=美声承り候=
009:美声で歌おう(4)
前回お話しました跳躍の技術、つまり息の圧力や勢いで高音域を歌うのではなく、声帯の操作で高音域を歌う試みは何故必用かと云えば、息の圧力や勢いで高音域を歌えば、当然音は大きくなり怒鳴り声の様な乱暴な声になるに違いありません。高音域を大声でしか歌えないとなれば、それは最早歌ではなく単なる叫びでしかないのです。歌は高くても小さな声で歌わなければならない場面に多々遭遇するもので、例えばヴェルディのオペラ「オテロ」の4幕で歌われるデスデモーナのアリア「アヴェ・マリア」などは最後の高音部を絶叫したのでは全くその存在意義すら無くしてしまうでしょう。
このブレスの勢いや圧力で高音域を歌い、声量を増やす技術に長い間捕われていたのが我が国の声楽技術の発展を阻んだと云っても差し支えありません。声は目視出来ぬものですので具体的な形や状態を受講者側に示す事が出来ず、つい指導者が思いついたイメージを利用して受講者を指導する格好になり勝ちです。例えば口腔内の容積が広がれば声はより良く響くには疑いの無い事ですが、口腔内の容積を拡げるために「目の奥を明るくしてごらんなさい」とか「もっと頭を開いて」などのイメージを提供します。これでは受講者がますます混乱に陥る事は明らかで、もっと科学的、普遍的な指導法で事に当たらねばならないのは当然の事でしょう。どだい自分の描いたイメージと云うものは全く同じものが他人に伝えられるものではない事は例えば「あお」と云っても「海の青」なのか「空の青」なのかはたまた信号機の「青」なのか、伝わり難いのがイメージのアキレス腱でもあり、口腔内の容積を拡げるためには口蓋垂筋や口蓋汎挙筋を使って軟口蓋を引き上げる作業に掛かれば良い、そのためには眉を上げ、瞳孔を拡げればこれらの筋肉は可動するのを伝えれば事足りるのです。
確かにクラシック音楽の歌唱技術は難しく難解です。指導者曰く習い事は忍耐と努力、声の勉強は一生のものだと諭すに違いありません。しかし問題の本質はそんな所にあるのでしょうか、クラシック音楽の歌唱技術が難しいだけではなくクラシック音楽の歌唱技術
の伝承方法が確立されていると誰が云えるでしょう。寧ろ声楽教育の教育法に問題がありはしないか、歌のお師匠さん達は自分の教え方の拙さを弟子の才能の無さに転嫁しなかったと誰が云えましょう。自分の歌の師匠の笑い話にこの手のエピソードが数多く語り伝えられるのもこれらの事情をシビアに言い表しているのではないでしょうか。
ここまで言い切れるのも現在に至るまでのクラシック音楽の歌唱法が息に頼り過ぎた旧態依然たる教育法であったのを見抜いてしまったからに他なりません。息は飽く迄も音声を生むための手段であり、音声自体は人の声帯によって生まれ形成される原則を無視するわけにはいかないのです。声を水道に例えてみますと、水道は或一定の水圧によって管理されています。言い換えれば声も或一定の圧力の息が必用であり、例えば声量を増すときに圧力を上げたり急激な息の増量を計ったりするでしょうか。水道の水量を増やす為にわざわざ水道局に頼んだりはしないで、自分の家の水道の蛇口を捻れば良いだけの話なのです。声量や声の響きのコントロールはまさにこれと同じ、声帯のコントロールを会得しなければならない事に気付くべきでありましょう。