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今日、道は霽れて 差し出すだろう 焦がれる枝を
月の変わる日へと 退屈さの満ちる光に
Ah 見知らぬ人が立つ 口を開くきっと
疑いを述べるだろう 俺を包むため
そう滑らかには 言いやしない 雨に紛れて
いつか帰ってくる 言葉もある そういうことも
Ah 見知らぬ人 きみの 胸の内にあって
仕掛けのない終わりへと 俺を誘うだろう
Then I'll cry, when I'll try
To go out in the world
(そして俺は泣くのさ この世に生を享けようとするとき)
時俟たず
Out in the world, no time for sure
No time for you...
(俺は生まれおちる きみに捧げる時間など 確かに残っちゃいない...)
No time for you cause it's too late
For me to do another way.
(もう遅きに失したよ 俺が別のやり方を試すためには)
We've gotta quit some mo' of our wastes.
(俺たちはまた少し 日々の澱を捨てなくては...)
<メモ> 男女の別れの歌ではないのです。まあそんなふうに擬装してはいるが。よーく読めば(聴けば)「胎内回帰」=「世界の否定」と、「この現世に出てくること」=「世界の肯定」のせめぎ合いを歌っているのだ、そう分かる筈(俺はディラン·トーマスの詩よりもボブ·ディランの「歌詞」のほうを高く見ている。何故ならBDの書いたものは何を取っても、この残酷な世界への逆説的な愛情の吐露となっているからだ。トーマス詩はBDの作と比すれば遥かに自閉的*である。- いくらゲージツったってオトナはそんなんじゃいかん。笑いごとではなくそれは両者の資質 - 作品の出どころ - の隔たりに繋がっている)。
* とは言うものの、両大戦間に花開いた英国モダニズム詩の界隈では、彼(トーマス)はまさに「時代の寵児」だったのであり、彼を取り巻く思想のトレンドを言論界に供給していたのは、主に彼ら「新しい世代」の詩人たち自身であったのは否めない。
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