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今回の『歴史探検』は。。。 それは4年くらい前に茨城県内のミステリー検索をしているときの事・・・ 水戸の駅南・あるいは城東(水戸駅の東の方)付近に処刑場跡があるとの書き込みが! 実は3〜4年前にすでに、『結界』という心霊サイトでこの処刑場があるという情報はキャッチしていたものの、この処刑場の明確な所在については一切分からずじまいだった。 そんなやばい所が本当に水戸市内にあるのか!? 『水戸市』は自分の地元なわけで生まれてからずっと住んでるが処刑場があるというのは聞いた事がない。 本当にあるか試しに探しに行ってみよう! ということで友達数人と若葉マークをつけた軽自動車に乗り込む事15分、水戸の『城東(地名で水戸駅の東の方)』へ処刑場探しがはじまってしまうがこれがなかなか見つからない。 というか水戸に処刑場があるなんて聞いたことないし・・ ガセねたか!?( ̄ロ ̄lll) ガビーン あまり信用性のない情報だと思いそのまま放置すること4年くらいの月日が流れ・・・ 今度は大手掲示板サイト『○ちゃんねる』にこの水戸の赤沼処刑場跡に関する詳しい書き込みがあり(過去ログ)場所がハッキリと明らかになった。 それには検索バーで『赤沼 吉沼 と検索すれば出てくると思う』とも書かれていたので、その通りに検索すると処刑場に関する情報が数件でてきた。 早速、家から近いところなので見てきてみる=З。 福島県の『白虎隊』や『新撰組』は有名でドラマ化もされる! でも、茨城県の『天狗党』は・・・ どっかの政治家の名前か?というくらい知らない人が多いと思う (自分もあまりよく知らないw) この『赤沼牢屋敷』について調べると・・ 簡単にまとめてみる↓ 1864年くらいに水戸藩で内乱が起き内部分裂が起きる。 そして水戸藩は藤田小四郎らが率いる『尊皇攘夷過激派(天狗党)』と、市川三左衛門を代表する佐幕派(諸政党)に分裂! そして両者は各地で激しい死闘を繰り広げる。 藤田小四郎は『武田耕雲斎』に天狗党の首領になるように説得する。 そして藤田小四郎と武田耕雲斎が首領となり、各地農民や商人などを見方につけ争う。 しかし天狗党の首領である藤田小四郎・武田耕雲斎が諸政党や幕府軍の強力な追討をうけ降伏、斬首される。 そして残った天狗党関係者も次々と降伏。 捕らえられた天狗党関係者に下された判決は350人斬首という極めて厳しい内容。 天狗党関係者の中には普通の農民などもいたそうです。 極めつけは市川三左衛門による、天狗党の首領であった武田耕雲斎の妻と子の斬首です!! 武田耕雲斎の妻は、夫の塩漬けにされた首を膝に抱え込まされたまま斬首されました。 その光景は非情に無情。 更に、その子である10歳と3歳の子も斬首され 耕雲斎の妻の首とともに『吉田の原(吉田町の原っぱ?)』にさらし首にされました。 処刑されたのはなんと他に類を見ない350人!!! 無邪気な子供や農民の首をはねるとは悲劇としかいいようがない!! いくらなんでもそこまでする必要があったのか!? ひどすぎるぞo(*≧д≦)o″)) 『水戸黄門』でおなじみの、平和だと思っていた地元の『水戸』でこのような惨劇がおこっていたとは・・ 武田耕雲斎の一家をはじめ、処刑された350人に合掌。。(´△`)↓ 『赤沼 吉沼』と検索して1番目にヒットした水戸商工会議所『歴史と東部の伝統の東部巡り』というwebサイトの地図を頼りに行くと・・・ その処刑場は城東に近い『吉沼町』に観光化やガイドにも載ることもなく住宅地にひっそりと佇んでいた。 最初に想像していた『処刑場』のイメージと違い、特に不気味だとか怖い印象はなく地元の人によって供養されているため、きれいに整備されている。 赤沼牢屋敷供養塔↓ 花が添えられているが、場所はほとんど知られていないためか慰霊碑という物件だからか訪れる人はほとんどいない。(自分も初めて知った) 慰霊碑(?)↓ 供養塔の後ろには『赤沼処刑場』に関する説明書きがしてある。 が、漢字がよく読めなかったので後でまた別の方法で調べた アタヽ(´Д`U 読める人はなんて書いてあるか訳して下さいw しかし、千束原って一体どこだ・・・?? 知ってる人はコメントをよろしくお願いしますw 吉田ヶ原付近↓↓ 画面奥の、普通に住宅が建っている丘の上、もしくはこの池の下(池は後からできたっぽい)あたりだと思う・・(?) (※違ってたらコメントおねがいしますw) ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 後日、11月15日仕事帰りのついでに『千束原』に行ってみようと細い道を走行中・・ 道をまちがえるW 詳細な場所を調べないで行ったので大体の勘でさがそうとしたが失敗・・汗 ぐるぐる車を走らせると道路沿いに何か発見↓↓ 何かの石碑と文字がかすれた石のかたまり その先のY字路の真ん中に↓↓ 無縁仏? これも千束原となにか関係があるのか!? 相当古いものだと思われる。 現時点では詳細不明 |

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たあ坊さんコメント&情報提供ありがとうございます。
そうです!!
水戸には処刑場が、吉田と、この赤沼牢と、千束原と、吉沼にあったと言われています。
そして、吉沼処刑場はたあ坊さんのおっしゃる通り、渋井町緑地付近であることを、ついこの前の木曜日に突き止めました!!まだ確認はしてませんが。
僕が調べた方の情報では、吉沼処刑場跡というのは渋井町緑地を新川を挟んで反対側、境橋を渡った右の一角の荒地だそうで、渋井町緑地は処刑した首を洗った場所であり、首洗いの池といわれるものがあるらしいです。
ですが、こちらも実際に確認したわけではないのでなんともいえませんが、幕末の水戸藩内乱の時にこの処刑場でも大量に処刑を行っていたに違いない。
今度の休みにこの処刑場跡がどうなってるか見に行ってみたいと思います。
2008/7/20(日) 午後 10:42
水戸っぽさんへ、お願い!
水戸の回天神社を、おどろおどろしくでなく、真剣に、真摯に、
取り上げて下さい。小生も、最近知った、神社の由来、、、
明治維新の先駆的役割を、悲劇的に担った“天狗党”、若き
千七百余名の殉難の志士達の、報国の咆哮を!、、
水戸学から回り始めた明治維新、薩長に、その実を取られた末の、
亡国、そして二度目の亡国の今、静かに歴史を噛み締めたい!
2008/7/27(日) 午後 10:40 [ hit*chi*d*isuk* ]
『日立大好き』さん。
そうですね。
とてもおどろおどろしいですが、これも歴史。
是非、記事に取り上げていこうと思います。
現在は各重要参考資料を読みあさり中です。
そして、驚愕の、とても悲しい身の毛もよだつ事実が発覚!!
吉田村境橋刑場、その付近での首なし地蔵、赤沼牢内での、そして回天神社、調べる事が多いし、他の書庫の記事と同時進行で、時間がかかりそうなのでしばしお待ちを。
2008/7/28(月) 午後 0:07
吉田ヶ原らしき場所の池は中ノ沢池といいまして
整備したのは20年以内ですが、存在は古いですよ
吉田城の堀代わりらしいので15世紀にはあったかと(^-^)
2009/12/17(木) 午後 7:37 [ poc*i*ta*o5 ]
poc*i*ta*o5 さん、ありがとうございます。
なるほど。中ノ沢池ですか。
この記事をお読み頂きご理解いただけたとは思いますが、吉田ヶ原っていう場所はもともと処刑場なんですよね〜…
処刑場みたいな暗いイメージのところはどこも公園にして明るい雰囲気にして誤魔化しちゃう傾向にあるようですね…。水戸市内の処刑場が公園化してるところ、けっこうあるんですよね。
吉田城は…そうですね。15世紀くらいのかなり昔からあるみたいですよね。
吉田城の城主であり有名な常陸国の戦国武将 佐竹氏の家臣である車丹波が処刑された磔場跡がありますよ( ̄ー ̄;
なもんで、夜中行くと不気味な感じがします。
是非行ってみてください…。
2009/12/17(木) 午後 9:03
間違えました
中沢池ですf^_^;
地図にはなぜか中ノ沢になってた・・・
歩いていける場所なんで、普通に夜中にも通ってますよw
まぁ、知らなかったからですが(-"-;)
2009/12/18(金) 午前 0:33 [ poc*i*ta*o5 ]
むむ!
poc*i*ta*o5 さんも同じ水戸っぽでしたか!?
処刑場… いえ、中沢池付近にお住まいで。
夜中に普通に通るんですか!? 知らなければなんの変哲もないただの『池』だったのに…それは残念でしたね〜(笑)
2009/12/19(土) 午前 0:19
こんにちは。
諸生党と攘夷改革派の争いには、貧富の差からの階級闘争の性格も有った様ですね。
それにしても、やられたからやり返すで、ここまで酷い事になるとは。
武田金次郎の件も含め、水戸藩の内部抗争は凄まじいです。
ただし水戸藩だけが残虐なのではなく、状況・規模の違いはあれ、争いから人間の歴史には似たような事例が多々見られます。
憎しみと言うのは恐ろしいものですね。
スポッツ
2010/2/25(木) 午前 11:34 [ スポッツ ]
スポッツさん、コメントありがとうございます。
そうですね〜。
『天狗党』は水戸藩の下級武士や農民や町人で結成されたようで、名前の由来が、対立する水戸藩諸生党に「成り上がり者が天狗になっている」と皮肉ったことからついた名前だとか…。
そうですね。人間の歴史には似た事例がありますね。報復攻撃で戦争を起こしたりしてます。この天狗党の乱は現代に通じるものがありますよね。戦争反対です。
憎しみは憎しみを生み互いに自滅し、最後にはなにも残らないのであります(´ヘ`;)
2010/2/25(木) 午後 9:42
6号国道と50号がクロスする一体、町名は酒門、吉田、住吉と広範囲ですが字は千束です。常照寺の下池辺りは城中の結界上なので、そこで処刑するかなぁ?赤沼牢は結界の内側なので、本来はあそこで処刑はしないはずなのだけど、幕末の混乱期に赤沼でも処刑始めちゃって、その後水戸藩はぐだぐだになっちゃったよね。結界の中で処刑しちゃダメなのよ
2015/3/5(木) 午前 2:46 [ kyr*e ]
kyr*eさん、はじめましてこんにちわ。
なるほど、結界でございますか。風水とか陰陽道とかそんな感じですかね。古来の江戸など町の配置などは風水を積極的に取り入れたと聞きます。
なるほど、風水が悪い影響を与えたとのお察しですね。たしかに一理あると思います。それに加えると、自分的には千場沼を埋めてしまったのも一因だと思います。あれは埋めない方がよかった。あちこちに水を張り巡らした水の都、水戸が残っていたら違っていたかも〜〜(笑)
2015/3/6(金) 午前 7:29
水戸っぽさん、初めまして。
千束原刑場の件について、私の推測を簡潔ながら述べたいと思います。参考になれば幸いです。
以前、当時不動産会社の社長さんから、現・国道6号バイパス【四中入口】交差点付近に[旧水戸藩の処刑場があった]と、聞いた事があります。
しかし、現・四中入口交差点付近の地番は住吉町であり、千束の字名はありません。
のちに、住吉町の由来について調べたところ、地区内は旧陸軍水戸南飛行場跡地であることがわかりました。
つまり、現住吉町の一部は千束原だったが、飛行場を建設するにあたり、区画整理され、飛行場区画内にあったであろう千束原刑場跡は、更地となり、消滅してしまったのではないでしょうか?
また、以上の事から、以前貴殿ブログに掲載されていた住吉町心霊屋敷と千束原刑場話は場所的ほぼ一致していますし、何らかの関係性があるかも知れません。
こじつけ的な駄文、失礼しました。
2015/11/16(月) 午後 3:15 [ 千々蘭風 ]
TATUYAさん、初めまして。コメント&情報ありがとうございます。
おおなるほど、国道6号バイパス付近に水戸藩の刑場があったと情報を聞きましたか。実に興味深いですね〜。
住吉という名前の由来について本をひっぱり出してちょっと調べてみましたよ〜。
まず、昭和57年発行の「水戸の町名」という本には住吉町の名前自体が無いので、「住吉町」という地名はごく最近にできたのかも知れませんね。「けやき台」とかもそうですもんね。
なるほど、住吉町はかつての旧陸軍水戸南飛行場跡地跡地に当てはまりますか。飛行場跡地を開発して新たに「住吉町」ができたのかもしれませんね〜。
2015/11/17(火) 午後 10:04
→→
そして千束の名前ですが、確かに現在の住所名では消えてしまってますが、昔の小字で残ってるみたいです。「水戸の町名」を見てみると、かつて千束由来のは小字で書いてあるのが、【吉田村/(大字)吉田/(小字)上千束】、【酒門村/(大字)石川/(小字)千束/(小字)千束七ツ井戸】【酒門村/(大字)酒門/(小字)千束/(小字)上千束/(小字)中千束/(小字)下千束/】と書いてありました。
それら小字を検索で調べてみますと、上千束→くら寿司酒門店。下千束→セブンイレブン酒門店....(長いので以下省略)って具合に調べてみると、かつての千束原はかなり広いみたいですね。おおざっぱだけど北は「くら寿司」、南は「元石川町」、西は元吉田といった広範囲に及ぶといったところでしょうか。
2015/11/17(火) 午後 10:05
と言う事で、その不動産会社の社長が言っていた「四中入口交差点に水戸藩の刑場がある」というのは、実際に本当なのかも知れませんね。
その場所と言うのはちょうど上のコメントでも書いた通り、おおざっぱだけど千束原の中央か中央より西くらいに位置し、しかもちょうど通り沿いですからね・・・。刑場跡は処刑の跡に罪状を書いた札を立て晒すのが一般的ですからね。
そりゃあ関係は大いにあるでしょうね〜。かつての千束ヶ原だし、通り沿いだし。
というか、ま、まさかだけどそこなんじゃない??(^^;)(汗)
2015/11/17(火) 午後 10:24
水戸っぽさん、レス、ありがとです。前レスでは簡単にまとめましたが、実際は推測的結論に至るまで結構時間がかかりました(^-^;
水戸っぽさんの仰る通り、当時の(字)千束は、調べて行くうちに、それ相当に広大だな、と思いました。
また、おまけ的情報として、水戸南飛行場用地買収にあたり、当時の大地主、旧吉田村村長と、醤油醸造会社(井伝醤油)社長、木村伝兵衛の二氏が関与した記録が残っております。
また、既出の社長の口伝ですが、太平洋戦争以前の旧飛行場一帯は、湿地帯で、建設するにあたり、大変苦労したそうです。
戦後、旧飛行場跡地は、危機的食糧不足に対する食糧増産計画、帰還兵の雇用対策(国策)として開拓団を編成、多くの方々が入植されたそうです。
入植当時、水はおろか、電気も通っていない開拓団の人々は、これまた大変苦労して田畑を開墾したそうです。その甲斐あって、現在住吉・酒門(一部)の農家の方々は、裕福な農家が多いと聞きました。
話はそれましたが、貴殿のブログを通して後世に伝われば幸いと存じます。
2015/11/18(水) 午前 1:27 [ 千々蘭風 ]
TATUYAさん、こんばんわ〜。
なるほど、南飛行場の建設にあたり湿地帯で大変苦労されたんですね〜。なんとなくヨシ原っぽいイメージをしております( ̄▽ ̄)(笑)
今じゃ、ケーズデンキに山新にけやき台団地と、色々と便利なニュータウンになり、今からじゃ想像もつきませんね〜〜。とりあえず千束原といえば斉昭が追鳥狩をした、くらいしか知り得ないですもんね。
これはまた貴重な情報、ありがとうございますm(__)m
2015/11/18(水) 午後 8:45
常照寺付近に刑場があり、三中生の肝試し場所だったそうです。
その名残として、三中の前の道を下市方面へ北上し、備前堀にかかる橋の名前が「魂消橋」といい、罪人がそこを渡ったら、もう帰ってこないという意味でつけられたそうな。
因みに、初代吉田村村長は私の5代前のご先祖様です。
2016/1/27(水) 午後 8:18 [ dr_**ko11*8 ]
1人が、天狗党として那珂湊の内戦で殉死し、回天神社にその名が刻まれています。
2016/1/27(水) 午後 8:21 [ dr_**ko11*8 ]
dr_**ko11*8 さん、はじめまして。
貴重なお話をありがとうございます。
魂消橋にはそのような由来がありましたか、それは意外でしたね〜。要人を旅人などを魂消橋にて送り見届ける玄関口みたいな話は聞いた事ありましたが。
2016/1/28(木) 午後 8:39