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美声学ブログ(松尾篤興のブログ)
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伝統的芸術の継承

伝統的芸術の継承


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Twitterで知り合ったウイーンで研鑽中の村山岳さんのブログに面白い記述があったので引用させてもらいました。
 
村山岳(2011,熱い会食,クラシック道場,

クラシック音楽、「オペラ」というのは、ヨーロッパの伝統芸能であり、伝統芸能の継承という観点から、異文化を異国人が継承する時に、決して間違った形で日本のクラシック、日本のオペラにしてはいけないという事です。

歌舞伎を例に考えると分かりやすいかもしれません。グローバルスタンダードという感覚が進む中で、グローバルとは?今1度考えないといけないと思います。

 
私が芸大在学中感じていた西洋音楽という異文化を異国人が学ぶ難しさについて、同じ芸大の後輩が今、同じような問題を55年経った現在、再び掘り起こすとは思いもよらぬことでした。勿論、当時はグローバルスタンダードと云う言葉もなかったし、そのような概念すら持ち合わせてはいなかった時代でしたが、私達が異文化継承の難しさに窮していた事とはまた違った形、つまり伝統を重んじる形で継承できるか、と云う問題について論じているのは半世紀の時の流れを感じざるをえません。
歌舞伎を例に挙げて論じようとしていますが、歌舞伎の伝承は大部分が世襲によるもので、日本人でさえ一般市民は参加できるものではない事を考えると、外国の人々にとって更に高いハードルが待っていることになります。オペラに於いては歌舞伎のような身分の制約はないものの、人種に対するぼんやりとした制約が立ちはだかっているのを見逃すわけにはいきません。
今でこそグレース・バンブリーのようなカルメンを見る事はできますが、いくらセビリアの話だとしても、黒人のカルメンの出現は衝撃的な事であったろうと思います。
日本人が海外の劇場で歌える演目と云えば、これまた三浦環を筆頭に蝶々夫人に限られている感がしないでもないのは、どうしてもオペラはビジュアルな面が大きな要素を占めている、と考えざるをえないのです。
歌舞伎もオペラも習得するためには言語の壁が待ち受けています。歌舞伎は例え日本人といえども、かなりの予備知識がなければ話の筋さえ理解しがたいものですし、オペラも演目によっては方言や慣例があり、そこで生活して始めて見えてくるものが多々あることは否めません。
それに厄介なのは、どうしても争えないのが血筋です。オペラではありませんが、我々が毎年新年になるとTVで目にするウイーン・フィルハーモニーのニューイヤー・コンサートで演奏されるウインナーワルツの拍子感、あの3拍子は2拍目が早いのでも、3拍目が遅いのでもなく、物理的には証明し難い血筋のようなものが流れているとしか言いようがないと思ってしまいます。
歌手についても同じような事がいえるでしょう。ブルガリアやソビエトのような北国には我々の想像を超える喉を持ったバス歌手がいたり、いくら高音域が歌えようが、ルチアーノ・パヴァロッッティのようにイタリアの純正ベルカントを感じさせるのは、もはや血筋としか言いようが無い、絶望感さえ感じてしまいます。
しかしそれではヨーロピアンを歌舞伎役者に仕立てるのは無理か、アジアンは蝶々夫人やトゥーランドットしか出演できないのか、という極論が待っていることになりかねません。
そもそも伝統芸能というものは元々ローカルなものであったものが、時代の流れで世界規模にまで広がった、と考えた方が納得いくのではないでしょうか。したがってメソードとしてのグローバルスタンダードが初めからあるわけがないのです。
これらのローカルな伝統芸能が世界各地に広がりを見せ、世界規模の市民権を得た時にはじめて、これらのメソードをグローバルスタンダードと呼ぶ事ができるのかも知れません。それは恰もビートルズがソビエト連邦を崩壊に導いたように、グレース・バンブリーのカルメンやバーバラ・ヘンドリックスのミミがオペラの世界に革命をもたらしたのは、市民の支持があったからに他ならないでしょう。



年頭に想う

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(クリックすると原稿用紙は拡大されます。)
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外人離れした日本人

外人離れした日本人
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 昔、と言ってもわずか半世紀ほど前だが、日本人離れした人と云えば或る種の褒め言葉とされていた。
 日本人離れ、つまり外人と云えば欧米の人達を指し、顔は彫りが深く、頭髪は柔らかな金髪、スタイルはスラリと足長で背は高く、話し声は明瞭、我々日本人からすれば人間とは思えぬ風格を備え、自信に溢れるその立ち居振る舞いは日本人の羨望の的であったに違いない。
裏を返せば当時の日本人と云えば、目鼻立ちがのっぺりとして、頭は重い直毛の黒髪、胴長の5頭身で、喋り方といえば控えめで無意味に笑みを浮かべる。これが明治維新から長きに渡って日本人が持ち続けた外人コンプレックスの全貌であろう。
時は流れ新しい世紀を迎えた現在、日本人のスタイルが改善されたのは食べ物の欧米化や西洋風な住居による所もあろうが、国際水準を満たすまでに至った。顔立ちは整形技術が発達し、頭髪は好みの色が選べるようになり、女性に至っては国際美人コンテストで優勝するなどは、なにも物珍しい話題ではなくなっている。
学術や科学に於いてもノーベル賞の受賞者はこのところ順調に選出され、スポーツなどもアメリカ大リーグのスタープレーヤーとして活躍している人も少なくない。医学の世界でも医療技術の進歩は世界一の長寿国を達成した。産業界に於いても日本製品の定評は良好で、Japanese goodsは世界に定着している。
むしろ欧米の人々の顔が日本に向いている傾向が強まっていると云えなくもない。食べ物も鮨、天ぷら、すき焼き、は定番の人気メニューで、上手に箸を操り、納豆や卵掛けご飯を食する外人も見かけるようになった。生卵を食べるのは蛇と日本人だけだと云われた時代の終焉である。
和服やハッピなども人気ウエアの上位で、考えてみると日本人はとっくに洋服を着こなしているのに外人は未だに和服を着こなすまでには至らないのは、オペラ蝶々夫人を見ても分かるように、どれほど声が良く歌が上手くても蝶々夫人の着物の着こなしには幻滅を感じてしまうのは私だけではあるまい。
日本人は確かに色々な意味で国際水準に達し、しかも日本人がそれを何のためらいもなく当たり前のように感じている。もはや日本人に日本人離れしたと云う言葉の本当の意味が理解できるのだろうか。いや、むしろ日本人は今や外人離れしているのではなかろうか、という懸念さえ抱くようになった。

日本が世界に誇れるもの、それは何ですかという問いに答えるネット上のアンケートが目立つが、一人として「日本国平和憲法」と答えた人は見当たらなかった。
武器をちらつかせながら外交問題を解決しようとしている旧態然たる諸外国に対して、日本は戦争を放棄した国の新しい外交のあり方の先進国としての存在を示すことが、なにより日本が世界に誇れる行為だという意識が国民の間に根付いてこそ、日本人は本当の意味で外人離れができるものだと思うが。

(日本国憲法第9条より:
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する)

声楽教師の身勝手

声楽教師の身勝手

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 いわゆる歌の先生なのだが、先生が良くないのか、それとも歌そのものにつかみ所が無いのか、おしなべて感動に値するような講義を展開する御仁にはなかなか巡り会わない。特に発声、声の出し方について論理的な教えを聞いた事が無いのは、発声そのものが理論立てて教えられるたぐいのものでは無いのだろうか。
 考えてみれば、目視できぬ声というものをあたかも手に取ってみるような説明や解説をしろと云う方が土台無理な話なのかも知れない。
 少しばかり考えてみれば、歌を教えたり声の出し方を指導したりすることなど、割の合わないくらい困難を伴う行為だということが判るはずなのに、世間には何と多くの声楽教師の溢れている事か、そして危険を冒してまでもこれらの曖昧なる先生に師事しようとする悩める羊の何と多い事か、理解に苦しむ次第。
 
 声楽家が集う飲み会などに顔を出すと、酒の勢いも借りてか師匠のレッスン時のエピソードが次々と披露され、延々とこの話題を肴に酒を飲み、盛り上がっているのに遭遇する。
「もう少し響いた声は出せんのか」それが出来ないからレッスンに来るんだろう。
「もう一度やってごらんなさい、おかしいですね、できませんか」できるようだったらここには来ませんよ。
「眼の奥を明るくするんです」・・・で、どうすれば眼の奥は明るくなるんでしょう。
「息は吸うように歌うんだよ」歌えますかね?
「頭を開くのです」頭を・・・開く・・・それは・・・Oh my God !

 これらの問題は2つに集約されそうだ。
1)上手く行かないのは生徒にその能力や才能の無さが原因だと責任回避をする。
 教える能力が問われていることに先生自身の自覚が無い。
2)レッスンで要求されることが余りにも先生本位のイメージである。
 イメージというのは相手に手っ取り早く事態を理解させやすい場合もあるが、本来自分の頭の中にあるものをそっくりそのまま相手の頭脳に構築できるしろものではない。

 ある公開レッスンで有名な女性歌手の指導を見たが、生徒が歌って悪い部分があると途中で遮って自分が歌う、そしてまた生徒が歌う、上手く出来ないとまた自分が歌う。この繰り返しの連続だった。生徒はおそらく何も判らずじまいにレッスンを終わったのではないだろうか。
 要するに先生側に教えるための理論が正しく構築されていないために、生徒の問題点を探り当てる能力もなければ、論理的な説明もなされないし、生徒の問題点を指摘し、それにたいするドリルさえも与えることが出来ない。そして上手くいかないのは生徒の能力や才能が無いと断定することによって責任回避ができれば我が身安泰ということになろう。

 この本はもともと教師に向けたものである。その目的は、実際的な見地から、歌うときに声を出すことについての諸問題を、できるかぎり明らかにしようと試みたことである、と述べたフレデリック・フースラーの言葉が思い出される。
                        出版予定の本の原稿より


領土問題と虎のテリトリー

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 尖閣諸島沖衝突事故で、にわかに日中問題が世界に浮上してきた。日中に限らず中国との領土問題や地域紛争は以前から周辺各国の悩みの種でもあるのだが、今や飛ぶ鳥をも落とす経済発展を遂げ、国産空母を建造中の軍事力を誇る国を相手に、対等に渡り合えと云う方が無理なのかも知れない。それでなくても過去、地域紛争の火種をまき散らしてきた相手だけに、触らぬ神に祟りなしとばかりに敬遠したくもなるだろう。
 日本が抱えている領土問題は他に北方領土、竹島問題などがあり、ざっと見渡しても中国、韓国、北朝鮮、ロシアなど関係数カ国に及ぶ領土問題が存在する。
 日本政府はこれらの島々を日本固有の領土と主張している。固有の領土と云う言葉は日本語に於いて外国の領土に一度もなったことが無い領土、を意味するが、この言葉は国際法上の用語ではなく、国際的にはan integral part of Japan's sovereignterritory(日本の自主領域の不可欠な部分)と説明されているようだ。しかしこれでは固有の領土と云うニュアンスは弱まりさまざまな解釈が生まれる事になろう。既に実効支配している言い分や、歴史的視点を強調してみてもそれらを認めるか否かは確証があるわけではない。
 領土には資源などの所有権が絡むだけに、国家として領有権を主張するのは国民の生活を護るテリトリーを確保するための当然の主張と云える。
 
 虎はネコ科の動物の中でも全長は優に3mを超え、体重は300kgにも及ぶ大型動物で、数十平方kmのテリトリーをもっている。アジアに多く分布しアフリカのライオンと並び捕食動物の両雄でもあるが、縄張りを主張するのは主に餌場の確保であり、同種の侵入者には厳しく立ち向かうが、決して殺すようなことはしない。虎やライオンの雄が自分以外の雄の子供を殺す事もあるが、これは雌に発情を促し、自分の競争相手を無くし、自分の子孫をより多く残すための知恵だと考えられる。
 テリトリーを守るのは餌場を確保し生き長らえるためのものであり、同種の侵入者に対して排除はするものの、共存の態度が見て取れる。
 
 領土問題に動物の餌場の確保にも似た有り様が見えるのは、資源の確保によってその国の人々が潤うからであろう。国家の舵取りの不具合によって生じた階層の格差を、領土を広げることによって解決を図ろうとする魂胆も見えてくる。
 領土問題において国家間の話し合いがつかずもめ事が起れば地域紛争あるいは戦争にまで発展しかねない。つまり合法的殺人行為である。
 知恵を持つ人類は生き物を殺傷する道具を開発してしまった。素手で戦うのであれば虎やライオンのようにテリトリーを守るために相手を威嚇することはあっても殺すまでには至らなかったであろう。
 
 非暴力運動家で名高いマハトマ・ガンジーは真実による実験の物語」の中で次のように述べている
「絶望を感じる時、すべての歴史を通じて、真実と愛の道が常に勝利を収めたことを思い出す。暴君や殺人者の存在は、時に打ち勝ち難いように見える時もあるが、最後には彼らが必ず滅びてしまう。そのことを考えなさい、いつでも。
 たとえ全体主義の名の下に行われようと、
また自由と民主主義の聖なる名の下に行われようと、
狂気に満ちた破壊は死者や孤児、家のない人々にとってはみな同じである。「眼には眼を」は世界全体を盲目にしてしまう。私には、死んでもいいという大儀は数多くあるが、
相手を殺してもいいという大儀は一つもない」

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