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夏のドイツ旅行記は続いております。
ケーテンで、ノスタルジーに浸った5時間を過ごし、
宿のあるライプツィヒに、電車で戻りました。
バッハは、馬車でこの70㎞を移動したのよね、と思いながら。
ライプツィヒの町中で、アイスクリーム屋を覗きます。
おっ、Holunder味だって。ハーブのエルダーです。迷わずこれを注文。
食べたことのない味です。美味しい。
暑かったので、疲れた体に効いてくれます。
ライプツィヒの象徴のひとつ、旧市庁舎です。
カメラに収まり切れません。
横に並んだ切妻屋根と、色合いが特徴的。
現在は、歴史博物館になっています。
ここに、事あるごとにバッハが訊ね、会議に出たり、役人と話したり、書類にサインしたりしたのよね。
開館時間は、あと1時間。入ることにします。
入館料は、あと1時間ということで、半額になりました。
まず2階は、18世紀以前の展示。
昔の時間がそのまま流れているような内部。
写真撮影は、フラッシュ無しでなら、何でも撮っていいです、と。
このフレーズ、本当に何回も聞きました。
しかし私のカメラは、充電が切れて動かなくなりました。
ケーテンで撮り過ぎました(そりゃー200枚以上撮ったもん。ブログにはアップしてないけど)。
手持ちのガラケーで撮影です。
展示物のひとつ、判決の時に叩くハンマー。
何と荘重なデザインかと思いました。 当時の市庁舎所有の聖書。
カバーは基本的に銀製、部分的に金も使用とのこと。
バッハは、この部屋で、この机に向かい、これらの椅子に座り、
役人と話したり、書類にサインしたりした、とのこと。 机上には、当時バッハがサインした書類…の、やはり複製が飾られていました。
館内には、当時の貨幣や書類や、民俗資料も展示されていて、盛りだくさん。
でも、あまり時間もなく、カメラ代わりとなったガラケーのバッテリーも気になり、
その上のフロアに行くことにしました。
上の階は、19世紀〜現代の歴史資料の展示。
ここで、係員に注意を受けます。
「あと30分では、全部を見ることはできませんよ」
久々に、ドイツ流の注意を聞いた気がしました。
私は、あと30分ということは承知しています、と答えました。
全部見るのは到底無理でしょうね、と言いましたら、
「ものすごく急いで回るか、興味のあるテーマに絞ってご覧になるといいでしょう」
と言われました。
興味のあるテーマといっても、19世紀にライプツィヒで活躍した人々や、
20世紀の民主化運動の話や、どれも興味深く、絞れない。
大急ぎで歩き回ることにしました。
シューマンの奥方、クララの右手のフィギュアです。
私の手よりは大きくて、しっかりしていました。
ピアニストとして、当時は作曲家の主人よりも名を馳せていました。
ユーロになる前は、このクララの肖像画が100マルク紙幣に使われていました。
傍には映像機があり、興味ある画像のボタンを押すと、短い動画を見ることができました。
バッハが勤めた、当地のトーマス教会の寄宿生活のアニメもありました。
時間がなく、きちんと見られなかったのは残念。
20世紀の展示物は、大砲や銃など、当時の社会情勢を反映したものが多かった。
そして、1989年、ベルリンの壁が崩壊し、東ドイツが一気に民主化へと動いた歴史。
1982年から、ライプツィヒの聖ニコライ教会では、毎週月曜日に、
「東西の軍拡に反対する平和の祈り」が捧げられていましたが、
これが徐々に拡大し、この祈りの後で参列者が市内を行進したのが1989年9月。
以後、毎週月曜日に、民主化を求めるデモ行進が、ライプツィヒで行われました。
最初の参加者は500人だったのが、10月2日には2万人に膨れ上がります。
そして10月9日。東ドイツでは最大規模となった7万人が、市内を練り歩いたとのことです。
Wir sind das Volk!(我々こそが人民だ)と叫んで。
その後1か月で、ベルリンの壁が崩壊しました。
このデモ行進は、ライプツィヒ市民の誇りです。
大慌てで見た、旧市庁舎の歴史博物館でした。
宿への帰り道、広告版に描かれたイラストに遭遇。
そのデモ行進の絵です。
ホテルに着くと、元大家夫人がテレビを見ていました。
何してきた〜?と聞かれ、あれこれ説明し、目を丸くされました。
エルダーのアイスクリームを食べたぞ、と言ったら、うらやましそうにしていました。
ケーテン城とライプツィヒの旧市庁舎。
本当に盛りだくさんの一日でした。
(2015年8月)
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ドイツ旅行記
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聖ヤコブ教会から、少し歩くと、今度はルター派の聖アグヌス教会が。
バッハはルター派で、この教会の礼拝に赴き、ここで聖餐を受けました。
え?この小さい教会が?
真ん中の建物が、聖アグヌス教会です。
ここに、バッハが通っていた?意外な感じです。
↓
中には、やはり見張り役の女性が来ます。
写真を撮ってもいいですか、と訊ねます。
「1.50ユーロをお支払いください。
フラッシュなしでお願いします。
建物内すべて撮影していいです」と言われます。
こちらの教会は、1699年には完成。
聖ヤコブ教会も、この聖アグヌス教会も、プロテスタントですが、ずいぶん違います。
二階に上がらせてもらいました。上に上がれば、オルガンを近くで見られます。
↓
オルガンですが、バッハの時代以後の製作。
よって、バッハはこのオルガンを弾いていません。
祭壇を、バルコニーから拝みます。
↓
その真上のステンドグラス。
先の聖ヤコブ教会とは、随分と違います。
↓
さて、この女性の絵。正面からは撮れませんでしたが。
かのレオポルト侯の母君です。
レオポルト侯とその父上はカルヴァン派。母上はルター派。親子で違う。
当時の結婚は、そんなもの。
後々、母上とレオポルト侯は、政策を巡ってよく対立したといいます。
↓
こちら、下からの撮影となって、残念ですが、
ルーカス・クラナッハ二世(1515-1586)による、最後の晩餐の絵画…
の、やはりレプリカです。
「本物はヴィッテンベルクにあります」と説明を受けましたが(と理解しましたが)、
よくパンフレットを読んだら、この絵のレプリカはデッサウにあり、
ヴィッテンベルクにあるのは、ルーカス・クラナッハ(父)の描いた同題材の絵であるとのこと。
私のドイツ語の理解力が、結構怪しくなっています。
↓
写真では見づらいのですが、ここに居る人々は、イエスの弟子ではありません。
プロテスタントの聖職者や貴族たちです。
かのマルティン・ルター(1483-1546)も描かれています。後列左から4人目です。
因みに、右下で背中を見せているのが、クラナッハ(二世)自身。
クラナッハ父子は、このような絵を描いていたのであります。
私がクラナッハの名前を知ったのは、留学をはじめてすぐのことで、
住所およびバス停に「ルーカス・クラナッハ通り」というのがあったからです。
訪れただけでは、バッハの足跡を感じることはできませんが、
聖ヤコブ教会との違いは、はっきりと肌で感じられます。
バッハはこのルター派の教会に。
そしてバッハが仕えていたレオポルト侯のアンハルト侯国は、カルヴァン派の聖ヤコブ教会に。
だけれども、レオポルト侯の母上はルター派。
統治を始めて間もない、若かりしレオポルト侯と母親との対立。
幼い息子を抱えて、今後の教育をルター派の学校にと考えていたバッハ。
音楽の仕事だけ考えれば、もう最高の待遇だったこの地を、自ら離れる決断をしたバッハ。
そうか、そういうことだったのか。
今日、ピアノで弾くバッハの曲の相当数は、ここケーテンで作られたものでした。
自分が、インヴェンションとシンフォニアの全曲演奏会を開くにあたり、
どうしても、このへんの知識が欲しかったので、行ってみましたが、
決して多くはない資料であっても、たくさん感じ、考える機会となりました。
ほか、市内を回って、かつての牢獄の現在の姿に大笑いし、
↓
ライプチヒに戻って、旧市庁舎(歴史博物館)に飛び込みました。
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ケーテンの宮殿に陳列されていた楽器や楽譜は、想像以上に複製が多かったことに、
ちょっと残念な思いを抱きましたが、ケーテンの歴史や財政を考えれば、無理もないことなのでしょう。
それでも、バッハがお仕えしていた場所に立ち寄り、時空間のイメージを作れたことは、
自分にとって、よい収穫となりました。
続いて、ケーテンの市街地の教会を回りました。
市場の立つ広場に、どーんとそびえている古い教会。
これが、カルヴァン派の聖ヤコブ教会。
バッハがお仕えした、レオポルト侯が眠っています。
アングルが悪くて申し訳ありません。
角度を変えて、二本の塔を仰ぎます。
この町にしては、大きく高く感じました。
まるでカトリック教会のような、威厳のある雰囲気に飲まれます。
建築は1395年に始まったとのことです。
とすると、建築当初は、カトリック教会だったんだな、と気付きます。
カトリックから分離して、宗教改革が起こったのは16世紀ですから。
手元のガイドによると、一度1599年に塔が基盤の不良で倒壊し、
隣接する学校も崩壊したとか。
何にしても、雨風に耐え、風化した様子がわかります。 中に入ろうと、ドアに手をかけたところ、近くを歩いていた人々が、
それこそ老婦人とか、若い女性とか、子供とか、
入口はあっちだよー、そこ曲がったところのドアだよー、と大声で教えてくれました。
この画像のドアではなかったのであります。 教えられたドアを開け、中に入ると、ラフな感じの係員さんが出てきます。
いわゆる見張りですが、親切でした。
写真を撮るなら、フラッシュなしで、と言われました。
目に飛び込んでくるのは、このステンドグラス。
聖人を仰ぎ見ます。
望遠で。
後ろには、オルガンが。
実際に音を聴きたいものです。
この聖ヤコブ教会の地下に、レオポルト侯の棺があります。
拝めますか、と訊きましたが、月に一度だけ公開するので、とのことで、
今回は叶いませんでした。
プロテスタントの教会としては珍しく、非常に威厳のある雰囲気を感じました。
このカルヴァン派の教会、および付随する学校などを、レオポルト侯は管理し、
バッハが信じたルター派のほうの教会、学校には、お金が回らなかった、と聞きました。
この教会の塔は、今回、町中を歩くときの目印になりましたが、
当時であれば、その存在は町のシンボルとして、もっと目立ったものだったでしょう。
カルヴァン派は、商人に信仰される傾向があったとも聞きましたので、
当時の聖ヤコブ教会は、レオポルト侯、商人たちの、富の象徴のような存在だったのかも、と思いました。
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念願かなって、ケーテン城に入ります。
わーい。
受付に入ると、くつろいだ雰囲気だった係員さん達が、びっくりした顔で私を見ます。
でも、基本的にニコニコしてくださいます。都会だと威圧的に応対するところ、ここは優しいなと感じました。
いきなりの訪問では、ガイドを立ててもらえませんし、無料パンフはありません。
音声ガイドはあるけれども、英語かドイツ語です。どうしますか、と聞かれて、
どっちを借りても理解できないだろうけれども、ドイツ語のほうを貸してください、とお願いしました。
その使い方も、懇切丁寧に教えてもらえました。
大きなスリッパがあったので、靴の上から履かねばならないのか、と尋ねましたが、
ぜーんぜん土足で構わない、と言われました。
使い終わった音声ガイドは、その辺の椅子に置いといて、と。まあ何とおおらかなこと。
写真は撮ってよいですか、と尋ねると、
勿論ですよ、ぜーんぶ撮っていいですよ、でもフラッシュは遠慮してね、と。
歩けば、ギシギシと床が鳴ります。
見学できるのは、かつて領主様の夫人が使っていた側のみ。
男女で、建物の中を分けていたということですね。
その昔、電気が存在しなかった当時は、
このシャンデリアには、火のついたロウソクが付けられていた筈。
「緑の間」と訳すべきか。
バッハの直筆が複写された楽譜、当時の楽器などが展示されています。
但し楽器については、当時のレオポルト侯が使った楽器などではなく、
後々に寄贈されたものや、当時の楽器を模して製作されたコピー楽器などでした。
クラヴィコード。
チェンバロと違って、ハンマーの役割をしている楔が、弦を叩くものです。
触るなとは書いていないですが、勿論触りませんでした。
ケーテン城の案内で、よく紹介されるのがこれです。
楽器はコピー楽器、弓は1980年代製作。その下の楽譜は無伴奏ヴァイオリンソナタの、おそらく初版。
「バッハの間」と名付けられた部屋には、大きなチェンバロが。
残念ながら、これも1991年製。
ヴィオラ・ダモーレという楽器。
1720年製で、この楽器そのものをバッハが見たかどうかは分かりませんが、
バッハはケーテンでこの楽器を知り、後に「ヨハネ受難曲」に使用したのだ、といわれています。
レオポルト侯が、グランドツアーで買って、持って帰ってきたということでしょうか。
ほか、ブランデンブルク協奏曲に使用した楽器などが展示されていました。
「ケーテンの間」より。
レオポルト侯の胸甲。
近くで見たら、布の部分はボロボロでした。年月を感じます。
「赤の間」。
ここにあった、レオポルト侯の肖像画はこちら。
↓
ふうん。
あ、さっきの胸甲をつけてる。
バッハの直筆の手紙の複製もありました。
でも、理解できない…。
横に、現在のブロック体に書き直されたものがあり、
読んでみると、確かに「このケーテンで生涯を終えてもいいと思った」とか、
「二人目の妻は、美しいソプラノの声で歌います」とか書いてあるのが読めました。
ところで、二人目の妻とは。
バッハがケーテンに赴いた時は、マリア・バルバラという妻と一緒でした。
しかし、バッハがレオポルト侯のお伴で、カールスバート市に湯治の旅行に行っていた間、
マリア・バルバラは急死してしまい、バッハがケーテンに戻る前に埋葬されてしまいました。
当時は、緊急の連絡手段がありません。仕方のないことでした。
その後、バッハはアンナ・マグダレーナを、このケーテンで後妻として迎えます。
このあたりについては、当地の聖アグネス教会の記録に残っています。
さて仕上げに、宮殿の礼拝堂と、レオポルト侯が音楽を楽しんだ「鏡の間」を見なくちゃ。
先の受付に戻り、礼拝堂と鏡の間を見せてください、と言います。
↓
「鏡の間は、現在は修復中で、見ることはできません」
えーっ。いつから見学可能ですか。
「3年後の予定です。予定だから…なんともいえないけど。また来てくださいよ」
礼拝堂は?
「本日、一般利用で結婚式が行われていて、見られないんだけど」
えーっ。
というか、一般利用できるんだ。
「あ、今みんな外に出ているみたい。バルコニーからで良ければ、見ていいですよ」
全景は見られないけれども、拝観させていただきます。
現在、一般の人々のために、宮殿の礼拝堂を貸し出しているのね。
すごいなあ、その感覚。
ほか、ここケーテンは、「ホメオパシー」創始者のサミュエル・ハーネマンが一時住んでいたので、
ハーネマンが使った器材も展示されていました。
薬草をすり鉢でスリスリしていたのですね。
有料のガイドブックを買い、外に出ました。
お堀には、当時と同じ風が吹いていたでしょうか。
犬の散歩の人々とすれ違います。
この後、市内の教会を拝観しました。
(2015年8月)
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17世紀のケーテン宮殿の敷地を表す絵です。
宮殿内に展示されていますし、有料ガイドブックにも載せられています。
現在、中心の部分、周りのお堀と、その外にある1つ2つの建造物しか残っていません。
ケーテン。
1603年、アスカーニエン家のアンハルト侯国が分家。
ケーテンに宮殿が建てられたのは、推定1611年。
当地初代はルードヴィヒ一世。
バッハがお仕えしたレオポルト侯は、三代目で次男坊です。
16歳から数年、お供を連れてグランドツアーを行い、オペラ鑑賞をたくさんしました。
ご自身、ヴァイオリンを弾き、ツアー先で楽譜など買い求めたりもしたようです。
ほとんど豪遊というべきお金の使い方に、批判にあったようです。
ベルリンの宮廷楽団が解散したとき、リストラにあった楽団員を引き取るという形で、
先の豪遊の償いをしたわけですが、これは表向きには人道支援であっても、
実際には、自分の趣味を更に極めることになりました。
レオポルト侯は、喜んで彼らの演奏を鑑賞したり、ご自身も一緒に弾いたりしたようです。
そんな環境のところに、バッハが迎え入れられました。1717年のことでした。
バッハは、宮廷楽長として、レオポルト侯にお仕えしました。
ところで、レオポルトの父君はカルヴァン派、母君はルター派。
いずれもプロテスタントですが、異なる方向性のキリスト教の信仰を持っていました。
特徴のひとつとして、前者は、教会音楽を重視しない。後者はその逆に重視する。
レオポルト侯は父方のカルヴァン派に属したので、バッハは教会音楽を作る必要性が無く、
結果としてバッハは、室内楽曲や器楽曲をたくさん作曲することとなりました。
ブランデンブルク協奏曲、鍵盤楽曲のフランス組曲、イギリス組曲、インヴェンション、平均律第1集等々。
因みにバッハ自身は、ルター派でした。微妙な話です。
バッハは、ここケーテンに骨を埋めたいと思った程、ケーテンの生活を気に入ったのでしたが、
当地に住んだのは6年間だけで、そのあとライプツィヒに引っ越すことになります。
バッハの子供たちは、初等教育を受ける重要な少年期にあったので、
父親の立場としては、安定した生活を送りたかった筈です。
なぜ、6年でここを引き上げたのか。
俗説の、レオポルト侯の最初の奥様が音楽嫌いだった故に、
レオポルト侯の音楽に対する情熱も冷めていった、という話は、
先の豪遊旅行での音楽の楽しみ方を考えれば、本当のこととは思えません。
あれだけの執着心を持った人が、急に音楽に飽きてしまうとは思えません。
実際、バッハは、ライプツィヒでの就職に際し、
レオポルト侯の音楽に対する情熱が冷めてきた、と手紙に記したらしいのですが。
レオポルト侯は、領主としてケーテンを統治しなければなりません。カルヴァン派の立場として。
カルヴァン派の系統の教会や学校などに、より重きを置かねばならない立場だったでしょう。
よって、ルター派の系統のほうには、お金をあまり回さなかった筈です。
バッハはルター派。
そのあたりの捻れが、やはり長きにわたる仕事をしづらくしたのか、と私は思います。
ケーテンの市街地の、カルヴァン派、ルター派など、3つの教会を見比べて、そんなことを感じました。
バッハがケーテンに居たのは、1717年から1723年まで。
レオポルト侯は、バッハが去って5年後の、1728年に、34歳の若さで亡くなりました。
レオポルト侯の埋葬で、既にライプツィヒに居たバッハは、ケーテンに戻り、
追悼曲を演奏しました。ケーテン宮廷楽長という肩書を保持したままで。
現在、レオポルト侯の棺は、ケーテンの市街地のカルヴァン派の教会にあります。
アンハルト=ケーテン侯国は、1847年に家系断絶。
宮殿は使われなくなった時期もあり、また戦争の影響もあり、
第二次大戦後、ケーテンは東独に属したため、おそらく修理は後回しになったと思います。
宮殿は現在、改修中で見られない部屋もあります。
旧東独は、西側に比べると、ずっと寂しい佇まいを見せています。
バッハの時代から、本当に長い時間が経っているということを感じました。
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