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美声学ブログ(松尾篤興のブログ)
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フレデリック・フースラー「Singen」による声の当て方
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興

我々声楽家は日常会話の様にイタリア語の音楽用語を使っていますが、その実態は100人いれば100通りのイメージや概念の違いに遭遇する戸惑いを覚えます。ジラーレやアクートも丁度これにあたる言葉かもしれません。しかしジラーレやアクートについてどれほどのことを知っているかと問われると甚だ覚束ない気持ちになってしまうのではないでしょうか。
よく耳にするGirareはイタリア語の回る、回す、と云う意味ですし、Acutoは鋭い、高音、などの意味を持っています。そして声楽教師はこの言葉をあたかも日常会話の日本語の様に使いながら生徒や弟子の指導にあたっているのが実状と言えるでしょう。
勿論声に関することですので、Girareは声を回す事、Acutoは高音域での鋭い声の響き、について言及するのでしょうが、ではどうすれば声が回るか、どの様な方法で鋭い声の響きが得られるかについてのディテールを説明できる声楽教師が果たして何人いるでしょうか。
 
声の当たる場所についてSingenの著者フレデリック・フースラーはアンザッツ(Anzatz=当てる)の章でここに挙げた図版の様な解説を記しています。云って見れば声の通り道と云えるのではないでしょうか。確かにGirareは声を回す事でした、しかしこのアンザッツの図版を参考にする事によって、声が回る、と云った概念がより明白になるものと考えられるでしょう。
 
地声つまり胸声は気道から吐き出された呼気が声帯を振動させ、その声は直線的に鼻骨に向かいます。音程が高くなるに従って声は反時計回りに回転し、最高音を出す頭声に至っては頭蓋骨の頂上で響くようになるのです。
この様な声の方向性を言い表したのがジラーレ(回る)やデックン(覆う)ではないでしょうか、地声(胸声)は人の話し声に相当する範囲の声ですので変声期を過ぎた男性の声は女性の声に比べて1オクターブ低い振動数であり、女性も変声期を過ぎると話し声に相当する地声は随分低い音域で喋る様になるのですが、この胸声を歌声として活用するためには鼻骨へ向かって声を当てる感触が求められる様になるでしょう。
同じ胸声でもメッツァディヴォーチェ(mezza di voce=半分の声)となるともう少し内側の口腔上門歯付近に収められるのはメッツァディヴォーチェの柔らかさを出すための知恵と言えるのかもしれません 
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   アッポジャーレ・ラ・ヴォーチェ(appoggiare la voce)とはイタリア流派で言われている声の支えを示すものですが、音色、発音共に明瞭な声のあたる場所として上下の門歯を指示しています。ベルカントオペラなどに見られる早口言葉やレチタティーヴォなどに有効な場所でしょう。
中声とは声区を3分割した場合に称する声の区域で、一般的には胸声(地声)より上で頭声に変わるまでの区域、つまり擬似パッサッジョからパッサッジョまでの声区を指すものと思われます。胸声から音域が高くなってくると声帯は伸び、声の響きは細くなって行きますので、甲状軟骨を下方へ前傾させ声帯を伸展させなければならなくなってきますが、輪状甲状筋や胸骨甲状筋を下方へ引き下げる方向としてどうしても第二肋骨付近が声の通り道としてイメージされるのではないでしょうか。
弱頭声いわゆるうなじに声を当てると言われてきた場所で、輪状咽頭筋によって声帯は最も強く伸展され、美しく響き、よく通る豊かな声をためには
欠かす事が出来ない所で、エンリコ・カルゾーが云った「首の後下部に声を当てる」とはまさにこの場所を指しています。所謂充実した頭声であり現在で言われている所のアクートに相当する場所ではないでしょうか。
頭頂部または軟口蓋に声を当てると胸骨甲状筋、口蓋喉頭筋などの働きによって声帯は伸展し、純粋の頭声を出すことができます。
 
以上述べてきましたのがジラーレ、声を回す事の実態といえるでしょう。声を回すという漠然としたイメージだけで声作りに励むのではなく、論理的かつ医学的な整合性を持つ仮説の下に立った論理を検証する事によって、より確かで確実な発声技術の修練が行えるのを肝に銘じて精進すべきだと考える次第です。

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横浜シティーオペラ公演「魔笛」

横浜シティーオペラ公演「魔笛」

久しぶりにオペラを観に行きました。
演目は横浜シティーオペラ公演の「魔笛」です。
横浜シティーオペラは二期会、東京室内歌劇場、藤沢市民オペラなどに次いで出演回数の多かったオペラ団体の一つでしたが、私にとって特に印象に残るのは、2003年横浜シティーオペラ公演「こうもり」で演じたフランク役が、私の1963年から此処までの40年に渡るオペラ出演の引退に当たる公演だった事でしょう。
本当に久しぶりでしたが、横浜シティーオペラの共演者たち、大学の同僚、大学の教え子達、それぞれから暖かい歓迎の言葉を受けたのも予期せぬサプライズでした。
ポスターを見ていただければ分かる事でしょうが、ベテラン、中堅、新進のキャスティングが織りなす歌唱力、芸達者の共演には思はず笑みがこぼれてしまいましたが、中でも特筆すべきは夜の女王を演じた針生美智子とタミーノ役、倉石真の高度な歌唱技術でしょう。
と言うのもモーツァルトの音楽の特性と言うか特徴は、モチーフや旋律の躍動感と美しさが声楽的な範疇を超えた器楽的奔放さと自然さが共存し、これらを的確に表現するには、従来の様な音の強弱や長短などに頼る歌唱技術だけでは間尺に合わなくなっていると感ずるからなのです。
例えにパパゲーノアリア「恋人か女房がこのパパゲーノに」を用いてお話をする事にいたしましょう。
前奏を聴く限りグロッケンシュピールを用いたオーケストラは明るく闊達なアリアであるのが予想されます。ところが2/4拍子で書かれたこの曲の8分音符にスターカットを付けて歌うだけでは器楽的演奏としては成り立つかもしれませんが、ここにはEin M?dchen oder Weibchen W?nscht Papagenosich!と言う歌詞がついているのです。
始めの8分音符Einはスターカットでも十分表現できましょうが、次の二つの8分音符からなるM?dchen、更に次の二つの8分音符oder、次の付点16分音符と32分音符に書かれているWeibchenをリズミカルに短く歌うだけで済まされるものでしょうか。モーツァルトが持つ器楽的な旋律の奔放さにドイツ語としてのアクセントやイントネーションを同期させる事によって、初めてオペラとしての作品の完成度の高さがあるのだと思うのです。つまりM?dchen oderWeibchenに言葉の存在感を持たせる事により器楽的なモチーフと声楽的な言葉としての馴染みを同期させなければなりません。
その為に必要な歌唱技術というのは単に長短や高低で選り分けられた発声技術ではなく、繋がっている様に感じさせるスターカットの唱法であり、更に言えばブレスの圧力や呼気の量に任せて無神経に吠えまくる大音量の声は、到底使い物にならぬという現実が見えて来るのです。

モーツァルトの特徴でもある突然のsfや音の跳躍も飽くまでも物理的な音の大小ではなく、人間の心を表したsfや、何らかの意味を持つ音の跳躍と考える事が出来るようになれば、それなりの歌唱技術を身につけなければ到底モーツァルトの音楽を表現するには至らぬのが理解される筈です。
従って前述の音の分離とレガートの問題やsfp更に突然の音の跳躍などは従来考えられていたブレスコントロールによる処理ではない、もっと斬新な技術を持ってかからねば解決の道は程遠いと言わねばなりません。
皆さんもご存知の様に人の音声は息が声帯を通り抜ける時に生ずる声帯の振動によって生まれます。確かにラッパなどを考えてみてもfを演奏する時には息の圧力と量は増えるでしょうが、と言って闇雲に量を増やせば却って音は掠れてしまい、圧力を掛けすぎると本来の美しい音色は出ず、雑音の混じった威圧的な音が生まれてしまいます。
人の歌声もまさにラッパと同様で、強い声を出そうとすれば本来の美しい音色を失い、濁声と呼ばれる威圧的な声となり、声量を増そうとして必要以上の息を声帯に送れば寧ろ声帯は閉じる事なく掠れた声が生まれる事でしょう。
この声量と息の量の微妙な兼ね合いを計りながら自分の歌唱技術を維持するのはブレスコントロールを悪戯に複雑化し自分にストレスを溜めてしまう結果に繋がるのでしょう。人間は元来大きな声を出して相手を威嚇したり、遠くの人に呼びかける為により高い音声を駆使ししたりする属性を持った動物である事が歌唱技術にも付き纏うために、ブレスコントロールと言う誤った概念が技術の促進を阻害しているのではないでしょうか。
ブレスコントロールに頼らぬ音の大小や高低、長短、それは声帯自身のコントロールによるものと考える事は出来ないでしょうか。いっその事ブレスコントロールを止めてしまいましょう。ブレスに頼る従来までの歌唱技術の常識を声帯コントロールによる歌唱技術に発想の転換を試みては如何でしょう。
 
声は声帯が閉じられ、その隙間から流れる息によって振動が生じ音声が生まれる事は既に述べました。声帯には粘膜で出来た声帯靭帯、声帯筋とも呼ばれる声帯靭帯を覆う声唇と言う筋肉、更には声帯が存在する声門を開閉するための披裂軟骨などの器官によってコントロールされますが、強い声門閉鎖を行うとそれに見合うだけの息の量と圧力を得る事ができるので美しいビブラートのついた強い響きの声が生まれ、声門閉鎖を余り強く行わなければ、ノンビブラートの柔らかな声が生まれる、つまり敢えてブレスコントロールをしなくても声帯の使い方によってはそれに応じた適正量のブレスが自動的に行われると言う経験を是非皆さんにも味わってもらいたいのです。
声門閉鎖の強弱はある程度の訓練で随意筋として自分の目的に合った使い方ができますし、こちらの方が人体に優しい合理的な歌唱技術と言えるのではないでしょうか。家庭の水道に喩えて言えば、元々一定の水圧が確保されているのですから水量の増減は一々水道局に電話をしなくても家庭の水道の蛇口によってその増減を図れば良いだけの話なのです。

オーケストラは弦楽器と2台のエレクトーンによるもので、それなりの効果は得られたとは言うものの、もう一つ慎重な考察が必要だったのではないでしょうか。その昔、私達も洗足学園音大前田ホールで3台のエレクトーン伴奏によるヴェルディのオペラ「椿姫」を試演した経験がありますが、3台のエレクトーンに据えられた大型のスピーカーをオーケストラボックスに配置した編成には可なりの迫力と臨場感を覚え、これならば十分オーケストラの代用として活用できると自信を深めました。ただ残念な事は弦楽器の音が一つに纏まり過ぎて、寧ろ現実味が無いと言う何とも皮肉な結果論であったのです。
今回の場合本物の弦楽器を使い、後は2台のエレクトーンでカバーすると言うアイディア迄は確かに優れたものでしたが、客席と同じ平面に配置されたオーケストラでは弦楽器とエレクトーンの音の融和が行われず、弦楽器には音色の深みや響きは感じられるものの、エレクトーンは如何にも電子楽器と感じてしまう音の深みや響きが失われているのが残念でなりません。若しも神奈川県立音楽堂にオーケストラピットが存在していれば十分に二つの音は融合し、更に臨場感ある公演になっていたであろうと思うと、企画の段階での見識のあり方によっては公演の成否までも見通せる重要なファクターになると言えましょう。
長々と述べて参りましたが、終幕近くのパパゲーナとパパゲーノの二重唱に出てきたバレエ団芸術座の7人の可愛らしい子供達が、この公演の全てを温かみのある作品に締め括ってくれました。如何なる名優と言えども子供と動物には敵わぬと言う昔からの舞台の言い伝えをまさに地でいったと言えるのではないでしょうか。アンコールにも姿を見せた7人のことも達が、寒風吹き荒ぶ紅葉坂を暖かい気持ちで家路につかせてくれたのを感謝します。

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舌根談義


現在執筆中の電子書籍「美声を科学する」より  松尾篤興 著

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=舌根談義=       
 若い人達を教えていると「レッスンで舌根を下げなさいと云われますが舌根はどうすれば下がるのでしょう」と云う質問を受ける事が間々あります。こんな時「舌根はどこにあるのか説明してご覧なさい」と云うとほぼ全ての人が「喉の奥にあります」と答えます。
確かに舌の根っ子ですから舌の奥、つまり喉の奥深くにあると考えるのも無理の無い話ですが、それでは食べ物も喉を通らぬし、呼吸すら十分に出来なくなってしまうのではないかと心配になるのは当然の事でしょう。
図を見れば釈然とするでしょうが、舌の根っ子は下顎の裏側、おとがいの所にあるのです。
どうしてこの様な誤解が生まれ、更に歌唱技術で舌根を下げなければならぬ指導が蔓延してしまったか理解に苦しむ所ですが、推測するに恐らくKn?del【独】(肉団子の意)を指しているのではないかと思われます。
クネーデルとは歌う時の精神的な緊張から舌が肉団子の様に口内で盛り上がり、籠った暗い音色の声になってしまう事を指すのですが、これを喉の奥に舌根があるものと勘違いして「舌根を下げなさい」と云う指示になってしまったのではないでしょうか。
クネーデルを矯正するには先ず精神的なストレスから解放される事でしょう。この籠った暗い声の持主は意外にも声楽を習った経験のある上級者に多く見られるのも困った現象ではありますが、自分の声に或種の独自性を持たせようとする余り喉に余分な緊張感を持たせてしまい、所謂喉声などと呼ばれる癖が付いてしまうのです。
 舌根の話のついでにレッスンで遭遇する発声技術についての勘違いについてお話しましょう。
それは「押した声」で歌う人の余りの多さではないでしょうか。押した声とは具体的に説明すれば息の圧力で声の響きや声量を増そうとする或種の癖の事です。これもどちらかと言えば或程度声楽の経験者に多く見られる現象ですが、周りの人達が良い声で歌うため、つい自分もより響く大きな声で歌おうとするのか余計な圧力をかけたブレスを使ってしまい、結果的には傍鳴りの声、つまり近くの人達には結構良く響いた声量のある声に聞こえても、大きな開場では全く通らぬ声になってしまうのです。それは恰もより大きな飛距離を望むアマチュアゴルファーのスイングにも似て、腕力の限りを尽してボールを飛ばそうとする勘違いと云えましょう。プロゴルファーは全て上体を捻れば下半身からダウンスイングに入るものですが、これらのアマチュアは上体を捻って上体からダウンスイングに入ってしまうので運動エネルギーが活かされないのではないでしょうか。
これと同様に吸気から入ったブレスをその侭押し出す事によって声を作ろうとする所に、発声技術の破綻を見て取る事が出来ます。響く声、通る声は決してブレスコントロールでは無く、声帯の操作によるものであり、ブレスは声帯の操作によって自然にコントロールされる事が理解できていないために起る現象と断定しても良いでしょう。
歌のブレスは決して声帯にストレスを与える事無く、常に自然で人体に優しい存在であるのが理解できた時、あなたの声は見違える程の響きと伝達効率の良さを発揮するに違いありません。

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=美声承り候=
 
009:美声で歌おう(4
 
前回お話しました跳躍の技術、つまり息の圧力や勢いで高音域を歌うのではなく、声帯の操作で高音域を歌う試みは何故必用かと云えば、息の圧力や勢いで高音域を歌えば、当然音は大きくなり怒鳴り声の様な乱暴な声になるに違いありません。高音域を大声でしか歌えないとなれば、それは最早歌ではなく単なる叫びでしかないのです。歌は高くても小さな声で歌わなければならない場面に多々遭遇するもので、例えばヴェルディのオペラ「オテロ」の4幕で歌われるデスデモーナのアリア「アヴェ・マリア」などは最後の高音部を絶叫したのでは全くその存在意義すら無くしてしまうでしょう。
このブレスの勢いや圧力で高音域を歌い、声量を増やす技術に長い間捕われていたのが我が国の声楽技術の発展を阻んだと云っても差し支えありません。声は目視出来ぬものですので具体的な形や状態を受講者側に示す事が出来ず、つい指導者が思いついたイメージを利用して受講者を指導する格好になり勝ちです。例えば口腔内の容積が広がれば声はより良く響くには疑いの無い事ですが、口腔内の容積を拡げるために「目の奥を明るくしてごらんなさい」とか「もっと頭を開いて」などのイメージを提供します。これでは受講者がますます混乱に陥る事は明らかで、もっと科学的、普遍的な指導法で事に当たらねばならないのは当然の事でしょう。どだい自分の描いたイメージと云うものは全く同じものが他人に伝えられるものではない事は例えば「あお」と云っても「海の青」なのか「空の青」なのかはたまた信号機の「青」なのか、伝わり難いのがイメージのアキレス腱でもあり、口腔内の容積を拡げるためには口蓋垂筋や口蓋汎挙筋を使って軟口蓋を引き上げる作業に掛かれば良い、そのためには眉を上げ、瞳孔を拡げればこれらの筋肉は可動するのを伝えれば事足りるのです。
 確かにクラシック音楽の歌唱技術は難しく難解です。指導者曰く習い事は忍耐と努力、声の勉強は一生のものだと諭すに違いありません。しかし問題の本質はそんな所にあるのでしょうか、クラシック音楽の歌唱技術が難しいだけではなくクラシック音楽の歌唱技術
の伝承方法が確立されていると誰が云えるでしょう。寧ろ声楽教育の教育法に問題がありはしないか、歌のお師匠さん達は自分の教え方の拙さを弟子の才能の無さに転嫁しなかったと誰が云えましょう。自分の歌の師匠の笑い話にこの手のエピソードが数多く語り伝えられるのもこれらの事情をシビアに言い表しているのではないでしょうか。
ここまで言い切れるのも現在に至るまでのクラシック音楽の歌唱法が息に頼り過ぎた旧態依然たる教育法であったのを見抜いてしまったからに他なりません。息は飽く迄も音声を生むための手段であり、音声自体は人の声帯によって生まれ形成される原則を無視するわけにはいかないのです。声を水道に例えてみますと、水道は或一定の水圧によって管理されています。言い換えれば声も或一定の圧力の息が必用であり、例えば声量を増すときに圧力を上げたり急激な息の増量を計ったりするでしょうか。水道の水量を増やす為にわざわざ水道局に頼んだりはしないで、自分の家の水道の蛇口を捻れば良いだけの話なのです。声量や声の響きのコントロールはまさにこれと同じ、声帯のコントロールを会得しなければならない事に気付くべきでありましょう。
 
 

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=美声承り候=
 
008:美声で歌おう(3
 
007回「青い山脈」では歌唱実技ではかなり細かい所まで言及しましたが、その前に歌う前の準備、いわゆる発声練習を行わなければなりません。私達演奏家もステージに上がる前には必ず発声練習をしますが、これは丁度プロゴルファーが試合前にドライビングレンジで様々なクラブでその日のショットの具合を確認しているように、その日の自分の声の調子や歌唱に必用な身体の各器官の動きなどをチェックするもので、気休めで闇雲に声を張り上げるものではなく、その日の歌唱技術に必用な準備運動なのです。
先ずブレスのチェックからやってみましょう。寝息のチェックです。鼻から息を吸い横隔膜が下がるので自然にお腹が膨らみます。無理に吸おうとせずある時点で息を吐きたくなりますので口からプーと吐いてみましょう。この自然に吸、呼気できるブレスの流れをそっくりそのまま歌に利用すれば良いのです。次は声帯のチェックに移りましょう。眉を上げて瞳孔が開いた状態で寝息のブレスを吸うと軟口蓋が広がるので声を出してみましょう。ビブラートの無い柔らかな響きの通る声がでます。音程を変えながらこの声を嗜んでみましょう。次は跳躍の練習、ある音から3度程高い音に移行するのですが、この時寝息の流れを変える事無く声帯の操作によって音程が上昇するかが最も難しい問題となります。従来の発声技術ですと息の圧力や勢いなどで音程を押し上げる方法が取られてきました。腹筋の強さや丹田の重要性を説いたのはその所為ですが、ここでは声帯を引き延ばす事で音程の上昇を計らねばなりません。つまり喉仏が前傾し甲状軟骨が傾けば声帯は引き延ばされ高音が出る様になる技術の習得です。具体的には喉仏を下げるために腹筋が下方にスライドして行くと同時に瞳孔が広がり軟口蓋が広くなる、と云った具合でしょうか。高い音を歌う時、どうしても高く背伸びをしようとし勝ちですが、寧ろ喉は下へ引っ張られる感じで、それと同時に軟口蓋も広がると云う動きが必用なのです。
前回の話に出てきた57小節目の音程の跳躍について、少し専門的な話になりましたが、歌はアクセントや拍の強弱に関わらず跳躍した音の方が強く聞こえてしまうのは、振動数の関係から高い音の方が良く通ると云う事と、高い音に跳ぶ為に息の圧力や量を増やして歌おうとするからに他なりません。だから「花模索」になってしまいます。
跳躍を如何にレガートに歌うかはかなり高度な歌唱技術が求められますが、挑戦してみる価値はあると思います。考え方として、跳躍する要素をブレスの圧力や勢いで声を出すのではなく、声帯を確り閉じたまま引き延ばす事によってより高い音程を出す技術です。例えて云えば、弦楽器の弦を短く使って高い音を出すのではなく、弦の張力を増して高い音を作ろうとする考え方は、004:声帯の使い方でお話しました甲状軟骨を前傾させて声帯を引き延ばす発声技術の事です。甲状軟骨を引き下げる筋肉、輪状甲状筋や胸骨甲状筋を使って引き下げなければなりませんが、それと同時に口蓋咽頭筋や茎状咽頭筋などの引き上げ筋も動員して甲状軟骨を前傾させ声帯を引き延ばします。更に胸骨甲状筋を引き下げるために腹直筋などにも手伝ってもらわなければなりません。
これらの跳躍の技術を習得するのに彼のルチアーノ・パヴァロッティーは3年もの歳月を費やしたと云うのですから、覚悟してこの難易度の高い技術習得に励むべきでしょう。

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