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美声学ブログ(松尾篤興のブログ)
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連載「新美声学」(うたのすすめ)070:実行前の道理
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興 

 新しい事を始めようとするのは何と気分が昂る事でしょう。結果を思い描くだけでも何とも云えぬエキサイティングな気持になってしまいます。今迄自分が思い描いた設計図が現実のものとして実を結ぶ瞬間なのです。
しかし一寸待って下さい。その計画に手落ちはないでしょうか。折角の良いアイディアもそれ自体が道理に適っていなければ、それは単なる不良品でしかない、と云う事に気付かなければ何の意味もありません。
道理に適う、つまり論理的な整合性の問題です。例えば自分の声をより響く大きなものにしたいと云う計画を立てたとします。そのためには、どのような訓練をしなければならないかと云う課題が待ち受けている筈です。
この時何が何でも大きな声を響かせようとすれば、恐らくこの計画は失敗に終るでしょう。何故ならばそこには論理的な整合性は見当たらないからに他なりません。
先ず響く声と豊かな声量と云うものに対する認識の甘さでしょう。声に豊かな響きがあるのは自分の声自体が響く事と、その声が空間で響くためには、声に雑音が混じらぬ事がとても大事な問題である見識が必要です。
雑音が混じるとは所謂噪音、楽音ではない事を意味します。これは声帯に無理な力や圧力などが掛かった場合に発生するもので、俗にいう濁声などがその例でしょう。濁声ではいくら大きく響いた声でも音楽に使う事は出来ないばかりか喉を痛めてしまいます。
この場合、響く大きな声ではなく、響く通る声を目指せば道理に適うでしょう。
この様に目的は同じでも物事についての知識や理解が無いと、全く違った結果が待っている事になるのです。ではこの計画の推進にはどの様な知識が必要なのでしょうか。
先ずブレスと声帯の関係についての知識が無くてはなりません。息が声帯を流れる事によって音声は発生しますが、息の量が多すぎれば音声は擦れてしまいます。声が響くと云う事は適量なブレスによって声帯を振動させた場合、その音声が響く空間を確保する事と、息のスピードが増せば声の響きや声量は増えると云う事も合わせて認識すべきでしょう。その為にはブレスと声帯だけに止まらず、口蓋の構造についての知識も必要でしょうし、声帯に関わる筋肉についても精通していなければ声のスピードを増す事は出来ません。
道理を弁えるのは大変な事ですね。
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連載「新美声学」(うたのすすめ)069:勘違いと思い込み
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興 

 敢えて誤解を恐れず申し上げますが、勘違いによる思い込みの実例を見たければゴルフ練習所に足を運ぶのが良いでしょう。
練習している大部分の人達があまねくゴルフボールは腕力があれば飛ぶと思い込んでいると云う事です。私もその例に漏れず長い間そう信じてきました。無理もありません、ゴルフクラブを振り回すのは腕ですので、腕力さえあればボールは遠くに飛ぶと考えるのが自然と云うものです。
所がプロゴルファーに云わせるとゴルフボールは身体の回転で飛ぶのであって、腕はその身体の回転によって振られるだけだと云います。つまり腕は何の筋力も使う事なくして、ゴルフクラブの繋としての役割しか果たさないと云うのです。その上身体の回転と云うものは股関節の動きによって骨盤は45゚回転し、腰椎10゚胸椎30゚肩甲骨のスライド5゚などの回転の合計でバックスイングが完成し、今度は左股関節の動きによって同じ様に身体は左方向に回転し、それによって腕が振られクラブも振られるためにボールは飛ぶと云うのであれば、これでは腕力、つまり腕の筋肉は殆ど必要なかったと云う結論になります。
さて次は歌の勘違いによる思い込みについて考えてみましょう。歌の勘違いと云えば先ず上げられるのが腹筋の鍛錬でしょう。
そもそも日本には昔から肝の座ったと云う表現があり、度胸のある存在感を示すための形容として使われてきました。この感性が大きな声と結びついて腹筋を鍛え、息の圧力や量の増加に繋がったのでしょう。
選挙運動後の議員の声枯れなどは、音声についての知識の無さを露呈していますが、訴えかけに大声、つまり怒鳴り声が効果的だと考えるような感性の持ち主を国民の代表として選出する訳にも行きますまい。
声の大きさでしか判断できぬ事こそ、音声に対する見識の無さが判明するのであって、例えマイクが無くても声の通りさえ良ければ、どんなに広い場所でも聞き届ける事は可能なのです。更に物事を訴えかける手段が怒鳴る行為では余りにも知恵が無さ過ぎます。
通る声を駆使するためには何が必要かを詮索しない限り更なる高みに達する事は出来ないばかりか、自分の声帯を痛め、嫌な癖のある声の持ち主となるでしょう。ここからの脱却は先ず怒鳴るのを止める、つまり寝息の様にスムーズな息を使う事に尽きるでしょう。っc
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連載「新美声学」(うたのすすめ)068:あって七癖
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興 

 昔の人は無くて七癖と人間の煩悩を諭すための立派な言葉を残しました。食べ物にしろ、人格にしろ、癖が無いと云われるのは八方当たり障りのない無難な事と云う印象を受けるものです。声や歌唱にしても癖の無い声、癖のない歌い方と云われるのは一つの褒め言葉なのかも知れません。
癖のない声とは例えばボーイソプラノの天使の様に澄み渡った声などを想像しますが、これが声楽的見地からは非の打ち所がないと云う訳にはいかないのが厄介な事なのです。
19世紀の半ば頃迄のイタリアオペラは所謂ベルカントオペラの最盛期でした。当時上演されていたベッリーニやドニゼッティ、ロッシーニなどのオペラのテノールは全て高音域をファルセットで歌っていましたし、現在では考えられぬ事かも知れませんが、成人して変声期に声変わりせぬよう、去勢までしてボーイソプラノの声を保とうとしたのです。
これが当時のオペラの様式美であれば致し方のない事なのでしょうが、去勢されたカウンターテナーのその後の生涯を思うと、ベルカントオペラの繁栄の為とは云い、随分罪な事をしたものだと思わざるを得ません。
今では高音域を実声で歌う男性歌手の方が余程真面な歌唱法ではありますが、当時の演奏様式では男性歌手の実声での高音域歌唱などは癖のある声とされたのでしょう、現にロッシーニなどはウイリアムテルでジルベール・デュプレの実声高音を聞いた時、非常な嫌悪感を露にしたと伝えられています。カウンターテナーとアクートの高音も、時代が変われば立場も変わると云うものでしょう。
癖のある声とは発声技術上整合性が無く、聞く側にとって不快感を抱かせるものについてこの様に呼ばれているのでしょうが、元々人間の声は指紋と同じで100人いれば100通りの声が存在して何の不思議もありません。
人様に不快感を与える声は論外として、少々の癖は無い方がおかしな話で、できれば万人が美しいと認めてくれる声になりたいものですが、それをもって癖の無い声とは言い切れぬところに、声の面白さと云うか醍醐味があると云えるのかも知れません。
その昔、成人男子がボーイソプラノで歌った癖の無い声は、現代に於いて果たして、癖の無い美しい声と云う評価を受けるかについては色々意見の別れる所かも知れませんが、これも時代の流れなのでしょうか。
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連載「新美声学」(うたのすすめ)067:とんでもございません
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興 

 外国人ならずとも日本語の敬語や丁寧語は難しいと云われています。この「とんでもございません」もその例の一つで、基の「とんでもない」と云う言葉を「とんでも+ない」と勘違いしたばかりに「ない」の丁寧語に「ございません」を付けて「とんでもございません」が出来上がったものと考えられます。
「とんでもない」は「途でもない」からきた言葉で、途方もない、思いがけない、と云う一つの連なった言葉であり、従って「とんでもない」の丁寧語は「とんでもない事でございます」又は「とんでものうございます」となります。この様に本来の意味を知らずに生れる造語や言い伝えの誤りは数知れません。
これとは逆に日本語を基として考えられた外国語も外国人にとって奇妙な言葉として映るに違いないでしょう。所謂和製英語等です。
バックミラーなどもその一つで、後を見る鏡のつもりでしょうが見るのならばミラーではなくビューでなくてはなりません。rearview mirrorまたはrear-vision mirrorと云うべきでしょう。後の窓のつもりでバックウインドと言えばback wind(break wind)オナラと取り違えられますので呉々もご用心を。
パスタ料理にトマトソースのナポリタンがありますが実はこれも和製料理で、イタリアにはナポリタンと名のつく料理はありません。横浜ホテルニューグランドの料理長入江茂忠氏が考案したれっきとした和食と云えます。
声楽の世界で日本独自に考えられたと思われる発声法が「腹から声を出す」ではないでしょうか。おそらく武道などで気力を養うために丹田を練るところから「腹から声を出す」発想が生まれたと云えるかも知れません。しかし不世出のテノールと云われたイタリアのエンリコ・カルーゾは「声は頭の後で響く」と語っています。ここに日本とイタリアの発声に対する科学性の違いが伺えるでしょう。
腹を主体にすると当然ブレスの問題が浮かび上がってくるでしょうし、頭を主体と考えれば声帯に関する言及と取れます。つまり日本発声法はブレス中心であり、イタリア発声法は声帯中心の技術と云う事になるのです。
日本の発声技術は長い間ブレスの圧力や息の増量に悩まされてきました。大きく響く声は息の圧力と量による、と考えたところに日本の声楽が他の国より遅れを取った最大の原因が潜んでいると云っても良いでしょう。それは単なる怒鳴り声でしかないからです。
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連載「新美声学」(うたのすすめ)066:ReadingとSinging
洗足学園音楽大学名誉教授 松尾篤興 

 私の親友に同志社女子大学名誉教授で英文学者の尾崎寔君がいます。福岡高校時代の友人で共に音楽部に在籍していました。
これは後日彼から聞いた話ですが、ある日英語の魅力に取り憑かれ、同志社大学英文科を目指すきっかけとなったのが、1954年に上映されたイギリス、イタリア合作映画「ロミオとジュリエット」を観た事だったそうで、今や彼はシェークスピア研究家の第一人者であり、著名な英文学者でもあります。
昨年秋、大学の恩師であるリンドレー・ウィリアムズ・ハブルの没後26年に詩人である恩師の詩の朗読会を母校で開きました。
ハブルという人は何でもハップル望遠鏡で名高いエドウイン・ハップルの縁者で、10歳の頃にはシェークスピア劇を全て諳んじていたというシェークスピア研究家でもあり詩人でもある人で、1953来日し同志社大学の教授に就任、93歳の生涯を閉じるまで日本名、林秋石として日本に帰化した人なのです。
このハブルの詩の朗読会は評判を呼び、翌年にはハブルの詩集と公演記録をおさめた本、「ハブルに魅せられた人たちのために」が刊行される運びとなりました。
「ハブルに魅せられた人たちのために」の中に次の様な記述を見ることができます。

*英語は音、日本語は絵。
私たちの目は仮名漢字まじり文に慣れてしまい、「読む」といえばどうしても目で文字を追うことをイメージしてしまう。アルファベット表記の言語の場合、文字は音符と考えたほうがいい。つまりreadという英語は「音読する」という意味なのだと考えるべきだったのだ。もちろん英国人であれフランス人であれ、ふつう本は黙って読んでいる。しかし、同じ黙読でも頭の中では「音が流れて」いる。流れであり、もっぱら漢字という絵が脳裏に映し出される日本語の場合とのあいだに根本的な違いがある。

私が初めてシェークスピアの原語上演の芝居を観た時、その台詞回しの流麗さに、これはまさに歌だ、と思ったのを思いだします。それ程シェークスピアの作品は精錬されたものだったと云う事にもなりましょうが、表音文字と表語文字の文化の違いを感じざるを得ません。台詞は歌うが如く、歌は語るが如し。と云われてみても、なかなか日本人に歌うが如き喋り口が見当たらないのは言語形態の違いとばかり言い切れるのでしょうか。
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