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恐らくは次回(晦日と重なるから、必ずしも「来週」とは言い切れない)辺りには、後藤明生『しんとく問答』のタイトルに籠められた意味、それからこの作品集の文学的な意図、について語ることができるだろうと-、しかし1行めにして早くも来年になるかも知れぬ書きもののスケジュールを晒している…、とは、愚の骨頂であり、お嗤い下さっても大いにけっこうである。
思いもよらず長くなって、もう第12回め。まだまだ続くだろうし、今後どう転ぶか分からない。だって最初は俺、これしきの厚みの本、しかも著者・山折氏は特に悪文書きではないから、年内にはカタをつけられるだろうと、軽く見積もっていたのである。
-まあいいでしょう。とことんまでお付き合い願える、つまり真に文学をいとおしんで毎日を過ごしておられる方々には、「有益」(ではデカすぎだな・汗)でなくとも茶飲み話のネタにはなる筈の記事であるように、俺は苦闘しているのだ。そうしてこの世にはさまざまな手法を用いて、彼ら(お乞食さんたち)の「あるべきやうは」どんなところにあるのだろう、と、彼らを追う(と言っても深追いは厳禁である。彼らにも彼らなりの掟があるだろう)俺のような者が後を絶たないのは何故か-。言うところの「ロスト」とか「ビート」とか「ブランク」とか、そういう「ジェネレイション」の後釜が来て、若者たちの心をわが国伝統の「流浪」のしかたへとなびかせた、というワケでもないようだ-。
要はひとと違った切り口で書く、書いてやろう、という功名心だろうな。偉大なる著者であっても、そこでは等身大の一人の人間として描くことができるのだ。結局、「ひとと違った」と誇る書評子の群れの中に、ジェイムズ・アンソールの仮面劇的絵画のように自分の顔に酷似したマスクを見つける-、それが密かな不安感を誘っても、無理にだって「いい顔」して見せるのが批評屋の習い性となってしまってはいまいか? たまにはイライラしたり怒ったりする姿も、読者に見て貰う、というのも一興じゃない?
そんな俺も実際にはライヴァルたち(おーい、どこに隠れてる?)とは、「違う・オリジナルな」観点、というものを探しに探した。そして、芥川と井月さんとを代表として、溢れんばかりに原稿に躍っている「登場人物」たち全員、たぶん(小説の書き手、芥川や後藤氏ですら)気づかなかったであろう『芋粥』のまことの本質…。
その「本質」とは-、(決して笑って済ませてやろう、という気で言っているのではなく)…、言いづらいがこれ*は、「(特に『グルメ方面』に針を振った)おもてなし説話」なのだ!
もうTVを殆ど観なくなって久しいが、だいぶ以前、とある芸人さんが「自分はグルメやのーて『食いしん坊』なんですよ」と自己分析していて、あー俺もそれに近いな、ヤセの大食い、という成句(?)もあることだし…、と思ったことがあり、所詮食に対しては所謂「B級」的にしか語れない己れ(グルマン)のつたなき性なのかな、と、いうことで、ここから先は俺の蘊蓄には頼らず、「農の文学者」「現代日本最後のルネサンス人」杉浦明平(すぎうら・みんぺい;1913〜2001)氏に取って代わって頂こう。で、明平さんにはたいへん申し訳ないが今回すぐではなく、これからもこの「連載内連載」は、知の冒険を目指していきますので、その中で(芋粥レシピの話題など含む)21世紀の食への提言を賜ります。俺は俺で、何ゆえ・どこから(もうこの世の人ではない)明平さんの言葉(メッセージ)を見つけたか、逐次解説してゆこう、と思う。考えてみれば、身に余る壮大さのプロジェクト(笑)ではある。また次回。一句、で、チャオ!(場合によっては、よいお年を!)
貧 家 に は 全 て を 祀 る ク リ ス マ ス
伊丹甚左(たまには日本の情景を離れて)
* そのせいではなかろうが、後藤氏にしては珍しく、この『しんとく問答』では、エビフライ・ライスだとか、戦時下の「ふかしイモ」だとか、食についても(ほんの僅かだが)触れている。執筆当時、大阪在住だった為か(土地柄ってこと)。もしくは、バブル真っ只中だった為か。
BGM: J.C. LODGE "SELFISH LOVER" & BILLY JOEL "RIVER OF DREAMS".
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