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美声学ブログ(松尾篤興のブログ)
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書庫Essay(随筆)

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=政権交代という名の革命で明らかになった戦犯達=

半世紀にわたって日本に君臨してきた保守与党の体制が一夜にして崩れ落ちた。これを革命と呼ばずして何と云おう。これは単に政権が変わったという事ではない、長い間日本を支配してきた一政権が支配の現場を追われたのだから、あとに残された癒着や隠蔽や浪費などの瓦礫の山が我々の目に映ることになる。
50年以上もかかってダムひとつ作れなかった事や、航空会社と空港と政治家の癒着、公共事業と族議員の関係、官僚の天下りと議員の癒着、果ては我々の年金の横領にいたるまでの犯罪がここに至って明るみに出たと云えよう。
もしこれが200年前のフランスだったら関係者全員が断頭台の露と消えたことだろう。しかし鷹揚な日本国民はこれらの戦犯を断罪することなく、むしろ2大政党の一翼を担うものとして声援すら送っているお目出度さ、そこには過去の政治に対する総括もなければ反省もない、ましてや責任を取る者は誰一人いないのだ。
強烈なインパクトが今回の政変にはあるが、それにしても今迄溜まりに溜まっていた長期政権の垢は目を覆うものがあり、よくぞここまでやってくれたという怒りを通り越した感心すら湧いてくる、まさに巧妙に仕組まれた国家的詐欺としか言いようがない。
いままではこれら国家的詐欺集団の戦犯達は情報の公開は勿論のこと、自分達に都合の悪いことはすべてひた隠しに隠してきた。いや、そうしなければこれほど長きにわたって政権を維持する事は出来まい。
さらに問題なのは、これら保守与党の体制にどっぷり浸って毒された評論家やメディアの存在ではなかろうか。新政権の政治手法を今迄の旧態然たる保守与党体制の方程式で解こうとするから当然、評論家やメディアの方が遅れをとった形にならざるを得ない。新しい試みを古い数式で解けるわけはなく、中立であるべきこれら評論家やメディアに対しても我々国民は変革を求めている事を知らなければなるまい。日本の夜明けなどと口では美辞麗句をならべたところで、自分の頭の中の夜明けがいつまでも訪れぬとは寂しい限りである。

ワイドショーと新政権

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=ワイドショーと新政権=

 政権交代で鳩山内閣が誕生したとたん、このところワイドショーの番組に政治番組がめっきり増えた。ワイドショーばかりではない、討論番組にも度々政治番組がお目見えする。
 どちらかと云えば政治には無関心だった人々が、街頭で意見を求められると、政治評論家顔負けのコメントが返ってくるのも、これらのテレビ番組が増えたせいでもあるまいが、まあ、これはこれで結構な事だと云うべきなのだろう。
 これほどまでに政治は、ある意味ポピュラーな話題となりつつあるが、メディアの方もそれなりにポピュラー化し、ワイドショーのコメンテーターと名乗る身元不詳の人物が、政治評論家でさえ口にせぬような発言をし、人心をまどわすことになってしまう。
 街の人々がアレコレとにわか政治評論家気取りで持論を振り回すのはご愛嬌としても、いやしくもコメンテーターと名乗る人物が、確たるデーターや信憑性のある情報も持たずに政治の現状をコメントするならまだしも、その将来について予測したり、仮定の事柄に対して結果を断言したりするなどの暴言を吐くに至っては、まさに公害としか言いようが無い。高い公共の電波料を支払っているオフィシャルな場所で出演料を懐に入れながら、このような振る舞いに至るとは、断じて許し難いものがあると云わざるをえない。
 一方、討論番組にも無責任な発言が目立つ。大勢いる討論者の中で、なにかと自己の存在をアピールしようとするのか、反対のための反対だったり、どう考えても論理的でない感情論を振りかざしたりするのは、これまた見苦しいばかりでなく視聴者をばかにした振る舞いとしか言いようが無い。
 これら身元不詳のにわかコメンテーターや自称ジャーナリスト、学者もどき、評論家だまし、タレント、お笑い芸人などが政治評論家まがいの暴言を吐くに止まらず、現役の国会議員の先生方迄もが、この討論のばか騒ぎに真顔で参加する。そこには与野党の本音の駆け引きまでもが炸裂し、これらの討論番組は選挙運動の様相を呈し、相手のネガティヴキャンペーンまでもが繰り広げられるに至っては、直接にしろ、間接にしろ、電波料を払って観ている視聴者にとっては、誤った情報の洪水としか思えない。
 政治に関するメディアのあり方とは、正確な情報を公開することが全てであり、確かな裏付けもない資料を基に論評を下したり、憶測による自己中心的な予測を断言したりするものではないのは云う迄もないことだ。
 テレビで政治に関する番組が増えるのは結構なことだが、我々が必要なのは正確な情報の提供であり、それ以外の思惑や誤った憶測に塗り込められた話を必要としているわけではない。なぜなら、これらの言論は時として真面目に国家運営を計ろうとしている政府の足を引っ張りかねない、といった危惧をはらんでいる。
 願わくば、世のえせ、ジャーナリスト、コメンテーター、評論家、学者、国会議員、タレント、お笑い芸人共よ、余計なコメントは控えて静かにしていて欲しいものだ。

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=1票の意義、国民の立場からの戦略=

45回衆議院議員選挙は終わった。結果はご覧の通り自民党の惨敗、民主党の大勝に終わり、途中、細川内閣による政権交代など、幾度かの変化はあったにせよ1955年保守合同以来、連綿と続いてきた一党支配の政治体制に終止符を打ったことになろう。
今回の政権交代について1993年細川内閣のことが引き合いに出されるが、当時の政権交代は過半数に満たなかった自民党にたいして、8党が連立組んでの寄り合い所帯であったのだが、今回は308議席を確保する程の優位を占めての政権交代なのだから、これが例え小選挙区制度の影響を受けたとしても得票数は民主党が第1位を占めていることなどから、民意が選んだ結果の政権交代と断定しても差し支えなかろう。
民意が今迄の自民党の政治に対する不信感だとすれば、それ以外の野党第2党、民主党を選ばざるをえないのは必然のことであり、巷でよく云われる民主党を支持したのではなく自民党にお灸を据えたという表現も、結果としては民主党を支持したのに変わりはないことになる。
まだ首班指名も行われないうちから、民主党のマニフェストについての実現可能性について各界のジャーナリストやコメンテイター、政財界からの批判や不安が噴出しているようだが、日本人という民族はなんとせっかちで重箱のすみをつつきたい人種なのかと呆れてしまう。アメリカなどでも新政権発足後100日はハネムーン期間とよんで、政権の動向を見守る慣例があるくらいで、いやしくも自分達が選んだ政権を育てようとするくらいの度量が欲しいものである。
たしかに麻生前首相の政権しがみつきで解散後40日にもおよぶマニフェスト検証期間を持てたことは、ある意味、今回の選挙の大切さを知らしめるためには大いに効果は上がり、実際70%近くの投票率を記録したのだから、広く国民に政治をアピールしたことにはなったろう。しかしこれらをネタに視聴率を上げるためにのみ、興味本位のテレビ番組が組まれたり、比例代表制の意味や実態すら知らぬ、にわか造りの政治評論家やコメンテイターが横行したりするのは百害あって一利なしなのである。高価な電波料を払ってこれらの公害を垂れ流すようでは、テレビがもっている本来の正確な情報の伝達を阻害することにもなろう。
私は2005年の衆議院議員選挙では自民党に投票した。理由は簡単。行き詰まりつつある日本の政治に息を吹き込むには与党である自民党の再生を促すのが先決だと判断し、自民党をぶっ壊すと云って郵政民営化を打ち出した小泉体制を支持したのである。
郵政民営化や道路公団民営化が進めば自民党内部の族議員の居所がなくなるだろうし、またこれらの族議員に結びついている官僚の影も薄くなることだろう。そうすれば行き詰まった日本の現状も少しはましになるに違いないと考え、こうして生まれて初めての自民党への投票行動はなされた。
与党の大掃除をもくろんで自民党に投票してはみたものの、小泉政権がおわると、阿部、福田、麻生内閣と、改革どころか旧態然たる55年体制の自民党へ逆行する動きが見え始めたのを機に今回の衆議院議員選挙は民主党に投票することにした。
長年続いた政権の上にあぐらをかいた国民不在の政治では、それはもはやマツリゴトとは云い難い。私の投票行動は結果的には勝ち馬に乗ったようにはみえるが、話はむしろ逆であって、私の考えに世の中が賛同してくれたので、結果、勝ち馬に乗ってしまったと云えよう。
個人の1票の重みは重いものがあるとは云うが、1票の効果があらわれるのもまた気の遠くなるような重い辛抱を強いられるものだ。

第45回衆議院議員総選挙

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2001年に就任した小泉首相が2006年の退任を迎えたことによって、民意を問うべく叫ばれ続けた衆議院議員の解散が、やっとここにきて実現したということになりましょうが、小泉内閣以後誕生した自由民主党内閣は3代に渡って短命内閣に終わり、3年ものあいだ民意を問うこともせず、政権のたらい回しを続けたといえるでしょう。
地方選挙の連敗の結果、解散直前の内紛ともいえる自由民主党のていたらくは目に余るものがありましたが、これらも長年にわたる自由民主党政権の歪みともいえるのではないでしょうか。
政権交代の可能性も出てきた今回の選挙は解散から投票日まで40日もの長期に渡るため、各党のマニフェストを見定めた投票行動が論じられていますが、我が国のマニフェストは前回の選挙の時に掲げたマニフェストを総括するわけでもなく、政権公約とは程遠い、云いっぱなしの単なる絵に描いた餅でしかありません。
与党は野党には政権担当能力がない、とりわけ民主党のマニフェストは数字的には何の根拠もないバラマキだといきまいていますが、では自由民主党が長年政権を担当した結果、840兆の国家債務残高を作ってしまったことに対する総括は一体どこへいってしまったのでしょうか。我が国の赤字財政の数字をみただけでも自由民主党にはとうてい政権担当能力があるとは思えません。
一方、野党、民主党のマニフェストは官僚主導の政治からの脱却や子育て支援、年金制度の保証、と一見良い事ずくめのような景色ではありますが、これらに対する財源の確保や外交問題などに一抹の不安を覚えないでもありません。しかし民主党にとって都合の良いことは、まだ政権を担当した経験がないだけに、これらの公約を実現する能力の有無は未知数だということになりましょう。
いくら我々が各党のマニフェストを比較見当してみても、現在の我が国の政治の熟成度からいえば、それほど信憑性のあるものではなかったし、またこれらのマニフェストを総括し次の政権運営に生かした政党は皆無であったことを思えば、恋愛中の男女の戯れ言と取られても致し方ありますまい。
マニフェストで政権公約を果たす、と云う割には、各党とも根拠のない情緒的なネガティヴキャンペーンに終止する論理の展開と整合性の無さは、論戦の場であるべき国会議員としての資格さえも疑わざるを得ません。
しかし私達は今度の選挙で今までの与党、野党のどちらに嫁ぐかを決めなければならないのです。すくなくとも向こう4年間は両家のどちらかで生活しなければならぬ自己責任が生ずることを覚悟しなければならないでしょう。
どこの国でも政治に透明性があるとはおもえません。ですから政治などと難しく考えずに、どちらの家へ嫁に行くかを決める覚悟で投票した方が、よほど自分にとって納得のいくものになるのではないでしょうか。

少子化と大学入試

=少子化と大学入試=

 少子化に伴い、大学の入学者数が減少している煽りを受けて、大学の入試やカリキュラム等の制度が平易化されている。勉学なしに入学、卒業ができる体制が整いつつある、と云っても過言ではあるまい。客数が少なくなれば当然のごとく買い手市場となり、店はサービスに相務めなけらばならず、お客様は神様であり神様のおっしゃることはご無理ごもっともで、客の言いなりにならざるを得まい。
 もともと日本の大学は外国などにくらべ入学試験は厳しいものだった。外国の大学のように入学はさせるが卒業となると日本では考えられぬような過酷な卒業試験や論文が待ち受けてはおらず、一旦入ってしまえばこちらのもの、何となく、それとなく御卒業の席が設けてあったものが、入学試験さえも易しいものとなれば、これはもう、黙って座っているだけで良い生活環境としか言いようの無い快適さである。
 一通りの入試対策はやるが、さりとて入学のための明確な目的もなく熱意も根性もない。ただ何となく大学へ通ってみたかっただけの話。今キャンパスにはこのような若者で賑わっている。大学も客さえ集まれば、少々の事には目をつぶり、見ぬふり、聞かぬふりを決め込んでいて、若者の育成や国家の繁栄などよりは大学の存亡の方がよほど切実で切羽詰まった問題であることが感じられよう。
 そもそも教育機関で学ぶということは、そこに所属する教授に学ぶということであって、教育機関自身が人を教えるわけでもなんでもない。これは医療機関にも同じような事がいえる。いくら名の通った有名大学病院でも、病院が患者を治すわけはなく、そこに所属する名医が病を治すのであるのを見落としてはならぬ。有名大学に必ずしも名教授が存在するとは限らないが、ただ我々にはそのような内部情報が与えられていないに過ぎないのだ。したがって有名大学ならさしずめ当たり外れはなかろう、という希望的観測でしかない。こう考えると、有名大学を目指すよりは名教授を探した方が、ものを教わるには確実で整合性のある方法論だといえる。このような考え方にたった受験生が増えたとき、初めて日本の教育のあり方が明確になるのだろうが、これも鶏と卵の話のように後先どちらとも決めかねる問題なのかもしれない。
 それにしても大学を出たにしては余りにも使い勝手のわるい人材が多すぎはしないだろうか。モーッアルトは5才のとき「アンダンテ、ハ長調、K1a」を作曲したと云う。そこまで云わずとも、この世に生を受けて何に意義を感じ、どのように情熱を燃やそうとするのか、これは学力などの問題だけではない。そもそも学力なるものを身につける手だてを教育機関に委ね過ぎてはいないか。知識や学力を習得する場は必ずしも大学とは限らぬ自覚を持つべきである。
 片や教育機関にしても何のために教育の場が存在するかの意義すら明確ではないものが多すぎる。人を育ててこそ世の中は豊かになり国は栄えよう。科学の発達、経済の発展、文化の向上、スポーツの振興、国家の繁栄、全ては人が育つからこそあり得る現象ではないのか。教育機関が人を育てるための必須条件は人が育てられるような人を擁立することに他ならない。
 大学経営陣にいわせれば、学生募集がなりたってこその経営だと云うだろうが、若者を預かってお守りするような中身の無い大学ならば、教育機関としての存在意義は無いことを肝に銘ずべきであろう。
驚くべきことには2003年現在、日本には1,227もの大学が存在する。

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