横浜シティーオペラ公演「魔笛」横浜シティーオペラ公演「魔笛」
久しぶりにオペラを観に行きました。
演目は横浜シティーオペラ公演の「魔笛」です。
横浜シティーオペラは二期会、東京室内歌劇場、藤沢市民オペラなどに次いで出演回数の多かったオペラ団体の一つでしたが、私にとって特に印象に残るのは、2003年横浜シティーオペラ公演「こうもり」で演じたフランク役が、私の1963年から此処までの40年に渡るオペラ出演の引退に当たる公演だった事でしょう。
本当に久しぶりでしたが、横浜シティーオペラの共演者たち、大学の同僚、大学の教え子達、それぞれから暖かい歓迎の言葉を受けたのも予期せぬサプライズでした。
ポスターを見ていただければ分かる事でしょうが、ベテラン、中堅、新進のキャスティングが織りなす歌唱力、芸達者の共演には思はず笑みがこぼれてしまいましたが、中でも特筆すべきは夜の女王を演じた針生美智子とタミーノ役、倉石真の高度な歌唱技術でしょう。
と言うのもモーツァルトの音楽の特性と言うか特徴は、モチーフや旋律の躍動感と美しさが声楽的な範疇を超えた器楽的奔放さと自然さが共存し、これらを的確に表現するには、従来の様な音の強弱や長短などに頼る歌唱技術だけでは間尺に合わなくなっていると感ずるからなのです。
例えにパパゲーノアリア「恋人か女房がこのパパゲーノに」を用いてお話をする事にいたしましょう。
前奏を聴く限りグロッケンシュピールを用いたオーケストラは明るく闊達なアリアであるのが予想されます。ところが2/4拍子で書かれたこの曲の8分音符にスターカットを付けて歌うだけでは器楽的演奏としては成り立つかもしれませんが、ここにはEin M?dchen oder Weibchen W?nscht Papagenosich!と言う歌詞がついているのです。
始めの8分音符Einはスターカットでも十分表現できましょうが、次の二つの8分音符からなるM?dchen、更に次の二つの8分音符oder、次の付点16分音符と32分音符に書かれているWeibchenをリズミカルに短く歌うだけで済まされるものでしょうか。モーツァルトが持つ器楽的な旋律の奔放さにドイツ語としてのアクセントやイントネーションを同期させる事によって、初めてオペラとしての作品の完成度の高さがあるのだと思うのです。つまりM?dchen やoderやWeibchenに言葉の存在感を持たせる事により器楽的なモチーフと声楽的な言葉としての馴染みを同期させなければなりません。
その為に必要な歌唱技術というのは単に長短や高低で選り分けられた発声技術ではなく、繋がっている様に感じさせるスターカットの唱法であり、更に言えばブレスの圧力や呼気の量に任せて無神経に吠えまくる大音量の声は、到底使い物にならぬという現実が見えて来るのです。
モーツァルトの特徴でもある突然のsfや音の跳躍も飽くまでも物理的な音の大小ではなく、人間の心を表したsfや、何らかの意味を持つ音の跳躍と考える事が出来るようになれば、それなりの歌唱技術を身につけなければ到底モーツァルトの音楽を表現するには至らぬのが理解される筈です。
従って前述の音の分離とレガートの問題やsfやp更に突然の音の跳躍などは従来考えられていたブレスコントロールによる処理ではない、もっと斬新な技術を持ってかからねば解決の道は程遠いと言わねばなりません。
皆さんもご存知の様に人の音声は息が声帯を通り抜ける時に生ずる声帯の振動によって生まれます。確かにラッパなどを考えてみてもfを演奏する時には息の圧力と量は増えるでしょうが、と言って闇雲に量を増やせば却って音は掠れてしまい、圧力を掛けすぎると本来の美しい音色は出ず、雑音の混じった威圧的な音が生まれてしまいます。
人の歌声もまさにラッパと同様で、強い声を出そうとすれば本来の美しい音色を失い、濁声と呼ばれる威圧的な声となり、声量を増そうとして必要以上の息を声帯に送れば寧ろ声帯は閉じる事なく掠れた声が生まれる事でしょう。
この声量と息の量の微妙な兼ね合いを計りながら自分の歌唱技術を維持するのはブレスコントロールを悪戯に複雑化し自分にストレスを溜めてしまう結果に繋がるのでしょう。人間は元来大きな声を出して相手を威嚇したり、遠くの人に呼びかける為により高い音声を駆使ししたりする属性を持った動物である事が歌唱技術にも付き纏うために、ブレスコントロールと言う誤った概念が技術の促進を阻害しているのではないでしょうか。
ブレスコントロールに頼らぬ音の大小や高低、長短、それは声帯自身のコントロールによるものと考える事は出来ないでしょうか。いっその事ブレスコントロールを止めてしまいましょう。ブレスに頼る従来までの歌唱技術の常識を声帯コントロールによる歌唱技術に発想の転換を試みては如何でしょう。
声は声帯が閉じられ、その隙間から流れる息によって振動が生じ音声が生まれる事は既に述べました。声帯には粘膜で出来た声帯靭帯、声帯筋とも呼ばれる声帯靭帯を覆う声唇と言う筋肉、更には声帯が存在する声門を開閉するための披裂軟骨などの器官によってコントロールされますが、強い声門閉鎖を行うとそれに見合うだけの息の量と圧力を得る事ができるので美しいビブラートのついた強い響きの声が生まれ、声門閉鎖を余り強く行わなければ、ノンビブラートの柔らかな声が生まれる、つまり敢えてブレスコントロールをしなくても声帯の使い方によってはそれに応じた適正量のブレスが自動的に行われると言う経験を是非皆さんにも味わってもらいたいのです。
声門閉鎖の強弱はある程度の訓練で随意筋として自分の目的に合った使い方ができますし、こちらの方が人体に優しい合理的な歌唱技術と言えるのではないでしょうか。家庭の水道に喩えて言えば、元々一定の水圧が確保されているのですから水量の増減は一々水道局に電話をしなくても家庭の水道の蛇口によってその増減を図れば良いだけの話なのです。
オーケストラは弦楽器と2台のエレクトーンによるもので、それなりの効果は得られたとは言うものの、もう一つ慎重な考察が必要だったのではないでしょうか。その昔、私達も洗足学園音大前田ホールで3台のエレクトーン伴奏によるヴェルディのオペラ「椿姫」を試演した経験がありますが、3台のエレクトーンに据えられた大型のスピーカーをオーケストラボックスに配置した編成には可なりの迫力と臨場感を覚え、これならば十分オーケストラの代用として活用できると自信を深めました。ただ残念な事は弦楽器の音が一つに纏まり過ぎて、寧ろ現実味が無いと言う何とも皮肉な結果論であったのです。
今回の場合本物の弦楽器を使い、後は2台のエレクトーンでカバーすると言うアイディア迄は確かに優れたものでしたが、客席と同じ平面に配置されたオーケストラでは弦楽器とエレクトーンの音の融和が行われず、弦楽器には音色の深みや響きは感じられるものの、エレクトーンは如何にも電子楽器と感じてしまう音の深みや響きが失われているのが残念でなりません。若しも神奈川県立音楽堂にオーケストラピットが存在していれば十分に二つの音は融合し、更に臨場感ある公演になっていたであろうと思うと、企画の段階での見識のあり方によっては公演の成否までも見通せる重要なファクターになると言えましょう。
長々と述べて参りましたが、終幕近くのパパゲーナとパパゲーノの二重唱に出てきたバレエ団芸術座の7人の可愛らしい子供達が、この公演の全てを温かみのある作品に締め括ってくれました。如何なる名優と言えども子供と動物には敵わぬと言う昔からの舞台の言い伝えをまさに地でいったと言えるのではないでしょうか。アンコールにも姿を見せた7人のことも達が、寒風吹き荒ぶ紅葉坂を暖かい気持ちで家路につかせてくれたのを感謝します。
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2015年01月21日
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