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☆茨城の洞窟・隧道☆

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【常陸大宮市】 緒川の百観音洞窟群



 常陸大宮市緒川の百観音を見に行ってきた。

 百観音は常陸大宮市緒川の川向男体山の中腹にあり、この山に点在する観音像が100体あることから百観音といわれる。

 また、この山には無数の洞窟が存在し、謎の多いミステリーチックな雰囲気を醸し出している。






案内板↓
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 駐車場に車を停め、しばらく山を登ると洞窟が!





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この洞窟は「観音洞窟」といい、洞窟の長さは約10mくらいでけっこう奥行きがあり両側には無数の観音像がズラリと並んでいる。まさにミステリー。
        (この洞窟の由来について詳しい詳細についてはあとに書く。)

前回の日立の洞窟探索で巨大なゲジゲジを見てしまったので今回はかなり警戒した(;´∀`)

観音洞窟内部は電気照明がついていて明るいので、恐怖心は無い。




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この仏像たちは比較的あたらしく文化6年(1808年)に彫られたもので、那賀郡在住の小森清蔵という者が地域の有志に寄付をつのり、山のいたるところに観音像安置したものであるという。

しかし洞窟自体はそれより古来からあるもので、諸説あるが中世の常陸国の戦国武将佐竹氏が採掘のために掘った穴で、そこに後世になってから観音像が安置されたものであるとか。

つまり中世佐竹氏の採掘場跡を、江戸時代に観音洞窟としてリサイクルしたと。


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奥に行くにつれだんだんと狭くなっていく。

幅が大体1メートルも無いかというところ。

途中に段差があり、若干下る。




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    観音洞窟最深部には大日如来が鎮座している。

        お賽銭をあげてきた。。。。




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その他洞窟



―― 猪穴 獅子穴 ――

この洞窟は「猪穴」または「獅子穴」という。

奥底に溜まっている水はミョウバンを含有し白濁しているらしく、この水をくみ取り入浴すると成人病によく効くとの言い伝えがあるのだとか。

しかし、どう見ても狭すぎて入れないけれども・・・・。 ┐( ̄ヘ ̄)┌


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―― 安産の守り岩 ――

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この洞窟は垂直の竪穴で、穴というより亀裂というか、割れ目というか。

ずっと見てると、心なしかだんだんと女性のアレがぱっくりと開いたようにも見えるような、見えないような・・・・・`;:゛;`(;゚;ж;゚; )ブフォ この奥が胎内という事なのだろうか。

ああ、もしかして命名したのは光圀か?また光圀の仕業か〜?

自分は安産しませんが拝んでました。`;:゛;`(;゚;ж;゚; )ブフォ



女性のアレにも見えなくない?? 割れ目の入った竪穴洞窟 ↓↓
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―― 巾着穴 ――



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「巾着穴」の名の通り、出入り口がすぼんだように狭い。

前回の日立の洞窟探索で巨大ゲジゲジのトラウマが抜けきっていないので、入らずにパスしてしまった。化け物がいても狭くてすぐ逃げられないのがねぇ〜・・・ρ(-ε- )イヂイヂ 

内部は6畳の広さという事で、わりと広い空間のようだ。

勇気のあるものは是非チャレンジしてほしい!勇敢なもの出てこいやー!(他力本願)                       



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山頂付近の竪穴洞窟




山頂付近には2つかそれ以上の竪穴があった。

穴がわりと綺麗な円形で、とても自然にできた物とは思えないが。

懐中ライトで奥を照らしてみたがかなり深そうだ。






―― 山頂付近の竪穴(1) ――


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―― 山頂付近の竪穴(2) ――

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山頂には展望台が。

木々が邪魔で見晴らしがあんまりよくない・・・・。




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動画





















百観音の歴史的由来について


― 緒川の百観音歴史的由来について ―



さて、百観音の歴史については「緒川村史」と「おがわの文化第17号」に詳しく書かれているので、こちらをそのまま引用する。


    ↓ ↓ ↓
  百観音  /  参考文献:『緒川村史』

 百観音は、大字那賀字川向男体山の中腹にあり、ところどころに凝灰岩が突出している。ここの岩蔭各所の洞窟にニ基あるいは三基くらいの観音像が安置してある。その中央に、間口約二メートル奥行約一〇メートルの横穴を穿ち、その両側に四〇基ほどの観音像が安置されている。奥の院には大日如来の御尊像が静座している。全山に点在している観音像の数を併せると一〇〇基あるところから百観音といわれている。  この
 
 百観音は、文化六年(一八〇八)那賀在住の小森清蔵という盲目の人が彫ったもので、そのために、ひろく地域の有志から多額の寄付を募って、諸国にある有名な観世音一〇〇基を刻み安置したものである。この横穴の脇に、俗称「獅子穴」という洞窟があり、その奥底にはたくさんの水を貯え、水質は明礬(みょうばん)を含有し白濁色を呈している。この水を汲み取り風呂を沸かして入浴すると、成人病(高血圧)によく効くと語り伝えられている。
 また、この付近に鐘つき堂があったといわれているが、現在では岩を穿って鐘を吊るしたと思われる穴の跡が認められるだけでむかしの面影ほ残っていない。 百観音の祭日は、春秋二回彼岸の中日で、近郷近在の老若男女大勢が参詣して大いに賑ったが、最近では参詣客も減少している。 

 この観音像を造立した清蔵は、自分の墓所として百観音真向かい上台高見というところに小廟を建立し、辞世「我ならば何を頼りに立寄らん心残しておたまや」と記しこの世を去った。今なお現存しており、昭和一八年に地元の人びとが一堂を建立して盛大な追悼式が挙行された。 

 また、古老の一説によれば、当山には数多くの横穴、縦穴があり、おおむかしの先住民族が矢の板石、火打石等を採掘するために掘った穴でり、その穴を改修して観世音を安置したものだという説もあるが、他の一説には、佐竹氏全盛のころ、この地も佐竹領となっており、砂金採集のため発掘した横穴縦穴という説もある





 (古老の回想録) 史料:おがわの文化 第17号 

 百観音によせて  那賀  久和野 勇  / 出展:『おがわの文化 第17号 1990年3月出版』

 ひがん参りか百観音に  村のむすめのはれすがた (小瀬音頭の一節) 

 昔は春と秋の彼岸の中日に祭りがあった。若草萌える、のどかを田園の農道を、咲き始めた菜の花にたわむれるモンシロ蝶をながめながら、近郷近在の若い人たちで賑わったものだ。 高名の洞窟前の広場では、那賀部落青年会の若衆たちで、お札・ローソク・線香・寅印の小マッチなどを売るやら、かたわらでは「ショイカゴ」でもち上げただろう吉成菓子屋のおじさんが、だ菓子・あめ玉・ブリキのおもちゃ・クジ引などで子供たち相手に商いをしていた。
 洞窟のそばには見晴し台があり、部落の点在するわらぶき屋根、曲線的な田んぼ、遠く右手に小舟富士の可れんな姿が眼下に展開した。現在では見晴らし台も、風雨にさらされ朽ち果ててしまった。
 昨年三月、孫一史(かずふみ・五才)を連れて訪れたが、杉など鬱蒼と木立の間から眺める部落の尾根も色とりどりに変り、田んぼも直線的に基盤整備され、時代の流れが目に見えてわかる。伝えられるところによると、文化六年というから約一八〇年前、石工の小森清蔵さんが、※平癒祈願のため観世音菩薩の像を刻んで洞窟に安置したと聞く。 ちなみに訪れた折、スケッチをし、像を調べたところ、右手の観音像には「文化九年甲」と刻まれており、奥にある一体の観音像には「上小瀬・小森云々」と刻まれた跡がうかがわれた。 右手に一八体、左手に十七体、それぞれ異る観音像であった。洞窟の前に四体合計四十体であり、そのほか洞窟以外に散在し百の観音像といわれている。私もおりを見て百観音山を散策して調べてみたいと考えている。

 また四十年前の頃は那賀の田んぼには、二毛作として「なたね」を作り、食料油・油カスを肥料として物資不足の補給としては貴重を存在であった。
 部落では下河戸に久和野正一さん、上台には吉田寅吉さんの二軒が油絞りをやっており「油屋さん」と親しまれていた。わが家でもおばあさんが、木綿の風呂敷につつんだなたねを、背中にヒッチョツて頼みに行った後姿が思い出される。収穫最盛期には油屋さんも大忙しさであり、頼まれたなたね絞りを次々に処理されるが、三〜四日はかかったと記憶している。 絞り機も現在の機械化時代と違い、キリンや挺子を利用した太い材木の端に、重い石を三つ四つぶら下げて絞る。今思えば原始的でチャチな機械といい切ってしまえばそれまでかも知れないが、当時の機械としては生活の知恵のはしりとして時代に即応したものだったと思う。出来上った頃、みはからって、とりに行くと大きを鉄鍋で妙るなたねのこうばしい匂いが漂っていた。
 なにがしの工賃を支払い、一升瓶に詰めた油と油カスをぶら下げて大事に持ち帰ったものだ。油の利用といえば、旬の茄子の「シギヤキ」などいためものが多く、家庭の主婦は大事に使った時代でもあった。現在村の活性化対策にリゾート地(百観音ふる里公園)として、大きくクローズアップされ、着々と開発工事が進めら
れている。望ましいことで村おこしの成功を願っている一人である。時代と共に歴史は動き、歴史はその世代、世代に伝えられ文化の発展につながって行って欲しいものである









という事で引用が長くなったが由来についてはこんな感じだ。

昔は祭りが開かれたりとずいぶんと賑わっていたようだが、しかし現在はどうだろう。

平日という事もあるけど、誰ひとりとしていませんでした(;´∀`)

観音洞窟はなかなか素敵だけれども、入口も分かりづらいし(看板が少ない)、山頂に上っても何も見えない展望台。苦労が報われない(-_-) あれじゃ、どうせ上っても何も見えないからやめよう、って登る意欲がなくなるだろう。岩の説明板もぐにゃぐにゃでくたびれた感じ。ほったらかしにしてる感が否めない。

いや根本的に、こんな洞窟が緒川にあるのか知っている人がいるのかも微妙だ。史料で語っている久和野さんが願っている村おこしの成功とは程遠いのが現状だ。

これじゃ、せっかくの謎多きミステリースポットが勿体ないので、くたびれた看板を交換するとか、展望台が見やすいように枝を剪定するとか整備してほしいと思う。



という事で、




緒川再発見!


ぜひ百観音へおこしください〜〜 ( ̄▽ ̄)ノ




【地図】
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日立市 古代王の洞窟墓 『十王前横穴墓群』


 日立市川尻町には、遥か太古の古墳時代の造られた洞窟の墓(正しくは「横穴」「横穴墓」)がある。 『十王前横穴群』というらしいが、一般公開され、内部が自由に見学できるらしい。なかなか面白そうなので見に行ってきた('ω')ノ






場所は日立市川尻町3丁目52付近の小高い山林
イメージ 1




この石柱が目印。木製の橋を渡って、突き当りを左。
イメージ 2



途中、分岐を左方向へ。
イメージ 3







そこからしばらく歩くと2つの洞窟を発見した!

山の斜面に掘られた洞窟、左と右に1基ずつの横穴墓である。

これは斜面の左側にあった横穴墓。

↓  ↓   ↓

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横穴墓の中に入ってみた。。。。。




 (※パノラマ合成してます)
イメージ 5

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内部は4畳半くらいの空間。石ころが敷き詰められてる。

崩落したような形跡はなく、壁・天井が岩なので頑丈そうだ。保存状態もかなりいい。


あ!・・・・・






(以下、巨大化け物虫、グロテスク閲覧注意)






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内部は真っ暗なもんで撮影時には気が付かなかったけど、化け物が写ってる!

20cm〜30cmくらいはあろうかという巨大さである。なにあれ?エイリアン?トトロのオープニングかよ。

いや、ほんと見えなくてよかった〜〜〜。

あんなの直接見ちゃったら、イヤだ2つ目の洞窟行かない!ってなるでしょ。精神崩壊してるよ。



という事でこの時、幸いにも巨大なエイリアンに気づかずして2つ目の洞窟の探索を続けます(笑)

今度は右側の斜面に掘られた洞窟、横穴墓である。

左の横穴よりも少し大きい。


イメージ 8




【案内板】  ↓↓
イメージ 9




中に入ってみます。



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内部はさっきの横穴よりも広くて、だいたい6畳くらいの広さ。



これは祭壇だろうか?少しくぼんだ所があって物が置けるようになっている。

 ↓   ↓   ↓

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これは現代人が描いた壁画ですな。


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さて、この十王前横穴群の由来について調べてみた。

史料「日立の文化財 史跡巡り」に詳しく書いてあったので、引用する。

 十王前横穴群

 この横穴は、7世紀後半ごろの埋葬施設で、山の斜面の岩を横に掘り込んで部屋(玄室という)を作り、遺体を安置したものです。
 横穴は、古墳時代の人々が水田を見下ろすような山の南側斜面に、群をなして作られる(横穴群)のが普通です。
 十王前横穴群も、水田を見下ろす山の南側斜面に作られており、現在29基確認され、その中には装飾を施したものも3基みられます。装飾は、三角形や菱形などの線刻や、赤や黒などの色をつけたものもあります。三角文は、鎮魂や魔よけのための意味があると考えています。
 玄室の床面には、こぶしぐらいの大きさの河原石を敷き詰めたものもあり、遺体は奥壁より安置されておりました。
 横穴の入口には、石でふたがなされ、家族の者が死ぬと、このふたをあけて遺体が、つぎつぎに入れられたのです。

史料(日立の文化財 史跡巡り /著:日立市文化財愛護協会 昭和54年12月15日発行)



「家族の者が死ぬと、遺体をつぎつぎ入れられた」



 この空間は数体の遺体が置かれ、死臭が充満していた。そう考えると一瞬ゾクッとしたが、墓なんだから当然といえば当然か(;^ω^)

 実は、動画も撮影してきたのだが、撮影時には気が付かなかったけれど奇妙な音が収録されていた。それは洞窟から出ようとしたとき、低い耳鳴りのような「ボーン」「ボーン」というような音。こんな音はしていなかったような気がするのだが。こんなのは小川の精神病院の廃墟探索以来だわ。



 

           撮影してきた動画。問題の怪音は洞窟から出ようとしたとき収録された   ↓↓





不明な怪音を分析してみた。

「ボーン」という音は1回だけに聞こえるけど、波形を見てみるとピークが2つあり、音が2回連続している。



イメージ 14





ああ〜・・・  何回もリピート再生してたら、なんだか人の声のようにも聞こえてきた(@_@U)

まるで何かを訴えるような。

なんの音なのでしょうね??

まあ、長い眠りについていた古代の王、それが現代人によって突然眠りを妨げられたのですから怒っても不思議ではないかも知れませんね。





という事で、

今回は、巨大なエイリアンといい、怪音といい、奇妙が連続する探索なのであった。

念のため見学するときはお祈りするなど敬意を表しましょう〜〜。(;^ω^)




【ひたちなか市】 高野疎水隧道


 以前から気になっていたひたちなかの隧道を見に行ってきた。

 場所はひたちなか市高野ののどかな郊外。

 隧道の上を常磐線が通っている。

 ここに明治時代に掘られた隧道がひっそりと存在している。
 


イメージ 1










高野疎水隧道 西側


 まずは、隧道の西側を。


 隧道の東側はコンクリートで近代化改修されていて、明治の面影はあまり感じられない・・・・( ̄ー ̄U

 まず目にかかるのは、期待外れな感じが否めない、コンクリートでガチガチに補強された無機質なトンネル。





イメージ 2







   表示板には「高野疎水隧道 126k 775m」との書いてあるが、始点の東京からの距離を意味しているのだろう   ↓ ↓
イメージ 3







 隧道内部は照明が無く、薄暗くちょっと不気味な印象。

 夜は真っ暗で怖いだろうね〜。

 しかし、地元中学生は何のためらいなく入っていく。

 地元つええ。。。

 もう慣れているのでしょうね。

 地元の人の往来がけっこうあり、生活道路ならぬ、生活隧道として使用しているようだ。



イメージ 4










高野疎水隧道 東側



「なんだこりゃあ、期待外れじゃないか〜〜。」


いや実は、この隧道の見どころは、西側ではなく東側だったのである。


東側に来てようやく理解する。




イメージ 5





東側は、竣工当初のレンガがそのまま残っており、明治時代の面影を色濃く残している。

すばらしぃぃー!!

この色合いといい、ちょっと朽ちた質感。

やはり本物のアンティークは違う! ロマンを感じる!

まるでタイムスリップしたかのよう。


イメージ 6


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壁には約47年前に掘られた落書が!


半世紀前の落書きがそのまま残ってるってのもすごい(笑)




イメージ 8



イメージ 9






 この隧道についての歴史的な由来だが、史料「茨城の近代化遺産」から抜粋する

 ↓ ↓ ↓

 日本鉄道は明治30年(1897)2月、水戸〜平間を岩城線として開業する。その後常磐線は一幹線として複線化や電化が進められ、開通当時の線路施設のほとんどは修理が施されている。その中に遺構として残っているものに、高野疎水隧道と、宮田川水抜きアーチ橋がある。いずれも完成年度が1897年とあり、上記開業年度と一致している。 ともに煉瓦造りのアーチ橋トンネルで複線化に際して延長されたり、高野疎水隧道は内部を補強した様子は伺えるが、当時の姿をよく残していると言える。                
( 「茨城の近代化遺産」から抜粋 )




しかし、隧道内のコンクリート近代化改修を全部やらずに、あえてこの部分だけ改修せず残したのはJRのご厚意によるものだろうか??

是非、明治のレンガ部分はこのまま残してほしいと思う。

高野疎水隧道の場所についてですが、・・・・

落書きされそうだからとりあえず内緒にしておきましょう( ̄ー ̄U トンネルはヤンキーの格好の餌食になりますからね。

まあ、興味がある方はヒントが既に出ているので探してみてください。




【ひたちなか市武田】 常磐線ガード下の赤レンガ土台


 ひたちなか市武田の常磐線のガード下にも、レンガの土台が残っていた。こちらも明治期のものかもしれない。JR水郡線のガード下にもレンガ土台があったが、近代化改修でコンクリートで固められ面影はなくなっていた。


JR常磐線ガード下のレンガ土台 ↓↓
イメージ 10


【笠間市】大正の本格レンガ造トンネル  (通称:小泉アーチ橋)

 図書館で調べものしてたら気になるもの発見。笠間市に大正期に作られた本格的なレンガ造りのトンネルがあるらしい。トンネルとは書いてみたが、史料では「小泉アーチ橋」と書いている。常磐線が通っているので「橋」なのだろう。上からみたら橋だが、下からみたらトンネルだろう(笑)

 さて、このトンネル、通称「小泉アーチ橋」とやらについてだが、資料を引用する。


 大正11年9月に竣工。煉瓦・石造の小規模なアーチ橋である。アーチ部分には煉瓦が用いられ、半円状のアーチを描いている。煉瓦は長手積みが採用されている。線路を支える土台部分には綺麗に整形された石が用いられ、切手積みがなされている。 切手積みの部分は非常に精度が高く、比較的最近になってから組み直された可能性が高い。
 小泉アーチ橋は、煉瓦ならびに石の部分はほとんど損傷なし、大規模な改修工事が行われたことが想定される。また煉瓦と煉瓦の間にはいくつかの補修した跡が散見される。
 このように小泉アーチ橋は建設年代こそ大正11年であるが、拡幅工事に加え、何度も改修・補修がほどこされており、建設当時の外観を見せているとは言い難い(中野茂夫)

                資料:「茨城県の近代化遺産」/茨城県教育委員会








当時の外観とは言い難い・・・・。






一気にやる気が失せたが、とりあえず見に行ってみる事にした。

しかし探そうにも場所が不明。ヒントすら無かった。

名称が「小泉アーチ橋」であるので地名の「小泉」を探した。しかし「小泉」という地名は無い。南小泉はあるんだけれども。

そこで南小泉の北だろうというテキトーな考えで行ってみたら、発見!なんとミラクルだ。






これがその小泉アーチ橋である。

資料では「当時の外観とは言い難い」とバッサリ斬られているけど、でも大正時代のレトロ雰囲気はあります。なかなか風情があります。そして、思ったよりもデカイ。


茨城じゃなかなか見る事ができない本格的なレンガ造のトンネル。これは貴重だ(*'▽')こんなのよく残っていたなと。





イメージ 4










イメージ 1







レンガをふんだんに使用している  ↓ ↓
イメージ 2






しかし、トンネル内の落書きがそのレトロな雰囲気をぶち壊している。

どうしてヤンキーってトンネルとかガード下に落書きしたがるのでしょうかねぇ〜( 一一)

イメージ 3










動画も撮影してきました。
↓ ↓ ↓







 で、資料に書いてあるんだけれでも、ひたちなか市に明治30年の隧道があるらしい。まさかの明治!しかもひたちなかに??なかなかひたちなか(※キャッチフレーズ)は本当なのか!?(笑)あとは「湊線に残る近代遺跡洞門」・「日立市宮田川水抜きアーチ橋」なんてのもあるらしい。

 ひたちなかの隧道はこれから行ってみる予定ですが、まだ見てないのでどんなのか楽しみですね。大した事なかったら何事もなかったかのようにボツですが、更新できる事をいのります(爆)


 廃道を詳しく紹介する『山さいがねが』というインターネットホームページがある。

 廃道マニアの管理人よっきれん氏が全国の廃道やトンネルを探検し、それをホームページに掲載している。

 朽ちた吊り橋や洞窟など、自身の危険をかえりみず突撃していく様は見るものを感動させ、廃道カリスマ的存在として崇められている。

 そのホームページ「山さいがねが」に、我が茨城県の城里町の隧道について紹介していた。それは手堀りのトンネルのようであるが、こんな近くの城里町にもあるとは驚きだ。

 気になったので、「山さいがねが」の情報を頼りに自分も実際に足を運んでみることにした。




城里町の廃道 大沢隧道(仮称)



 廃道マニアのホームページ「山さいがねが」によると、城里町下赤沢の山中に手掘りのトンネルがあるらしい。1992年の古い地図を引っ張り出して見てみると、確かに地図上でトンネルの表記がある。

 このトンネルの記号を目指して、探索することにした。

1992年の道路地図  ↓↓
イメージ 1







 このトンネルは城里町の山中の崖下にあり、道が皆無なのでどうアプローチするかが問題だ。

 地形図を見ながら、比較的歩きやすい谷に沿ってに歩ってみることにした。

 ここから山中に突入する。

【写真1】
イメージ 2



 

 


 谷沿いに、目的地へ進む。

 雑草が生えていないので比較的歩きやすい。
 ↓  ↓
【写真2】
イメージ 3





ところが奥に進むにつれて倒木が激しくなり、バラが至る所に生えててチクチクと刺さる(ToT)

堪らずに進路変更。
 ↓  ↓
【写真3】
イメージ 4







現在地ここ ↓↓
イメージ 5








  で、斜面をのぼる。





斜面を少し登った。 ↓↓
イメージ 6








斜面を登ったら偶然にも廃道らしきものが現れた。

ここを道沿いに進む。

 ↓  ↓
【写真4】
イメージ 7











  ――ついに隧道発見!!――






 ついに発見した!

 これが大沢隧道(仮称)で、いわばトンネルの跡である。

 山の斜面にポッカリと大きな口を開けている。

 写真だと小さく見えるけど実際はかなり大きい。
 ↓  ↓
 【写真5】
イメージ 8





 内部を覗いてみた。

 持っていた懐中ライトで照らしてみる。

 トンネルが深くて奥が真っ暗で見えない。

 これは相当な長さだ・・・・

 どのくらい奥に続いているのか・・・(´゚ω゚`U )

 反対側は既に土砂で埋まっていて行き止まりらしいが。




 中に入ってみようと内部へ進入を試みた。

 しかし事前の情報通りトンネル内部は水浸しで、長靴を履いてはきたものの水深がかなり深く、長靴ごと水に漬かってしまいそうになる。

 ヒザくらいか、それ以上まで水がありそうな感じである。

 【写真6】
 ↓ ↓  
イメージ 9







動画













帰り道だが、地図を見ると隧道右側の斜面を登ったすぐのところに道路が通っている。

崖だと思ってまわり道して訳だけど、この急斜面を登り切れれば時間短縮のショートカットで速攻で道路に出られそうだ。

で、急な斜面を頑張って登って、ショートカットしてみた。




  速攻で出られた。




なんと!!

40分以上かけてバラに刺さされながら迂回してきたのに、5分もしないで道路に出られたじゃないかヽ(*゚O゚)ノ

最初からこの急斜面を行けば5分で到達できたのである。くたびれ損である。

のちに探索する人たちがワタクシのようなくたびれ損をしないように、明確なルートを以下に示しておく。





大沢隧道までのルート




城里町下赤沢の県道225号線を大沢峠の方向へ。

↓  ↓
イメージ 10







以下のルートで進む

↓ ↓
イメージ 11







「鶏足山登山口」の看板のある所の斜面を真っすぐ下に降りる。
イメージ 12





この看板が目印 ↓↓
イメージ 13










という事で城里の山中にこのような隧道があったとは意外な発見だった。

しかしこの隧道は年代など詳細な内容が一切不明である。

鉄道が通っていたとか、車が通っていたとか様々な憶測があるがどれも定かではなく、詳細が気になるところである・・・。

この謎の隧道について、なにか情報をお持ちの方は是非お寄せくださいませ〜〜〜(`・ω・´)ゞ

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