いばらき解体新書。

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 今回は中世常陸国大名の佐竹義宣の家臣、「車丹波守」について。車丹波守がハリツケにされた刑場跡を紹介します。車丹波とは何者か??

 と、そのまえに、佐竹氏秋田移封について簡単にざっとおさらいをしたいと思います。



 ↓ ↓ ↓

常陸国大名佐竹氏の秋田移封



 天下を統一した豊臣秀吉。1597年の秀吉の死後、その秀吉の家来である豊臣家の家臣たち「徳川家康」と「石田三成」との間で意見の食い違いや確執などで対立が発生。それは次第にエスカレートし内部抗争にまで発展、それがあの有名な関が原の戦いが勃発します。
 
 全国の諸大名たちはいわゆる「東軍の家康」に味方するのか、それとも「西軍の石田三成」に味方するのか決断を迫られます。あいまいな中立の立場をとろうものならば敵とみなされ、後々に勝利を収めた方に手痛い処遇を受けたり冷遇されるなど不利な立場になる恐れがあります。よってどちらに味方をするのかハッキリと示さなくてはなりません。

 関が原合戦より少し前のこと、家康の使者が水戸に来城。家康は「三成が挙兵したので三成を討つ。関東には城秀康(家康次男)をおくので伊達政宗最上義光、越後の堀秀治に味方して討て。戦勝の後は景勝没収の地を義宣に与える」との出陣命令。
 佐竹義宣は石田三成に恩義を感じており、しかし家康の誘いを断るわけにもいかない。結局、東軍の家康・西軍の石田三成のどちらにも味方をするのかなかな決断することができず、東軍である家康には協力の姿勢を示すものの、対する西軍である石田三成上杉景勝らとも密約を交わすというどっちつかずのあやふやな態度に。
(石田三成には、秀吉の朝鮮征伐の際に出陣要請を受けたが、佐竹義宣は出陣することはなく、それを責められ秀吉により処分が行われかけた。しかし、石田三成のとりなしにより難を逃れた事で三成に恩義を感じていたという。)


 天下分け目の関が原の戦いは東軍家康の大勝に終わりました。戦後処理の賞罰の差ははっきりとしており、西軍敗将の石田三成は斬首。石田方に味方した88名が改易されその領地を没収。
 勝ち組の東軍では、勝利者の家康が250万石から400万石の直轄地を得た。他大名にたいしても圧倒的な地位を得、先鋒だった加藤清正・福島正則なども50万石の全国に名を連ねる大名と成り上がりました。

 天下分け目の関が原の合戦ではどっちつかずの立場で傍観していた佐竹義宣。東軍家康に味方しながらも西軍の上杉らと密約を交わす、この行動が家康の不信を招きます。
 佐竹義宣への処遇は、大阪城の家康と秀頼に謁見の際に「義宣と弟の芦名義広岩城貞隆、与力大名の相馬義胤の領地没収。義宣には出羽で替地を与える」との処分を申し渡され、義宣は「とにかく意趣はなくて賢慮次第」とおとなしくこれを受け入れ、よって、佐竹義宣の常陸国54万8000石(南陸奥一帯をあわせると80万石を超える)、その他領地を没収され代わりに出羽(秋田)20万石へ減封しての国替えが行われることになりました。

 こうして佐竹氏の長かった常陸支配の時代は終わりを告げ、居城である水戸城を去ることになりました。
 





                     佐竹義宣↓↓
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佐竹氏重臣「車丹波守」の水戸城奪還作戦  徳川に徹底抗戦


 佐竹氏の常陸国没収が決まり秋田へ国代えの準備が進められ、その日、家康から派遣された使者が佐竹氏の居城である水戸城の受け取りのため水戸に到着。徳川家への水戸城の明け渡しの準備が着々と進められていました。

 そこで待ったをかけたのが佐竹氏の家臣車丹波守(名は猛虎、義照、忠次とも)。 車丹波はこれまで伊達政宗や北条氏など数多くの有名武将と死闘を演じ佐竹氏の発展に多大な貢献をしてきた勇敢な武将。佐竹氏の家臣車丹波は秋田移封に大反対し、徳川氏に対して徹底抗戦を唱えます。

 この車丹波が徳川に抵抗するという背景には、関が原の合戦においてどっちつかずの態度だった佐竹義重が、実はその家臣「車丹波」を密かに西軍である石田三成・上杉の軍に加勢として送り込み、東軍徳川勢と死闘を繰り広げていたんだとか。
 
 

 車丹波は徳川嫌い。徳川に徹底抗戦すべく水戸城奪還作戦を計画します。しかし水戸城奪還作戦は何者かに事前に察知され結果は失敗に終わります。

 こうして家臣が兵を挙げるも、天下徳川家に抵抗することはお家断絶の危機もありうるため、車丹波を見捨てるしかなかったそうであります。車丹波守は捕らえられ磔刑に処されます。君主佐竹氏と歩んだその生涯を閉じます。



車丹波処刑の地



 水戸城奪還に失敗して捕らえられた車丹波守を磔刑に処したといわれる処刑場は、水戸市元吉田町にあります。この刑場跡は小高い台の上にあり、住宅地の真ん中に位置し、とても分かりづらい場所にあります。ギッシリと家が建ってるうえ道路幅がとても狭く車一台分のギリギリの幅しかなく、迷路になっているので探索に苦労しました。



 以下、刑場の場所の地図です↓↓  ゼ●リンから

刑場跡の住所:水戸市元吉田町2316−13
車塚の住所 :水戸市元吉田町2461
イメージ 1









 ここには稲荷(とうか)塚、付近の人が「きつね塚」とも呼ぶ小さな祠がありますが、この場所こそ丹波守がその子主膳正光とともにハリツケにされた場所であります

 家康は、処刑のあとでひどく機嫌を損じ「われには謀反は憎いが豪勇忠良の武将を斬りとり、強盗や人殺しと罪因と同じハリツケに処するとは、名にしおう武将の扱いを知らぬ仕業だ」と、きびしく叱責したといいます。



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 また、ここから西へ行くと車丹波の首を埋葬したと言われてる首塚がある。ここへは吉田松陰も参拝しに訪れている。

 土地の人は一本松のケイケさんとも呼ぶらしい。この祠に甘酒を献上するとセキが止まるとの言い伝えがあるそうですが、一本松の陰に隠れていた丹波守がセキをして発見されたことに由来するんだとか。

 車塚は「憤恨の地」として現在に伝えられています。


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ここから先は徳川御三家の徳川水戸藩の華やかな時代へとなっていきますが、この佐竹の家臣車丹波の由来については地元の人でもこの由来を知らない人がほとんどでしょう。無謀にも天下徳川家に立ち向かい無念の死を遂げた車丹波、常陸国にもこのような勇敢な戦国武将がいたんだという事が広まればと思います。




        

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