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美声学ブログ(松尾篤興のブログ)
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書庫Essay(随筆)

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しょーと、しょーと。

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しょーと、しょーと。
  
(1)金子みすゞの作品より、「こだまでしょうか」
 
「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。
こだまでしょうか、いいえ、うちのカミサンです。
 
 
(2)病院にて、老婆の会話
 
「今日は暖かくって、いい塩梅だね」
「ん、腰もシャンとしてね、楽だぁ」
「あんた、今日は何の検査?」
「別にどうこうないけどね、ここに来ると安心だから」
「イトさんは、今日、見ないね」
「さっき、家に寄ったら、具合が悪いから今日は家にいる、と云ってたよ」
「フーン、そんじゃ家で寝てなきゃだめだ」
「うん」
 
 
(3)日本語のようなイタリア語

 イタリア語        日本語

Acciuga  アッ!ちゅうが アンチョビ
Battente  バッテンて  ハンマー
Alacre   荒くれ    活発な
cucina   喰っちーな  料理
soia    ソイヤ!   大豆
magro   マグロ    痩せた
salsa     去るサ      ソース
una donna うな丼ナ   女
sisma    沈まぁ    地震
 
 
 
 
 
 

日本の3.11.災害と音楽

日本の3.11.災害と音楽

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ニューヨークが9.11.ならば、今回の東日本大震災は日本の3.11.だろう。私も湘南地方に居て、被災はしなかったものの、マグニチュード9.0を実感した1人だ。
自然の気まぐれで、もう少し震源地が南に偏っていれば、私もあのまま瓦礫の中に埋もれてしまったのかもしれぬ。
私はこの歳になっても神の存在を知らぬ不肖者だが、これだけ広範囲にわたる災害に巻き込まれなかった幸運について、感謝の気持ちを持たざるを得ない。
無念にもこの世を去ってしまった同胞に、深い哀悼の意を表する。
東日本だけではない、日本各地で物流が滞っているために食料品、ガソリンなどの品不足が起っている。品物が無いとなれば否が応でも買いあさるのが人間の浅ましさだろうか。昔、我々はオイルショックの時、トイレットペーパーを買いあさった愚かさを学習したはずなのに、ここにきて同じ過ちを犯している。
石原慎太郎都知事は今回の地震を、日本人の我欲による天罰だと放言して物議をかもしたが、ポピュリズムを語るには不適切な言葉だった。彼の言動はこのところ少々的外れなものがある、これも加齢のせいか。
川崎ミューザの天井落下のせいでもあるまいが、災害が起ると催し物を自粛するのが慣例になってしまった。この問題の奥には、音楽などに対する日本人の認識の浅さが浮き彫りになってくる。
音曲、それは囃子であり、浮かれた状態であり、到底、災害時に行うべきではない不謹慎な行動だと云うことになろう。
外国では死者を墓場へ葬る葬儀の列にブラスバンドを使って弔う慣例があるのをご存知だろう。日本に於いても浄土宗の葬儀などは派手な鐘太鼓の鳴りものが使われる。
死者を送るのに音を出すのはもってのほかと考え、出来るだけ目立たぬよう卑屈に辺りを伺う人間性、この自信の無さが、ひとたび豹変すれば品不足の買いあさりに走る行動に繋がる事になるのだろう。
モーツァルトのレクイエムを聴いているだけで、死者の魂に近づける気持ちが湧いてくるのは私だけではあるまい。

ならぬカンニング、するがカンニング。

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(CIEL University Examination Rooms)
 
携帯電話を使った入試カンニングが発覚した。もともとcunningには英語のずるいと云う意味があるが、試験での不正行為は英語ではcheating(詐欺、いかさま)でカンニングとは云わない。カンニングの技術もここに極まれり、といった感がある。まさに「石川や浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」で学校側と生徒のイタチごっこは遠い昔から営々と続いている。我々の学生時代も「ならぬ堪忍、するが堪忍」をもじって「ならぬカンニング、するがカンニング」などとうそぶいていたものだ。
たしかに不正行為をしない受験生にとっては許し難い行為だろうが、どちらかと云えば、こそ泥のようなこれらの行為は割の合わぬ阿呆らしい行為でしかない。どんな手だてを使っても試験問題すべてを丸抱えでカンニング出来る筈も無く、ひとつふたつの問題の不正に手を染めたところで、大勢に影響するものでもない、むしろ幼稚な微笑ましいおこないですらある。
カンニングを正当化するつもりはないが、もともと名門教育機関の名前に全幅の信頼を寄せ、子供に入学を強要する事の方が、よほど理にかなっていない行為であるのに気付くべきだろう。名門校が素晴らしいからといって、その学校に入ればすべてが保証されるわけでもあるまい。いくら有名な大学付属病院だろうが、そこの医師が優れた腕を持っていなければ、患者にとっては全く救いの手は差し伸べてもらえぬ道理だろう。
学歴社会も、学校に所属する良い教師を頼るならば話も分かるが、学校の名前自体に頼るようになってしまったところにすべての錯誤があり、このようないびつな不正行為を生む原因を作ってしまった。
もともとカンニングなどは、小心者の洟垂れ小僧が考えつくような代物で、これらの行為に大の大人が目くじら立てるほうがよほど無粋な話だろう。
今回の件で大学側は急遽、入試の危機管理についての手直しを迫られるだろうが、それ以前にこの洟垂れ小僧の育てかたの行き届かなかった総括はだれがするのだろう。
カンニング、万引き、痴漢、それぞれ割の合わぬ立派な犯罪である事を本人が自覚するのがもっとも大切な問題なのだ。
teachingcheatingcomingcunning
 

つゐったぁけんぶんろくイメージ 1
 
年甲斐も無くつゐったぁなるものを始めてみた。140文字で云いたい事、訴えたい事、頷いて欲しい事、聞いて欲しい事、などをさえずるらしい。
140字と云えば原稿用紙7列、これでは全く物を書く間もない。季節の挨拶を書き終えたところですべては終ってしまう。世の中忙しくなってきたと承知してはいたが、このような書式が一般化しているとは思いもよらぬ事だった。
そもそもブログにせよ、ツウィッターにせよ、自分がしたためたものをいとも簡単な操作で世界へ向けて発信できる手だてがそこら中に転がっているのも、考えてみればある意味空恐ろしい事ではある。
何も自慢するつもりはないが、Adbe GoLiveで自分のホームページを立ち上げた時は、およそ2ヶ月の月日を費やし、やっとの思いで立ち上げたものだが、今や既製品と云おうか、出来合いの書式に文字を連ねれば即座に全世界に向けて言葉を発信できる仕組みが備わっている、まことに便利この上ない道具がそろっているものだ。
人はなぜ文字をしたため、これを公にするのだろう。文字自体が自分の意志伝達のための道具であるからでもあろうが、今や自費出版、電子書籍、ホームページ、ツウィッター、ブログ、メールなど世界中の人々が著述家と化している。これもパソコンや携帯電話が発達した結果のなせる技だろう。
かく言う私も綿々と駄文を書きなぐっているが、これでも一応、用紙に書き込み、推敲した上でホームページやブログに貼付ける手順は欠かさない。ところがツウィッターとなれば、わずか140字を下書きして推敲する、と言うのも却ってツウィッターの機能を損なうような気がして、さすがにこれは直に書き下ろす事になる。
もともと投稿や著述は人に読んでもらうための行為であり、それが意図するところでもあろうが、ツウィッターとなると少々事情が違ってくる。
140字を効率良く使うでもなし、ほんの1,2行の文章を幾度となく投稿する。どうやら読み手には関係なく思いの丈を喋ってしまえば気が済むのであろう。スパンいっぱいを使うために省略した言葉を使っているのかと思えば、そのような気遣いではなく、これも単なる流行り言葉らしい。「渋谷なう」と書くよりも「今渋谷」の方が余程分かりやすいし、文字数も少なくてすむ。例えは悪いがフライドチキンを一口齧って捨てるようなものでしかない。
したがって読み手にとっては投稿者のアドレスばかりが目立ち、投稿の項目数ほど中身の無い、1項目で事足りる文章となり果ててしまう。それがツウィッターと云ってしまえばそれまでだが、目次を拾い読みしているような感じでまことに読み辛いことおびただしい。
要するに自分の喋る言葉で文字を書こうとする事自体が大きな勘違いだと云う事が分かっていないのだ。
音声には強弱、長短、高低の抑揚がある。同じ言葉でも語尾を高く喋れば疑問形にもなるし、助詞や補語などを省けば命令形にもなってしまう。これを文章にするには、?や!を付け足して文章の本意をあらわさなければ本来の意味は伝わらなくなる。その文章力の無さを絵文字や自分達で勝手に作り上げた流行語や造語や絵文字でしのごうとするから、その世代にしか通じない、まことに不便きわまりない文章が生まれてしまうのだ。
それだけではない、誤字、脱字、衍字の多さは目を覆うばかり、てにをは、は間違いだらけ、漢字を知らぬばかりに起る変換ミスも加わり、果たしてこれが日本語だろうか、とさえ思いたくなる文字の羅列と成り果ててしまう。
これが文化と云えるのだろうか、近頃は幼稚園からの英語教育などバイリンガルな生き様がもてはやされているようだが、日本国籍を持つ主軸の日本語がこの体たらくでは2カ国語どころか1カ国語も通じないのではなかろうか。
文章もスピーチも簡潔をもってよしとされるが、短いばかりではあまりにも芸が無い、簡潔な中にあり余る内容が詰め込まれてこそ味わいや風格が感じられよう。その代表的な文章が昔から伝わる詩歌だろう。とくに俳句は僅か17文字のなかに完璧な世界を表現している。先達の言葉に対する智慧と感性を、我々はもう一度見つめ直す必要がありはしないだろうか。


八百屋の長兵衛と力士達
 
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                                            (写真はwikipediaより)

八百長は明治時代の八百屋の店主、長兵衛に由来する。長兵衛は通称、八百長と云い、相撲の年寄、伊勢海五太夫の碁仲間であった。
碁の実力は長兵衛が勝っていたが、商売上の打算から、わざと負けたりして勝敗をうまく調整し、伊勢海五太夫のご機嫌をとっていた。
のちに勝敗を調整していたことが発覚し、わざと負けることを相撲界では「八百長」と云うようになった。
やがて、事前に示し合わせて勝負する意味を含まれるようになり、相撲以外の勝負でも「八百長」という言葉は使われるようになった。
                              =語源由来辞典より=
 
角界では野球賭博問題にまだケリがつかぬ間に、八百長問題が発覚した。事あるごとに理事長は辞任し、猫の目のように角界トップが変わるさまは、我が国のトップ、総理大臣の交代劇を思わせてならない。
野球賭博とは違って八百長相撲の場合、一般市民が取り組みに対する掛け金を払うわけでもなく、当事者同士の金銭の遣り取りで、犯罪行為とは云い難い部分はあるが、勝負自体がいわゆる出来レースである事が、相撲と云う国技の精神から甚だしく逸脱していると云うのだろう。放駒理事長は記者会見で、過去に例のない不祥事、と陳謝し、菅首相は国会で、国民にたいする背信行為、と述べたが、石原慎太郎都知事は、あんなものは昔からやってるよ、とうそぶいている。
原因は角界の給与体系の問題だとか、理事達の指導力の問題とか、体制の全面的な刷新とか、奈良時代から続いている国技の精神論までガイヤは勝手な事を云い、魔女狩りに懸命だが、考えようによっては示し合わせた筋書き通りに勝負を運んで、思わぬドラマを演出して何が悪い。思いっきりショウアップした大相撲もまた悪くないだろう。
相撲を国技だとか、神聖なフェアープレーの精神論を持ち出すから現在の体制では対応できなくなるのであって、やる方も見る方も、お互い納得ずくの上、ドキドキ、ハラハラのショーに徹すれば良いではないか。
連勝街道まっしぐらの横綱を初入幕前頭10枚目が投げ倒したとか、優勝決定戦を十数人の力士で争ったなど、考えればいくらでもスリリングな筋書きはつくれよう。
今や角界はここまで腐敗しきった事が表沙汰になったのだから、いまさらこれを刷新しようなどと大それた事は考えずに、いや考えたところで現体制では、ほぼ不可能に近いだろう、したがってこの際、開き直って八百長ショーを組み込んだ面白おかしい相撲ショーに徹するが良い。
但しまちがっても公益財団法人などと云わぬ事だ。我々の税金を垂れ流すような事さえなければ、国民は暖かい目でこの新しい相撲ショーを見守ってくれる事だろう。


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