|
水戸藩の幕末時代に天狗党を処刑した刑場跡を調べていたところ新たに、処刑場と思われるものを発見しました。 図書館で史料を調べものをしていたら「開江村史」という史料に、かつて開江村に(現在は水戸市開江町と双葉台町の一部)、水戸藩の幕末時代に起きた藩内抗争いわゆる天狗党の乱で、反対派である天狗党勢を処刑した刑場がある、という事が書いてあります。 水戸市双葉台町というと、現在は双葉台アパートや住宅がビッシリと密集している住宅街となっていますが、本当にあんな場所に刑場跡などあるのだろうか??詳しくは、開江村史の向井原刑場の記述を引用します。
【史料】開江村史 / 遠藏塚(とうかづか)について明治初期に作成された「開江村全図」に、上記のような漢字で向井原(当時藩有林)の一角に記載表示されている場所があります。この読み方・意味について、いろいろな人や図書館・茨城大学・歴史館に尋ねたり調査をお願いした結果、はっきりした語源については判りませんでしたが、この一字目の漢字は「遠」であろうということであった。そこで「遠藏塚」としての意味についても、断定はできないが、各種事典等から推定すると「遠」には、死者の襟元に玉を置き枕元に之(あし)を加えて遠くに送る意を表すとあり、「戒」は人に知られないようにかくす、埋蔵、陰蔵、物を収めること等の意味があり、「塚」は盛土をした墓とあること等から勘案して 「遠藏塚」 は、死者を埋蔵した墓(塚)であると推定できるとした。 そして、更に地元の古老の方々に、この場所について知り得た話として、次のようなことが判りました。 一、祖父から聞いた話では、この場所で処刑(斬首)があり、その死体を窪地に埋葬した土盛りの塚があったと聞かされた。 二、大正年間の頃までは、老母たちが供養のため線香をあげたりしていた。 三、その場所には、最近まで場所を表す自然石が置いてあった。 四、戦後になってからも、この周辺は原野でここを通った人はゾクゾクとする寒気と異様な雰囲気が漂っていたという。 五、昭和五十年代、この場所が団地造成のため、整地工事が行われた折、怪我人や病人が出たことで、僧侶にお願いをして現場で慰霊供華を行ったが、工事は中断しそのまま放置されている。 六、嘉永三年(一八五〇年)の開江村全図には、国置原としての表示しかないので、この塚は水戸藩幕末の暗黒時代に処刑が行われ埋葬された塚であり、そして「遠藏塚」の表現で図示されたものであろう。 幕末の水戸藩は大混乱であった、尊皇攘夷を大義とする天狗党の乱に始まり藩内は分裂し、身内同志で争い合い血を流し収拾がつかなかった。門閥派・諸生党・幕府が入りくんでの戦いが続いた、庶民もまた藩内の騒動に巻き込まれ、鯉淵勢、河和田勢などの農兵隊 は反激派隊として戦いに加わった。そして天狗党が降伏し、王政復古となっても、なお藩内には本圀寺勢と門閥派が争いを続けていた。 さらに、武田耕雲斎の孫金次郎は、本圀寺勢とともに身内が門閥派から手酷い仕打ちを受けた恨みをはらそうと、藩士だけでなく妻子縁故者まで多数の者を容赦なく暗殺し「天誅」だと殺戮を続けた。 市川勢が弘道館の戦いの後、明治二年千葉県八日市場(松山戦争)で全滅しやっと混乱が治まった、水戸藩が幕末の暗黒時代に受けた被害は莫大なものであった。 藩士の大半が戦死したり、捕らわれて礫刑・梟首・刎首などの死罪が又家族も同様の極刑を受けた、悲劇はつきなかった。 水戸市史によると処刑は、赤沼獄舎や、長岡原で行われ捨てられたと、また吉田ケ原では梟首野捨てとなったと記述されて いるが、向井原についての記事は見当たらない。
【史料】開江村史 / 開江村の小字一覧江戸時代から約300年間続いた開江村が、明治二十二年市制町村制の実施に伴い、五力村(開江村、全隈村、谷津村、木葉下村、成澤村)が合伴し、山根村となり開江村は・山根村大字開江となった。それによって江戸期の検地帳などに使われていた。 耕地名はこの大字に対して小字といわれるようになる。大字が行政上の名として、域程度の 規模があるのに対して小字は細分化されている。明治6年の地租改正以後、字名を局部地域毎に土地区画を示す境界とその番号、地目をまとめたものが、地籍図と呼ばれる。 開江には七○の字があり、その名は土地の地目や形などを、素直に表したものや、神仏への厚い信仰により名をつけたり(諏訪、宮後、鎮守、境内、宮内・宮久保・権現山、神田、富士山、山の神、薬師堂、寺山)故事から、その跡地に(東宿、馬場東・馬場西、遠馬場)など、面積や形などは千差万別である 上の地図と照らし合わせると、おおよそ以下の場所になります。 現在の双葉台2丁目と、その周辺あたりのようです。 この南の一帯は住宅がビッシリ広がり、北は水戸済生会総合病院があります。 今度は実際に、刑場のあった向井原、現在水戸市双葉台2丁目付近を探索してみる事にしました。 しかし双葉台2丁目付近という事以外に手がかりは無く、水戸藩時代だったかつての原野は、現在は大規模な団地造成により住宅が密集し、それらしい所は見つかりません。水戸藩時代に原野が広がっていた場所は、現在は昭和40年代に宅地造成され住宅街や双葉台団地となっています。地図を見てみると住宅だらけでそれらしい場所はありません。 そこで今までの経験上、刑場跡は何らかの理由で造成せず手を付けずに、荒地化又は、知っていながら公園にしてテキトーに誤魔化す(笑)という例があるので、双葉台2丁目付近にある公園を巡ってみる事にした。 以下地図は双葉台2丁目と付近の訪問した公園。 探索マップ↓↓
周辺は団地開発が進むなか、団地の中心にぽっかりと開いたように公園があり、ところどころ斜面があり、かつての原野の面影を残している。こんな広い土地を余して団地にしなかったのか、これは何かあるに違いない!?? 余談だが、双葉台2丁目付近にあった向井原遺跡に昭和48年に行われた発掘調査でその1角に平安時代の火葬墓が21基発見され、骨壺には生活で使用していた甕(カメ)を使用していたとの事。その遺跡の跡なのかも知れないが定かではない。 双葉台公園 ↓↓ (撮影日:2014年12月5日)
次に訪問したのは、双葉台2丁目の小さな児童公園。 人が誰もいなくて閑散としている意外に不審な点は見当たらず・・・。
次に訪問したのは同じく、双葉台2丁目の北児童公園。 ここでも誰も居なくて寂れているという意外にそれらしい点は見当たらず。 それから、怪しい場所は無いかと住宅地を回ってみるもそれらしい遺構のようなものは見つからず・・・(_ _|||) まず、こんな住宅地の場所に土盛りの塚なんてものが無い。空き家を取り壊して門だけ残ってる空き地になっている所はいくつかはあったが。 買い物から帰ってきた地元民とおぼしき40代くらいの奥様が目の前を通ったが、さすがに「天狗党を惨殺した処刑場跡は存じませんか?死体をここら辺に埋葬したらしいんですけど。」と、聞こうにもさすがに内容が内容だけに気が引ける(笑) 遠藏塚・向井原刑場は、造成で完全に風化して消滅してしまったのだろうか??刑場跡を発見し天狗党たちの霊を鎮魂したい思いがあったが、発見に至らず残念である。 いや、もうひとついい方法があった! 仕方ない、あの手を使おう!
追加情報&まとめ : 水戸藩の刑場跡、天狗党関連処刑場の一覧。(死体埋葬場など除く)
その他
〜編纂:ヤフーブログ「いばらき解体新書」〜 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
☆茨城の刑場旧跡☆
[ リスト ]






wanさん、こんにちわ〜。
「あかいつか」というサイトに鳥取藩の刑場跡が書いてありましたよ〜。水戸天狗党とは全然関係ないですけど、たまには史跡めぐりで是非まわってみては(*_*)
2015/4/5(日) 午後 3:49
> 水戸っぽ!さん
そういや、古地図を調べてみたら、けやき台の千束原。今の水戸南インター近辺が、明治初期には石川村字千束と言われていたそうです。おそらく、あの近辺ではないかと。
2015/4/5(日) 午後 6:11 [ N市民 ]
N市民さん、こんにちわ。
どうやらそのようですね。千束原追鳥狩本陣跡付近だとか。昔は原っぱになっていて、徳川斉昭時代頃に追鳥狩という軍事訓練を行っていたとか。
そういえば、遠藏塚ですけど史料読み直してみたら「斃馬捨場(馬捨て場)」というものが「仲峯(なかみね)」と南の向井原に指定されていた、という記述があるので、南の向井原の馬捨て場と遠藏塚と何か関係があるかも知れないですね。
2015/4/6(月) 午前 11:45
水戸っぽさん、こんにちは。
いつも興味深く拝見させて頂いています。
ご存じかもしれませんが、近藤勇は板橋の馬捨て場で処刑されたとする説もあるそうですね。なので私も馬捨て場は何か関係がありそうな気がします。あと公園ですが、地図で見ると県営アパートの中にも小さな緑地がありましたよ。小さすぎるからちょっと違うかもしれませんが…
2015/4/19(日) 午前 9:49 [ Kラボ ]
> 水戸っぽ!さん
青空文庫に、横瀬夜雨が書いた「天狗塚」という小説があります。その中にも、馬捨て場というものが各地にあって、その近辺で処罰が行われたそうです。
2015/4/19(日) 午後 8:02 [ N市民 ]
Kラボさん、こんにちわ〜。
なるほど、ありがとうございます!
あれ、緑地なんてありましたか。見逃していました(;´∀`)今まででは、渋井町緑地公園が死者を埋葬していた土壇場だったという事もありましたからね〜。
2015/4/20(月) 午前 10:12
N市民さん、こんにちわ。情報ありがとうございます。
なるほど、各地の斃馬捨場で天狗党が投機などされているのですね。
この双葉台向井原においてもその可能性アリと・・・(; ・`д・´)
2015/4/20(月) 午前 10:31
いつも興味深く拝見しています。済生会病院の北側の通り高速にぶつかる手前の三差路の真ん中に、塚があり地蔵が祀手あったような。今でも、歩道に寄せられはしましたが、現存しています。かつての、メインストリートですね。
所在不明となっている、台渡里走付ですが、台渡里バス停付近の交差点をサンユー方面に曲がり50メートルの左側にやはり地蔵とうが祀られております。こちらも江戸時代からの幹線道路の街はずれですね
2015/5/1(金) 午後 3:39 [ やみぞ ]
八溝山いや、やみぞさん、はじめまして。
情報ありがとうございます。早速調べてみました。
済生会北側の三差路というと、戸井田商店の南に100mにある、お地蔵さんですかね〜??
史料「水戸の石仏」では、右から【馬頭供養塔】【子安観音】【馬頭尊】との記載がありました。
台渡里バス停付近の交差点をサンユー方向に曲がって50mくらいのところにある地蔵は、同じく「水戸の石仏」によれば、右から【地蔵菩薩/延享二年乙丑十一月吉日】【如意輪観音/銘不明】【馬頭尊/昭和二十一年五月建 塙春次】という記載がありました。その他細かい仏像がありますね。信仰の仏像のような感じですね〜。
個人的にはビックマーチ渡里の駐車場の隅のT字路交差点にある、誰かが安置したと思われるポツンと建つ地蔵の由来が気になります(笑)
2015/5/2(土) 午後 10:29
色々と教えて頂きありがとうございます。ビッグマーチのお地蔵様については、ここ15年ぐらいに安置された印象ですね
台渡里という名称は、ビッグマーチの反対側の酒店から渡里農協位までの間、国道123号の那珂川側500メートル位までの範囲という感覚でいます。台渡里走付、何かには台渡里足付と表現されていましたが、そのような字名は、聞いたことがありませんでした。ただ、私が子供時代に(50年前ですが)土器や石器を探して畑を歩いていると、やたら骨片が混じるところがありました。当時は、肥料として獣骨を撒いてると思っていましたが、それは、台渡里廃寺跡の123号側、Google マップでお地蔵様の北西側の色が変わっている畑のあたりだったかもしれません。ここは、廃寺跡の発掘でも手が入っていません。もちろん、すべてが、私の思い込みかもしれませんが。
2015/5/3(日) 午後 0:12 [ やみぞ ]
やみぞさん、こんばんわ。
なるほど、興味深いですね〜。
そこら辺は、けっこう前に所要で渡里小学校に行った時、学区案内マップに、「軍馬徴発供養碑」というのがあったと思いましたが、どこにあるのかは定かではありません。台渡里遺跡もあるようですが、骨片みたいなのが出るというのは、刑場跡と何か関係があるかも知れないですよね。ひとつ参考にいたします。
2015/5/4(月) 午後 10:28
こんにちは。以前田彦今鹿島刑場のレポートでコメントさせていただきました。今回は情報提供(?)です。
天狗党田中愿蔵隊志士の刑場跡が大子町上野宮にあるようです。愿蔵の処刑地は隣の塙町ですが、八溝山集結後下山した一派を処刑した地であるようです。
県北の情報紙「すいぐん1000」204号(H28.8月発行)に掲載されていました。調査等の一助となれば幸いです。
2016/9/23(金) 午前 11:11 [ MULTIWOTAQ ]
MULTIWOTAQ さん、こんにちわ〜情報ありがとうございます。
おお、なるほど、そうでしたか〜。
そうそう、あまりにも暴挙が過ぎるから天狗党本隊に追放された田中源蔵隊は支援を得られず空腹と疲労で絶望してこの隊は孤立して包囲されいる事を悟ってか、途中の八溝山で解散したそうですが、このときに大子側に下山した者が捕らえられた者も知れませんよね〜。
そうそう、ちなみに北側、棚倉側に下山した者も同じく捕らえられてしまい、土蔵に閉じ込められて衰弱した頃に引き出して、桜に木に吊るして処刑されたようなんですよ〜。天狗平とかって言うらしいですけど。
県北情報誌「すいぐん」、見てみますね〜('◇')ゞ
2016/9/23(金) 午後 0:17
〇×△さん、初めまして。こちらこそ毎度ありがとうございます。
そうなんですか、あそこでしたか。情報ありがとうございます。
せっかく教えてくださったのですが、苦情を頂きまして、ここに関しては続編は無しで非公表と致します<(_ _)>
2017/6/24(土) 午前 0:25
以前から興味深く拝見させていただいております。茨城に以前住んでいたのですが、現在県外に住んでいます。
後台入合野刑場についてですが、あくまでも個人的な推測ではありますが、入会地というからには旧後台村の辺境付近。見せしめの必要性から主要街道沿いということで、中台との境近辺の「茨城学園バス停」近辺の雑木林が臭いような気がします。
台渡里については、ビックマーチ西側の墓地にある地蔵が気になります。古い航空写真を見ても、そこの土地は三角形で古い航空写真を見るとくさきが生い茂っているようにも見えます。
今は遠くにいてもグーグルマップや古い航空写真をネットで見ることができるので便利ですよね。
2018/7/9(月) 午後 3:29 [ eko***** ]
eko*****さん、はじめましてようこそ。
情報ありがとうございます。
なるほど、そこら辺が怪しいという事ですね〜。自分もなんとなくそこら辺がそれっぽいような気がします。仰せの通り、ツタの絡み具合が樹木のてっぺんまでビッシリト覆ってますね。たいぶほったかしになってる土地なのでしょうね。
史料では残ってないからハッキリとした事は言えないけれども、きっとソコらですよね・・・(*_*;
2018/7/10(火) 午後 8:50
初めまして、私は開江に住んでる者です。
以前父から首切り場の事を聞いていたので
調べたくなりネット検索した所このブログを見つけました。
父も、話を少し知っている方に聞いたらしいので私も詳しくはないのですが
罪人が水戸市渡里町の方から開江の方まで来て首切り場の近くにある正覚院と言う
お寺で拝んでもらってから処刑される所に行ったらしいです。
首塚は双葉台の公園がある所と聞きました。その近くの新拓された開江は昔から異様な空気が漂うと言いますか近寄れない感じがあります。
小さい頃からその付近には近寄るなと親に言われていました。
何にかの参考になればと思いコメント致しましたm(_ _)m
2018/11/11(日) 午前 11:48 [ チャナ ]
チャナさん、はじめまして。情報ありがとうございます。
なるほど。
渡里の方から運ばれてきた罪人は正覚院で拝んでもらってから刑場へ運ばれていったという事ですね。
双葉台の公園があるところに首塚でございますか。
「南の向原に斃馬捨場があった」との記述があるので、例として罪人が馬捨場と一緒に粗末に埋葬される事があるようなので、もしかしたらそこらへんなのかもしれないですね。
ただ罪人といっても罪を犯した者というよりか、水戸藩の幕末抗争で多くの者が処刑されたようなので、ここも史跡として語り継いでほしいですよね〜。
貴重な情報ありがとうございました(`・ω・´)ゞ
2018/11/11(日) 午後 4:03
こんばんは。
私は常陸太田に住んでいますが、国道349号沿い某所の刑場というのは、水郡線と並走する旧道の河合と谷河原の間の小さな川を渡る橋付近がその場所であると、昔祖母から聞いたことがあります。
バイパスが無い頃はその辺りは直線なのに事故が結構あったような感じでした。
また、その付近に都会から越してきたという一軒家があったんですが、多くの気配を感じてとても住めないという事で長く空き家として残っていました。
現在ではその家も取り壊され施設がつくられておりますが。
調査の一助になれば幸いです。
2019/6/2(日) 午後 8:31 [ スッチー ]
スッチーさん、はじめましてようこそ。
情報提供ありがとうございます。
実はですね・・・・5年位前前にも、当ブログに匿名で、同じような事を言ってきた情報提供者がいまして、場所がおおむね一致してございます。
その方は現在ブレインピアハートセンターの川挟んで反対側の松の木が植えられている場所であると申されてました。
史料が見つからなかったので特に記事には書いてませんけど、スッチーさんも同様に、祖母から昔話として語り継がれているなら間違いないでしょうね。なにか裏付けをとれるような史料みたいなのはないですが、2名も同じ事が一致してるなら間違いないでしょう。また、文献がでてこないか史料をあさってみますね〜。
2019/6/2(日) 午後 11:11