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2011年03月18日
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日本の3.11.災害と音楽
ニューヨークが9.11.ならば、今回の東日本大震災は日本の3.11.だろう。私も湘南地方に居て、被災はしなかったものの、マグニチュード9.0を実感した1人だ。
自然の気まぐれで、もう少し震源地が南に偏っていれば、私もあのまま瓦礫の中に埋もれてしまったのかもしれぬ。
私はこの歳になっても神の存在を知らぬ不肖者だが、これだけ広範囲にわたる災害に巻き込まれなかった幸運について、感謝の気持ちを持たざるを得ない。
無念にもこの世を去ってしまった同胞に、深い哀悼の意を表する。
東日本だけではない、日本各地で物流が滞っているために食料品、ガソリンなどの品不足が起っている。品物が無いとなれば否が応でも買いあさるのが人間の浅ましさだろうか。昔、我々はオイルショックの時、トイレットペーパーを買いあさった愚かさを学習したはずなのに、ここにきて同じ過ちを犯している。
石原慎太郎都知事は今回の地震を、日本人の我欲による天罰だと放言して物議をかもしたが、ポピュリズムを語るには不適切な言葉だった。彼の言動はこのところ少々的外れなものがある、これも加齢のせいか。
川崎ミューザの天井落下のせいでもあるまいが、災害が起ると催し物を自粛するのが慣例になってしまった。この問題の奥には、音楽などに対する日本人の認識の浅さが浮き彫りになってくる。
音曲、それは囃子であり、浮かれた状態であり、到底、災害時に行うべきではない不謹慎な行動だと云うことになろう。
外国では死者を墓場へ葬る葬儀の列にブラスバンドを使って弔う慣例があるのをご存知だろう。日本に於いても浄土宗の葬儀などは派手な鐘太鼓の鳴りものが使われる。
死者を送るのに音を出すのはもってのほかと考え、出来るだけ目立たぬよう卑屈に辺りを伺う人間性、この自信の無さが、ひとたび豹変すれば品不足の買いあさりに走る行動に繋がる事になるのだろう。
モーツァルトのレクイエムを聴いているだけで、死者の魂に近づける気持ちが湧いてくるのは私だけではあるまい。
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