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美声学ブログ(松尾篤興のブログ)
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=ブログで見た、ある声楽家へのエール「音楽って、趣味に見えるのでしょうか?」=


音楽家の皆様、経験ないですか?「素敵な趣味があっていい」「趣味と仕事、両立して偉い」などと云われた事。音楽って、趣味に見えるのでしょうか?(中略)演奏活動をしている経験を基盤に仕事して、給料もらっているつもりなのですけど」

上記のような記事を目にしたので
「日本では演奏活動だけで生業を賄っている人はほとんど見当たりませんね。(中略)あなたのように人々から羨ましがられたとき、私は「オペラは道楽です」と返事していましたよ。
これもひとつのアピールだと考えます」
このようにコメントを書いたところ、
「道楽・・・うーん。
お客様からお金もらっているのでそれは言いにくいですね。
多くの方に道楽でも何でもいいから、オペラが広まればと
思いますけど」
と私流のシニカルな表現が通じなかったのは残念に思うが、この問題は私の若い頃から抱え続けた疑問でもあるので、私なりに整理してみよう。
2001年に出版した自著「芸大中退、未だ現役」の中で次のように述べている。
http://blogs.yahoo.co.jp/matsuoatsuoki/MYBLOG/yblog.html?fid=0&m=lc&sk=0&sv=%BC%C2%B1%D7%A4%CE%CC%B5%A4%A4%BC%F1%CC%A3

 趣味と実益とは良く耳にする言葉だが、道楽の利益に関して言及された言葉は余り見当たらない。と言うより利益を生ずるものは道楽とは言わないのかも知れぬ。元々道楽とは金の掛かるもの、非生産的なもの、社会からはマイナスのイメージを与えるものとして評価されている可哀想な日陰者に過ぎないのだろう。道楽には「道楽三昧」「道楽者」「道楽に耽る」等非難の言葉はあっても、趣味の様に「多趣味」とか「趣味が良い」等の褒め言葉は無く、例えばゴルフを嗜むにしても、趣味と言われるか道楽と扱われるかに因って、その人の人格さえ伺い知る事が出来る程の印象の開きが生じてしまう。そこで趣味と道楽について少し考えてみよう。(中略)和英辞典で「趣味」を引くとTaste。「道楽」を引くとHobbyが出てくる。Tasteには他に味、経験等があり、Hobbyには十八番、木馬等が見受けられるが、共に「趣味」と言う意味を持っているのも興味深い。
先日Eメールで福岡高校時代の同級生、同志社女子大の英語教授、尾崎寔君にHobbyに付いて問い合わせた所、次の様な返事が返ってきた。
趣味といえども単なる気晴らしにあらず。
 Hobbyとは、すなわち日本語でいえば趣味のことだ。ところがそう言い切ってしまうのはちょっと早すぎる。「趣味」が専門としてではなく楽しみとしてする仕事、あるいは一種の気晴らしにする活動だとするならば、例えば「趣味にピアノを弾きます」(My hobby is to play the piano)とか「趣味はテニスです」(My hobby is play tennis)と言えそうなものだが、欧米人、特にイギリス人などは、そういったことはHobbyとは言わない。Hobbyとは、日本語の「趣味」が軽やかな響きを持つものとはニュアンスが違って、生活のためにする仕事ではないが、ある程度時間やお金をかけ、旺盛な好奇心と情熱をもって追求する活動ということになる。例えば山や野原をめぐってめずらしい昆虫や蝶を集めると、その生活や飼育法まで丹念に研究しながら実際に自分でそれを飼うことまでする。始めは好みや気晴らしから出発したとしても、一つのテーマを追求していくうちに単なる気晴らしではすまされず、仕事とは別のプライベイトな生き甲斐となってゆく。この点ワーカホリックな日本人の生き方と違うようである。むろん一般的なHobbyとしてスポーツや庭いじりや釣り(sports, gardeninng,angling)などがあるが、それらの楽しみ(pastime)には奥行きがあって、分け入れば入るほど面白くなり、人によっては仕事以上にHobbyこそ生き甲斐といった例さえ見られる。スポーツ(sports)の語源は(postime, or ennter taimennt)にあるが、かつてイギリス貴族が好みのスポーツ(例えば狐狩)に打ち込んだように、Hobbyは農家の馬に源を発して趣味となり趣味も昂じて専門家をしのぐ程の専門家を生み出すことがあるようだ。「切手の収集」もまたよくみられるHobbyの一つと言えようが、ちなみにイギリス王ジヨージ五世(George5,1918~36年在唖)は切手収集家(philatelist)としてつとにその名を知られている。
 『話題源英語』井上雍雄東京法令出版、平成元年。
 どうやらHobbyと道楽の間にはイギリスと日本、いやそれ以上の民族的、歴史的な隔たりが見えてくる。

と、まあこんな具合だが、もともと芸大を受験するときにオフクロから「歌唄いやら、そんなもんは男のする仕事じゃナカ」と勘当寸前、けんもほろろに反対された経緯がある。そして実際この世界に入ってみると歌手を生業として生計を立てている者の余りの少なさに愕然とし、絶望的な気持ちに襲われる。
ほとんどのオペラに関わっていた歌手たちは何らかの副業を持ち当時二期会のスターだった歌手で、歌のみで生計を立てられたのは大橋国一、立川清登の二人ぐらいと記憶している。
私も前出ブログで音楽は趣味かと嘆いていた若者同様「趣味が職業とは羨ましい限りですね」と散々云われたものだ。日本のオペラ界はなぜこのようになったかは諸説あろう。
オペラは高尚なもので敷居が高い、チケットも高い、外国語の劇を観ても解るわけが無い、そしてなによりもこの国民感情を代表するように政府が日本のオペラに関してそれほど理解を示さないことにある。
スカラ座はイタリア政府によって保護され、ドイツの歌劇場は年金が支給され、アメリカのメトロポリタンは財界によって支えられている。
国家がこれらを擁護するには国民の理解を得ることが必須の条件であるとすれば、問題は教育の時点までさかのぼらざるを得ないだろう。学校教育において絵画、書道、音楽などは必修科目ではなく、早い時点で選択科目に追いやられているツケが廻ってきたと云えなくもない。つまり日本全体がこれらは趣味程度の教養で良いと判断したものと云えよう。
ならば仕事と認められなくても好きなことはやるよりなかろう、と考えるのが人情で、私のような道楽論が出てくるのだろう。
もともと仕事ということになれば採算性が問われることになろう。儲からぬものを敢えて追求するのを仕事とは云わぬはずだ。だから道楽と云ったほうがはるかに純粋に自分の楽しみ、やりたい事を追求できるのではないか。
現在の私がまさにこのはざまにいるのではなかろうか。現在オペラ歌手としては引退した身柄だが、日本の声楽界の現状をみるにつれ、音楽教育の占める大切さを痛感する。これら教育に整合性がなければ立派な文化は育つべくもない。せっせと原稿を書き、映像を記録し、あらゆる形で情報を発信しなければならぬと考えるのは仕事というよりも更に強い意志によるものだと考えている。つまりそこには採算性は微塵も感じられぬ。これが道楽でなくてなんであろう。
「音楽って、趣味に見えるのでしょうか?」ブログで見た、ある声楽家へのエールがこの答えだ。

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=映画マイ・フェア・レディに想う=

正月のTV で映画マイ・フェア・レディを観た。
私も二期会のミュージカルでマイ・フェア・レディのイライザの父親、アルフレッド・ドゥーリトルは何十回となく演じただけに、この映画はすでに何回も観尽くしているし、仕事でパソコンに向かいながらの見物だったので、観たというよりは聴いていたと云った方が適切な表現だったかもしれない。
映像や字幕を度外視した形であらためてこの映画を観てみると、ヒギンス教授役のレックス・ハリソンの存在がいかに大きなものであるかが見えてくる。
レックス・ハリソンはイギリス、ランカシャー州出身の舞台俳優だが、このマイ・フェア・レディでアカデミー主演男優賞に輝いているだけのことはあって、いかにも英国紳士らしい台詞廻しは、シェークスピアの芝居でも観ているかのような錯覚をおこさせる。
私の親友、同志社女子大名誉教授、尾崎寔氏はシェークスピア研究のスペシャリストとして有名だが、在任中、シェークスピア劇の原語上演を学生に指導していた経験から、シェークスピアの台詞廻しは歌である、と言い切っている。
発声法の権威フレデリック・フスラー教授によれば「歌いたいという衝動は生来のものである。歌うことは人間の属性であり、その遂行のためには外部からの援助や、適応は必要としない」と述べているが「人類は言語の発明によってその大部分の人間性を発達させた。そしてことばを話す能力があまりにも急速な発展をした結果、慢性的な神経支配の欠如となり、発声器官のもつ純粋の歌うための機能が侵されるという欠陥を生じた」とも述べて「話をすることと歌うこととは、このように肉体的な面からも精神的な面からも、非常に異なった生活表現であるとすれば、歌手はこのふたつを別々に取り扱わなければならないし、このふたつを巧妙に結合することを会得するまで、よく練習しなければならない」と結んでいる。
逆な見方をすれば話すことと歌うことはお互いに影響し合う至近距離にあり、巧妙に結合すべき立場のものであることが見えてくる。
一方、イライザ役のオードリー・ヘプバーンはAudrey Kathleen Van Heemstra Hepburn-Rustonという長い本名をもつアイルランド系イギリス人で、これまたロンドンの下町訛りを絶妙にこなし、のちのち正統なKing′s Englishを披露する。
昔からの言い伝えに「歌は喋るがごとく、台詞は歌うがごとし」というのがあるが、こうやって音声だけの映画「マイ・フェア・レディ」をみていると、いかに歌うがごとき台詞廻しが見えてくるし、ヒギンズ教授の歌も、いかに喋るがごとき歌い方であるかが、あらためて明らかになってくる。

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=爺が爺をジジイと呼ぶたのしみ=

このところ本をサポートするDVDの制作に没頭しているが、映像を撮る器械も日々進化しているものとみえて、とても従来のホームビデオとは比べ物にならぬくらいの解像度を持つカメラが出回っている。
DVDに撮ってみると実際に見聞きしているときよりも細かい映像や音声のニュアンスの変化が感じられ、自分の映像や音声となると無情なほど克明な描写に唖然とすることがある。
カミサンは随分ジイサンになったと云い、自分も内心ずいぶん爺臭くなったものだと思う。
男は自分の年齢ほど身体が老朽化しているとは思わぬ動物だから、頭の中では数十年前の自分の行動をイメージしながら現在を生きようとするものらしく、立ったまま靴下を片足ずつ履こうとして転倒したり、湯呑みを持ち上げた手が震えて茶をこぼしたりするものだが、本人は年老いたとは感じず、今のはたまたま間が悪かっただけだと片付けてしまう。
だれでも面と向かってジジイと呼ばれるのは愉快なものではない。ましてや自分はまだ若い者には負けぬ、と思っている爺ほど自分の身体の衰えには見て見ぬ振りをする。
だがこれにもルールらしきものがあって、自分より若い者から爺と呼ばれるのに対しては不快感を示すが、自分よりも年上の爺からジジイと呼ばれることについては寛容でなことである。これはつまり若い者がジジイと呼ぶのは、目の前に現実を突きつけられるわけだから気分を害するが、自分より年上の爺からジジイと呼ばれるのは、あなたの方がもっとジジイだろうと思う余裕がそうさせるのかもしれない。
このところ出版の取材で合唱団などを紹介するための取材をおこなっているが高齢者メンバーがやたら目につく。これも高齢化社会を世界に誇る日本はならでは、の現象かもしれないが、考えてみれば歌に使う筋肉は腹筋、背筋、頸部、などの筋肉でスポーツほど過酷な使われ方をするものでもない、むしろ筋肉、息、発語、声帯などのバランスがいかに巧く保たれるかが重要な問題となってくる。したがってかなりの高齢者でも十分に歌をたしなむことができるのではないだろうか。現に栗本尊子さんなどは89歳の現在でもコンサートで歌っておられる。
オペラとはいかないまでも歌曲を人前で披露するくらいの体力ならば高齢者でも十分に目的をかなえる事ができよう。私がこれら一生懸命歌っている爺どもを見て、ジジイと声をかけたくなるのも言わばエールのようなものであって、ついつい「ジジイ頑張れ!」と叫びたくなってしまう。

大人の遊び、次期DVD制作

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     (Apple社のFinal Cut StudioとVictor社のGY-HM100業務用カメラレコーダー)

来春出版予定の「実用美声学」のDVD制作も今週でほとんど決着がついてしまう見通しがたった。もちろんDVDの編集、原稿の校正など仕事は山ほど残っているが、書き終え、撮り終えた気持ちは、祭りのあとの気分とでも云おうか、半年は延びたが度重なる入院にもめげずここまでこぎ着けたのもカッコウチャン(かみさん)の御陰でもあろう、私の筆頭介護人、主席運転手、DVD照明主任でもある。
全てはまだ決着がついていないというのに、もう次の遊びのアイディアが次から次へと湧いてくるのもいささか不謹慎な話ではあるが、今回見送った事や、なし得なかった事への執着心がこのような形となってあらわれるものなのだろうか。
その一つが、DVDを自分で制作するための条件をさらに整えることだろう。制作のための器具の完備、さらに制作日程の長期的展望とでも云おうか、制作にかかる時間をさらに長期にわたりマネージメントすることが望ましい。
制作器具の問題の一つがカメラで、今回感じたのは演奏を収録しようとすれば、映画のようにワンカットごと撮ってそれらをつないでいくわけにはいかなくなってしまう。だからといって同じアングルのまま撮り終えるのは画像としていかにも平板なものにならざるを得ない。つまり最低2カメラは必要ということだ。
幸いカメラおよび編集ソフトは上記のようなすばらしいものが出回っている。Victor GY-HM700という放送用ビデオカメラの小型版GY-HM100は内容的にも700にひけをとるものではない。SDHCカード32GB、2枚で3時間ほど記録できる優れものだ。現在私が所有するVictor Evrio GZ-HD30はハードディスクなのでうまく住み分けができれば理想的なものになるだろう。編集ソフトのApple社のFinal Cut Studioもこれらを束ねる有力な武器になることは間違いない。私の場合、パソコンがMacだけによけい力も入ろうというものだ。
もう一つの問題は撮影スケジュールの長期管理だろう。目に見えぬ歌唱技術や発声技術を文字のみで理解を得るのは至難の業であることは既に十分すぎるほど思い知らされたが、これらの理論に整合性を与えるためには視覚、聴覚に訴え、その隙き間を埋めるのが最も合理的な方法だと考えるに至った。
論理を展開するにとどまらず論理を実践した過程や結果を視聴覚にうったえ、いかに普遍的、実践的な効率のよい論理の裏付けを確立するかにかかっている。さらに云えば教材の長期的な追跡取材による教材の変化を示すことだ。つまり一人の音大受験生、合唱団員、音大卒業生、高齢者、プロを目指す歌手などの追跡取材から、個々の変化や成長を抽出して論理の展開の裏付けとするのが、もっとも分かりやすく、整合性のある科学的な方法論だと考える。
現在の仕事が完全に終わりもしないのにこんな事を云うのは不謹慎きわまりないが、これは私の病気だと思って聞き流してもらえば少しはおさまりがつくかも知れない、どうか美声学に取り憑かれた夢遊病者の戯言として笑い飛ばして頂きたい。

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                 (梅津正樹アナウンサー)
=ことばおじさん、気になる日本語=

 NHK教育TVで放映されている「ことばおじさんのナットク日本語塾」は好きな番組で、ウイークデーの昼下がりを楽しんでいるが、わずか5分の番組だが内容は濃い。
 言葉が持つ本来の意味から変遷に至るまでの理解が及び、いかに現在使われている日本語が言葉の起源から逸脱したものになりつつあるかを知る事ができるし、日本語の難しさの代表のように云われる敬語や丁寧語についても、十分な理解を得られるのがありがたい。
 例えば「とんでもない」と云う言葉を丁寧に云おうとして「とんでもございません」と云うのを良く耳にする。これは「とんでもない」を「とんでも」+「ない」と考え、「ない」を丁寧語として表現したために「ございません」となって、とんでもない日本語がうまれたのだと云う。「とんでもない」はもともと一つの言葉であり、これを丁寧語になおすと「とんでもないことでございます」となるわけだ。
 また、ブログなどにも良く見かける言葉で「閑話休題」というのがある。一見、本題から外れたひまな話をしよう、といった意味に見えるし、実際、本論はさておいてひまつぶしの話題を提供する場合に使われていることが多い。
 これは全く正反対の使用例で閑話、つまりひまな話は休題、お休みにして、ということなのだから、本論から外れた話題はここらでお休みにして、と云うのが本来の意味、つまり無駄話はさておいて本論に戻れば、と云うのがもともとの使われ方なのだが、このように逆の意味に使われている場面に遭遇することが多い。
 最近流行っていると云うより、日本語として定着しつつある言葉のなかに「気持ち的には」という言葉がある。「気持ち的」は辞書にはなく、「気分的」と云う言葉ならば存在する。つまり今はやりの自己を曖昧に表現する「〜とか」の表現と同一で「気持ちとかは」などと曖昧に表現し、断定する事を避ける物の言い方だと思われる。気持ちとしては分からなくもないが、昔から使われている「気分的には」の方が、気持ち的にはスッキリするのだが。
 今や日本語として根付いてしまった感がある「全然」だが、本来否定形の表現の前に位置する言葉であるべき「全然」が「全然旨い」とか「全然ご機嫌」などと使われるにいたったのは、もはや常識となったのだろうか。したがって「全く」という言葉は死語に近くなりつつある。全く悲しいことだ。
 スーパーマーケットのレジスターで高額紙幣の支払いをしようとすると、店員が「1万円からお預かりします」と云うのがどうやらマニュアルとなっているようだが、これもまた意味不明の日本語で、善意に解釈すれば「1万円をお預かりして、ここから料金を頂きます」と云うところを短縮したものではないかと推測する。それならば一層の事「1万円から頂きます」と云った方が簡単明瞭な表現だと思うのだが、妙にへりくだった丁寧語にしようとするので、このような意味不明の日本語が生まれるのだろう。
 若者達が使っている日本語があらゆる点で使い方や意味不明の造語だとは云わないが、これらの新造語をいい年寄りがまねて若ぶった話し方をするのもいかがなものでありましょう。言葉は確かに変遷し、まったく逆の意味に使われることすらあるし歴史がこれを証明している。しかし自分が話す言葉や書き記す文章について、一度はその原型を確かめるくらいの努力は怠るべきではない、またそれによって独特な言い回しも生まれるのではなかろうか。

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