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(四)
小平は、いつものように一条大路に入って東に進み、大内裏をこえて堀川小路を南に向かった。
目指すは、六町ほど先、当時、頼通の邸宅であった高陽院の前あたりから堀川院のあたりにかけての人通りの多い場所。
ふつう平安京で、「市」といえば左京と右京にそれぞれ東市と西市が、官営で設けられており、商いはここ以外では出来ない決まりであった。
東市は現在の西本願寺あたり、西市は現在の西大路七条の東北方付近にあったとされる。つまり朱雀大路を中心として七条東大路近辺と七条西大路近辺というふうに左右対称に設営されていたのである。もっとも西市は右京の開発が遅れたこともあって衰退し、それとは対照的に左京の発展に伴い東市が交易の中心となる。発掘調査などによると、まさに小平が生きた摂関政治時代は、西市のみならず東市の遺構、遺物の出土も極端に少ないらしい。旧記には「今日、関白并に春宮大夫家に虹立つ。世俗の説に依て売買の事あり」という記事が見える。ここでいう関白は、もちろん頼通、春宮大夫は、堀川右大臣こと頼通の異母弟頼宗のことである。この記事から官営の市以外に市が開かれることもあったとわかる。
また、それは時の権力者の邸宅近辺で、人通りも多い場所であったとういうことが知れるのである。むしろこのような市が中心をなしたのかもしれない。このことは律令による支配がゆるやかに運営されていたことをうかがわせる一方、実際問題として、平安京の南端に近い部分に市があっては、北の方に住む平安貴族にとっても至極不便であったという実益上の問題を反映してのことと思われる。さて、話を小平のことに戻そう。
小平が一条大路に入ったのは、だいたい巳の刻のことであったろうか。西の空には、鱗雲が薄くたなびき、空は青く高く凛としていた。涼やかな風が心地よかった。
幾町か歩くうちに、人通りがやけにすくなく、おそらく検非違使の役人と思われるものの、東へ西へと忙しく行き交うことはなはだしいのに気がついた。
小平はごくりとつばを飲んだ。口べたな彼は、検非違使の役人に話しかけられることを極端に嫌った。話し下手な彼を相手に、検非違使の役人どもは、いらだちを隠すことをためらわず、人間の尊厳を傷つける暴言を吐いたことも一度や二度ではなかった。そんなとき小平は拳をぎゅっと握りしめ、それでも笑顔で
「へえ、へえ、……田舎もので、ものを知りませんもんで、すまんことです」
と頭をさげて、やり過ごすのであった。小平は、そんな卑屈な自分に嫌気がさすこともあったが、さきの笑顔と歌を思い出すと心の平静を取り戻すことができたのだった。小平は背を丸め、なるべく目立たぬように道端を歩いた。
堀川小路を右に折れたとき、小平の不審は、さらにつのった。
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