いばらき解体新書。

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◎__筑波海軍航空隊__◎

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 茨城の戦争遺跡 / 筑波海軍航空隊  








 指揮所(号令台)

 
 

 中野忠次郎は指揮所(号令代)の前に整列した隊員に向かって「筑波隊」の命名を告げた。数日前に神風特別攻撃隊の名簿が発表されたばかりであったが、「筑波隊」と命名したのである。しかし、司令中野忠二郎大佐、飛行長横山保少佐は特攻作戦に反対の意思表示をしていたといわれる。

 その指揮所は現在も残っている。



↓ ↓ ↓
 

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 基地フェンス跡

 

 散策していたら当時のフェンスの跡と思われる物を発見!当時の古写真にもあったコンクリート製基地フェンスの支柱で、これも立派な遺構です。そう考えると正門にあった石造りの正門も当時からの物なのかも知れません。



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コンクリートの板をおさえている以下の支柱です。
↓↓
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 滑走路跡



 筑波海軍航空隊の滑走路は、現在も道路として残っている。並行ではなく三角の形をした滑走路だったそうだが、離着陸でぶつかりそうな気もするが・・・。


 当時の滑走路は芝張り(芝生)だったが、デコボコができて、車輪がとられたり脚を傷つけて機体を破損する事があった。また、訓練中不慮の事故で殉職した隊員もいた。

 中野忠二郎司令は、舗装した滑走路を筑波空の自力で作ることにした。各方面から資材を集め、昭和19年9月中旬から11月中旬にかけて工事を進め、三角形の滑走路を完成させた。




滑走路だったところは、現在は道路として残っている ↓↓
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<滑走路の位置>
三角形の変形した滑走路。
同時に離着陸したら衝突しそうで危ないのではないかと思うが・・・。どのように離着陸したのかまでは不明。

↓ ↓
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 筑波海軍航空隊の火の見やぐら


 

 笠間市古大山地区に、筑波海軍航空隊から払い下げた火の見やぐらがあるらしいが、付近を探索するもそれらしい物は見つからず。現在は既に無いのかもしれない。


     ↓ ↓
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 1000m道路(別名:海軍道路)



 昭和9年3月5日、友部駅から航空隊に至る基幹道路と資材輸送のトロッコレールは、海軍省が施工し、航空隊から橋爪まで1000m道路(海軍道路)は町が請負うことになり地元の有志によって宍戸駅から基地までの道路が建設された。




 地元の有志により作られた、1000m道路(海軍道路)の新設記念碑  ↓↓


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<地図>
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 筑波海軍航空隊 実弾射撃テスト場


 北関東自動車道友部ICのすぐ近くに、ゼロ戦の実弾テスト場がある。これは筑波海軍航空隊記念館の案内にも無かったので知らない人が多いかもしれない。

 実弾テスト場は長方形の形で、ゼロ戦の固定武装の照準を合わせるためのテストをしていたらしい。しかし、基地から離れているこの場所までどうやってゼロ戦を運んだのか??

 現在は個人所有の畑と家が建っているのみで、特に見に行く程でもないが、一応こういう場所があったという事で載せておく。





 実弾射撃テスト場は、航空隊の西方3.5キロメートルほど離れた星山地区の原野に設置されました。県道稲田友部線から南へ230メートル入った洞沼川沿いの低地です。
 射撃テスト場の規模は、南北325メートル、東西115メートルほどで、東側は土塁が築かれ、西側は涸沼川です。
 射撃位置は南側で、北に向かって280メートルと180メートルの標的になっていました。標的の後部は壕でその奥は砂地、さらに山林でした。壕の西側は石垣でした。北側の山地から湧き水があり、良い飲料
水となっていました。射撃位置に零戟を置き、そこから射線整合のためのテスト射撃をしていました。ここは現在、県企業局の涸沼川取水場になっています。射撃場の東部の山林には防空壕が掘られていました。
 射撃テスト場は、戦後、星山開拓に開放され、現在、細田保夫氏の宅地及び農地、取水場になっています。
                  (筑波海軍航空隊 ―青春の証― から)









<実弾射撃テスト場全景>
現在は個人所有の畑となっています。 
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 地下戦闘指揮所


 数多くある筑波海軍航空隊の遺跡の中でも、最も興味をひかれたのが地下戦闘指揮所である。

 公開前と、一般公開のそれぞれ見に行って来たがなかなか面白かった。

 内部は少しヒンヤリ。小部屋がいくつもあり探検している気分。足の長いカマドウマというバッタが天井に沢山いたのは少しひいたが・・。

 茨城にもこういう遺跡が残っているのだとは意外だった。こういう遺跡は残した方がいい。





 昭和20年になりますと米軍の空襲が激しくなり、かなりの被害が出るようになりました。航空隊では、非常に備えて急拠、地下戦闘指揮所を建造しました。
 戦闘指揮所は、司令部の南1キロメートルほどの旭町・矢野下境の山林にあり、コンクリートのがっちりした建造物で、20年2月に完成しました。
 この指揮所は、地下2メートルほど掘り下げて、東側に通路と5室、通路をはさんで西側に通信設備と思われる装置の1室があります。各室にはケーブル孔が備えてあります。南北に4カ所の出入口がつくられています。建造物の上には土が盛ってあり、樹木でかくしてあります。地表の高さは4メートルほどです。この地下戦闘指揮所は、現在もほぼ原形をとどめて
残っています









一般公開前



これは一般公開前の2013年に撮影したものです。コンクリートの建物を土でかぶせてあるので小高い丘のようになって見える。辺りは鬱蒼としていて、これでは絶対に上空からは分からない。

↓ ↓


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出入り口はそれぞれ4カ所あり、公開前はベニヤ板で塞がれていました。

↓ ↓ ↓




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地下司令部の上部にはケーブル孔と換気口がそれぞれ地下の各室につながっている。




これはケーブル孔だろうか??  ↓↓
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これは換気口?? ↓↓
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一般公開





その後、地下戦闘指揮所が一般公開され見に行ってきた。

入場料は500円。入口でヘルメットと懐中ライトを借りるが、自分は自前のLEDライト「スーパーファイヤx SF705」という明るいライトを持って行った。100m先を照らせる「メガファイヤ」もあったが明るすぎるのでやめておいた。






入口  ↓↓
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通路↓↓
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部屋 ↓↓
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通信指令室には、通信機材を固定したと思われるアンカーの跡が残っている。↓↓
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  動画














 という事で、今回は筑波海軍航空隊の戦争遺跡を見て回ったが、山の中に地下司令部があったり、何の変哲もない道路が滑走路跡だったりと身近に戦争遺跡があるものだと思った。
 つい最近までマイナーだった筑波海軍航空隊が世間に知れ渡ったのは「筑波海軍航空隊プロジェクト」のおかげであります。ベニヤで塞がれた地下司令部も入る事はできなかったでしょう。

 残念ながら、筑波海軍航空隊の司令部庁舎は解体間近だそうなので、取り壊す前にこれは是非みなさんにも見て欲しいと思います。

 戦闘地下指令所も土日祝日に限定公開をしているので、是非見に行って楽しく探検してみてください。
 茨城の戦争遺跡 / 筑波海軍航空隊  


 かつては特攻隊の基地だった、笠間市の友部にある筑波海軍航空隊基地。

 ここには海軍航空隊の司令部庁舎がありましたが、現在、筑波海軍航空隊記念館として、館内には様々な資料や遺物など展示し、有志により筑波海軍について広く知ってもらうよう取り組みが行われています。

 自分も何回か足を運んで、記念館の資料や筑波海軍航空隊の遺跡などを見て写真に収めてきましたが、実に興味深いものばかりでした。
 
 収集してきた筑波海軍航空隊の戦争遺跡などの写真をメインで、2編にわたり掲載してみようと思います('◇')ゞ









  筑波海軍航空隊司令部



筑波海軍航空隊は、昭和9年6月22日に「霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊」として開隊。昭和13年に霞ヶ浦海軍航空隊より独立し「筑波海軍航空隊」となった。

 この司令部庁舎は、昭和13年頃にそれまでの木造庁舎から鉄筋コンクリート2階建てに建て替えられた(らしい)。




筑波海軍航空隊司令部庁舎は、現在も当時のまま残っている  ↓↓
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筑波海軍航空隊時代の司令部庁舎 ↓↓(年代不明)
よく見比べると、外観はほとんどオリジナルのままである。
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<階段>
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<副官室> 
この机は当時の司令官が実際に使用していたのだそうだ。レトロな良い味を出している↓↓
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当時のまま残るドアノブ 
正真正銘アンティークなドアノブですね。簡単にピッキングできそうです(笑)
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     裏門



昭和9年の開隊当初、霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊時代は現在の裏門が正門だった。



<現在>
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<霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊時代の正門>
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     隊門跡


現在の正門が、まさしく筑波海軍航空隊時代の正門である。ズシっとした立派な門です。これも航空隊時代のものだろうか??


<現在の正門>(今は使ってません)
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<筑波海軍航空隊時代の正門>
隊門を外から撮ったものとみられる。隊門をくぐると桜並木があり、ゆるい左カーブとなっている。
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     地下壕(防空壕)


本部庁舎裏には地下壕があったが入口が見当たらないので現在は埋められたと思われるが定かではない。外から見ると山のようになっている。


↓ ↓
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     筑波神社



筑波神社は航空隊の敷地内にあり、特攻隊員が出撃を前に祈願したといわれる。現在は土台を残すのみ。
↓↓
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 当時の筑波神社



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神風特別攻撃隊筑波隊(第14期予備学生)特修学生教程卒業記念 (昭和20年4月1日)
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                      →→→★原寸大表示★←←←





★隊員一覧表★


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神風舎


神風舎についての情報は少なく、詳しい事は分からないが特攻隊専用の宿舎との事。神風舎は戦後、宍戸中学校の臨時校舎として利用され、その後解体された。
神風舎はかなり大きな建物だった事がわかる。

↓↓
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配置図




資料などを元に配置図を作成。 (少し間違ってるかも)

昭和22年の航空写真 ↓↓
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――筑波海軍航空隊の歴史――  













    ――前のページからのつづき――








       第3章 筑波海軍航空隊 後編




 <昭和20年2月29日> 神風特別攻撃隊筑波隊の編成へ    

 昭和20年2月20日。筑波海軍航空隊で神風特別攻撃隊の名簿が発表された。1隊が8名で、8隊64名の編成であった。名簿の大半は13期予備学生と14期予備学生であった。司令中野忠二郎大佐、飛行長横山保少佐は、特攻作戦に反対の意思表示をしていた。二人とも戦闘機搭乗員のキャリアが長く、特攻攻撃には批判的な考えをもち、できることなら万に一つでも生還を期しうる攻撃を念じていた、といわれている。

 2月28日。中野司令は指揮所(号令台)の前に整列した隊員たちに向って、「筑波隊」 の命名を告げた。特攻隊員に選ばれたのは、隊員の中でも大学を卒業したばかりの20歳代前半の13期・14期予備学生が多かった。
 13期予備学生は、飛行時間200時間〜250時間。また、零戦での訓練は100時間足らずであった。14期生は飛行時間60時間、零戦では30時間足らずの搭乗の者もいた。


2月20日の名簿発表と同時に、特攻訓練の指令も出た。訓練期間は2月22日から4月中旬までとし、離着陸8回、編隊訓練7回、計器飛行10回、航法訓練5回、特攻攻撃法10回、薄暮飛行6回、定着5回、最後に総合訓練が計画された。
 計器飛行、零戦操座は2月22日から一週間、北浦・鹿島で実施された。特攻攻撃法は、零戦を操縦して上昇・旋回・急降下などの実戦的訓練で、くり返し行われた。
 3月28日筑波隊の補充が行われ、総員84名になった。このうち14期予備学生が48名(特攻戦29名)、13期が29名(同24名)、予科練出身が5名(同5名)、海軍兵学校卒業(73期)が2名(同2名) であった。
 
 この時すでにアメリカ軍の沖縄攻撃は、4月1日から本格化した。すでに沖縄本島中部西海岸に、1500隻の艦船が集結し、上陸作戦を開始した。
 
 日本軍は陣地構築(地下壕)による持久戦を目ざし、更に鹿屋・知覧等の九州の基地から特攻隊が出撃して、必死に沖縄防衛に当っていた。







 <神風特別攻撃隊筑波隊84名。神風舎前にて> 
念の為に後の記録として、全員(第一筑波隊のほか4名はこの写真には写っていないようだ)の名前を載せておく。【】以外が特攻隊員。
(※1の数字は第一筑波隊、2の数字は第二筑波隊、というように以下、第六筑波隊までを番号で示す。「神雷」は、神雷爆戦隊を示す。)

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↓↓
 (1列目右から)   
6大木 偉央 / [神雷]]川口 光男 / 1福寺  薫 / 2熊倉 高敬 / 1石田  寛 / 1末吉  賓 / 【飛行隊長 宮嶋大尉】 / 【司令 中野大佐】 / 【飛行長 横山少佐】 / 【分隊長 小林大尉】 / 【吉松大尉】 / 3中村 秀正 / 4米加田 節男 / 1石橋 申雄 / 1伊達 賓 / 【田中飛曹長】

(2列目右から)
【山中飛曹長】 / 1大田 博英 / 3由井 勲 / 佐藤 武 / 6大喜田 久男 / 加美山 茂 / 1椎木 鐵幸 / 1斉藤 勇 / 1金井 正夫 / 木名瀬 信也 / 5岡部 幸夫 / 橋本 利一 / 5西田 高光 / 1金子 保 / 6富安 俊助 / 1福島 正次

(3列目右から)
6小山 精一 / 6荒木 弘 / 石部 富治 / 5町田 道教 / 内山 聿郎 / 秋本 重徳 / 1鷲尾 侃 / 2一ノ関 貞雄 / 4大塚  章 / 1山口 人久 / 6時岡 鶴夫 / 5森 史郎 / 6黒崎英之助 / 5中村 邦春 / 5福田 喬 / 3石井 敏晴 / 原口 鈴夫 / [神雷]高橋 英生

(4列目右から)
6本田 耕一 / [神雷]溝口 幸次郎 / 織田 徳三郎 / 3山縣 康二 / 6藤田 暢明 / 柳井 和臣 / 佐藤 國三郎 / 失定 清九郎 / 川崎 一精 / 後藤 尚平 / [神雷]伊藤 祥夫 / 3岡本眞二 / 6桑野 賓 / 橋本 義雄 / 青戸 廣二 / 4庁山 秀男 / 山口 正憲 / 有吉 一馬 / 4山崎 幸雄

(5列目右から)
笠間 照雄 / 3粟井 俊夫 / 6西野 實 / 6高山 重三 / 6折口 明 / 6中村 恒二 / 5諸井 國弘 / 5石丸 進一 / 山根 恒 / 5吉田 信 / 西牧 寛徳 / 林 静馬 / 細井 享 / 佐々木 章雄 / 3兼森 武文 / [神雷]河 晴彦 / 4麻生 攝郎








 <神風特別攻撃第一筑波隊、第二筑波隊の集合写真>
第一筑波隊17名と、第二筑波隊3名の総勢20名が全員戦死とのこと。↓↓(1は第一筑波隊、2は第二筑波隊)
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(前列右から)
1福寺 薫 / 2熊倉 高敬 / 1石橋 申雄 / 1末吉 實 / 【飛行隊長】宮嶋大尉 / 【司令】中野大佐 / 【飛行長横山少佐】 / 【分隊長小林大尉】 / 【吉松大尉】 / 1石田 寛

(中列右から)
1鷲尾  侃 / 1大田 博英 /1椎木 鐵幸 / 2一ノ関貞雄 / 1斉藤 勇 / 1金井 正夫 / 1福島 正次 / 1金子 保 / 【山中飛曹長】 / 【田中飛曹】

(後列右から)
2新井 利夫 / 1安田 善二 / 1村山 周三 / 1伊達 實 / 1山口 人久 / 1松本 智恵三 / 1河村 祐夫











 <昭和20年4月5日>  沖縄決戦  〜神風特別攻撃隊筑波隊、沖縄に散る〜    


 昭和20年の春。

 日本は連日のようにB29に爆撃を受け、本土とシンガポール・本土とジャワ、などの南方の資源地帯との海上輸送が絶たれてしまっていた。東南アジア戦線では、英軍の攻勢によりビルマからの撤退を余儀なくされたり、陸軍が1年近くにも及ぶ攻勢を行っていた中国戦線でも縮小に追い込まれていた。

 4月初頭、米軍はフィリピンに続き沖縄への上陸作戦を展開した。米軍は太平洋方面の総力を結集し攻撃を仕掛けてきたので、日本海軍・陸軍とも苦戦を強いられた。既に制空権も制海権も米軍に握られているという絶望的な状況で、この先長く続かず、玉砕する事は目に見えて明らかだった。しかし、沖縄を失う事は本土をも失う事を意味する。沖縄は重要な防衛ラインなのだ。
 この絶望的な状況で日本陸軍においては要塞化した沖縄で必死の防衛線を続け、それが3ヶ月以上も続いた。こうした状況の中で、日本陸海軍の航空部隊ができる事は、沖縄近海の米艦隊に航空攻撃を行う他に手段はない。
 ゼロ戦最期の任務は従来から度々行われていた体当たり作戦、すなわち特攻だった(海軍では「菊水作戦」と呼んだ)。人間を誘導装置にして対艦ミサイルとなり散華する事である。








特別攻撃隊筑波隊の各隊の動向を以下に簡潔にまとめる

↓ ↓  ↓

4月5日 第一筑波隊出撃

 
 昭和20年4月5日。第一筑波隊17名は、筑波海軍航空隊基地から鹿児島県鹿屋基地の前線基地へ移動し、翌6日午後3時から4時すぎにかけて零戦21型機に250kg爆弾と機銃弾100発を装備して鹿屋基地から出撃し、沖縄周辺のアメリカ軍輸送船団に突入。17名全員が戦死した。


4月14日 第二筑波隊出撃

 

(出撃した日時以外に動向は不明)


4月16日 第三筑波隊出撃

 4月16日、1次・第三筑波隊が出撃。13時46分に「われ敵空母に突入す」の無電を最後に消息を絶った。
 同日、2次・第三筑波隊が出撃。13時27分「敵戦闘機見ゆ」。 13時28分「敵部隊見ゆ」、13時30分「われ空母に必中、突入中」との無電を最後に消息を絶つ。


4月29日 第四筑波隊出撃

 菊水四号作戦が発令され、4月29日、第四筑波隊は鹿屋基地を発進し沖縄へ向かう。

 午後3時58分、「われ敵艦に必中、突入中」の無電を最後に消息を絶つ。


5月11日 第五筑波隊出撃

 5月11日、菊水6号作戦が発令され、第五筑波隊は午前6時50分に鹿屋基地を発進。
 
 「10:08敵艦を認めず、われ慶良間に行く」
 「10:13 敵艦見ゆ、われ突入す」 との無電を最後に消息を絶つ。


5月24日 第六筑波隊出撃

 午前5時27分から6時31分にかけて鹿屋基地を発進。午前7時から8時に、種子島東方の敵機動部隊に突入。


6月22日 第一神雷爆戦隊出撃

 6月22日、菊水作戦10号が発令。筑波海軍航空隊の5名が神雷部隊として派遣され、沖縄の艦船へと突入、散華した。この隊が沖縄戦最後の特攻となった。














        「Battle of Okinawa/沖縄戦」動画 ↓↓






 <昭和20年7月2日> 沖縄の司令官自決。沖縄陥落。    

 6月23日、沖縄の日本軍司令官牛島満中将、自決。

 7月2日アメリカ軍は沖縄戦の終了を宣言した。沖縄戦による戦死者は、本土出身兵6万6000人。、沖縄出身軍人軍属2万8000人、住民9万4000に達した。
 沖縄戦に投入した特攻機は1915機(海軍九八三機、陸軍九三二機)。特攻隊員の戦死4389名(海軍2545名、陸軍1844名) であった。筑波海軍航空隊の沖縄戦の特攻による戦死は60名に達した。

 沖縄戦における特攻の戦果は決して小さなものではなかった。体当たりではない通常の航空攻撃も数多く実施はされたが、米軍の発表によれば米艦隊が被った損害の80%が特攻機の体当たりによるものとされており、米軍が「カミカゼ」を脅威に受け止めていた事は確かだった
 しかし、これだけ多くの犠牲を払った特攻作戦は、敵艦隊に多く被害を出したものの、沖縄の陥落防衛にはほとんど影響を及ぼす事はできなかったという。







       筑波海軍航空隊 沖縄戦特攻隊員が最後に残した遺書


 さて、ここで、特攻隊として沖縄に散った筑波海軍航空隊の隊員が、出撃する直前に書いた遺書があるのでいくつかを紹介する。中には、出撃のわずか数時間前に書いたものもあり。いったい、どういう思いでこの遺書を書きつづったのだろうか。
 敵艦に体当たりする菊水作戦すなわち特攻は、いちど出撃すれば生きて帰ってくる事はできないのはもちろんで、それは到底避けられない「死」であり、潔さよさ。それぞれが家族の事を想い、国の事を想い散っていった。
 現代では、よく言われるのが日本兵は悪い事をしたという認識が蔓延しているという。確かに、命を懸けて散っていった旧日本兵はないがしろにされ、ぞんざいに扱われている。しかしそんな悪党なんていないというのがこの遺書を読み改めてよく分かった。みな、心が澄んだけがれの無い精神を持ち、純粋で、家族想い、国想い、若いのにとてもしっかりしている。もっと評価されて称えてももいいような気がする。
 


 

―――― 尾崎順道中尉 ――――

 尾崎順道中尉は、昭和13年第3期甲種飛行予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊し、同15年4月から筑波海軍航空隊で初歩練習機教程を修了した、筑波海軍航空隊の卒業生。
 太平洋戦争が勃発すると、マレー沖海戦からシンガポール、ガダルカナル、ラバウル等東南アジアを転戦。
 昭和20年5月6日、自ら神祝特攻隊と名づけて出水基地より沖縄周辺機動部隊を攻撃中戦死、享年25歳だった。



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(この手紙は尾崎中尉が筑波海軍航空隊時代に書いたもの。結果的に遺書となってしまった)

  〜筑波海軍航空隊甲3期生の時代に父へ宛てた手紙〜
 
 拝啓
 その後御無沙汰致しました。本隊入隊後今日で一週間です。しかし瞬く間に過ぎ去った一週間でした。
 日課は1日の午前か午後に飛行があり、その残りは操縦座学或いは整備です。夜は2時間余の温習があります。今日の日曜は外出で水戸へ行きました。外出は朝の7時から夜の7時半までで、予科練の二倍の時間
はあります。
 さて、毎日の飛行は練習生が3名の割に教員1名で、交代で飛びたっています。見渡す限り広い芝生の飛行場は、土地の起伏で大波のようです。飛行帽、飛行眼鏡、飛行服、飛行靴、伝声管、落下傘に身を固めて搭乗します。
 前席は教員です。「出発準備よろしい」と伝声管に通すと、猛烈な風を起こして機はするすると地上に滑走を始めます。出発点に於いて風に正向するや発動機は全開、芝生は縞のようになって後方に吹き飛んでゆきます。やがてふっと地面が下に沈んでゆきます。離陸です。そのままぐんぐん上昇します。眼下には大きな箱庭が展開されてゆきます。田畑、森、川、村落、大きな本飛行場も見下ろすと1竦み【すくみ】になりそうです。高度計は1000メートルをさしています。
 油温計、油圧計、回転計、速力計みな好調を示しています。ここで各種直線飛行旋回が始まります。自慢ではありませんが去年の適性検査には、1回で合格した私の事ですから、操作は上々です。しかし慢心することなく努力してゆきます。ご安心下さい。それから目下体の方は申し分ありません。
 毎食、牛乳とか鶏卵とかどタミン食とかを航空食として支給され、設備も予科練よりは比較にならぬ程で、活気もあり毎日毎日を愉快に暮らしております。
 遂に私も海の荒鷲への第一歩を大空に踏み出しました。未来への輝かしい飛行生活を思ふと胸は一杯です。尚、今日から特殊飛行離着陸が始まりました。
                       
昭和15年4月9日 父上様
順 道









―――― 富安俊助中尉 ――――

 第13期飛行予備学生、昭和20年5月14日、神風特攻隊第6筑波隊員として、鹿屋基地を発進した。
富安俊助中尉の操縦した零戦五二型機は、500kg爆弾を抱えて、アメリカ空母エンタープライズに突入し航空機を昇降するエレベーターの大破させ再起不能にさせた。エンタープライズの被害は乗組員14名が戦死、負傷60余名だった。
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――富安俊助中尉の遺書――

 父上様
 母上様
 姉上様
 突然、其方面に出撃を命ぜられ、只今より出発します。もとよりお国に捧げた身体故、生還を期しません。必ず立派な戦果を挙げる覚悟です。
 御国の興廃存亡は今日只今にあります。吾々は御国の防人として出て行くのです。私が居なくなったら淋しいかもしれませんが、大いに張切って元気で暮らして下さい。心配なのは皆様が力を落とすことです。
 海軍に入る時に、当然死を覚悟していたのですから、皆様も淋しがることはないと思います。秀雄には便りを出す予定ですが、家からもよく言ってやって下さい。
 近藤中尉が訪ねて行く予定故、会ってやって下さい、

では                   俊助

 大いに頑張りますから、その点御安心下さい










――――小山精一少尉―――

 昭和18年中央大学商学部を繰り上げ卒業し学徒出陣。同20年5月14日、神風特別攻撃隊第6筑波隊の一員として、鹿屋基地より出撃し、九州東方海面において特攻散華。享年25歳だった。


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 ――小山精一少尉の遺書―― 

 学徒出陣の大命を拝し、大君の御楯と出で立つの栄を受けしは実に日本男子の本懐にて、家門の名誉又之に過ぐるは無し。
 今日此の喜びを得たるは、父上、母上の御苦労の賜なるは言うも更なり。二十有余年間の深き御恩、今ここに厚く謝し奉る。
 帝国海軍軍人として往くからには、もとより生還を期せず、ただ悠久の大義に生きむのみ。言い残すべき言の葉は更に無けれど、思い付きしことどもを記しまいらせむ。

1.家督の相続については父上に御任せ申し上ぐ。
1.長く武門の誉れを残されたし。
1.常に家門の栄は国家の隆盛と共に在り。
1.家は常に春の如くあれかし。
1.総ての源は人の和に在り。
1.恩師、先輩、友人等の御連絡等願申し上ぐ。
1.貸借関係無し。
1.婦人関係無し。
1.私物の整理、処分等については別段の希望無し。

父上様
   右宜敷御願申し上げます。精一は日本人として、小山家の嗣子として、恥じぬ働きをいたします。御身御大切に、登代子、良助のことも御願いいたします。
母上様
  「太柱ほめて造れる宮のごといませ母刀自面かはりせず」最後の瞬間まで御母様の面影を胸深くとどめて戦い抜きます。
孝母上様
  百年、千年の御長寿を御所り申し上げます。精一の魂は必ずお側へ帰って参ります。
姉上様
 富士男様の御武運を御祈りいたします。
登代子様
   村田君との話、よく考えておいて下さい。兄としては無条件で勧めたい男です。よい妻、よい母となって下さい。
良助様
  後の事は宜敷たのむ。死は易く、死処を得るは難い。人間の完成は死処を得るに在る。
 では元気で参ります。最後に日本国の万々歳と小山家の弥栄を祈りつつ。

 昭和18年12月8日
学徒出陣の日
  小山清一少尉









――――末吉實中尉――――

 末吉實中尉は、昭和18年9月、浜松高等工業学校を繰上げ卒業し、同月海軍予備学生となり、土浦航空隊で基礎教程、さらに谷田部空、元山空に配属になり練習機、実用機教程の訓練をうけ、19年8月から筑波海軍航空隊附兼教官となった。
 20年4月6日、神風特攻隊第1筑波隊員として、鹿屋基地を発進し、沖縄周辺の米輸送船団に突入し、散華した。同日付で海軍少佐、従六位、功三級金鶏勲章、勲五等饗光旭日章を贈られた。


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  ――末吉實中尉の遺書――

 突然でさぞ驚きの事と存じますが愈々私も身を以て国難に当たる時が参りました。只今本隊より懐かしい名古屋を右に見て、この鈴鹿空に到着、愛機即ち棺桶の中でこれを書いて居ります。思えば二十有五年間の筆舌に尽くせざる御慈愛と御苦労に何等報ゆる処なく親不孝の数々。誠に何と御詫びしてよいやら、一人涙がにじむのみです。御陰様にて私も他より先に中尉に進級致し、只今では神風特攻隊第二筑波隊隊長として同期の桜を率いて敵空母に体当たりする機会を得ました。男子の本懐これに過ぐるものはありません。必ず兄上の仇は引受けました。明日の戦果を御期待下さい。
出撃数目前に家の焼失を知りました。うち続く打撃でさぞ御落胆なさる事と存じますが、何卒お力落としのない様近所の人達と協力、復興にお努め下さる様お願い致します。何事も気の持ち様ですからしっかりした気持ちで天寿を完うされん事を最後迄祈って居ります。ではそろそろ転進の時間が来ましたのでこれで失礼致します。      
 昭和20年4月5日 午後2時
  
                    賓 拝
 御両親様
 只今より必至必殺の攻撃に征く。心の平静たる本日
の空の如し。白木の箱の整備なる。いざ征かん南の空
へ。吾が予定突入時刻
 昭和20年4月6日1700
    潔く散れや筑波の若桜











――――石橋申雄中尉――――

 佐賀県出身、東亜同文書院大学卒業後、第13期飛行予備学生。昭和19年9月台中航空隊で戦闘機課程終了後、筑波空所属。昭和20年4月5日鹿屋に進出、翌6日神風特攻隊第1筑波隊員として、沖縄周辺輸送船団に突入、散華。任海軍少佐。
 

  ――石橋申雄中尉の遺書――

咲くもよし散るも又よし桜花
 九州の春は早いですね。桜も菜の花も美しく、戦場さながらのここにもなんとなくなごやかな気分を造っています
 昨夜はぐっすり眠りました。夢さえ見ない程でした。頭もすっきりして気分も爽快です。
 同じ地続きで、ちょいとそっちにもまわりたい気持ちもしますね。
 
お寺、水源寺等よろしく。
 父上様
   
 やがて見む 御国の春を讃えつつ
      天がける身は玉と砕けむ











――――福島正次少尉――――

 盛岡高等工業学校(現岩手大学)卒業後、第13期飛行予備学生となり、筑波海軍航空隊で操縦訓練をうけ、一時福岡県築城航空隊に移り、昭和19年5月に再び筑波空に戻り、日夜戦闘機の猛訓練を続けました。昭和20年4月6日午後4時すぎ、神風特別攻撃隊第1筑波隊の同志16名とともに、鹿屋基地を発進し、沖縄周辺の輸送船団に突入し、散華した。



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 本日愈々出撃致します。
 父母様に何の孝養も出来ず先立つ事はお許し下さい。私は元気一杯張切って敵空母に体当たり致します。必ずや父母様のご期待に従ふ様見事に散りますこと故御安心下さい。
 家の方の今度の不幸も戦災にして勝利の前には、総ての犠牲も覚悟せねばなりません。
父母様にも悲観せられることなく希望を持って今後更生せられる様お願いいたします。 私は今こそ秋水の如く、鏡の如く、白紙の気持ちで戦場に向ひます。我々の向ふ処必ずや敵撃滅の報を斎らせます。
 父母様、私の二十有五年の長き一生の御面倒を深く御礼申し上げます。
私の部屋に次の文がかかって居ります。
我等は天皇陛下の神兵なり
神国の神風、筑波原顔より捲き起さん
男一匹五尺の体 やるぞ空母に体当たり
母に捧ぐ
己が身は君の御楯と散らうとも
  折々は帰る母の夢路に








   ―――金井正夫少尉―――

 仙台高等工業専門学校(現東北大学)を卒業して、第13期飛行予備学生となり、筑波海軍航空隊で戦闘機の操縦訓練をうけました。昭和20年4月6日、神風特別攻撃隊第1筑波隊員として、鹿屋基地を発進し、沖縄周辺のアメリカ軍輸送船団に突入し、散華。享年23歳。任海軍大尉。


   ――金井正夫少尉の手紙――
 何から書き出していいのかわかりません。外は春雨がシトシトと降りつづけていますし、ラジオの歌が静かに聞こえています。静かな晩です。天候回復をまち出撃します。この雨が降らなかったら、今日今頃はもう散ったかも知れません。前線は私達の来るのを今か今かと待っています。男の最期です。思ひ切り働いてみます。同じ内地の土を踏みしめながら会へないのは残念ですが、かえって未練なく飛び立てます。沖縄の戦果の中に私の生涯の幸が、印されるでしょう。攻撃、絶対に生還はできません。敬ちゃんのように死に度いと思っています。
 敬ちゃんは偵察員の本領とも云ふべき死にかたです。私もいい死場所を得たと、信じています。ご安心下さい。最近の写真を送り度いと思っていましたが、撮す機会もなく実現しませんでした。
 丁度私も頬髪を伸ばし始めた時です。一糎はのびているでしょうか。頭はのばしませんでした。
 兄さん。敬ちゃんの写真を見たいと思っていましたがこれも駄目でしたね。然し攻撃の時はみんなの写真
を持ってゆきます。
 旅館の桜はもう満開です。多分故里の桜も満開今盛りの頃だと懐かしく思い出して居ります。弘法山なぞみんな楽しい思い出です。
 風が少し出てきた様です。明日は晴れるでせう。九州南端の基地まで進出します。三浦先生は、志布志の町とか。
 本当に親孝行もこれからと思っているうちでしたが、御両親はじめ兄弟みんな長生きして下さい。
 書いても書いても何を書いたのか。何か書き忘れた様な気がしてなりません。ただただ無理をなされぬ様に御長生き下さい。
 ご両親様
 兄弟皆様
 国やぶれて何の山河ぞ。必ずや成果を上げ、ご期待に副ひます。
 窓外の煙雨を眺めながら静かに出撃を待って居ります。故郷の山河を回想しつつ、だれか白頭山節を歌って居る。
 泣くな欺くな必ず還る 桐の木箱に錦着て逢いに来てくれ 九段坂
 御健闘をお祈り致します。
正夫
(『丸』277)







 
   ―――諸井國弘少尉―――

 国学院大学史学科卒、第14期飛行予備学生、昭和20年5月11日、神風特攻隊第5筑波隊員として、鹿屋基地を発進し、沖縄周辺の機動部隊を攻撃し、散華。享年23歳。
 

 ―――諸井國弘少尉の遺書―――

 昭和20年5月6日
 拝啓、すでに此処南の第一線基地に来てから旬日、不思議に命長らえてまだいます。
 今日は出撃だと思えば又然らず、しかし明日知れぬ我が命、一度出撃せば体当り、五体爆弾と共に若桜御国嵐に散ります。最新鋭戦闘機を愛機として行けるのは誠に幸福です。現在の心境神様のみ御存知です。
 毎日家の夢を見ます。もうきっと魂は家に帰っているのかも知れません。
 凡人でも立派にやる事だけはやって、御期待にそいます故御安心下さい。今度敵空母撃沈の報があれば、國弘は靖国神社へ行ったと御思い下さい。二十有三年の御厚情、この一挙に報いさして頂きます。御国の為家門の為、一生懸命に祈って征きます。誰かがこんな
歌を作りました。
 
 我が五体敵艦もろ共砕くとも
  折には帰る母の夢路に
 
 飛行機に乗れば何もかも忘れてしまいます。良いですね。皇国の弥栄と父母上の御健勝を祈ってお別れします。
 追、筑波の方から私の荷物が行く事と思います。「コウリ」と「ボストンバック」です。写真はそのうち誰かから送ってくれると思います。さようなら。
  断行            23歳 國弘









 <昭和20年>本土決戦。筑波海軍航空隊、首都圏防空任務へ    



 とうとう、日本本土への攻撃が本格的に開始された。

 米戦闘機や爆撃機が連日のように日本本土上空に現れ、あらゆるものを無差別に破壊した。

なぜアメリカの爆撃機や戦闘機の侵入を防げず、見す見す攻撃を許してしまったのか。これについて、日本本土防空戦においていくつかの問題点があったようだ。

その問題点を以下にまとめる

↓  ↓   ↓



その1 貧弱だった日本の防空体制

 日本は、自国の上空に敵機を侵入させない「守りの防空」ではなく、敵機の行動範囲内の基地を占領あるいは破壊して「攻めの防空」に念を置いていたため、そして、日本が海に囲まれた島国であったため防空に関しては軽視していたようである。

しかし、昭和17年4月18日。アメリカが艦載爆撃機により行った初めての日本本土空襲「ドゥーリトル空襲」では、日本陸海軍はまともに迎撃する事ができなかった。これをきっかけに日本陸海軍は防空体制の強化を目標としたが、その後の戦況悪化で、それまで本土防空を任務としていた部隊までも戦地へ送り出してしまったため、本土防空は手薄になっていたようだ。





その2 技術遅れのレーダーシステム

 当時、日本陸軍は「甲」と「乙」の2種類の電波警戒機を使用していた。
 電波警戒機「甲」は、距離の離れた送信所と受信所の間に電波を流し、敵機が横切るあるいは近づくと電波の乱れにより生じた唸り音により探知するというものだったが、敵が通過したという事しかわからず編隊の規模や位置の探知はできなかった。
 電波警戒機「乙」は、現代に使用されているレーダーと同じパルス波を使用する、いわゆる「レーダー」だったが、当時は精度が悪く故障も多発し、索敵レーダーとしては使えたが、射撃管制レーダーとしては使えなかったようだ。
 しかしこれでも当時の日本のレーダー技術はそれなりには先進的だったが、緒戦の連勝により慢心したのか継続的な研究開発を軍部が怠った事と、材料の不足・熟練した工員の不足により、先進的だったレーダー技術はアメリカに徐々に水をあけられていった。
 





その3 迎撃に使用する高射砲・対空機関砲の不足

 米戦闘機やB29などの爆撃機は1万メートル以上の高高度を飛行する事が可能で、これを迎撃するのに必要な三式12センチ高射砲の数が足りず、また、高度5000m以下をカバーする対空機関砲も足りなかった。特に40ミリ級のものが少なかったのは致命傷で、低高度で機銃掃射するグラマンや、低〜中高度でB−29の爆撃や焼夷弾攻撃を防ぐ事ができなかった。



その4 新型戦闘機投入なるもパフォーマンスを生かせず 
 
 アメリカが戦前で既に実用化していたスーパーチャージャーを、日本は終戦まで最後まで量産化できなかった。スーパーチャージャーは酸素の薄い高度8000m以上の飛行に必要不可欠であったが、その2段圧縮のものを大量に投入してきた米航空機に対抗して、2000馬力級のエンジン(自然吸気)、「誉」を搭載した四式戦闘機の「疾風」を投入したが、物資不足により本来のオクタン価100のハイオクタンガソリンを使用できず、低オクタン価のガソリンの使用を迫られ、性能を十分に発揮できず(ハイオクガソリン車にレギュラーを入れるようなもの)、パフォーマンスの低下どころかエンジン不調を招いたそうだ。











 サイパンを発進するB29爆撃機や米機動部隊による本土爆撃が始まり、また、P−51マスタングやグラマンF6F(F6F)が軍事基地だけでなく鉄道や工場、一般市民やも民家にまで無差別にあらゆるものを攻撃した。





                 P−51、B29の本土空襲映像 ↓↓
           











 昭和20年4月20日付けで、筑波海軍航空隊は練習航空隊から、第3航空艦隊直属の実施部隊となった。特別攻撃筑波隊を送り出した4月末以降、零戦と零練戦の訓練用飛行隊は、同じ任務の谷田部海軍航空隊へ移された。
 代って紫電装備の戦闘第四〇二飛行隊が編入された。また、5月5日付けで、403飛行隊が筑波空の指揮下に入り、更に徳島分遣隊、谷田部航空隊、大村航空隊 (長崎県)の紫電隊も加わって、筑波海軍航空隊は紫電航空部隊となり首都圏防衛の任務をまかされた。

7月10日すぎ、筑波海軍航空隊司令「五十嵐周正」大佐が率いた403飛行隊は、兵庫県姫路市の北東30kmに位置する鶉野飛行場(兵庫県)へ移動した。この飛行場に隣接して川西航空機の姫路工場(海軍戦闘機を生産)があり、その上空哨戒の任務のため。

 一方、戦闘402隊は7月中旬、飛行長遠藤三郎少佐の指揮で、京都府福知山に進出し、同じく川西航空機の鳴尾本工場(紫電改などを生産)の防衛を任務とした。

両隊は姫路と福知山で8月15日の終戦を迎えた。


















 備考:局地戦闘機 「紫電改(紫電二一型)」

 初代紫電は性能的に零戦の足元にも及ばないものだったようだが、問題点を見事に改良された紫電改は零戦の後継機という位置づけで、零戦に代わる次世代『制空戦闘機』として運用された。零戦にはなかった防弾装備など色々追加され、頑丈に作られた。
 エンジンは「誉」で、零戦が約1000馬力なのに対して紫電改は約2000馬力で、零戦の約2倍。
 手強かった運動性能の高い米戦闘機のF6Fと互角に戦えるポテンシャルを秘めていた。
 しかし戦争末期は熟練したパイロットの喪失や物資不足で劣化した燃料を使用していたため、紫電改の持つ最高のパフォーマンスを発揮できなかったようだ。評価が高い機体ゆえ、遅すぎる零戦後継機のデビューに、もっと早くデビューしていたら、と惜しまれている。
 

  (この写真は 川西 N1K2-J 「紫電改」)
     ↓ ↓ ↓
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   ―性能諸元―  

メーカー       : 川西航空機
エンジン       : 「誉」二一型 
エンジン形式     : 空冷18気筒 
    排気量     : 35,800cc  
エンジン瞬間最大出力(離昇出力) : 約2000ps /3000rpm 
エンジン定格最大出力   :  約1886ps / 高度2000m時
                    約1642ps / 高度6100m時
(ウィキペディアの記述を参考に馬力単位hp→ps換算)
最高速度       : 約594km/h (高度5600m時)
実用上昇限度     : 10,760m






 





 現在の筑波海軍航空隊    


 終戦後、その役目を終えた筑波海軍航空隊の司令部庁舎は病院に転用し、つい最近まで県立友部病院として使用していた。

 最近になって病院が近くに移転し、建物の解体工事が進められるが、「筑波海軍航空隊プロジェクト実行委員会」という有志の活躍により、解体前に期間限定の一般公開が実現した。来年3月31日くらいまで建物の一般公開をし、そのあとは取り壊される予定らしい。





      筑波海軍航空隊司令部庁舎  ↓↓
     
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 結果として日本は敗戦になり多くの犠牲を払った。

 よく言われるのが、戦前日本は侵略など散々悪い事をしてきたとテレビなんかで議題に上がるが、アジアの一部国を除いては(どこの国とはあえて言わないが)ほとんどが親日国である事が示しているように、多くの国に信頼されているのもまた事実であり証拠である。

 国を守ろうと勇敢に散っていった悪者呼ばわりされるのはあまりにも悲しいので、最近になってよく言われている正しい歴史認識を持ち、その活躍を知る事で多少なり供養になるのではないかと思う。







     〜おわり〜






<参考・引用>
・「新笠間市の歴史」
・「筑波海軍航空隊 青春の証」
・「フィールドワーク茨城の戦争遺跡」
・(筑波海軍航空隊記念館のパンフレット)
・(筑波海軍航空隊記念館)
・「歴史群像シリーズ太平洋戦争8」
・「ゼロ戦と海軍航空隊」
・「零戦と日本の名機」
――筑波海軍航空隊の歴史――  






    ――前のページからのつづき――







             第2章 筑波海軍航空隊 前編





<昭和13年12月27日> 霞ヶ浦海軍航空隊から独立、筑波海軍航空隊が発足    


 
 昭和12年7月、日中戦争が勃発。


 日本海軍は陸軍との協定により上海以南の中国戦線における航空作戦を担う事になり、より多くの航空兵力が必要になった。
 そして昭和13年12月27日、友部分遣隊は霞ヶ浦航空隊より独立し、筑波海軍航空隊(略称:筑波空と言う)が発足した。任務は従来通りの搭乗員教育だが、93式陸上中間練習機が導入され、これまでの中間練習機教程の航空隊となった。
  
 同13年から14年にかけて、県内には鹿島(美浦村)、谷田部(つくば市)に海軍航空隊が、また百里航空隊(小美玉市小川)は、筑波海軍航空隊の分遣隊として設置された。
 筑波海軍航空隊の訓練は、一期50名で訓練期間は6か月、訓練は徹底して行われ、小さな失敗でも卒業を大幅に延期された。卒業検定の搭乗は、鈴鹿海軍航空隊(三重県)への往復飛行であった




  ――93式陸上中間練習機――



 九三式中間練習機は第二次世界大戦中の日本海軍の練習機で、オレンジ色に塗装されていた事から別名赤トンボと呼ばれた。


    <性能諸元>
メーカー     : 川西航空機
生産       : 九州飛行機、日本飛行機、日立航空機、中島飛行機、三菱重工業ほか
全備重量     : 1,500 kg
最高速度     :  210 km/h
最高到達高度   :  5,700 m
航続距離     :  1,020 km
エンジン     :  日立航空機「天風」
    排気量  : 17,900cc
エンジン形式   : 空冷9気筒星型
エンジン最大出力 : 340 Hp(344.7ps)×1
固定武装     :  7.7mm旋回機関銃×2 33kg爆弾×2


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(筑波海軍航空隊記念館の模型より。ほんとにこんな感じの色だったらしい。敵から目立つような・・・)
             ↓ ↓
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<昭和14年> 筑波海軍航空隊に昭和の名力士「双葉山」を招いて記念行事を開催    




 昭和14年春に、横綱双葉山、羽黒山、名寄岩ら立浪一門を招いて相撲大会が開かれた。

 横綱双葉山は、同年1月に69連勝という栄光の記録をつくりあげたばかりで、迎えた筑波海軍航空隊の土俵は、大横綱を一目見ようと押寄せた観衆で満員になった。



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<昭和16年>太平洋戦争勃発     
 
 


 昭和16年12月8日、太平洋戦争(大東亜戦争と称した) が勃発した。連合艦隊のハワイ真珠湾攻撃に、筑海海軍航空隊で教官をしていた飯田房太【ふさた】大尉が参戦し、真珠湾の飛行場を爆撃し、部下を航空母艦へ帰艦させ、自らは引返してアメリカ軍艦に突入して爆死した。大尉は戦争の前途に危惧の念をいだき、「日本は今に大変なことになる」と友人に話していたという。

 太平洋戦争が始まると訓練は一層激しさを増し、夜間訓練も実施された。発着、上昇、急降下、旋回、射撃、編隊飛行などの訓練が
繰り返し行われた。海軍少年飛行兵や予科練習生も入隊して猛訓練をうけ、訓練修了後、激戦地へ飛び立っていった。
           
 昭和16年10月1日から翌17年3月27日まで、筑波空で中練教程を修了した甲飛六期、飛練二一期生の動向を、同期で訓練修了後、筑波空の操縦教員として残った青田勝義が、戦後、同期生52名の追跡調査を行った。
 その結果、52名の修了生で、昭和20年8月15日の終戦を迎えることができた者は6名だけで、46名が戦死した。多くはガダルカナル、ソロモン、ブーゲンビル、ラバウルなど東南アジアの激戦地での戦死で、内地 (日本国内) での戦死は4名にすぎなかった。

 同期の年度別の戦死者は、昭和17年が四名、18年が27名、19年が13名であった。搭乗した戦闘機は零戦が23名、九七艦攻が7名、九九艦爆・一式陸攻が14名で、他は銀河・彗星などの戦闘機での戦死であった







 備考: 友部出身の市原米吉特務少尉
 
 宍戸町南小泉(現在笠間市)出身の市原米吉少尉は、昭和12年1月から13年1月まで霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊の教員を務めた。
 昭和17年3月22日、大湊航空隊より索敵に出動したが未帰還となり、4月22日戦死の公報が届いた。



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(遺書は昭和12年9月22日に書かれたもので、妻の市原つやに宛てたもの)

――市原米吉特務少尉の遺書――

 今更こと新しく遺書を書き残すこともなく、すべての事は、生前たびたびお前に話してあるとおりに実行すればよい。
 軍人一たび戦地に至りては「義は山岳より重く、死は鴻毛より軽し」「死」は当然のこと。出来得るなら、第一等国との戦闘に華々しく戦って戦死したい。が支那の弾丸でも当たれば戦死は当然のこと。
 今まで当地よりの何回かの通信で、僕の戦闘振りは少なからず分かったことだろう。既に何回かの危険な生死の境は越えて来た。この事変は今後いつまで続くか知らんが、誰か生ある凱旋を保障できるや。後で「虫が知らすか死を悟った」といわれるは心もとないが、あえてこれを書き残すことにした。
 
 僕の戦死で、当然お前は寡婦になる。初めのうちは世間の人の好奇な目で同情も集まるだろう。が、事変も治まり世が再び平和になれば「喉元過ぐれば熱さを忘る」は人の世の常だ。
 いろいろな方面の誘惑もあるだろうが、今からはお前の身体は僕と二人分だ。確固たる精神、強い信念、偉大なる母性愛をもって世の荒波を乗り切り、子どもを養育せねばならぬ。要するに世間の誘惑に打ち勝ち、人に馬鹿にされぬ強い女、強い母になり、裕子を立派に養育してくれ。どんなことがあっても人から笑われぬ、あたり前の生活を続け、裕子の養育は立派にしてくれ。
 あれがかっての上海空中戦の勇士の遺族の生活振りだ、などと指さされぬように頼む。これは一に君の心掛けによるものだ。よくよくこの際自覚して、いつまでも忘れぬようにしてくれ。
 父は何といおうと僕の希望として、百姓のできぬ串前が家人と共に同居することは賛成できぬ。
 ほかに借家なり適当な所へ家を建てるなりして、分家してくれ。
 お前はまだ20歳の身空で子供を抱えて世の荒波を渡るのは事実むずかしい事だ。普通、世の人は娘盛りで苦労も知らずに親下にあるのに、寡婦生活は実に気の毒だ。適当な人があれば再婚するのも止むを得んだろう。が、人の心には裏表がある。上辺ばかりに惑わされぬよう十分注意したがよいと思う。
 今まで、自分は何もしてやることができなかったが、少なくとも結婚生活2年間は、できるだけの愛情と好意を捧げ、幸福な生活をさせたつもりだ。それ故、他人にお前の泣きを見せるような事はさせたくないと思う。充分と注意してくれ。
 世間に馴れたとはいえ、まだまだお前は世間を見る目がないと思う。注意が肝心だ!!
 もし再婚するにしても、お前が他に嫁ぐようなことはせず、私の姓を裕子により伝えてくれ。
 戦死による賜金並びに家族扶助料は、若干下賜さることと思うが「座して喰らえば山をも崩す」たとえだ。何なりと自己の才能に適した職業を見つけるなり、内職をするなりして地味なまじめな生活をしてくれ。
 親も老境に入り仕事も出来ぬことになり、妹達も年頃だから結婚費用の一助位は親父に出してやってくれ。
 今から収入のないお前にこんなことは言い難いが、家のことも考えればわずか位は仕方ないだろう。
 これが最後と思えばいろいろ書き遺したいが、もうみな言わんとするところは簡単ながらしたためたつもりだ。
 身体は一大財産だ。くれぐれも健康に注意して暮らしてくれ。 さようなら。
(昭和12年)9月22日

つや子殿











<昭和19年3月> 零式練習用戦闘機による実戦訓練が開始    


 昭和19年3月15日、筑波空は零式練習用戦闘機(零式練習機)配備の練習航空隊となった。これまでの93式陸上中間練習機(赤トンボ)は、福岡県筑城【ちくき】航空隊に移動し、大分航空隊から零戦が移ってきた。大分航空隊には、零戦90機と零戦練習機24機が配備されていた。

 4月の筑波空には零戦150機が配備され、40期飛行学生が零式練習機で訓練していた。更に13期飛行専修予備学生前期107名が、7月下旬に筑波空で実用機教程の訓練に入った。
 




  <零式練習用戦闘機>

機体は実戦用の零式戦闘機と変わらないが、操縦席の後ろに教官席を設け複操縦式とし、前席の風防は開放式、後席は密閉式で、両席の間に転覆時の乗員保護の為のバーが設けられていた。主翼は折りたたみ機構を廃止し、整備を簡易化するため主脚カバーの車輪部分が省略されていた。
 武装は射撃練習用に機首の7.7mm機関銃を残し、また、主翼下の爆弾架も残され、運動性能も零戦と何ら変わりない実戦機である。
 沖縄決戦では、この練習機にも爆弾を積んで特攻を行ったようである。


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――性能諸元――


メーカー     : 中島飛行機
生産       : 第21航空廠 、日立航空機
エンジン     : 栄【さかえ】 
エンジン形式   : 空冷14気筒  
    排気量  : 27,900cc
エンジン最大出力 : 約963.2ps(高度4200m時)
最高速度     : 約476km/h
実用上昇限度   : 約10,300m
固定武装     : 7.7mm機銃 ×2

特記事項     : 軽量化のため時速650km以上出せず、防弾仕様は施されていない。



           アメリカに現存する零戦戦闘機の52型 ↓↓
      









<昭和19年9月〜11月> 滑走路舗装工事が開始    





当時の滑走路は芝張り(芝生)であった。零戦の訓練が始まると、芝のいたみが激しく、そのためデコボコができて、車輪がとられ脚を傷付けたり、機体を破損することがあった。
 
 また、訓練中不慮の事故で殉職した隊員もいた。中野忠二郎司令は、舗装した滑走路を筑波空の自力で作ることにした。各方面から資材を集め、昭和19年9月中旬から11月中旬にかけて工事を進め、三角形の滑走路を完成させた。

 この間、第一四期飛行専修予備学生120名が筑波空に配備され、鹿児島県出水航空隊から移動してきた。筑波空では滑走路工事のため操縦訓練ができず、その間青森県三沢基地を借用して実用機訓練を行った。


   (現在の滑走路の位置。)
       ↓ ↓
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<昭和19年> フィリピン・レイテ沖海戦 〜筑波隊、 特別攻撃隊に要員を派遣〜    

 昭和19年10月24日から25日にかけて、フィリピンのレイテ沖海戦で、日本の連合艦隊はアメリカ軍の機動部隊の攻撃をうけ、航空母艦四隻をはじめ多数の軍艦を失い、壊滅的状態に陥った。
 レイテ沖海戦に、海軍は神風特別攻撃隊(当初はしんぷうと称したが、一般的にはかみかぜと呼ばれた)を出撃させた。250kg短爆弾を着装した零戦が、体当り攻撃を始めた。
 10月25日には、神風特別攻撃隊敷島【しきしま】隊、大和隊がアメリカ軍護衛空母を撃沈するなどの戦果をあげた。



(米機動部隊と激しく衝突したレイテ沖海戦が発生したおおまかな空域と場所。実際はもっと広範囲らしいが参考程度で)
     ↓↓
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 同年秋、筑波空からフィリピン戦の特別攻撃要員として25名が派遣された。選ばれた25名は、「寄せ書き」を残してフィリピンに進出した。「寄せ書き」には、「馳参国難」(丸山隆)、「雲染む屍」(綿引芳男)、「絶勇」 (星野正巳)、「大往生」 (増田情)、「筑波特攻隊に続け」(行武義弘)等、力強く墨で書かれていた。
 筑波空からフィリピンに進出した隊員は、12月から翌20年1月にかけて、神風特別攻撃隊金剛隊として、セブ基地などから出撃し、13名がアメリカ艦船に突入して戦死していった。星野正巳中尉、大塚明上飛曹は、アメリカ輸送船「ウィリアム・シャロン」に突入、丸山隆中尉は、護衛空母「マニラ・ベイ」に突入、米兵15名戦死、負傷51名の被害を与えた。
 






       備考 : フィリピン空中戦で戦死した城里町出身の大畠敏雄中尉

 東茨城郡桂村(現在:城里町)出身、水戸中学(現水戸一高)から海兵71期。軍艦長良、武蔵の乗組を経て、第40期飛行学生。霞ケ浦海軍航空隊(中練)、大分航空隊(戦闘機)から筑波海軍航空隊に移った。
 昭和19年10月24日、午前7時15分、フィリピンのマバラカット飛行場を出発、フィリピン沖東方海上で空中戦となり、被弾し自爆したとされた。
湯野川守正大尉は、「口数は少なく真面目そのものの人物であり、別府杉乃井での清遊派で、静かに過ごしていた。彼の銃剣術は鋭く俊敏であった。台湾では生き残りながら比島の総攻撃で散って仕舞った。ご冥福を祈る」と回想している。


                        大畠敏雄中尉肖像 ↓↓
イメージ 8







<昭和20年2月>友部にアメリカ艦載機の来襲。筑波空迎撃、空中戦へ    

昭和20年2月16日の明け方、東京の南東200kmの洋上、アメリカ軍航空母艦からグラマンF6FヘルキャットF4Uコルセアを先頭に艦載機が関東地方を攻撃してきた。関東各地の実戦部隊、第11連合航空隊で零戦配備の筑波空、谷田部空に遊撃(敵を迎え討つ)の命令が出た。
 筑波空では操縦教官(尉官以上)、教員(尉官以下)28名(うち紫電四名)が出動態勢をとった。この日の出撃数は零戦48機、紫電11機であった。
 
 翌17日もF6Fの来襲があり、零戦だけ延26機が出撃した。アメリカ艦載機の4機(2機・2機) の編隊機動に筑波隊は翻弄された感があったという。筑波空にF6Fの機銃掃射が何回となく繰り返された。
 
 筑波空発表の両日の戦果は、撃墜8機、撃破7機、対空機銃による撃墜1機で、損害は自爆15機、被弾5機、不時着一12機で、戦死18名、負傷4名であった(「筑波海軍航空隊戦闘詳報」)。
 
 2月17日早朝、空中戦のあおりで宍戸大田町の唯信寺が全焼した。F6Fから発射された曳光弾が、寺のワラ屋根に突きささり燃えあがった。唯信寺には、東京都向島区の寺島第一国民学校の学童73名と職員5名が集団疎開していた。学童たちは北山の飛竜神社や山林に避難して全員無事であった。焼け出された疎開学童は、その夜から円通寺(大田町) に移った。
 
 2月25日にもアメリカ機動部隊が来襲した。筑波空から零戦五二型14機で迎撃して、撃墜5機、撃破1機と戦果を報告したが、被害は自爆・未帰還4機、戦死4名、被撃墜1機(負傷1名)、大破1機、地上破損8機であった。
 同日、宍戸上空を襲ったF6Fの機銃掃射をあびて、平町の警防団員が即死した。また笠間、稲田地域にも飛来し、無差別に機銃を掃射し、稲田で子供一人、笠間でも小学生が死亡した。飯合地内の民家も空襲により焼失した。




   空中戦の記録

      <2月16日の空中戦>

――― 戦果 ―――
〔08:30〕水戸北方上空においてF6Fと交戦、1機撃墜。
〔09:15〕鉾田上空でF6F、8機と交戦。1機を撃破。
〔09:20〕涸沼上空でF6F、1機撃墜。
〔09:50〕銚子上空でF6F、1機撃墜。
〔10:00〕水戸陸軍通信学校上空においてF6F、3機と交戦。1機撃破。
〔10:15〕大洗沖西進中のF6F、6機と交戦。1機を撃破。
〔10:25〕大洗方面南進中のF6F、4機と交戦。1機を撃破。
〔10:30〕涸沼上空においてF6F、7機と交戦。1機を撃破。
〔13:10〕水戸北方上空においてF6F、4機と交戦。1機を撃破。
〔13:20〕大洗沖においてF6F、30機と交戦。、3機撃墜。
――― 被害 ―――
12名撃墜。ほかに被弾6機、うち内1機大破


     <2月17日の空中戦>  

――― 戦果 ―――
〔07:50〕 石岡上空にてF6F、7機と交戦、1機撃墜
〔08:00〕 石岡上空ニテF6F7機卜交戦、1機撃墜
〔08:00〕 石岡上空ニテF6F3機卜交戦、1機撃破
〔07:50〕 当隊ノ銃撃セルF6F、8機ニ対シ、機銃隊交戦1機撃墜(不確実)
――― 被害 ―――
 3機撃墜、ほか被弾1機。ほかに地上員、その他にも被害あり。



     <2月25日の空中戦>

―――戦果―――
〔08:25〕鉾田上空においてF6F、8機と交戦、1機を撃墜
〔08:35〕諏訪村上空において4機と交戦、1機を撃墜
〔08:20〕大洗上空、30機と交戦、2機を撃墜
〔09:30〕筑波空東南上空において5機と交戦、1機を撃墜
〔09:05〕大洗上空において7機と交戦、1機を撃破
――― 被害 ―――
3名撃墜。ほか1名空戦により弾し落下傘降下せるも顔面火傷。ほか1名、被弾し不時着、大破。人員は無事。その他、銃撃による地上被害、零式戦闘機1機、中練2機、その他零戦中練3機。  





 アメリカ艦載機F6F戦闘機の来襲を受け、出撃した零戦の数は16日は延べ48機出撃。17日は40機出撃。
 
 以上のように、多くの撃墜や撃破を記録した。

一見すると零戦が優位のように見えるが、しかし、筑波空の被害はそれを遙かに超えるものだった。 零戦の約2倍の2000馬力級のエンジンを搭載するなど機動性の高いアメリカ戦闘機F6Fを相手に苦戦を強いられたようだ。

 しかし、旧式化となりつつある零戦でエンジン性能差というハンデがあるながらもよく戦ったものだ。。。。

 以下、零戦とグラマンF6Fとの決定的な違いと、零戦の弱点について。参考までに。

    
                ↓   ↓   ↓


   (参考 : 零戦とグラマンF6Fヘルキャットとの決定的な違い と弱点)  
    






次に続く→→
   
――筑波海軍航空隊の歴史――  
       〜筑波海軍航空隊司令庁舎公開記念〜



もう既に存知だと思いますが、現在、特別公開されている筑波海軍航空隊司令部庁舎の公開記念に、筑波海軍航空隊の記事を書いてみました( ̄∀ ̄)

あのような戦前の古い建物が、特攻隊員を送り出した建物が当時のまま残っているなんて、とても貴重です。

自分は筑波海軍航空隊記念館へは既に3回行きましたけど、筑波海軍航空隊の事はそこで初めて知りました。

あまりに無知だったんで・・・・、もっと筑波海軍航空隊についての歴史を探ってみよう!!

以下、筑波海軍航空隊についてを詳しく調べました。

年表形式でまとめてみました。長くなりますが是非ご覧ください( ̄▽ ̄)ノ 





↓   ↓   ↓   ↓










       第1章 霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊





  <昭和9年9月29日> 霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊が開隊    


 


  大正7年7月、国の機関だった農林省は笠間市平町に国立友部種羊場を設置した。(以下の地図参照)

 その後大正15年に茨城県種畜場(現・茨城県畜産センター)が、その国立友部種羊場跡地(40ha)と庁舎を払下げを受けて移転。
 









(種畜場だった跡地は赤く囲ってあるところと、オレンジの国有地↓↓一部は現在、県立こころの医療センターの敷地となっている。「笠間市畜産試験場跡地概要・全体写真」より)
イメージ 1







今も現存している大正8年に建てられた国立種羊場のちに茨城県種畜場の木造洋風建築。(写真:写真記録茨城20世紀)
↓↓↓
イメージ 9

友部種羊場は、国による緬羊事業の一環として大正7年7月6日に設置された。だが、緬羊事業の縮小されたことに伴い、数年後の大正13年12月15日に廃止され、大正15年3月31日をもって茨城県種畜場に移管された。
 現存する友部種羊場も、この時に払い下げられ、昭和55年5月末までは実際に庁舎として使用されていた。その後は文書などの保管庫として使用されていたが老朽化にともない放置されているようだ。
 近年では、この庁舎が大正時代に建てられた風情のある古い建物である事から、のどかな風景も相まって、映画やドラマ、CMのロケ現場として使われているようだ。














 昭和になると、この種羊場の空き地で、所沢航空隊や霞ケ海海軍航空隊、陸軍の気球研究班などが離発着の訓練を行っていた。

 昭和9年になり、霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班の一部をこの敷地に移し、初等教育班として搭乗員養成にあたる分遣隊の設置が決まった。

 早速、基地の建設に着手された。 

 同年昭和9年3月5日に海軍省建築課の技師らが、宍戸町長を訪問、更に現地を視察。友部駅から航空隊に至る基幹道路と資材輸送のトロッコレールは、海軍省が施工し、航空隊から橋爪まで1000m道路(海軍道路)は町が請負うことになり地元の有志によって宍戸駅から基地までの道路が建設された。

   



 (海軍道路の位置↓↓)
イメージ 2





 3月20日から、三井商事と大林組が工事を請負い、格納庫、兵舎等の建築資材が鉄道便で搬入され8月に入り司令部庁舎、兵舎、病院衛生所、格納庫八棟が完成した。

 同月8月15日に分遣隊内の開隊式を挙行した。初代分遣隊の司令長は三木森彦
 軍艦旗が掲揚され、三木森彦分遣隊司令の訓示、河村本隊司令の隊内巡閲と訓示が行われ、その後、練習機一八機が三〇〇mの高度を保ちながら水戸、那珂湊、石岡、笠間、宍戸上空を飛んで、空から開隊のあいさつをした。

8月に入り司令部庁舎、兵舎、病院衛生所、格納庫八棟が完成した

 霞ヶ浦海軍航空隊の主な任務は、初等教育班として搭乗員養成飛行機の搭乗員を養成する事だった。当初は戦闘機パイロット養成が任務であったはず、だがのちに戦況悪化にともない実戦へと駆り出され、この基地からも多くの特攻隊員を送り出す事になるとは誰が予想していただろうか。
 こうして昭和9年8月15日に、のちに筑波海軍航空隊となる練習航空隊「霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊」はスタートしたのだった。








    (霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊開隊当時の正門。現在の裏門が当時の正門だった)↓↓
イメージ 3




兵舎裏にあった洗濯場↓↓
イメージ 4






 (分遣隊開設の頃に撮影されたもの。前列右から7人目が初代分遣隊司令長の三木森彦中佐)↓↓
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 <昭和9年9月29日>霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊の開隊式    


 昭和9年9月29日、霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊の開隊式が第5格納庫を式場に挙行された。来賓として横須賀鎮守府長官永野修身海軍大将、陸海軍の将官、県知事、県会議長・議員、宍戸町長、近隣町村長・議員など250名が参列した。分遣隊司令の式辞、永野大将の訓示、多数の来賓祝辞があり、盛大な開隊式であった。
 当日、町内では友部駅前に大アーチを立て、花火を打上げ、街道沿いの各戸に日の丸が掲げられ、祝賀一色につつまれていた。東町・西町・仲町の三か所で余興の催しがあり、小学生の旗行列が街をねり歩いた。
 開隊式終了後、霞ケ浦本隊の艦上攻撃機5機、同偵察機9機、陸上練習機9機、水上偵察機13機、水上練習機7機が、新装の飛行場から飛びたち、大編隊を組んで友部上空を飛行した。当日は航空隊施設を一般開放し、見物人であふれかえっていたという。

 航空隊の開隊により、飛行場付近の大沢、矢野下の集落は、飛行場建設にともなう大工、人夫の宿泊地となり、飲食店、理髪店、雑貨店等ができ、また、駅前の運送業、料理店、旅館なども活況を呈し、駅前や平町通りは兵士の下宿所となった。友部駅の乗降客も増加し、営業実績も黒字となっていた。







  備考: 「鬼の筑波」と恐れられたきびしい操縦訓練     

 友部分遣隊発足時、使用していた機体は3式陸上初歩練習機(3式初練)で、昭和十二年頃までは、3式初練を四〇機ほど保有し、操縦訓練生、予科練卒業の飛行練習生を教育していた。

教官一名が三、四人の練習生を担当した。訓練は厳しく、ちょっとした失敗も見逃さず、教官の制裁をくらったようで、鬼の筑波と恐れられた。

飛行訓練中、筑波山方向に飛び、「山頂に向けてそのまま直進せよ」との意味の指示が「筑波山宜候(ようそろ)」ここで操縦訓練を受けた誰もが脳裡に刻み込んでいたという。



           3式陸上初歩練習機 ↓↓
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では実際に、元筑波海軍航空隊で、訓練を行っていた人の貴重な話をひとつ引用してご紹介しよう。

少々引用が長くなるが、今では聞けない貴重な話なので是非ご覧あれ。






↓ ↓ ↓ ↓


    筑波海軍航空隊での訓練
                  陰 山 慶 一



<陰山 慶一さんの略歴>

陰山慶一氏さんは、長岡高等工業学校卒業と同時に、昭和18年9月、第13期飛行専修予備学生として土浦海軍航空隊に入隊。筑波海軍航空隊では、戦闘機専修学生(学生長をつとめる)として操縦訓練にはげむ。その後、第203空、戟闘第304飛行隊、第2美保空、大和空、第1081空に所属、海軍中尉。戦後は島根県下の中学校長を歴任、平成12年教育新聞社山陰支局長。










 昭和18年12月1日、中練数程、筑波航空隊の入隊式があった。第一種軍装に身をかためて、号令台前に整列する。
 「陰山慶一ほか164名……」と、私の名前を呼ばれて予期せざることに驚いた。
 荒木保司令の訓示があり、今日から憧れの大空に生命をかけた飛行作業に入るのだ。真剣、確実、細心でなければ飛行作業はできないと覚悟をあらたにした。
 入隊式が終わるとすぐに、学生舎に帰って飛行服にきがえ、ジャケット(救命胴衣)も着て、駆け足で飛行場のエプロンに集合するよう命じられた。すぐさま用意を整えてかけつけると、5名がペア(組)となって、担当教員(下士官)と顔合わせをおこない、午前中の飛行作業についての説明をうけた。私たちのペアの教員は、迫一飛曹(戟闘機出身)である。作業課目は地上演練で、飛行機の点検法、始動の仕方、暖機運転、各計器の説明など事細かに指導をうけた。
 やがてエンジンが始動され、プロペラがまわりはじめると、その風圧の強いのに驚いた。なにもかも、目に入るものすべてがめずらしく、新しい体験ばかりである。この飛行機を自分でほんとうに操縦ができるだろうかと、内心不安になった。
 午後からは飛行作業、「慣熟飛行」である。いよいよ生まれて初めて飛行機に乗るわけである。地上指揮官に届け出もそこそこに、ペアの3番目に搭乗する。狭い座席に座り、教えられたとおり伝声管をつなぎ、教員の指示をじっと待つ。やがてプロペラがうなり、身体がふるえるような気がする。

 「落下傘帯のフックをつけよ。バンドはよいか」

と、伝声管から指示が伝わってくる。翼端にいた整備員がチョーク(車輪止め)をはずした。飛行機が動きだして、やがて離陸地点に到着した。

 「左右前後、見張りはよいか」「離陸する」

 レバーを一杯に入れると、プロペラが猛烈に唸りをあげている。飛行機がすべり出した。いつのまにか身体が浮き、離陸しはじめた。地面がだんだんと離れていくのがよくわかる。
 上昇後、まもなく第1旋回にはいり、機首がかたむいて身体がおかしな状態になる。そのような私の状態を察してか、後席より教員から声がかかる。

 「ほら、前方の筑波山ヨーソロだぞ」

 やがて第3旋回も、第4旋回も終わったのも知らないうちに、飛行機は着陸の体勢に入っていた。地面が急にせまってくる、と思ったとたん、ガタンと接地する。同時に、またエンジンを一杯にふかして離陸する。
 「よく地上をみよ」「左右をよくみよ」「筑波山ヨーソロだぞ」

 あれこれと後席から教員の指示があるが、何をしていいやら、さっぱり見当がつかない。3回目に着陸して飛行が終わり、列線に帰ってきてホッとした。つぎの学生と交替して指揮官に届け終わるまで、無我夢中で緊張の連続だった。
 これから毎日、このような飛行作業が続くのであるが、はたして操縦がうまくできるようになるであろうかと、期待と不安で胸がいっぱいになった。
 私たちの中棟数程は、昭和18年12月1日より昭和19年3月24日までの約4カ月間である。もちろん、この間は冬季日課であり午前6時に、「総員起こし!」がかかる。
 ここでは飛行作業が主体なので、飛行場や練習機の都合で、2個分隊(1分隊約80名)が午前と午後に分かれて、交替で飛行作業を実施する。 しかし、飛行作業は天候しだいで、あなたまかせである。有名な筑波おろしのからっ風が吹いて、朝は霜柱が立ち、身を切るように冷たかった。
 私たちが飛行訓練を受けるのは、93式陸上中間練習機(通称赤とんぼ)である。93中練は昭和8年以降の海軍航空隊の搭乗員は、すべてのものがお世話になった飛行機である。
 昭和8年に中間練習機として海軍に正式採用されて、終戦まで使用され、ひじょうに寿命が長かった。赤トンボと称せられて、みんなに親しまれた複葉機で、どこの航空部隊にも2、3機はあり、連絡飛行などに幅広く使用されていた。この赤トンボも、戦争末期になると、爆装して特攻機として使用され、特攻の猛訓練をしたのだから、痛ましい限りである。
 筑波海軍航空隊では、はじめて飛行科予備学生がこんなに多くやってくるというので、その受け入れは物心ともに大変だったようである。
 教官はもとよりのこと、教員にいたるまで、なにかとわれわれのために研究会を開いたようである。
 整備の教員が、「私たちは飛行科予備学生に講義させられることがわかり、日夜、一生懸命に勉強して待っていました」と話してくれたことをみてもわかるように、われわれに対する期待の大きさと準備は、本当にありがたいものだった。

 その一つに「三誓」がある。
 教育期間中、雨が降っても猛吹雪でも、毎朝、「総員起こし」後、ただちに駆け足で航空隊の一角にある筑波神社に参拝して、当直学生の号令で、大きな声で「三誓」を口論するのであった。

1、今日一日、忠節を尽くさん
1、今日一日、旺盛なる攻撃精神を発揮せん
1、今日一日、没我精神に徹せん

「三誓」は飛行科予備学生のためにつくられたものと理解し、私たちは日夜これに恥じないように行動しようとつねに努力した。
              (「筑波海軍航空隊 青春の証(あかし)」から)








 大賑わいをみせた海軍記念日     

 毎年五月二十七日の海軍記念日(日露戦争の日本海海戦に勝利した日) には、航空隊を地元民に開放して盛大な祝賀行事が行われた。
 霞ケ浦海軍航空隊から飛来した九〇式三号艦上戦闘機や三式初練が展示してあり、格納庫には落下傘の実物も展示された。隊員が
扮した「友空ペロ助幼稚園」や女装した隊員の仮装行列は、見物人の爆笑をさそっていた。近隣小学生の兜杯争奪対抗リレーなどもあり、終日盛上がりをみせていた。
 海軍記念日は隊員にとって厳しい訓練の束の間の休息となり、地元の人々にとっても基地の一般公開は航空基地を身近に触れる事ができる楽しみとなっていた。



(今で言うところのコスプレといったところだろうか ↓↓)
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