つ諸前提が吟味されなければならない。すなわち、質問者は上掲文で下記4つの命題を自明なこととして捉えているのだ。
1)金・銀は普遍的な価値が保証されている(と皆が信じている)
2)金・銀はそれをもつ者の意思次第で自由に手放せる
3)金・銀は当該社会が必要とするだけ自由に供給しうる
4)金・銀を流通させれば、デフレやインフレを生じることなく社会は安定する
 ここまで整理してくると、質問者が考えるほどに経済のメカニズムは簡単でないことがわかるだろう。詳しくは本授業の貨幣を扱う箇所で述べるつもりだが、貨幣取引や信用取引を含む金融は人類史に普遍的な難問でありつづけたのである。今なお、ドル危機や為替の乱高下のかたちをとって貿易における攪乱的要素をなしている。つまり、上記の4つの命題は自明の真理であるどころではなく、いつも人類にとって《手に負えない》暴れ者でありつづけてきた。いずれ授業で取り扱う予定なので、ここでは上記4命題について結論的所見のみを述べるにとどめたい。
1)金・銀は太古の昔から交換手段としてあったのではない。物の取引では現物交換が原型である。やがて貨幣が登場するが、貨幣の原初形態は金・銀であったのではない。貝殻や木片であったりする。
2)金・銀は採取・採掘されしだい、全部が貨幣になったわけではない。装飾物および権威の象徴としての役割を果たし、貨幣のかたちをとってもしばしば流通から引き揚げられ隠匿されたりし、流通しているうちに磨滅によって常に減りつづける財であった。たとえ王侯貴族がその持ち主になったとしても、彼らはそれを独占したい願望こそあれ、抵当流れなどのよほどのことがないかぎり手放そうとしなかった。彼らはつねに戦費調達や乱費支出のせいで金・銀を調達または横奪しようとする衝動に駆りたてられていた。
3)金・銀ほどに需要と供給のインバランスが顕著であった財はない。必要に応じて供給量を増やすことはできなかった。よって、金・銀があり余ることは滅多になく、貨幣史の全体を通してほぼ慢性的に不足してきたと考えて差し支えない。時折、どこかで金銀鉱山が発見されることにより、貴金属貨幣が出まわり経済的好景気を促すこともあった。
4)上記(3)の状況から生まれてくる事態は、金・銀の慢性的不足が人類をつねに価格変動特にデフレでもって悩ましつづけた。金銀の過度の不足のゆえに紙幣や信用証券が発行されるにいたったが、そうすると、今度はインフレが世を悩ませることになった。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)


482. 歴史教育のあり方

質問】
「世界史は難しい」といわれるが、現代人の感覚から学びやすいように、「現在 → 過去」へと遡って考察する授業法が日本でなされないのはなぜか?
 
【回答】
 質問者の慨嘆は当然である。「世界史」世界史」に限らず、歴史一般がそうだがはどのようにでも描ける《いい加減さ》をもつ科目であるにもかかわらず、威風堂々と「大道を歩む」学問として扱われるのはいかがなものかと思う。つまり、歴史は歴史家の描く物語の一種にすぎず、当然、歴史家は自分の拠って立つべき立場(現在)を離れることはできない。だから、歴史家は特定の問題意識(歴史観)もっていることを公表したうえで自らの意見を開陳すべきである。ところが、実際にそうなされることは少なく、「過去 → 現在」の編年体で書かれる。当然、つながりは因果関係で示される。何を「因」とし、何を「果」とするかは意見が分かれて当然であるのに、そうしたものへの躊躇や配慮はなされない。
そこにきて、国家権力が「教育」または「公」という名で、あるいはカウンター勢力としての反体制派が“民主主義”を旗標に教科書検と教育現場に介入する。そこで、不可避的に紛議が起こる。その紛議・摩擦の調停策として結局は無難な《骨皮だけの》いうならば、英雄・事件・年号だけをズラッと無味乾燥に並べただけの固有名詞の羅列になる。時に、今日のマスコミに代表されるような、政治プロパガンダ然とした歴史教育になることさえある。こんな状態のなかで生徒(学生)の興味を惹くことは期待できない。なぜその事件が大事なのか、そして覚えねばならないかを説かないかぎり、若者に好奇心を催させることにつながらない。
評者は歴史教育のあり方についてこう考える。すなわち、公権力も反政府勢力も(この中に教職員組合も含まれるであろう)一歩退き、教科書や教育方法は歴史学会の管轄下におくことだ。中立性と公平性が担保されないかぎり、押しつけは避けられないだろう。専門の歴史家であれば、自制することに慣れているし、多様な意見に寛大な態度で臨む(臨まねばならない)ことも十分に承知している。
 もし「現在 → 過去」の逆行的方法が許されるならば、史観の呈示は不可避とならざるをえず、したがって歴史像の多様化は避けられない。それは好ましい現象であるにもかかわらず、面倒な問題が生じるのは、そうあっては困る人間がこの世にいるからだ。

 私はいつも ―「世界史の方法」の授業で― 主張しているのは、歴史教育は方法論といっしょに教えるべきだということだ。ひとつの歴史的命題については、その対極に位置する命題も同時に示すべきである。もちろん、それぞれの所論の拠って立つべき基盤を明らかにしなければならない。多様な見方があってこそ、そして、あらゆる意見の表明が許されてこそ、歴史学は科学の仲間入りをするのである。

科学的研究で不可欠なのは多様な意見を受け容れることである。それをひと言でいうと、「寛容」の精神となるだろうか。これは何かに通じ、知り、改めるに際して重要な徳目である。異論を謙虚に迎え入れ、たとえ99パーセントは同意できない見解についても、その中に1%の摂取すべき要素を見出せば、それから何かを学ぼうとする精神、これこそが「寛容精神」の核心部分であり、そうした精神状態をもち続けていれば、個人はむろん社会にとっても進歩・上達はまちがいない。
何か新しいものを取り入れようとするとき、その代償に何かを失う危険性を伴うのは避けられない。しかし、それを慮るあまり無為に過ごしてしまうのはよくないのは当然だが、もうひとつ考慮すべきことがある。それは、むやみやたらな対立を煽るのではなく思考の段階で対立や葛藤はあってもいっこうにかまわないが実践躬行を尊重する見地に立って、新旧の対立要素を両立させるべく考えぬくことも大切である。All or nothing「刷新」の心がけはそれこそ立派だが、それを本当に実現するのは至難の業である。悪くすれば、すべてを失う危険さえある。旧き要素を生かしつづけつつ、漸次的改良を試みる努力を捨て端から顧みないのは惜しいかぎりである。過去とは簡単に遮断してしまわないことだ。じっさい、歴史は新旧要素が折り重なる網目のかたちで展開するのが通例である。
「新旧」の対立を論う ( あげつらう )とき、無意識のうちに「善悪」を判別している場合が多い。つまり、旧きものは「悪」で、新しきものは「善」である、と。ところが、人間社会の変化を問う際、「善悪」や「好悪」の価値判断で割り切ってしまうのは危険千万だ。「善悪」を口に出すこと自体の中にすでに結論が想定されていることが多い。つまり、「善」を取り、「悪」を捨てよ、だからこそ本説に耳を傾けよ、と。よって、「善」とか「新」とかを問う際、それ自体が一つの考え方特定のイデオロギー的基礎をもつ思考にすぎないと見なすべきである。
 教育現場ではある結論を「正解」としてすぐさま提示するのではなく、生徒たちに問題を与え、疑問を喚起することを目的としなければならない。生徒たちによるパネルディスカッションをやるのも一法であるし、複数の教員がそれぞれの見解について相互的な議論をたたかわすような討論会形式をとってもよいのではなかろうか。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)


481. 一方通行の文化的伝播

【質問】
ヨーロッパはイスラムから学んだと推定される事柄(ここでは金融取引法)について事実を認めようとせず、ヨーロッパ起源であると主張したがるのは、ヨーロッパ人が自分たちの優位性を保ちたいからか? 結局のところ、現在も世界には欧米の優位性が根強く残っているように感じる。
 
【回答】
 筆者の推理のとおりだと思う。かつて「生徒」であった者が、長ずるにつれ「先生」気取りになるのは世の習いといえるかもしれない。遠くは中国とその周辺のアジア諸国との関係、近くは欧州と合衆国の関係、欧州と日本の関係、ごく最近の例としては日韓の関係にもそのような傾向が見られる。その時代の国際政治の覇者があらゆる面におけるオリジナリティ創始者を主張するよう変わっていくのだ。歴史も自国(自地域)が出発点である、というふうに。
 問題はヨーロッパとイスラムの関係である。これは前にもふれたように、明らかにイスラム文化がヨーロッパに伝播するという一方的な関係にあった。しかし、ルネサンス期を境に認識に逆転現象が見られるにいたる。
通説によれば、ヨーロッパ文化はギリシャ=ローマの古典文明の直系であるというのが西欧の歴史家たちの伝統的見解であった。この説に従うと、古典古代時代の著作家たちの業績― 主にラテン語、一部にギリシャ語 ― はローマ帝国の没落以降の数世紀にわたり教会で保存され、中世後期からルネサンスの時代にかけて想像力を刺激する強力な源泉として再登場した。古典文学がヨーロッパ思想に強い影響を与えたことを否定する者はいないだろう。例を挙げるなら、ホメロス、ツキジデス、タキツス、ヴェルギリウス、ホラチウスなど。
 しかし、異説も登場した。チャールズ・シンガーは『技術の歴史 History of Technorogyの第2巻のエピローグで、ギリシャ=ローマの遺産の多くはオリエントの偉大な諸文明を基礎にしており、ヘレニズムとローマの起源とされている主要な成果は主としてエジプトとシリアの学者や職人によるオリエントの所産である。スペインから中央アジアとインドにいたる地域のイスラム化以前の文明はイスラムによって継承され、イスラムとアラビア語の影響のもとにこの地域の科学と技術は発展し改良されていった。シンナーは言う。
  「ヨーロッパは巨大な大陸アフラシアから伸びている小さな半島にすぎない。これが地理的地位であり、少なくとも13世紀までは全般的に見てその技術的地位でもあった。… オリエントは西欧に勝っていた。… 技術のほとんどすべての分野において西欧が利用できる裁量品はオリエントの製品であった。…技術的に西欧が東方にもたらすものはほとんど何もなかった。技術の移動は逆方向を向いていた。」
その証拠として語彙(アラビア起源)に多数残っている。モスリン、サーセネット、ダマスク、タフタ、タピーなどの織物類、アーセナル(兵器廠)、アドミラル(提督)などの軍事用語、アランピック(蒸留器)、アルコール、アルカリなどの化学技術、シュガー、シロップ、シャーベットなどの食料品、サフラン、ケルメスの染料、モロッコ、コードバンの皮革がある。科学の問題に関するアラビア語の著作が中世後期にラテン語に翻訳され、12世紀のトレド注:マドリードの南にある古い町]の翻訳学校はこの活動の著名な例で、ここでは数百冊の著作がラテン語に翻訳されている。しかも、その翻訳の作業に携わったのがユダヤ人というあんばいである。
自然科学やその実用化の面でイスラムの絶対的優位は動かない。しかし、今一つはっきりしないのは商業技術の分野である。バザーリ(市場)やキャラバン(隊商=巡回商業)の用語に示されるように商業の面でもイスラムがヨーロッパに影響を与えたことはまちがいない事実だ。そして、授業でもふれたように、貨幣や信用証券や為替もイスラム世界にある。しかし、その起源がイスラムなのか、それとも逆にヨーロッパ技術の伝播なのかははっきりしない。フィレンツェに代表される高度の金融技術は最盛期のイスラム世界でも見られないのは事実だ。これについては小生の課題とさせていただくよりほかはない。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

全98ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事