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あかさわ山荘が解体工事をしているという情報を聞き、早速見に行ってきました。 な、なんということだ!(驚) 震災の影響か、どういうわけか知らないがあかさわ山荘(廃校本山小学校)を取壊しているという。 まさか現役で営業している建物なだけに、まさか取壊すとは思わなかった〜。 これは取壊しが終わって更地になってしまうまえに見にいかねばΣヾ(゚Д゚)ノ 最期の写真の一枚を収めたい!! という事でやってきたが、既に時は遅し。 建物の大部分は取壊されガレキになっていた・・・。 取壊す事をもっと早く知っていれば、最期の姿をカメラに収める事ができたかも知れないが残念(-д-U) 【あかさわ山荘 本山小学校正門跡】↓↓
【1965年(昭和40年)】↓↓ 【2007年10月】↓↓ 【現状】↓↓ 建物は無くなっても、桜の木だけは40年以上経った今も変わらぬ姿で立ちつづけている。 なんとも感慨深いものがあります。 これでまた一つ日立鉱山のゆかりの建物が消えてしまったが、この桜の木は当時を物語るものであるので伐採しないで残してほしいと思います。
あかさわ山荘(2007年撮影)↓↓ 本山小学校の歴史 〜鉱山と市民〜 1906(明治39)年、前年暮に開業した日立鉱山師弟の教育のために、日立尋常高等小学校(宮田)の本山分教場が創設された。翌07年改正小学校令により、それまで4年だった尋常小が6年、2年または4年だった高等小が2年または3年の就学となった。それにしたがって各小学校は就学児童の増加もあって校舎増築などの必要にせまられたわけであるが、本山文教場は、「日立鉱山尋常小学校」の独立校となり、同年5月2ヵ年の高等科を付設した。これが本山小学校の前身である。 昭和に入ると、日立鉱山の従業員数は3000名強で安定しているが、児童数は着実に増加、1926年(昭和元年)には1297名、30年は1537名、35年1704名、戦時体制に入ると2000名以上に達したのである。 1947(昭和22)年3月31日、教育基本法、学校教育法が公布され、六・三・三・四という新しい教育体制が樹立施行されることとなった。この法に基づき本山国民学校も本山小学校に、国民学校高等科は新制中学校として独立した。またこの年にはPTAも発足したのである。 この年度の「学校要覧」をみると、児童数は1233名、教員数は22名で、校地面積は一九〇九坪であった。1クラス平均65名で、一番多いクラスは75名にも達した。例えば1年3組の担任は、今橋冴子で、男30名、女33名計63名の児童が在籍していた。この時の校長は助川長蔵であった。 翌48年にはそのクラスは2年3組となり、児童数は男32名、女29名計61名となった。担任の教師は高橋ミチヨであった。また、この年の全校児童数1293名で、学級数21、職員数は校長を含めて23名であった。 戦後間もない頃、学芸会が盛んで、本山劇場でクラスごとに演劇をやったりした。食糧事情の悪い時ではあったが、毎日ではなかったが学校給食があった。また、正月や山神社の祭礼時には露天がでて、子供の欲しいものが売られていて、以前の賑わいをとりもどしていた。 本山小学校では、1963年(昭和37)から増築工事が行われ、66年に屋内体育館も含め鉄筋三階建ての設備の充実した近代校舎に生まれ変わったのである。 一方児童数は64年に1000名を割りこみ、教育設備の充実とは反対に、本山の地域性から年々減少し、ついに73年には、児童数59名、学級数6、職員数8名となった。それから2年後の78年(昭和53年)3月20日閉校した。創立72年目の事である。 |

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