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これが、何の画像ですかって?
大人の生徒さんの、おさらい会&茶話会の時のものです。
今回は、飲食可能なギャラリーを借りて行いました。
生まれて初めて、人前でピアノを弾く方々もありました。
この興奮と緊張は、経験しないと分からないものです。
緊張して、ドキドキして、手が震える、ということは、誰しも経験済みと思いますが、
手指を使うピアノ演奏で、こうなってしまうと、どういうことになるか、ご想像ください。
それを覚悟で、生徒の方々は、おさらい会に臨みました。
途中で、どうなっても、収拾がつくように、
あらかじめ、画像のブツを用意しました。少しでも、気休めになれば、と思いました。
もしもの時は、これを掲げて、もう一度、堂々と弾いてください、と。
ただし実際の本番では、私が真横についてサポートしましたので、
このブツを使ったのは、一度だけでしたが。
初めての会でも、生徒の方々は意欲が高じて、3曲4曲も用意しました。
弾く前に、一人ずつ、自己紹介をしていただきました。
色々な個人的な背景・事情が、会場で述べられます。
私の知らないこともあったりして、私も驚くことがありました。
普段のレッスンとは違って、演奏では興奮しすぎて、かなり大変そうでしたが、
聴いている方々は、温かく見守ってくださいました。
身内、お友達の皆様は、普段の生徒さん方の様子、生活、苦労と照らし合わせ、
様々な想いをされたようでした。
全員が終わって、お客様たちも興奮していました。
涙も流していました。
いろいろなおさらい会があってよい、と思います。
こういう会には、やはり子供の生徒を混ぜないほうがいいかな、と思います。
茶話会では、思いのほかお菓子が残りました。皆さん、興奮気味で語り合っていました。
ビールを飲んだのは、お客様のひとりと私だけでした。
ちなみに、私の母も弾きました。やっぱり興奮していました。
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ピアノ講師何でも言うぞ
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留学を終え、日本でピアノ講師として働きはじめたのは、ちょうど30歳の時。今から15年前である。
ピアノ講師としては、かなりスロースターターで、現在も自宅に来る生徒の人数は少ない。
音楽教室に勤めていなかったら、寂しいことになっていただろう。
この15年間で、初めてのケースだが、今年度から、
私が幼少からずっとお世話してきた生徒が、音楽大学に通うことになった。
ずっとずっと、私のもとで、おさらい会でも、マスタークラスでも、コンクールでも、楽しく弾いていた。
中学、高校時代とも、運動部のキーパーソンでもあったので、体育系の大学も考えたようだった。
ひょっとして、今でも悩んでいるかもしれない。
でも、まずは音楽の楽しさを探しに、旅に出ることにしたようだ。
音楽教室の生徒だったので、教室の教務から何回も、担当を替えるように指示が出た。
このブログでも書いたことがあるが、教室には「5年ルール」があり、5年経ったら担当を替えるのが基本である。
私も、本人に勧めたが、本人も親御さんも、それについては深く考えたがらなかった。
いろいろ揉めたが、ずっと私のクラスに留まった。
音楽大学に入れば、このクラスを出ることになる。音楽大学に進まなければ、ここに留まれる。
そんなことも考えたようであった。
結局は、前述のとおり、音楽大学に入り、私のもとを去ることになった。
最後のご挨拶には、ご両親を伴って訪ねてきたが、
もう見ていられないくらい、グズグズと泣いていた。
大人も、貰い泣きである。
当の本人は、そんなことも、今頃は忘れて、新しい友達と楽しく過ごしているだろう。
新しい関係を築くことになった、大学の教授のレッスンを、ちゃんと消化できるだろうか、という私の心配は、
たぶん本人には届かないだろうけれども、
私はここから、本人に、何らかの方向性を、在学中に作ってほしいと願っている。
また、最近、ポツリポツリと、音楽に進もうかなぁ、と口にする生徒が何人か出てきた。
あくまで「夢」の範疇ではあろうけれども、
発表会などで弾いた、先の生徒がモデルになっていることは、間違いないと思う。
この先生はモデルにはならないらしい。生徒たちには、この先生はちょっと距離が遠いらしい。
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年度が変わり、生徒達には、学校での新しいお友達は出来つつある様子。 他の先生のところでピアノを習っている、というお友達が出来た、というのは、小2の生徒。 早速、そのお友達の家に、遊びに行ったという。 どんなピアノが置いてありましたか。こういうことを、私は尋ねずにいられない。 生徒は「あのね、おもちゃのピアノだった」という。 おもちゃ? 曰く、いろんなボタンがついていて、鍵盤は細くてペラペラで、数が少なかったらしい。 生徒が、そういったキーボードの類を「おもちゃ」と称してくれたのは幸いである。 話は続く。「弟がいて、その下に赤ちゃんもいて、お金がかかるから、ピアノは置けないんだって」 こういう話は、胸が痛む。しかし、話は意外な展開を見せる。 「その子のお家に、鉄棒と滑り台があるの」 え?お庭に? 「ううん、お家の中だよ。だから遊びにいくのが楽しいの」 …室内用の鉄棒と滑り台、確かに販売されている。 私は、こう言った。 「鉄棒や滑り台って、校庭や公園にあるけれども、ピアノって校庭や公園に無いじゃん。私だったら、ピアノを買いたいな」 生徒は、ほんとだあ、と言っていたが…。 確かに、室内用の鉄棒や滑り台は、ピアノ一台よりも安価だが、 もし、外で運動する心配が無い社会環境なら、子供達をできるだけ屋外で遊ばせたい。 そして、ピアノを習っている人には、せめて本物と同じ形、数の鍵盤のある、 ピアノらしさを体験できる物を、家に置いて欲しいと思う。 ところで、私の母は、戦後間もない時代に小学校に上がった。 ピアノはまだまだ珍しい物で、その村で、チェルニー40番を弾ける人が一人あり、評判だったという。 母は、音楽の授業で聞いたピアノに夢中になり、学校の音楽の先生に、手ほどきを受けるに至った。 母は、放課後や日曜日、用務員さんに学校を開けてもらっては、音楽室でピアノを練習し、 家に戻っては、火鉢のへりで、鍵盤をイメージしながら指を動かしていたという。 当時、また私の時代もそうだが、学校には住み込みの用務員さんがいた。 実際に、家にピアノが入ったのは、小6の頃だったという。 村の長屋の母子家庭に、ピアノが搬入されたので、大層な騒ぎになったという。 それをきっかけに、母はようやく、村の外の「本物のピアノの先生」に習うことになった。 物資には恵まれていなかったが、欲求が生まれ、満たそうと思う心があり、 ゆっくりではあるが、それが叶えられた。 私の母は、後から考えれば、キーボードで習う子供達より、幸せだったかもしれない。 最終的には、大学受験と、卒業演奏でピアノを弾くに至ったのである。教育大学である。 もちろん、音が多い曲は弾けない。母の卒業演奏は、バッハのイタリア協奏曲だった。 母が、こうした体験をしなければ、私は今日、ピアノを弾いていなかったと思う。
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久しぶりに、大学勤務時代に、私のクラスに在籍していた教え子が、 |
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音楽教室の生徒のお母様が、旅立った。
年明け間もなくのことだった。
4年間の長患い。
いや、長い期間だっただろうか。短かったというべきだろう。
会うたびに、最初は少しずつ、そして時を経るうちに、どんどんやつれていかれた。
最後の4か月は、自力で歩けなくなり、
障害のある息子さんは、自宅から30分歩いて、ひとりでレッスンに通うようになった。
いよいよという時、年の瀬に、お父様が、音楽教室のレッスンにお見えになった。
最後の入院で、2月のおさらい会の頃までは持たないでしょう、
すみませんが、今度のおさらい会は、お休みさせてください、
でも、レッスンは続けさせたいのです、妻もそれを望んでいます、
どうか引き続き…というご挨拶だった。
松の内も明けない、今年最初のレッスンの日の朝、
お父様より、お休みしますというメールが入った。
お母様が亡くなったのは、その2日後だった。
ご葬儀が済んでから、このお宅に伺った。
二人の息子さんの、知的障害のあるお兄ちゃんのほうは、相当なショックを受けたという。
弟くんは自閉症ということで、あれだけお母様から愛情を受けていても、
その出来事が、壮絶で悲しいという認識が持てないという。
生前、お母様は、もう少し頑張りたい、せめて二人の中卒までは…と常々仰っていたという。
この二人を託されたお父様の心痛、心労は、計り知れない。
そんな状況でも、お兄ちゃんのほうには、ずっとピアノを続けさせたいと、お父様は仰った。
お母様の危篤の連絡を受けて、お兄ちゃんは「レッスンに行ってから病院に」と言ったのを、
お父様は、流石に無理やり、病院に連れて行ったという。
他にも様々なエピソードを伺ったけれども、家計も苦しいだろう中、
ピアノは続けさせたいから、どうかよろしく、と頭を下げられ、
お兄ちゃんの中に、ピアノが大きなウエイトを占めていたことを、改めて知らされた私は、
今までしてきたことが、すべて正しい筈もないが、良かったことが多かったのかな、と思い、
そして同時に、これからの責任を痛いほど感じた。
私自身、幸いにして両親は健在である。
この年齢にして、それは決して当たり前のことではなく、
まれな幸運なのだということは分かっている。
この私より先に、私の生徒が、親を失ったという事実が、私の心に重くのしかかる。
何が悲しいって、心で呼べばいつでもお話できるだろうけれども、
旅立ってしまった愛しい人を、二度と見ることも、触れることもできないということだ。
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